正三位は視力が良くない ※未完

ステータスについて独自解釈あり。

 早速題名回収だが、俺は目が悪い。見た目がどうこうではなく、視力があまりに悪い。どれくらい悪いかというと、顔の前に物を持ってきてようやく見えるくらい。偵察となると敵の刃先が己の身体に届くほど近くに来てようやく布陣がわかるほど。今の俺の主曰く、視力矯正、または視力を調整する道具が必要なくらい悪いそうだ。
 しかしながら人の身として顕現した時には既にこの視力だったので、見える世界は俺の当たり前であり、主の心配を余所に問題なく過ごしている。

 縁側に腰掛け酒を呷っていると、軽快な足音が聞こえてくる。
 酒の匂いに混じり、藤の香りが鼻を擽る。その香りの甘さに「藤の酒漬けが飲みたい」と呟いては、歌仙兼定に「藤は豆の仲間、よく熱して毒を抜かないと食せないよ。そもそも花というのは愛でるものであって……」とくどくどと語られたのは記憶に新しい。藤の花そっくりな綺麗な色の髪をしているが、実は毒があるところまでそっくりではなくてもいいんじゃないか。
 足音が大きくなる。この足音と藤の香りを持つ刀を、今のところ俺は一口しか知らない。
「非番とはいえ、昼から酒とは感心しないな。」
 高圧的ではないが、芯の通った声が降ってくる。その声の方を向けば、紫と金の塊が立っていた。いくら俺が目が悪くたって見間違えることのない刀、へし切長谷部だ。
「聞いてるのか貴様」
「へーへー」
 落ち着いた紫と金を纏っているくせに口煩い。こいつの性格的に不真面目なことに口を出さずにいられないのだろうが、まあ口煩いと思ってしまう。明るい内から酒を飲んでる刀なんて俺以外にもいるじゃねえか。
 そう言い返せば十倍に返ってくるのを経験しているので、だんまりと睨みつけるだけにする。しかしそれに対し、長谷部は動じる様子なくじっとしている。博多曰く「おいしゃんの容姿ならひと睨みもなかなかの威力ばい!」ということらしいが、長谷部には一切の効果がないようだ。睨みの効果は短刀と槍の体格差が生んだ威圧感なのかもしれない。膝を折らなければ捉えられない博多を始めとした短刀に比べてしまうと、長谷部はあいつらよりずっと背が高いからな。
 まあ、効果がないなら大人しく飲むのをやめて部屋に引っ込むか。
 そう思って立ち上がると、先程から長谷部が無言でその場に立ち尽くしているのに気付く。 なんだ、睨まれて言葉がないほど怒り心頭か?
「なんだ、黙りこくって」
「……別に」
 こいつにしてはやけに小さい声で一言呟いたと思えば、微かに空気を揺れて足音が聞こえた。
 薄まる藤の香りと小さくなる紫と金に、長谷部が自分から離れていったのだと気付く。動じてないと思っていたが、多少にも睨みの効果は長谷部にもあったらしい。あいつのことだから怖気づいて離れたわけではないだろうが、口で対抗するよりは良い手を見つけた。
 次またなんか言われたらじっくりと睨みつけてやろう。

「日本号さんってほんっと遠慮なくみんなの顔見てくるよねー」
 夕餉の席、飯をかき込んでいるとたまたま隣になった乱が不意に話しかけてきた。
「そうか?」
 椀と箸を置くと、乱の背丈に合わせて身を屈めて顔を覗いてみる。ぼんやりとだが快晴より澄んだ青い瞳が余所を向いたのがわかった。
「目が悪いからだってわかっててもさ、ちょっとどきっとしちゃうよ」
「そんなもんか」
「そんなもんだよ。ボクだってそうなのに、長谷部さんも大変だなあ」
「……なんであいつの名前が出てくる?」
 少しの会話の中で長谷部の影は一切なかったのに、何故この流れで名前が出たのか。
「なんでかなー? それよりも日本号さん、ここに来てから自分の顔よく見たことある?」
「顔ぉ?」
 露骨にはぐらかされた上に、よくわからない質問がきた。ここっていうのは本丸だよな……人の身になってから自分の顔を見たことがあるかってことか。
「毎朝身支度する時、鏡越しに見てるぜ」
「そうなんだ……身支度っていつもひとりでしてるの?」
「目ぇ悪くても慣れたらひとりでも……いや、髭剃りだけは同室の御手杵や蜻蛉切が見張ってる。ひとりでやったら首切りそうだって言われてな」
「もしかして、顎髭残してるのってやむを得ず?」
 余所を向いていた乱がこちらへ向いたらしい。春色に覆われた白練に並ぶ一対の青が見える。
「顎髭? 残ってるのか?」
「ちょっとだけ」
「鏡見てやってるんだが、わからねえもんだな」
 確かめるように顎を撫ぜるとざらりとした感触があり、ちょっとどころかそこそこ剃り残しがあるのがわかる。まあ、顎が見えるくらい鏡から顔を引くと髭がよく見えねえからな。こいつはうっかりだ。
「日本号さん目が悪いって知ってたけど、これだけ悪いなら自分の見た目がどんな感じかわからないか」
「そんなに顎髭、目立つか?」
「顎髭というか全部? わいるどで素敵!とか、大人の色気がすごい!とか、遠征先で注目集めてるの知らない?」
「すてき?すごい?……褒められるのは悪くねえが素敵とかすごいってえのは、お前さんみたいな見目の奴の方がよく言われると思うんだが」
 本丸でもよく綺麗、可愛いと言われる乱の容姿を改めて確認しようと、顔を近付けてみる。春の景観を彷彿とさせる色合いに、幼いながら整った顔立ちは人間としての造形美をよく知らない俺でも、
「ぐえ、」
 予告なく背中に一撃食らい、不格好に食卓へ倒れる。そして顔に米粒の感触が襲ってきて、誰かの奇襲により茶碗に顔を突っ込んでしまったのだと気付く。
「酒の席ならば兎に角、夕餉の席で絡み酒とはどこまでだらしがないんだ貴様!」
 この声は聞き間違えようがない長谷部のものだ。いや、声を聞かなくたってわかったさ。俺にこんなことをするのはあいつしかいない。
「てめぇ……気に入らねえからって大概にしろよ」
 どこをどう見たら絡み酒してるってんだ。酒は腰に引っ掛けたまま一滴も飲まずに食事をしていたし、隣の乱とはごく普通に会話をしていただけだ。これは言い掛かりも過ぎる。
 怒りが込み上がり、勢いよく立ち上がるとぼんやりとだが確実に長谷部がそこにいるのがわかった。
 何かにつけて口を出してくるから、俺が気に入らないのだとは薄々気付いていた。だが、皆がいる場で晒すのはいただけないんじゃないか。
 俺は長谷部を掴むと、目を凝らしながら食卓の場から離れる。見えないから適当に服を掴んだが、えらく抵抗してくる。まあ、そりゃあそうか。だからって手放す気はない。
「そんなに暴れて服が破れてみろ、主の手を煩わせてしまうかもしれねえぞ」
 主命とあらば。ここに来て日は浅いが、何度か長谷部の口から聞いた言葉。そんな奴に主の手を煩わせてしまう。なんて言えば大人しくなるだろうと考えての一言に、ぴたりと抵抗が治まった。おいおい、いくら主第一でもちょろすぎやしないか、怒りが削がれちまいそうだ。
 視界の悪さの中、ようやく人目のない廊下へ出ると俺は長谷部を逃さないよう壁際に追い詰める。先程の脅しがかなり効いてしまったのか、頭一つ分視界の下にいる長谷部は大人しくその場に留まっている。
 まったく、普段騒がしくしてる奴がしおらしいと調子が狂う。それにさっきのちょろさもあって怒りはほぼ治まってしまった。こうなるとどうするか。言いたいことはあったはずなのに、何を言いたかったのか怒りと一緒に失せてしまった。かといって、なんでもない。と長谷部を解放するのも今となっては気まずい。
 どうしようかと長谷部を見下ろすと、形の良い旋毛が見えた。なんだ、らしくなく俯いてんのか。
 目を凝らしながら長谷部の顎に指を添えて上向かせる。俺より背が低いだけあって華奢な顎だな。
 至近距離で目が合った長谷部は目を見開くと、ぎゅっと口を真一文字に結ぶ。薄い唇してんな、あまり力をこめたら赤く痕が残るんじゃないか?
力を抜けとばかりに唇を指先でなぞると、見開いた目が震えて睫毛が揺れるのが見えた。
「…………藤?」
 濃い睫毛の下に見えた淡い色合いを確かめようと顔を寄せる。互いの髪の毛が触れ合うくらい近付いて見つめれば、まさしく藤の色をした瞳がそこにあった。
「あんた、こんな綺麗な目をしてやがったのか」
「……は?」
 いや、よく見ろよ正三位。藤の色を浮かべる眼差しは普段の喧しさから想像していたよりずっと柔和だし、薄ら桜色になった唇は言いようのない愛嬌さえ感じる。
「長谷部……あんた随分別嬪だな」
「な、な、」
「刀剣は人として容姿に優れた者が多いと聞いていたが、誰よりも綺麗じゃねえか」
 よく見ようと、両手で長谷部の顔を包むようにする。俺の手がでかいばかりじゃなく、こいつの顔は小さいな。おまけに柔らかい。短刀たちに比べると顔の肉はついてないと思うんだが、見た目良く触り心地まで良いとはどうなってるんだ。
「き…………」
 柔らかい長谷部の頬にほんのりと紅を差したように赤くなる。触りすぎたか? しかし触ってないはずの目元や首まで赤くなってるが、大丈夫か?
「長谷部?」
「きさまどの面して、お、お、俺を綺麗なんて!!くらすぞ!!」
 そう叫ぶやいなや顎に強烈な一撃が入る。それは誰がやったのかなんてこの際関係なく、顎から脳を揺さぶられた俺の意識は暗転してしまった。

