台所にいるクソ営業が太眉をハの字にして、明らかに困惑の様子で立ち尽くしている。そんな彼は左の手首を擦ってため息をついたものだから、思わず声を掛けてしまう。
「何してんの」
「先生……」
呼びかけに一瞬こちらを見た後、困り顔のまますぐに視線を下に落とす。
「…夕方なのでおそ川に戻ろうと準備していたんですが、どこを探しても腕時計が見つからなくて」
「腕時計?」
「窓拭きする時に硝子が傷ついたらいけないと、外してテーブルに置いていたのがないんだ。」
そういや窓拭いていたね。俺からは頼んでないけど、寒くなる前に一度窓周り掃除しましょうとかなんとか言ってどんどん準備していったのでお任せしてしまったのだ。文字通りお任せしていたので、その時に律儀にも腕時計を外していたとは知らなかった俺はテーブルのある居間の方へ視線を移す。
「テーブルの上に置いたのは確か?」
「ああ」
そこらの棚に上げておくより、テーブルの方が目に付くと考えて置いたのだろう。俺も同じ状況ならそうするかもしれない。
しかし、我が家でそれは少々いただけない。
「……猫がどこか持って行ったかな」
「キャッツ?」
この家には猫がたくさんいる。その中には好奇心旺盛な若い猫もそれなりにいる。
そんな猫がよく転がりそうな腕時計を見つけたら? 恰好の餌になる可能性が高い。
「運悪くテーブルから転がり落ちた、なんてあれば猫には腕時計なんておもちゃに見えてしまうかもしれない」
「そういうことか……困ったな、書店にも寄るのに……、……すみません、時間もないので失礼します」
それは時間ぎりぎりまで探していたってこと? 普段使いしている人はないと落ち着かないと聞くし、こいつもそういう理由でずっと探していたのかもしれない。滅多に腕時計なんてしない俺なんかだと、携帯の時計見れば腕時計なんて必要ないとは思うけどねえ。
「明日伺ったら掃除ついでに探させて「一分待って」
滅多に使わないが引き篭もり気味でも社会人だ、腕時計のひとつくらい持っている。
確か寝室の小物入れに入れていた筈だと探せば目当てのものはすぐに見つかり、すぐにクソ営業のところへ戻る。特別なことがない限り仕舞ってあるだけの腕時計、一日貸すくらいなんら問題ない。
「みぎ……じゃなくて左手貸して」
返事を聞かず彼の左手を引っ掴むと持ってきた腕時計を付ける。自分で付けるのとはまた違って付けにくいな。
これで大丈夫だろと言う代わりに、腕時計がついた左手を彼の目の前に突きつける。
「あの、これは……?」
「腕時計、あった方がいいんでしょ? 俺使ってないやつだし明日まで貸しとく」
「なんでまた、貸してくれるなんて、」
「それよりのんびり話してて、時間間に合うの」
俺の言葉にクソ松の視線が腕時計に向かうと僅かに目を見開いたので、掴んでいた左手を開放する。台所で俺が話しかけてからそこそこ時間が経っている筈だし、あまり余裕はないよね。
「俺ん家寄ったから遅刻したなんて思われたくないし、時間ヤバいんならさっさと行ってよ」
「は、はい!」
走るようにおそ川に訪れて用事を済まし、その勢いのまま営業先の書店へ向かう。書店へは店頭のディスプレイを見に行くだけだったので急ぐ必要はなかったのだが……まあ、いくら待ち合わせのない用事でも、遅い時間になって閉店間際に行くことになるよりは良かったというものか。
「あれ、定時過ぎてるのにまだ仕事してんの?」
そう言いながらディスプレイを眺めている俺の前に顔を出したのは、おそ川以外では滅多に会うことのないトド松だった。
「おうトド松じゃないか。新たに秋のミステリー特集のディスプレイすると聞いたんで様子を見に来ただけだ」
「この間一松先生新作出したもんねえ」
家路につくところなのか、彼の手には仕事鞄と共にコンビニの袋が握られている。この後におそ川に戻ろうと考えていたがもう定時を過ぎてしまっていたのか。一松先生に半ば無理矢理付けられた腕時計を見れば、俺が把握していたより時間が過ぎているのに気付く。
こうなると今日はおそ川に用事もないし、このまま直帰するのも良いかもな。
「ちょっと!? なにそれ!!」
帰る途中で何か食べるものでも買おうかと考えていた矢先、突然トド松が大声を上げて詰め寄ってきた。
「なにって、なんのことだ?」
「その腕時計!タグホイヤーじゃん!」
いつもは大きいと思えるトド松の黒目が小さくなる。その変化に彼が本気で驚いているのが知れたが、急にどうしたんだ?
