逢引代700円 ※ドンバス

 空の端が暗くなり始めた中、エナメルバックを肩に掛けて歩くのは近所の中華街。列びに見える飲食店の外装は原色をふんだんに使ってどれも華やかで、俺のような中学生がひとりで通ると少し得意な気分になる。その内の一軒の焼肉屋の前に着くと、鼻息荒く扉を開く。
「らっしゃーませー」
 気合いの入らない店員の挨拶と共にむわり、と煙と肉の匂いが立ち込める。網の上でぱちぱち、じゅうじゅうと焼かれる肉を横目で見ながら、俺はカウンター席へ座る。
「ご注文は、いつもの?」
「はい、牛カルビ丼ひとつ」
 毎週金曜夕方5時頃、俺はこうして部活帰りにこの焼肉屋に寄る。そうして注文は決まって牛カルビ丼。値段は700円、自由に使えるお金がお小遣いしかない俺にとっては安くはないけど、それでも払える価格だ。しかし安くはないだけにボリュームはそれなりで、部活後で空腹の俺でも満足の品だったりする。
 セルフサービスのお冷やを用意して待っていると、カウンターの向こうから店員が顔を出す。
「牛カルビ丼お持ちしました」
 どん、と目の前に置かれた丼には甘辛いタレに照った肉の山が聳え立ち、ふんわりと香ばしい薫りが鼻を刺激する。口内に溜まる唾を飲み込みながら手を合わせると小さく「いただきます」と言って食べ始める。最初は肉からではなくタレのついたご飯から数口。タレと肉の脂を含んだ茶色いご飯はまだ熱くて、はふはふと口に空気を送りながら味わう。そうして次は肉とご飯を頬張る。僅かに端が焦げ付いた肉はご飯同様に熱く、急いで傍に置いていたお冷やを飲む。
「あふ、」
 熱さに汗がふき出る。額に感じた湿り気を掌で拭っては肉にかぶりつく。ぬるりと唇についたタレと脂をひと舐めしては、一息つくように息を吐いた。
 週に一度だけの贅沢。それでも月に出費する値段となると約3千円弱である。
 正直中華街で美味しいものを食べるなら、このカルビ丼より安いものはたくさんある。中華街の中央近くにある揚げ物屋の鶏唐揚げなんか、今食べている牛カルビ丼よりずっと好きだ。値段も100g100円である。
「らしゃーませー」
 店員の挨拶に視線が出入り口へ上向く。そうして捉えた白いシルエットに、動かしていた口が緩む。
 あの男の人だ。
 一気にそわそわする気持ちを抑えて丼に視線を戻す。「あの男の人」とは、いつも金曜の夕方5時過ぎになるとこの焼肉屋にくる人物。その人はいつも焼肉屋には不釣り合いな白いジャケット姿でやってくる。
 そんな彼は俺が座るカウンターを通り過ぎ、一番奥のテーブル席についた。そして近付いてきた店員に何か注文すると、灰皿を引き寄せては懐から煙草を取り出した。そんな彼の姿はまるで男性ファッション雑誌の切り抜きの一枚のようで、ついつい口からはため息が漏れる。
 月並みな感想だがいつ見ても格好良いなあ、何をやっている人なんだろう? お洒落な人とは思うし、普通の人でもないだろうけど何をしているのか全くわからない。
彼が昇る煙草の煙を眺めて上を向く。普通の人ではないにしてもこんなこじんまりとした焼肉屋には場違いな感じのオーラのある人だ。
 不意にかつり、と箸先に硬いものがあたる。なんだと視線を落とすといつの間にか丼の中は殆ど空の状態になっていた。味わう余裕なくあの人を見ていたことに恥ながらまた視線を上げると、彼がいつの間にかこちらを見つめていて内心飛び上がりそうなくらい驚いた。じっと見つめる顔は格好良いけど、ちょっと恐い。もしかして無遠慮に見つめていたのがバレていたのか。
「す……すみません」
「……何を謝る必要あんの」
 あ、声までも格好いい。申し訳なく軽く頭を下げた俺に向けられた声は落ち着いた低さがあった。少々ぶっきらぼうな口調だけど怒ってはいないらしい。謀らずとも彼との初めての会話。
 そのことにほっとしつつ、彼とほんの少しとはいえ言葉を交わせた事実ににやけそうになってしまい、誤魔化すように丼の中の残りをかき込んだ。