 銀杏の黄色い葉が視界の下を掠める。しかし今は銀杏が色づく季節ではないので、博多の名前を呼べば、屈んでほしか!と訴えられた。
「おいしゃん、視力矯正やこんたくとれんずしろとはいわんばい。でも眼鏡くらいかけたらどうかね」
 膝を折って屈むと、ぼんやりと丸っぽい輪郭と銀杏色の頭髪の博多が見える。
「別に不便してねえからいいじゃねえか」
「長谷部が落ち着かないけん、周りが不便しとるばい」
「長谷部?なんだって落ち着かないんだよ」
「詳しかことは長谷部に聞きんしゃい。俺からはおいしゃんが早う視力良くなって、自分ん魅力に気付かなならんってことしか言えんばい」
「魅力?そらぁ正三位ともなれば魅力があって当然だが、視力は関係ないんじゃ「あるとよ! 一度眼鏡でもこしらえて自分ばよく見んしゃい!」
 よく見えなくてもぴょこぴょこ跳ねて懸命に訴える博多に俺は唸ってしまう。視力が良くなることに魅力を感じないしな……確かに視力が悪くて偵察は大の苦手だが、そこは持ち前の機動力の高さで補って活躍できているから視力が良くなりたいと思った瞬間はない。
「…………ああ、」
 しかしなあ。
 博多の言葉を脳内で反復しては、長谷部の顔が浮かぶ。
あの顔を鮮明な視界で見られるのは悪くはない。あいつがどんな顔をして、どんな仕草をして俺に話しかけているのか、考えると興味が湧いてくる。
 それに、最後に見たあの顔もまた見てみたい。
「……おいしゃん、なあに笑っとん」
「視力矯正も、やってみてもいいかとね」
「長谷部のためにも早うやるといいばい」
 どうせはぐらかされるんだろうが乱といい博多といい、なんだってしきりに長谷部の名前を出すんだか。

 その理由を知るのはもう少し先の話。

  これまた早速題名回収だが、俺は目が悪い。主曰く「ド近眼」というものらしく、遠くのものほど見えなかったりする。
 そのことについて俺は不自由は然程感じていなかったが、周囲の強い勧めがあって視力矯正を始めて一週間が経つ。
「そいがのぉ日本号、人間がやる視力矯正は刀剣にはあまり効果がないようなんじゃ。

「ほお」
 本丸で土佐訛りを使う刀は一振りしか知らない。そいつはこの本丸の一番の古株であり、俺たちの日常生活においての指導者である陸奥守だ。ぼんやりと沁み入りそうな濃ゆい橙が見える。
「詳しくはこのこんのすけが教えましょう。

 近くでこんのすけの声がする。あの狐は短刀よりもずっと小さいからな、なかなか姿が見つけられない。まあ、話を聞くだけならば声だけ分かれば良いので問題はないだろう。
「まず、刀剣男士のステータス……身体能力はレベルアップや錬結によって強化してゆくのはご存知でしょうか」
「ああ、まあな」
「言い方を変えますと、刀剣男士の身体能力を高める手段はレベルアップと錬結のみしかないということです。つまりは眼鏡やコンタクトレンズを拵えても、人間のような効果は得られません」
「横からすまんが、博多や明石みたいに眼鏡を掛けた刀剣男士がいるじゃろ? 眼鏡を使用するもんがいるのに、まったく無効っちゅうことはないろう」
 陸奥守の意見に思わず唸ってしまう。
 確かに、顕現時から眼鏡を装着している刀剣がいるのだ。少しは視力矯正の効果はあるのではないか。
「あの眼鏡は本体の一部、特別仕様なのです」
「はあ。なら、俺の視力矯正はできないということか」
「いえ、そんなことは御座いません。最初に申したよう、刀剣男士の身体能力はレベルアップと錬結により強化されます。レベルアップしてゆけば視力も良くなりますでしょう」
 れべるあっぷをすれば身体能力が上がると分かっていたが、視力も例に漏れないということか。最悪の場合は手術も必要かもしれないと小耳に挟んでいただけに、知った方法で視力が良くなるのは助かる。
 不安はなかったが、ついほっと息を吐くと、陸奥守がずい、と一気に近寄ってくる。
「このことはもう主や各部隊長は知っちょる。おまんがその気なら、積極的にれべりんぐするという。どうじゃ?」
 どうだって? れべりんぐするには出陣する必要がある。刀剣としては喜ばしいことではないか。刀剣にも争いを好まない奴もいるにはいるが、俺は出陣して成果を挙げて喜びを得たいものだ。
 良いことばかり、断る必要はねえな。

 こうして俺の視力矯正は改めて始まったのだった。

「足元が御留守だぜ!」
 短刀たちが飛び交う中、敵の黒い影へ槍を突き立てる。
 機動力が高いからとの理由で短刀部隊に入って数週間、れべりんぐの成果が出てきたのか、彼等に出遅れることはない。
「日本号……速くなったよね」
 僕よりずっと速い。そう小さく呟いて、夜明け色の髪を揺らしたのは部隊長の小夜だった。
「速いかもしれねえが、お前の一撃を前にしちゃあ霞んじまうな」
「先制攻撃は最大の攻撃であり防御にもなる……それを実行できる機動力を今の日本号は持ってる。すごいと、僕は思うよ」
 見えないのに、小夜の視線がこちらに向いているのがひしひしと伝わってくる。それがむず痒くて、ついつい口から言葉が出る。
「でけぇ図体捕まえてあまりおだてるもんじゃないぞ」
「日本号の旦那、小夜は褒め上手だが決してお世辞を言うような奴じゃないぜ」
 存在感のある低音が聴こえたと思えば、ばし、と勢いよく尻を叩かれる。この男振りを発揮する低音の声を持つ短刀なんて薬研しかいない。振り返ると、予想通り明るい中に月夜を浮かばせる薬研がひらりと片手を振っていた。
「世間じゃ復讐の小夜だが、うちの部隊長は褒めの小夜と評判でね。変にへりくだるより、素直に褒められて向上心の糧にするのが得策ってもんさ」
「褒めの小夜って……僕は部隊長の時の、長谷部の真似をしただけだから」
 突然の長谷部の名に、肩が震えた。ような気がした。だが、それはあくまで俺の錯覚だったようで、何事もないように薬研が軽快に笑う。
「長谷部はなあ、確かによく小夜を褒めていたな」
「あいつ、合戦場ではそうなのか?」
 俺には口煩いばかりだし、他の刀たちにも何かと律することを望む長谷部が褒めるとは。口煩く指導する様は安易に想像できるが、そこから他者を褒める姿は浮かばない。
「小夜や前田、秋田みたいな、非常に実直な奴に限りだよ。俺はもっぱら指導で、あれこれ小言を言われまくってたもんだぜ」
「ほう?」
「部隊長になった長谷部は、部隊の顔ぶれによって振る舞いを変えて仲間をまとめるのに努める。俺は調子に乗るとひと振りで突っ走りやすかったから、気持ちを落ち着けるために小言を増やしたんだって今ならわかるな」
「倣いたくなる部隊長だったよ……日本号も来たばかりの時、長谷部と何度か合戦場行ったことあったよね。どうだった?」
 小夜の一言に、背中に嫌な湿り気と冷えを覚える。
 小夜が記憶する通り、俺は顕現して間もなく長谷部が部隊長を務める部隊に組まれた。ニ口の話を聞く限り、部隊長として優秀な長谷部なら顕現されたばかりの俺を育成するのに適していると主は判断したのだろう。