「たぐ?」
「タグホイヤー!自分で付けてるのに知らないの?」
「これは借り物なんだ」
「借り物って……タグホイヤー貸すとか頭沸いてんじゃない」
「沸いてるとは……これ、一松先生が貸してくれたんだが、そんなすごいものなのか?」
「一松先生……まあ、あの先生の稼ぎなら余裕か……そのブランドの腕時計、安くても10万以上するからね」
「10……!?」
自分の使っていた腕時計が二十個ほど買えてしまうような値段に思わずまじまじと腕時計を眺めてしまう。価値を知ってから見ると、確かに値段に相応しい気品があるように思える。あまりにさくっと先生が出してきたから、まさかそんなすごいものだとは思いもしなかった。
「こんなの貸して、お前ひとりくらい楽に養えるんだよっていうアピールじゃないの?」
「そんな高価なものだと知ると落ち着かないな…早く返したくなってきた」
「僕の推測はスルーなんだ…まあ、あんまり気になるなら遅くならない内に返しにいけば? 返すだけならそう時間取らないでしょ」
「それも、そうだな」
それならば腕時計を貸してくれたお礼と価値を知らないまま借りてしまった侘びを込めて、夕食になりそうな物でも手土産に持って行こう。一松先生は俺が腕時計を無くして困っていると思って貸してくれたのだし、これくらいはしないと俺の気が済まないからな。
それなら先生が夕飯を食べる前に伺わなければ。そう思うと行動は早く、俺は手短にトド松に挨拶すると足早に先生の住まいへ向かった。
揚げたての手羽唐揚げを手に先生の自宅へ行くと、出迎えてくれた先生にいきなり頭を下げられた。
「ごめん」
「いきなりどうしたんだ一松先生……とりあえず頭を上げてください」
ゆっくりと頭を上げた先生は何故か手に丸めた新聞紙を持っていて、俺が疑問を抱くと同時に目の前に差し出された。
「あんたが出た後、猫が寝ていた辺り探したら、腕時計が出てきて、その……割れてて、」
「割れた!? 破片を踏んで一松キャッツが怪我していたりしないか?」
「大丈夫だけど、」
「掃除機かけたか?」
「まあ、どこに破片あるかわかんないから居間は一通りかけたけど……」
「そうか、それなら良かった。わざわざ腕時計を回収してくれてありがとうございます」
お礼を述べれば一松先生が一瞬呆けた顔をした後に後頭部を掻いた。あまり良い反応とは思えない振る舞いに、左手首に付けたままであった腕時計の存在を思い出す。
「あの! 腕時計貸していただきありがとうございました! お蔭様で助かりました……あと、これの価値を知らずに適当に扱ってしまい申し訳ありませんでした。同僚に相場を聞いてびっくりしましたよ…夜に失礼かと思ったんですが、返しにきました」
「いや……あんたのことだから問題ないって思って貸したし、別に良いんだけど……壊したこっちが悪いっていうのに謝まられたら立場がねーだろ」
「それはすまない……」
「だから、謝んなってクソ松が……それより、手に持ってる袋に入ってるの、何?」
ひくりと、まるで匂いを嗅ぐように鼻が動いては、袋の中身を確認するように顔を寄せてくる。まるでこの家の猫たちがご飯時に見せる仕草にそっくりで、笑いそうになるのを堪えながら借りていた腕時計と一緒に袋を差し出した。
夕飯の準備をしようとのろのろと米を炊飯器にセットした直後、まさかのクソ営業がタイミング良く好物を持ってきた上に「まだ夕飯を済ませてないなら」なんて他にもおかずを作ってくれた。腕時計を貸してくれたお礼だっていうけどやりすぎだよね。こいつの作るもの美味しいから、よっぽどのことがない限り断らないけどよくやるものだと思う。
「どうせならあんたもここで食べてけば? 作ってくれたおかず分けても大丈夫そうだし」
「そうですか? 家帰ってからまた自分の分を用意するのは手間だから、ここで済ませられたら助かります」
そう言うなら手羽唐揚げと腕時計渡したらさっさと帰れば良かったのに。そうは思うけど、作ってもらった手前そんなことは思うだけで言わない。
そのまま黙って二人分の食器を棚から出せば、クソ営業は仄かに頬を赤らめてそれを受け取った。その反応は嬉しい時に見せるものと知ったのは割と最近で、自身の頬も赤くなってしまいそうなむず痒い気持ちが顔を覗かせる。
何がそんなに嬉しいのやら。こいつも手羽唐揚げを食べたかったのか、自宅に帰ってからの手間が省けたと喜んでいるのか。嫌な顔されるより断然良いからなんだっていいけど、不意打ちのように突然見せるのはちょっとやめてほしい。
しかしこれは……この状況なら少なくとも機嫌は良いということだ。