 俺がこの焼肉屋に拘るのは彼が理由だ。
 この男性は最近俺が気になる人で、彼を見ることのできる金曜のこの時間を楽しみにしている。それはほんの好奇心であって、それ以上もそれ以下もないと俺は思っていたんだ。

 部下が中華街で一仕事している間、俺はある店に向かって歩いていた。今日は金曜日、時間は夕時の5時を過ぎたところ。
 小汚なく煤けた赤い外装がかえって目立つ焼肉屋に到着し中に入ると、脱力を誘う店員の挨拶に迎えられる。そして一瞬だけ見たカウンター席には、こちらを呆けたように見つめるガキがいるのを確認した。
 そのガキは金曜のこの時間必ずと言っていいほどこの店のカウンター席におり、何やら丼ものを食べている。部活帰りに寄っているのか、いつもジャージ姿でカウンター下にぎゅうぎゅうとでかい鞄を押し込んでいる。
「生中ジョッキと牛タン塩をひとつ……あと、あのクソバンビーノにジュースを」
「ばんび?」
「……そこのカウンター席に座ってるガキにジュースをやってくれ」
「ああ、カラ松君ですか。ジュースの希望は?」
「あのバンビーノ、カラ松っていうのか」
 話の流れとはいえ名前を知ることができ、脳内で「カラ松」の名を反復する。
「それで、ジュースは」
「あいつの好きそうなのであればなんでもいい。ジュースはよくわからないから任せ。」
「ではコーラでも。」
「俺からだって言うなよ。サービスだって言え」
「会計は、」
「俺のにつけてくれ」
 伝票にコーラの注文を書き込むと店員がカウンターの奥へ消えてゆく。その様子を確認すると俺は煙草を取り出して吸い始める。ふう、とゆっくり煙を吐きながら椅子に背中を預けるとカラ松というガキに目を向ける。
 まだ中学生ほどなのか、俺より一回り小さくてジャージから覗く手首や踝はとても細い。薄着になればもっと細いだろうか。
 その細さを想像していると不意にカラ松がこちらに向いた。あまりのタイミングに身を硬直させていると、あちらも驚いたのか小さく肩を揺らした。
「す……すみません」
「……何を謝る必要あんの」
 まだ変声期を完全に終えてないような少し高めの声に、絞り出すように言葉を返す。そのためか、普段以上に低くなった声がやけに間抜けだ。つい目を伏せながら舌打ちをひとつ、再度カラ松を窺うと彼はもうこちらを見てはおらず、何事もなく丼を食べていた。
あのガキにしてみれば俺なんて愛想の宜しくない、ただのおっさんにしか認知されてないのだろう。
 先端の灰を落として煙草に口をつけていると、先ほど注文を取った店員がカラ松の前にコーラが注がれたコップを置いていた。太眉が驚いたように跳ね、明らかに戸惑った表情で店員に何か尋ねている。しかし店員は俺の言いつけを守ってくれているらしく、言葉数少なくまたカウンター奥へ入っていった。きゅっと結ばれた口元と眉間に刻まれた皺は神妙な表情でありながら、まだあどけなさある顔のパーツのせいでやけに間抜けに見える。そんなカラ松は暫しコーラを見つめていたが深く追求しない質らしく、丼を置いてコップを手にした。そうして一口二口と飲む姿はやけにおいしそうなものを飲んでいるように見えてきた。
 コップの表面についた水滴が滴り落ち、コーラを嚥下するカラ松の喉元が動く。コップから口を離せば唇をぺろりと舐め、その舌の赤さがやけに目についた。
「お待たせしました。生中ジョッキと牛タン塩になります」
 そんな店員の声はやけに遠くて、視線の端に見えたジョッキを手にした。指先はやけに熱く、触れたジョッキがひどく冷たく感じられる。そんな事実に俺は指先どころか体中熱くなりそうで、誤魔化すようにビールを一気飲みした。

 今からすれば一目惚れというものだったのかもしれない。
 ただ、俺と彼の住まう世界はあまりにも違う。こっそりと小鹿と囃し立ててジュースを贈ることができることは、とても恵まれてると思うくらいでいいのだ。