「付喪神にあの世があるならばついて行きたかった」

 だが、どんなに有能と評価されている刀がいても例外というものがあるのだろう。それは俺……否、黒田だったらしい。
 一切黒田のことを語らない長谷部に痺れを切らせて突っ掛かっていった。
 その行為を俺は一切後悔してないが、少しだけ反省している。いずれにせよ、いつか俺は長谷部に黒田について聞いたはずだ。だから後悔はない。
 だが、勢いにまかせて話をしたのはいただけなかった。長谷部は黒田への義理や情を持て余し悩んだ挙句、忘れようと努めているのだと知ってしまったら後悔するしか……いや、だから後悔はしてない。やりなおしたいとか、もうちょい言い方があったなあ、あんな風に長谷部に言わせるつもりはなかった、などと後悔タラタラなことは決してない。
 思えばあのやり取りをして以来、長谷部は余計俺に突っ掛かってくるようになりやがった。まあ、情が大きいあまりに黒田の話題を避けるようになったあいつにとって、黒田を思い出してしまう俺はあまり宜しくない存在なのだろう。
「どうって、本丸にいる時と変わらねえかな……また酒を飲んで云々ってな」
 何事もないように返せただろうか。いざこざが絶えない人間より長く存在する俺たち、悶着があっても珍しくないだろうがあまり知られたくない。それに、黒田の話をした時以外は些細なやり取りが主だったのだから、まったくの嘘でもない。
 ……それだけ俺への関心が薄いってか。黒田以外俺たちに共通の話題は大してないし、仕方ねえと言えばそれまでだがなんだかな。
「日本号は普段と変わりないやり取りで問題ないというわけか、信頼されてるな旦那」
 脇を小突かれると小さく小夜の笑い声が聴こえた。なんだ、笑いが起きる場面とは思えないんだが……ええと、薬研はなんと言った?
「信頼されてるって誰が誰に」
「日本号が長谷部にだろう?」
「まさか」
「そのまさかだぜ。また長谷部と出陣する機会があれば、意識して観察するといい。発見があるかもしれないぞ?」
 発見ねえ。果たして長谷部に好かれてない俺が何を発見するのやら。
 てんで想像できなくて首を捻っていると、視線の端に見えた夜明け色が跳ねるよう揺れる。そうして俺の指に小さな手が触れた。
「ちょっと話し過ぎたみたい……この辺りは短刀中心の敵部隊が出やすいから、日が暮れたら厄介なんだ。早く戻ろう」
「うぃー」
 夜戦はまだ未経験だが、色の少なくなる闇夜を自由に動ける自信はない。きっと俺は夜戦があまり得意ではないはずだ。危ないから小夜の言う通り早く本丸に戻ろう。
 それは半分建前で、気まずい長谷部の話が終わってほっとしては、安堵に酒瓶を呷った。

 本丸に戻ると、留守番をしていた刀剣たちが俺たちを出迎える。そうして、その中の一口が俺を呼んでは手入部屋に入るよう促してきた。
「ごめん日本号……もう少し早く戻っていれば……」
 隣で小さい体を更に小さくする小夜の頭をぽんぽんと撫でる。
「あんたのせいじゃない。たまたま不運が向いただけだ」
 本丸に戻る途中、検非違使に遭遇し足留めを食らった。幸いにも全体的に釣り合いの取れた部隊だったため、大して苦戦せずに済んだのだが……その後が問題だった。
「それでも、明るい内なら日本号が負傷することもなかったかもしれない」
 検非違使を倒した頃には辺りはすっかり暗く、どんなに目を凝らしても陽の明るさはどこにもなかった。そこに、敵部隊が現れたのだ。
 敵は短刀と脇差で編成された部隊だったようだ。これが昼間ならば、検非違使よりずっと楽勝に倒せただろう。
 しかし遭遇したのは文字通り一寸先は闇の夜、苦戦を強いられたのだ。
「負傷っていっても脇腹掠った程度の軽傷だ、半日もありゃあ治るさ。それに初めての夜戦の勉強代がこれだと思えば安いもんだ」
 初めての夜戦で刀装を剥がされ重傷を負う刀剣は珍しくないと聞く。それがこうして軽傷で済んだのだから悪くはない結果である。
「それに、れべりんぐ、というやつもうまいこといってるらしいしな」
「え?」
 俺の手の下、小夜が見上げてくる。指の隙間からぼんやり見える大きな目がこちらを見つめているのだとわかると、笑みをもって返してやる。
「…………もしかして、見えるの?」
「今、小夜の顔がどこ向いてんのかわかるくらいにはな」
 それは視力に問題ない者からすれば良いのか悪いのか俺にはわからない。しかし、本格的にれべりんぐするまでは顔がどこにあるのかすらわからなかった俺からすると確実に良くはなっている。
「良かった」
「まったく、検非違使と夜戦様々ってやつだ」
 だから気にすることはない。襲われたことは不運ではなく、お天道様が必要として仕向けた試練だったのだと思えば大したお恵みである。
「それじゃあ、手入れに行ってくる。部隊長もしっかり自分を労れよ」
「うん」
 小夜の小さな背中(これがまた下手したら折っちまいそうなくらい小さい。見えるようになってわかった)を見送ると、俺は仄暗い手入部屋に足を踏み入れた。