「あの、あんたの腕時計さ、壊しちゃったから弁償させてよ」
「弁償だなんて……今回壊れたのは何が原因かわからない。テーブルから自然と落ちて割れたのかもしれないじゃないですか。弁償なんてしなくて良いですよ」
「それだと俺の気が済まないんだけど?」
どういった原因かはわからないけど、俺の家でなにかがあって彼の腕時計が壊れてしまったのは事実だ。
「でも、腕時計もそこまで安いものじゃないですから」
「だから弁償したいんだって。自分の家でそこそこのものが壊れたっていうのに、気にせずこれから過ごせっていうの?」
「そういうわけでは……」
「じゃあ弁償させてもらうから」
「あの、先生の持つような高価なものは要りませんからね。壊れた腕時計は五千円するかしないかのものなんで、同じくらいのものをお願いします」
そんなにタグホイヤーは驚いたのか。まあ、あれは確かに気軽に買えるような値段じゃないよね。俺のはデザインが若者向けで使う場面がないから、との理由で以前親からタダで貰ったやつで、どんな腕時計か調べては値段にびっくりしたものだ。親からウン十万の腕時計貰ってビビった経験あるから、クソ高いのは絶対買わないので安心して。
しかし、本人の希望額は五千円前後か。その値段でも良い腕時計はあるけど、もう少しお金を掛ければ一生モノになるようなものも……
「……ビクトリノックスとか、いいかもな」
「ビクトリー……?」
「ビクトリノックス。アーミーナイフで有名な会社なんだけど、その技術を活かして腕時計も作ってるとこ。耐久性がかなり優れてて、半永久的に使えるなんて言われてるそこそこ人気あるメーカー」
「人気メーカーなら、値段もそれなりになるんじゃないですか?」
「そうでもないよ」
タグホイヤーに比べたらね。高いのになると同じくらいの値段になるけど、新作なんかは7万くらいじゃない? 高いメーカーではないよね。
希望額よりちょっと高いけど貸した腕時計の値段は人から聞いて知ったというし、こちらが値段をバラさなければ素直に受け取ってくれるだろう。
クソ松がおかずを皿によそっている間に、炊き上がっていたご飯を二人分よそう。我が家にはお茶碗は俺一人分しかないから、クソ松の分はお茶碗と形や大きさが近い器だ。こうやって家で食事を共にするのは今に始まったことではないし、近い内に新たにお茶碗を買い足そう。俺がお茶碗使ってるのに、一緒に食べてるあいつがお茶碗使ってないのは見る度に違和感あるんだよね。
「腕時計、どんなデザインが良いとか希望ある?」
「そこは先生のセンスにお任せするぜ。肉球のワンポイントをあしらったネクタイを貰ってからというもの、俺は先生のセンスを買ってるんです」
「へえ? 猫関連のデザイン好きなんて初耳だけど」
「単なる猫のデザインならそう靡かないが、先生の好みで選びながらも俺に似合うネクタイだったのが良かったんだ」
そう言ってクソ松は下を向いて柔らかく笑う。その視線の先には今話している肉球のネクタイがあって、なんだか落ち着かなくなってくる。
そそくさとご飯を持って居間に向かえば、クソ松が小さく笑いながら後についてくる。追い掛けてくんなよクソ営業……行き先が同じ居間であっても時間ずらして来るとかしろよほんとクソ。
「なんだか先生から腕時計貰えるのが楽しみになってきました」
俺の反応が面白かったのか、来訪時と違ってにこにこと満面の笑みを浮かべている。
そうやって、俺の腕時計を軽く受け取れば良いんだ。そうして、腕時計を眺めて、時折俺を思い出せばいい。たまに贈った腕時計をしているか確認すれば、彼のことだから余程のことがない限り俺の腕時計を付け続けてくれるだろう。
「いただきます。」
「いただきます!今日買ってきた手羽唐揚げ、最近見つけたオススメの一品なんですよ」
にこやかに手羽唐揚げを取るクソ松の暢気なこと。
あんたさ、本が好きでおそ川入ったんなら「腕時計を渡す意味」くらいわかっておいた方がいいよ。それと、俺は何とも思ってないやつと自宅で一緒にひとつの食卓を囲んで食事したりしないのも、そろそろわかってほしいんですけどねクソ営業さん。
そう訴える度胸がないから、弁償にかこつけて一生の内に壊れそうもない腕時計を渡すことにしたわけなんだけどね。
言っておくけど、クソ松が無くした腕時計が壊れたのはまったく偶然の出来事だ。壊された腕時計には悪いけど、お陰で良い機会を貰えたと思ってる。
既に形すらおぼろげな記憶しかない腕時計に密かに感謝すると、俺はクソ松に続くように手羽唐揚げを頬張った。