 脇腹に処置を施され、朝まで安静にするように言われて数分、周囲の静かさに早くも暇を持て余していた。
 他にも手入れしている奴がいたらな。話かけて暇潰しもできたろうに。
 普段使うものより小さめの布団の中、爪先が出てしまいそうな気がして体を少し丸める。
 体の動きに合わせて、解いた髪の毛が布団の上で波打つ。夜の海は見たことはないが、風の強い日はこんな様子だろうか。これまでよりずっとはっきり見える自身の髪の毛は把握していたより癖が強く、うねりにうねって毛先が暗がりに消えてゆく。
 初めて見たわけでもないのに、視力が良くなるとこうも世界が違って見えるのか。
 暇だったのがやけにわくわくしてきて、くるり、と部屋を見渡してみる。
「へえ」
 壁を照らす燈籠の灯りが微かに揺れて、部屋の隅に落ちる色濃い影が蠢く。枕元には盆に乗った水差しがあり、寝転がったままそっとそれに手を伸ばす。今までの視力なら水差しがあるのすら気付かなかったかもしれないな……もしかしたら水差しなんかは前に手入部屋を利用した時にもあったのかもしれない。
 見えるようになるとはすごいな。暇であった手入部屋が興味の玉手箱になる予感すらある。
 顔の近くまで水差しを引き寄せてぼんやり中に見える水のうねりを見つめていると、微かに足音が聴こえた。
「日本号、具合はどうだ」
 戸越しにそう呼びかける声に水差しを置いて応答する。すると戸がすらりと開いて、見上げれば青年がいた。
「流石に酒は飲んではいないな」
「……長谷部か?」
「なんだ、他所で俺はひたすら口煩いと宣っているような貴様が聴き間違えようがない声だろう」
 長谷部らしき青年は俺が寝ている布団の横に座る。動いた拍子に、馴染みの藤の香りがふわりと空気に乗って鼻をくすぐる。
 声や香りは長谷部のものだが、普段のあいつはもっと紫と金の比率が多かったような……横に腰を落ち着けた青年は白いシャツと濃紫色のズボン姿だ。俺が記憶する長谷部の色合いとは少々違う。
「部隊長の報告を聞く限り問題はないとは思ったが、主が心配しないよう念の為に様子を窺いにきた」
「へいへい」
 体を起こすと僅かに長谷部の顔が近くなる。それでも顔がこちらに向いていること以外わからず、確認するために顔を近付ける。
 よく手入れされていそうな艷やかな真ん中分けの髪、その下には藤色の瞳が煌いている。目鼻立ちすっきりした顔は青年というには少し大人びており、いつか見た長谷部の顔と合致する。
 あんな口煩いくせにやっぱり別嬪だなこいつ。まあ、こいつはあまり容姿を褒められたくないようだから内に留めておくつもりだが。人間の美形についてはまだ勉強中の俺が美人と思うくらいなのだから、褒められて何が困るんだか。
「……俺は様子を窺いに来たが、貴様が俺の顔を窺う必要はなかろう。横になってろ」
「うぃー」
 つまんねえな、折角視力が良くなったってえのに。
 しかし長谷部は俺の具合を見に来たのだと思い返し、言われた通りに布団へ寝そべる。
 横になった拍子にはらりと布団に広がる髪に、過去に同室の蜻蛉切が髪を結いまとめて寝るよう言っていたのを思い出す。見えてわかったが、俺の髪はそこそこ邪魔になる長さらしい。僅かに身動ぎするのに合わせて顔の横に見える髪がうねる。
「脇腹の傷はどうだ」
「時折ちくちく痛むが気にするほどじゃあないな。出血している様子もないし、予定通り朝には完治するだろうよ」
「脇腹以外の傷は?」
「いくつか擦り傷があったが、それらは処置を施した段階で消えたから今はないな」
「そうか」
 淡々としたやり取りにこれは報告のための確認だと実感する。暇じゃなくなったが、世間話を交えて話してくれても……いや、こいつとする世間話ってなんだ? 同室の二槍の話や、出先でのちょっとした面白おかしい話は長谷部の琴線に触れるとはあまり思えない。
 そもそも、他愛もないやり取りは少なくない筈なのに、和やかに世間話して過ごした記憶がない。
「まじかぁ……」
「なんだ、やはりどこか痛むか?」
「いんや……あの、明日内番だったか確認してなかったと思って」
 そんなこと今の今まで気にしてなかったが、つい口から出た言葉を誤魔化すには我ながら良い口実である。
「小夜の部隊員は皆非番にしたと主が言っていたから、貴様も非番だろう」
「ほう。主が関わることはなんでも把握しているとは、自分が関わらないことだろうにご苦労なことだ」
 捉えようによっては嫌味になりかねないのを承知で思ったことを口にして、ごろりごろりと寝返る。
 どういうわけか、嫌味への反論でも良いから長谷部と言葉を交わしたかった。暇で酒も飲めないせいだろうか。
「…………」
 それなのに、長谷部は何も言い返すことはなくだんまりとしてしまった。嫌味も伝わらなければ嫌味にならず、俺の一言は長谷部に響くものがなかったらしい。まあ、今の言葉が嫌味に聞こえなかった場合、特に返すこともないよな……しくったな。ええと、何か話題……話題はあるか。今日の合戦場でのことは……小夜から報告を受けているし、粗方聞いているか。
 気分転換をするようにまた寝返りを打つと、傍に座っていた長谷部が腰を上げる。
「疲れていたところ邪魔したな」
 はっきりしない視界でも長谷部が踵を返したのがわかって思わず体を起こして手を伸ばす。それは半ば反射的に行われ、長谷部の衣服を鷲掴みしてしまう。そのまま引っ張れば呆気なく長谷部の体は傾き、俺の目の前に尻餅をつく。
「き、貴様、何して……」
「つい、」
「つい、なんなのだ! 危ないじゃないか!」
 そう叫びながら顔を上げた長谷部は俺と目が合うと、驚いたように目を見開いては口をきつく真一文字に結んでしまった。その顔は前も見たな。癖なのかわからないが、その唇を固く引き結ぶのは良くないんじゃないか。
「つい……ああ、あのな。今回の出陣で俺の視力が少し良くなったのを報告し忘れてたんでな」
 引き留めたのは反射的な行動だったが、視力について報告してなかったのを思い出したので、引き留めた言い訳として告げる。
「視力が良く……?」
 小夜からは聞いてないか。まあ、俺の視力と戦果は関係ない。手短に必要な報告だけしたのかもしれない。
「おう。ここからでもあんたの顔がどこにあるのかわかるくらいには良くなったぜ」
 指で長谷部の顎を掬い、よく見えるように少し上向かせる。何度見ても別嬪さんの一言に尽き、美人は三日で飽きる。なんて言葉を思い出す。三日で飽きるかはわからないが、何度でも見たくなる顔だ。
「……確かに、視力は良くなったようだが、何をしている?」
 目元から頬にかけて仄かに赤く色付く。そして視線が右往左往する。その様子が面白くて、顎に添えていた指を頬へ滑らせる。すると僅かに長谷部の体が跳ねた。
「美人はどうやっても絵になるってえのを実感してんだ」
 魅力というものは体感しないとわからないものだ。世界が鮮明であることは存外に楽しく、長谷部の顔がよく見えるだけで面白い。
「ちょっと笑ってくれないか」
「はあ?」
「あんたみたいな美人の笑顔は見る価値があるだろう。目が良くなった記念だ」
 むにむにと口元を触って催促すると、顔全体が薄紅に染まり、瞳を色濃くして揺らめかせる。口が何か言いたそうに僅かに動いては再び結ばれ、何か耐えるように胸元を押さえた。
 その様子に胸の奥がじわりと熱くなる感覚があって、何故だか長谷部の顔から手を離してしまう。
「……?」
 どくどくと、耳の裏の血流が激しくなったように鼓動が煩い。なんだこれは。
予期しない鼓動の高鳴りに思わず固まっていると、驚く間も与えないほど素早く長谷部が立ち上がる。そしてそのままの勢いで手入部屋を出ていってしまった。
 引き留める手も声も出ず、とたとたと長谷部にしては大きい足音が遠ざかってゆくのを聞く。それは暫くして聴こえなくなり、俺は静寂の中、燈籠の揺らめきを眺めるばかりだった。

 そこそこ刀剣男士がいる本丸だと交流の少ない男士、というのがいると思う。日本号は俺にとってそんな存在であり、日本号にとっての俺もそんなものだと、思っていた。
「加州清光はいるか。」
 だから、わざわざ日本号が俺の部屋を訪ねてくるなんて考えもしなかった。
「日本号?」
「ああ、部屋にいたか。加州、あんたにちょいと聞きたいことがあってな」
 部屋の出入口に立つ日本号を迎えれば、俺の背に合わせて長身を屈めて視線をこちらへ向けてきた。他の長身の男士にされるとちょっとイラッとするけど、彼は仕方ないのだと顔を上げて視線を合わせる。日本号の視力は生活に支障が出るほど悪い(本人は自覚なしらしいけど)ことはこの本丸で知らない者はいない。当然、日本号と交流の少ない俺も知っていて、身を屈める行為は嫌味でもなんでもなく、視力が悪いのを補うための手段であることも知っていた。
「俺に用なんて珍しいね」
 珍しい、というより初めて? 部隊や内番で一緒になった時や食事の席が近い時なんか喋ったことはあったけど、言い方変えるとそんな時しか話したことないよね。こうやって部屋に訪れてまで話をしたことはなかったはずだ。
「あんたが適役だと思ったんだ」
「適役? 何の適役かわかんないけど、とりあえず部屋入んなよ」
 躓かないよう手を引いて室内へ誘導すれば、日本号は笑顔を見せて僅かに首を傾げた。
 合戦場ではオラオラ系かと思ったけど私生活では結構穏やかな槍だ。これはギャップ萌えと言ったのは乱だったか博多だったか、流石あの長谷部が惹かれるだけあると言ったのは乱だったのは覚えている。
「そこの座布団に座って。大丈夫?」
「ああ、何があるかわかりゃあ問題ない。ありがとよ」
 こちらを見てにっこりと礼を述べる巨漢に長谷部の存在がちらつく。
 この本丸で日本号の視力の悪さを知らない者はいないと同時に、長谷部が日本号に惹かれているのを知らない者はいない。これは暗黙の了解……というか、日本号が関わる長谷部を見てしまえば一目瞭然だから、知るつもりがなくてもわかってしまうという方が妥当かもしれない。まあ、長谷部を翻弄している当人は視力の悪さもあってか、まったく自覚がないようだけど。
 さて、そんな日本号が俺に聞きたいこととはなんだろう。
「お茶も菓子もないけど寛いでよ。それで、俺に聞きたいことってなに?」
「あんたが本丸で一番、審美眼があると思ってのことなんだが……」
 へえ、俺を審美眼があると判断するなんて視力が悪いのに見る目があるじゃん。どうすれば可愛くなるかわかっている俺だもんね、審美眼はあるに決まってる。
「……その、長谷部の容姿についてどう思う?」
「長谷部?」
 俺の審美眼を買って部屋を訪ねてきた。と俺は解釈しているんだけど、ここで長谷部? 長谷部ってうちの圧切り長谷部だよね?
「長谷部の、容姿?」
「ああ。最近、視力が少し良くなって長谷部の顔をよく見るようなったんだが、」
「あ、そうなの?おめでとう……じゃあ俺の顔、前より見えるようなってたりする?」
「ぼんやりとだが判別できる程度には見えるな、加州は可愛いと言われるだけあって御髪整え色肌良く華やかだ」
「でしょ?」
 日本号、やっぱあんた見る目があるね! ……じゃなくて、長谷部の容姿がどうこうの話は?
「それで、長谷部の容姿が云々のやつは?」
「ああ、前より見えるようになって、長谷部がどんな顔してるかようやくわかったんだが……あいつ、えらい美人、だよな」
「…………うん?」
「やっぱり、そういう反応なのか。御手杵や博多、美的感覚の高そうな歌仙や乱に同じ話をしたら、今の加州のように微妙な反応をされた」
 出てきた名前は日本号とそれなりに仲の良い連中だった筈で、どうやら俺のところに来るまでの経緯があったらしい。
「俺の感覚がおかしいのか」
「いや、あのね、そういうことじゃなくてさ」
 微妙な反応をするつもりはなかったし、長谷部は美人の部類に入ると思う。でも本丸には長谷部に限らず美人という表現が似合う刀剣男士(俺含めて)がいるし、なによりも長谷部が美人かどうかより気になることがある。
「あの、視力良くなって、みんなの顔見た?」
「そりゃあ勿論、身近な奴は一通り見たぜ」
「それで、気になるほどの美人が、長谷部だって?」
「おう。あれだけ美人なのはそういねえ。かと思えばたまに可愛らしい顔もする。飽くことのない美人だ」
「へえ……」
 あれ、日本号は俺の審美眼を買って何か聞こうとしていた筈だけど、いつの間に惚気話に?
「それを話せば皆不思議そうな顔をするから、俺の感覚がおかしいのかと」
「ああううんと、あの、別におかしくないよ。長谷部美人だから大丈夫。日本号も大丈夫だから。うん」
 棒読みみたいになってないかな俺こそ大丈夫かな。これで変な顔するなって方が難しいでしょなんでそこまで関わりない長谷部や日本号のフォローしてるの俺?
 長谷部が惹かれる日本号が、長谷部を美人だ可愛いと言ってるのを聞いて平気でいられる奴なんて指折り数えて片手の指が埋まるだろうか。三条のじいさんたち辺りなら笑って済ませそうだが、そいつら以外思いつかないくらいだ。

「その、日本号はさ、誰が見ても長谷部が美人だって、確認したかっただけ?」
「おう」
 きっぱりと答えた日本号に、頭を抱えなかったのを褒めてもらいたい。これじゃあただ惚気を話に来ただけじゃん。
「日本号から見て、長谷部が魅力的に見えるなら別にいいと俺は思うけど」
「そうか?」
「そうだよ」
 少なくとも長谷部にとっては良いと俺は断言するね。
 でも、そんなことを日本号に言ってしまえばいよいよ口から粉砂糖が吐き出しそうで、俺は外へ視線を向けて逃げ出したい気持ちになった。

◆◆◆

 そろそろ煩わしくなる文句だが、俺は視力が悪い。
 以前に比べたら大分視力が良くなったんだが、まだ悪いらしい。近寄れば顔の判別ができるようになったのだからかなり良くなったと思うのだが、他の刀剣男士曰くもう少し良くならないと並の視力とは言えないそうだ。

 朝一の出陣から帰ってひとっ風呂済ませ自室へ戻ると、昼間だというのに蜻蛉切と御手杵が揃っていた。蜻蛉切は非番と聞いていたからいいとして、御手杵は俺の後に出陣する予定だった筈だ。記憶違いしていただろうか。
「出陣じゃなかったか」
「疲労回復してない奴がいるから今日は中止だって。日本号、髪乾かすからこっち座って」
「うぃー」
 御手杵に手を引かれて座ると、手拭いを頭に被せられてぽんぽん叩くように髪を拭かれる。そうして髪の毛を微かに引っ張られると、背後から「ごめん」と御手杵の声が聴こえた。
「うーん……今日の髪の毛はやけにしきんでるな。とりーとめんと忘れたか?」
 御手杵は後ろで俺の髪質を確認するように髪の毛を触れている感覚がある。
「あー……とりーとめんとはしたんだが、しゃんぷーと液体石鹸間違えちまったせいかもしれねえ」
「前もやったなそれ」
「液体石鹸は便利ですが、しゃんぷーと見紛い易いのが難点ですな」
 背後に蜻蛉切が座った気配があり、御手杵とは違う手が髪の毛に触れるのを感じる。見えはしないが、どうやら二槍揃って俺の髪の毛に触れているらしい。
「とりーとめんとはすぐ洗い流せばいいけど、液体石鹸はなあ……やっぱ日本号はまだ暫く固形石鹸使った方が良いか」
 液体だと泡立ちやすくて良いんだがなあ。視力が良くなったからしゃんぷーと区別の付きにくい液体石鹸でも問題ないと思ったが、なかなか上手いこといかないものである。
不意に引っ掛かりを梳くように、つんつんと髪の毛を引っ張られる。二槍のどちらかが俺の髪の毛に櫛を通したらしい。それを黙って受け入れていると、部屋の外から「もし」と小さく聴こえた。
「どなたですか」
 応じる声と共に、視線の端に蜻蛉切の着物らしきものがはためく。それをよく確認しようとすると不自然に陽の光が揺らめいて、襖が開いたのがわかった。
「お寛ぎのところ失礼します。日本号はいますか」
 風がないのに桜吹雪が部屋に舞い込んで、微かに白檀の香りが漂う。桜なのに何故白檀の香りがするのか。そんな疑問が過ぎったが、桜吹雪の真ん中に小さな顔があるのがぼんやり見え、それは宗三左文字であるのに気付く。
「俺に何か用か」
 国を動かす刀自ら訪れるとは何かあっただろうか。
「ご相談がありまして、時間宜しいですか?」
「今日はもう出陣はねえ、大丈夫だ」
「日本号殿に話があるならば自分と御手杵は暫く席を外しましょうか」
「いえ。これからする相談は同室の貴方たちがいた方が都合が良いので同席をお願いできますか」
 俺へ相談するのに、御手杵や蜻蛉切も関係するとは。俺へというより、三名槍に相談ってか……部隊編成についてとか? いや、そのような用事のためにこの傾国の刀自ら部屋を訪れるだろうか。
 髪の毛に櫛を入れていた御手杵の手が離れたかと思えば、隣に誰かが座る気配がした。ちらりと横目で隣を覗えば、緑の塊があったので御手杵が移動してきたらしい。それを確認していると反対隣にまた誰か……蜻蛉切が座った。
「三名槍が並ぶとなかなかむさ苦しいですね」
「壮観とか言い方あんだろ……で、俺に相談とはなんだい」
「回りくどいのは面倒なので簡潔に言いますと、僕と部屋を交換してください」
「……ほう?」
 部屋を交換、とはあれだよな。宗三がこちらの部屋に入り、俺が宗三が使っていた部屋に入るってやつだよな。部屋替えとか模様替えなんかと言い間違える奴ではないだろうし、なんだっていきなり部屋を交換してほしいなんてことになったんだ。
「また突然な話ですが……同室の長谷部殿と何かあったのですか」
 宗三の同室は長谷部なのか。二口はかつて織田で一緒だったのだ、俺が知らないだけで同室になるくらい仲が良いのだろう。
「別に僕と長谷部の間に何もないですよ。いつもの『主命』です、しゅ、め、い」
 宗三の表情は見えないはずなのに、不機嫌に歪んでいるのがわかる。それにどこからともなく苦笑が返ってきた。
「笑い事じゃないですよ。まったく……」
「長谷部に主命、何が問題あるってんだ。あいつは主命を受けて喜ぶ質だろう」
「だから問題なんです。あの刀は『主命』に応えようと、ひと月かけて片付けるよう頼まれた書類を一週間で終わらせようと夜な夜な作業しているんですよ」
「もしかして、また徹夜してんの?」
 御手杵の「徹夜」という発言に、思わず聞き返しそうになるのを我慢する。宗三の話と御手杵の発言からすると、主命にいち早く応えようと睡眠時間を削って書類を片付けているようだが……あいつなら有り得そうだがほんとうか?
「今は遅くとも丑の刻には無理矢理布団に押し込んでますから、徹夜はさせていません」
「さっすが宗三」
「お陰で僕も遅くの就寝でいい加減限界です。何が『久々の主命、全力で応えなければ!』ですか。無茶をするから主が仕事を頼みにくいのだと何度か話しているのに理解しないのだから」
「それ、前からあんのか」
「長谷部がこの本丸に来てからずっとですよ。主も長谷部の無茶は知っているので滅多なことでは大量の仕事を頼んだりはしないのですが、年度末もあって手を借りたかったのでしょう」
「『主命』が絡むと大変だよなあ長谷部。前に俺と長谷部、小夜の三人部屋だった時は苦労したもんだ」
「寝不足が原因で小夜殿が体調不良になったと聞きましたが、当時同室だったはずの御手杵殿は何をしていたのですか」
「それは僕も前から聞きたかったことですね。貴方が長谷部をしっかり寝かしつけていれば、小夜も体調を崩さずに済んだというのに。見て見ぬ振りをして長谷部を野放しにし、小夜ばかりが苦労を強いられたのですか」
「共に寝床を並べる仲だというのに感心しませんな」
「いや、俺だって長谷部のことちゃんと寝かせてたって! それが俺が寝入ったところにこっそり起きて作業してたんだからやりようがないだろ!」
「…………あのよ。話しているところ悪いが、なんで変わるのが俺なんだ」
 会話の内容からして、ある程度長谷部に対抗できる奴が同室であるのが良いのはわかった。そして俺が多分、それにあたるのだと思われる。
 だが、この本丸にはそれなりに刀剣男士がいる。その中には長谷部に物怖じしない奴もそこそこにいるというのに、何故その中で俺なのか。
 周りの会話が途絶え、皆がこちらを見つめる気配がする。
「貴方はお酒を嗜むでしょう? 寝なければ長谷部に上手いこと酒でも盛って寝かせたり手段があるじゃないですか」
「酒を嗜む奴なんざたくさんいるだろう」
「それはそうですが、長谷部が素直に盃を貰うのは黒田で一緒だった貴方だけだと判断したのですよ」
 黒田という名に、思わず喉の奥が引き攣ったように言葉が出なくなる。幸いにもそれは表面に出ていないようで、周りは特に反応を示さない。
 きっと、ぼんやりした視界の中でもよくわかるほど涼しい顔をした刀は、かつて縁があった仲だからごく自然に干渉できる、なんて些細な理由で俺を選んだのだろう。だが残念かな、黒田が絡むと意固地になるあいつしか想像できないし、考えれば考えるほど悪い想像ばかり浮かぶ。それに比較的誰とでも上手くやれる御手杵と小夜が同室でも駄目だったんだろ? 目が悪くてただでさえ同室の奴の世話になる場面が多い俺がどうこうできるわけがない。
「…………」
 そうだ、目が悪いことを理由に断ろう。
「……しかしなあ、俺はあまり目が良くないし、世話をするどころじゃねえぞ」
「それを踏まえて貴方なんですよ。まだ不自由な場面がある貴方が同室ならば、長谷部も主命ばかりにかまけていられなくなるでしょう」
「それは…………、……」
 そんなことはない。と即答できない。
 あいつは誰もが認める世話焼きだ。顕現したばかりで人の身に慣れない奴はまず長谷部がいる部隊に入れたらいいと主が判断する、お墨付きの世話焼き。俺が厠に行こうと近くでもたもた手間取っていたら、文句を言いながらも誘導してくれるような奴ではあるだろう。
「でも、そう上手くいくものかね?」
「確証はないですが、御手杵という前例がいるんで試す価値はあるでしょう」
「俺ぇ?」
 突然名前を出され、隣の御手杵が驚きの声を上げる。
 御手杵が前例? どういうことだ?
 疑問を抱いていると、蜻蛉切が「ああ、」と何やら思い当たるように声を上げた。
「日本号殿は存じないと思いますが、貴方が来るまで御手杵殿は寝坊と失踪の常習犯だったのですよ」
「寝坊と失踪って……こいつ毎朝俺の着替え手伝ったり、出掛ける時も声を掛けたりするじゃねえか」
「日本号殿が来て変わったのです。心優しい御手杵殿のこと、自分が一緒に起きて支度を手伝わなければ、自分がいつの間にかいなくなったら、貴方が困るかもしれないと考えたのでしょう。他の者のために己を変えるのは難しいものですが、それを実行するとは流石御手杵殿。自分と二人だった時は改善するものかと悩んでいましたが、やればできるのですね」
「い、いやあ、そんなたいそうなことは……」
 珍しく御手杵がごにょごにょと言葉尻を小さくし、悪い視界でもわかるくらい勢いよく突っ伏した。
 蜻蛉切はお世辞で褒めることはしない。それは俺たち三名槍なら尚更で、突如容赦なく褒めちぎられた御手杵の心情を思うとこちらまで小恥ずかしい気分になってくる。
「それで、僕と変わってくださいますよね」
 柔らかな声音だというのにただならぬ威圧を感じる。そうして宗三の細い指が俺の手を握ってきては、縄紐でぎっちり手を縛られているような力強さに言葉を失う。
 助けを求めるよう蜻蛉切の方へ視線を向ければ、にっこりと優しげな眼差しで俺を見つめていた。なんだってそんな笑顔なんだよ……。
「一緒に生活を共にしたら案外良いかもしれませんぞ。悩むよりも、試しに同室になってはいかがですか日本号」
 自分は強く勧めます。そう言わんばかりに首を傾げた蜻蛉切にいよいよ俺は口を閉ざすことしかできず、長谷部と同室になることが決まってしまった。

「よお宗三」
「今は御手杵だけですか」
「蜻蛉切と日本号はそれぞれ用があって出払ってる。戻ってきてすぐ移動できるよう日本号の荷物はまとめて寄せてるから、荷物置いちゃって大丈夫だぞ」
「今日からお世話になります」
 日本号と宗三が部屋交換をすると決めた翌日、細腕に目一杯の荷物を抱えた宗三と共に長谷部がやってきた。
「俺は聞いてないぞ、宗三」
「しつこいですね……僕は言いましたよ。そんな好き勝手する貴方には付き合えないから誰かと部屋を交換してもらうと。それに対して貴方は『好きにしろ』とおっしゃったじゃないですか」
 宗三を出迎えた時はてっきり引っ越しの手伝いなのかと思ったが違うらしい。日本号に部屋交換をお願いにきた際、長谷部の意見が一切出てこなかったからもしや……と思っていたけど、やっぱり宗三の独断で日本号を選んだみたいだ。
「それはそうだが……」
 好きにしろと言った割に不服なのか、まさに苦虫を噛み潰したような顔をする。
 噂じゃ長谷部は日本号のことが好きとかなんとか聞いたことあるんだけどな。火のないところに煙は立たぬ、なんて言うのだから、噂ほどでないにしても少しは好いていると思うんだけど。
「長谷部は日本号のこと、憎からず思ってるんじゃないのか?」
「に、憎からずとは……そんな大それた感情をあの槍には抱いていない!」
「はあ」
「今の御手杵の発言に何を声を荒らげる必要があるんですか……まったく、些細な言い回しに過敏に反応して、思春期真っ盛りの子供ですか貴方は」
「…………」
 心底呆れた声音で話す宗三に、長谷部の口先が徐々に拗ねたよう尖ってゆく。長谷部にいとも容易く言い負かされる俺なら絶対見られないんだろうな。新鮮な長谷部の表情にちょっと面白くなっていると、俺の横をすり抜けた宗三が荷物を部屋にどっかりと置く。
「そういえば日本号の荷物はまとめているんでしたよね。 長谷部、貴方部屋に戻るついでに彼の荷物持っていきなさい」
「何故俺が、」
「御手杵、彼の荷物はどちらに?」
「ああ、そこの棚の上の風呂敷。長谷部がそれ持ってくんなら、布団は俺が持っていこうか」
「それは助かりますが宜しいんですか」
「暇だし刺すことくらいしかできない俺でも布団抱えるのはできるしな」
 出入口で立ち尽くす長谷部に風呂敷を押し付けて、日本号の寝具一式を押し入れから引っ張り出す。日本号が不在なのに勝手に荷物を持ち出して良いものか、一瞬そんな考えが過ぎったが、日本号が戻ってきたとしても誰かが誘導のためついていかなければならないだろうと考えて布団を持ち直した。
 そうだ。布団っていえば、宗三の布団がないな。
「あっちの部屋にまだ宗三の布団あるなら、帰りがてら持ってこようか」
「おや、そんなことまで宜しいんですか?」
「戻るついでだしな」
「ありがとうございます。うだうだと手ぶらで僕について回った誰かさんと違って助かります」
 空気が見えるものなら、ぴしりとでかいヒビが入ったに違いない。そんな何かを感じてしまい、俺は抱えた布団越しに長谷部を縁側へ押し出す。
 同室だった故の気兼ねなさなのか、隙あらば煽るのはやめてほしい。
「ええと、長谷部の部屋ってどこだっけ?」
「……左へ真っ直ぐ行った突き当り、角部屋だ」
 角部屋ねえ……確か角部屋って他よりも狭いよな。宗三の私物が両手に収まる程度だったし、二振りでも大丈夫だったのかな。それとも狭いとは話だけであり、そう狭くはないのかもしれない。
 あまり離れていなかったのか、考えている内に長谷部の部屋についたらしい。そうして案内されては……十畳ほどの室内が出迎えたので、思わず長谷部の顔を窺った。
 俺の言わんとすることを察したのか、長谷部は少しだけ視線を右往左往させては部屋の奥に向かって顎をしゃくった。
「……室内は狭いが、押し入れは他の部屋と変わらん大きさだ。あいつの荷物は俺が持っているものが全てなのだろう?」
「まあな」
「それなら問題ない。それにしても、あいつは図体がでかい割に生活面も身軽なのか」
「日本号は限られた道具を大事に使う質だからなあ。あと、衣服と整容道具以外は酒器や文具くらいしか私物がないのもあるか」
「酒器…………あいつはどこまでも酒なのか」
「確かに心底酒好きだけど、目が悪いから新たな娯楽を楽しむにも一苦労でなかなか物が増えないんだよ」
 最近、視力がちょっと良くなったから俺たちの手を借りず文字の読み書きができるようになったんだよなあ。露骨に喜んだりはしなかったけど、暇な時は卓に向かって黙々と写経するようになったから嬉しいのだろう。あれがなかったら文具もなかったかもな。
「そういう、ことなのか」
 失言だったとでも思ったのか。気まずそうに口許をきゅっと結んだ長谷部に、気にするなとばかりに笑ってやる。
「長谷部も作業があるかもしれないけど、ちょっとだけでも日本号に構ってくれよ。あいつ、暇してても特に何も言わないからさ」
「善処、しよう」
 口許は未だ固そうだが、頬が僅かに赤くなっている。俺が憎からず思っていると言った時に否定したけど、嫌ってはいない様子に小さく息をつく。まあ、同室でもないのにちょくちょく日本号に声を掛けている(当の日本号は気にしてないようだけど)あたりで、何かしら好意の念があるのかなとは思っていたけど改めて確認できて一安心かな。
 抱えていた日本号の布団を押入れに仕舞い、宗三の布団をしっかり抱え持つ。
「どうか日本号を宜しくな、長谷部」
「まるで娘を嫁に出す父親だな」
「常套句だって。あれが娘は流石にないな」
 あいつは三名槍の一本、俺と並ぶ奴だ。仲間意識はあるが大事に愛しむような存在ではないな。それにあいつも俺や蜻蛉切に甘やかされはしても、娘なんて言われたらこれでもかというほど嫌そうに顔を歪めるに違いない。
 それは想像に容易く思わず笑っては、片手を振って長谷部と日本号の部屋を後にした。

「なんだ、寝てなかったのか」
「まだ宵の口を過ぎたばかりだ、寝るには早い」
 歓迎会と銘打ち、三名槍と宗三という奇妙な組み合わせで行われた飲み会から帰ると、手元だけ明るく照らして書類を片付けている長谷部がいた。
 燭台だけに頼るとは、自分しかいないからと節制でもしていたのか。視力の良し悪し関わらず作業に不向きそうなのによくやるものだ。
「蛍光灯つけてくれねえか。暗いと何があるか判別できない」
「今つける」
 ぱつりと音を鳴らしながら蛍光灯が点き、室内を煌々と照らす。眩しさに思わず俯けば、ちかちか瞬く視界の中に二組の布団がぴっちりと並んで敷かれているのに気付く。
 俺は敷いた覚えは全くない。そうなると布団を用意してくれたのは同室の長谷部しかいない。
「この布団、」
「酔ってそこらで寝ても面倒だと思って敷いたまでだ」
「……ありがとよ」
 これまでの部屋に比べて随分狭い部屋、慣れるまで布団を敷くことすらひと手間と思っていただけに助かる。素直に礼を述べれば、関心薄げな声音で「明日からは一緒に敷くぞ」と返された。一緒に敷いてくれるってか、俺も例外なく世話焼きが発揮されるわけねえ。まさか同室になって早々布団敷いてもらえるとは思わなかったけどな。
 布団の横に俺がやっと座れそうな空間を見つけて、そこへ移動すると背後から誰かが近寄る気配がした。まあ、誰って長谷部しかいねえよな。
 何か用なのか。言う代わりに振り向けば、存外近くに長谷部がいて驚きに固まってしまった。
「何か、用か」
「寝間着に着替えるのかと思って」
「まあ、あとは寝るだけだしそのつもりだが、それがどうしたんだ」
「着替えるなら、手伝うべきだろう」
 どうかしたかと思えばそういうことか。服くらいてめえで着られるんだが、来たばかりの頃縁側を歩くのも覚束なったような俺だったからそう思われても仕方がないか。
「着替えなら別に手伝いは要らねえが、それよりも、」
 縁側を歩くといえば助けてもらいたいことがある。
「洗面所、連れてってくれねえか。歯磨きしたいんだが、夜の移動は苦手でな」
 この部屋は角部屋な上に飲み会をした部屋とは直線一本で繋がっていたから壁伝いで歩けば問題なかった。だが、洗面所はここから少し離れた位置にある。道筋を覚えてしまえば暗くても行き来はできるのだが、慣れない内は迷子になる可能性が高い。最悪なのは迷子になった挙句、縁側から足を踏み外して中庭に落ちることだ。これから寝るというのにそれは避けたい。
 お願いする。と片手を差し出せば、長谷部は呆けたように口を半開きにして俺を見上げた。なんだその顔、初めて見たが面白いことなってるぞ。開いた口に差し出した手突っ込みたくなるような……いや、脱線するところだった。
 長谷部が俺を手伝ってくれる気がある内に、洗面所に連れて行ってもらわなければならないのだ。何故突然呆けているのかわからないが、この手を取ってもらわないと先に進まない。
「手を引いてもらわないと曲がり角で足を踏み外したりするんだ……安全のためにも手、繋いでもらっちゃあ駄目か?」
 同室になることを了承してくれたくらいだ。手を繋いで洗面所へ連れて行くくらいはしてくれそうだが、呆けた様子に若干の不安を覚えて顔を寄せる。
 途端、長谷部が俯いてしまう。
「そ、そういうことか……、……なんだ……」
「長谷部?」
「洗面所だったな。今案内する」
 差し出したままの手を鷲掴みされ、室外へ引っ張り出される。あまりに勢いよく出たので既のところで鴨居に頭をぶつけそうになりつつ、長谷部の手を握り返す。
 体格差があるせいか、握った長谷部の手は一回り小さい。それでも、いつか触れた短刀のものと違って明らかに男の手である硬さがあって、いくら綺麗な顔立ちをしていてもこいつは打刀圧切長谷部であるのだと実感する。人の身になっても長谷部は長谷部だとわかっていても、こうして本来の長谷部を垣間見ると面白いものである。
 実感を深めようと強弱つけて手を握っていると手を振り払われてしまい、代わりに手首を握られた。
「変なことをしていないで歩くのに集中しろ。一度で覚えろとは言わんが、それくらいの意気込みでいなければ俺が夜戦や遠征で不在の時に苦労するぞ」
「……うぃー」
 何度も連れてゆくのが面倒。なんてことを言わない辺り、本心はどう思っているか別として優しいよな。こういうところがあるから模倣とする男士がいるのかもしれねえな。
 それは我がことのように嬉しくて思わず笑ってしまうと、強く手首を引かれて半ば引き摺られる形で洗面所までの道のりを進んでいった。

 部屋に戻って寝間着に着替えていると、手首に長谷部が握った痕がくっきりと残っているのに気付く。
「連れてってくれたのは助かったが、手首引っ張るのはどうにかならなかったのかね」
「変な触り方をした貴様が悪い」
「変な触り方ねえ?……まあ、そう感じたのなら申し訳ない。」
 別に不快な思いをさせたかったわけじゃない。だが、それはあくまでこちら側の言い分であり、長谷部はそうではないのだ。この痕も一晩経てば消えるのだし、言い争いをしたくて話をしたわけではない。
 てめえから話したが、この話題は終わり。もう寝てしまおうかな、と敷いてもらった布団に潜り込む。足元の冷たさに少しだけ体を丸めては、長谷部が文机から動く様子のないのが目についた。
「あんたもそろそろ寝たらどうだい」
「一区切りついたら寝る」
「そうは言うが、すぐ終わるものなのかい」
「貴様が寝入る頃には終わっている。どれ、明るければ眠れないだろう。室内灯を消すから気にせず寝ろ」
 俺が寝る頃ねえ。これまでも同室の刀をそのように言ってきたのか、こりゃあ小夜が寝てられないわけだ。
 この場にいない小夜に同情の念を覚えていると、部屋が暗くなる。そうして文机がある辺りだけ仄かな灯りがついたので、灯りを消したのは長谷部であると知る。こちらが何か言う前に消すとはわざとか? 手伝いを申し出た時はちいとばかり感心したというのに、流石は皆が扱いに困っている御刀様ってとこか。
 だが、それならおやすみ。と素直に長谷部に従う気はない。
「そう言うがな、俺は隣に誰か寝ていないと寝付けない質だと知っているのかい?」
「初耳だが、」
 そりゃあ初耳だろうね。別に俺は隣に誰が居ようが居まいが関係ないからな。俺を寝かせて夜更けに筆を取るつもりなら、これくらいの嘘はお相子である。
「そうなのか?」
「なにせ目が良く見えないもんで、傍に誰か居てくれないと落ち着かねぇんだ……なあ、一緒に寝てくれないか」
 暗くて見えないが、会話の最中なので長谷部はこちらを見ている可能性は高いだろう。
 あんたが隣に居てくれないと眠れないんだ。そう主張するよう、長谷部が座っている方をじっと見つめる。
「長谷部、駄目か?」
「…………だが、まだ書類が……」
「俺が寝るまででいいんだ」
 隣に敷かれた長谷部の布団を軽く叩いて、こちらへ来るよう催促する。
 まあ、こんなこと言ってるが、あんたが寝付くまで俺は起きているつもりだがね。長谷部すら寝かせられないのかと馬鹿にされたくはないしな。
「なあ、長谷部」
「わかったから、そう何度も呼ぶな」
 淡く室内を照らしていた灯りが消え、いよいよ何も見えなくなる。
 長谷部はどこだ? そう思うが先か、手を置いていた布団がばさりと動いた。
「これでいいんだろ?」
 布団が盛り上がり、長谷部の声が近い。見えないが、どうやらあいつは布団に入ってくれたようだ。それを確認するよう再び布団を叩くとやめろとばかりに押し退けられる。
「早く寝ろ」
「ういー」
 寝るには暗い方が良いが色がわからなくなるのが面倒だ。手が届くほど近くに長谷部がいるというのに、その姿を捉えられない。
 しかしあちらからは俺がしっかり見えているようで、大きなため息が聞こえてきた。
「貴様は……まだ何かあるのか」
「別に」
「ならばこちらをずっと向かなくともいいだろう」
「あんたが見えねえから、本当に隣に居るのかと思って」
「見えなくとも、気配や声の近さでわかるものではないか」
「それでもなあ、」
 また長谷部の布団の上に手を置き、布団越しに仄かに温もりがあることに息をつく。確かに長谷部が居るのだと、布団の上から撫でる。
「おい、寝る気がないなら起きるぞ」
「そうつれないこと言うなよ」
「叩いたり撫でたり、落ち着かない」
「なら……手、置くだけでも駄目か」
 もぞもぞと長谷部の布団が大きく動いた後、長谷部の声が返ることはなかった。
 話は終わり、寝ろってか。ほんと、つれない御刀だ。だが、先程と違って押し退けない辺り、手を置くことは許されたらしい。それが少し嬉しくてひっそり笑っていると、小さく布団が動く。
「いい加減目を瞑れ。気になって仕方ない」
「へいへい、わかったよ」
 素直に目を瞑っても、長谷部が起き上がることはない。どうやら俺が寝るまで本当に隣にいてくれるようだ。
 それで、俺が寝たのを確認したら書類仕事を再開するってか。ご苦労なこった。
「あんたも目ぇ瞑れよ。後々起きるつもりでも、目開けてだんまりしているより体が休まるぜ」
 目が開いているかなんて全くわからなかったが、寝まいとしていたらしい。動揺したように微かに体が跳ねたことにまた笑いそうになって、口元を布団に埋める。宗三から聞く限り、急ぐ仕事ではないのだからそのまま寝てしまえばいいのに。
 そんな思いで俺は長谷部に「おやすみ」と声を掛けては布団をひと撫でした。

 やってしまった。自然光で少し明るくなった天井を見ながら、そう思わずにいられなかった。
 上体を起こして横へ視線を向ければ、こちらへ手を伸ばす体勢で眠っている日本号の姿があった。
 こいつの、こいつの手のせいで……! 重量ある手の存在感を意識して動けずにいる内に、まさか寝落ちてしまうだなんて不覚極まりない。思わず苛つくまま自分より一回りでかい手を引っ叩くが、日本号は何事もないように眠り続けている。半開きになった口からは穏やかな寝息が聴こえ、それがまた憎らしくて起こしてしまおうとしては……瞬く間に腕を掴まれてしまった。
「っ!」
 がっつり掴む力強さに怯んでいると、うっすら開いた眼差しと視線が合った、気がした。
「おはようさん」
 喉の奥から出したような低い声と共に、微睡みの色を滲ませた紫の目が瞬く。
「…………おはよう」
 真っ直ぐ向けられる眼差しは何度受け止めても慣れない。まるで視力が悪いのを補うよう、無遠慮なそれは今後も慣れる気がしない。
「もう朝かい」
「ああ。だが、すぐに身支度するような時間ではない」
 掴まれた手を解放されて思わず距離を取ると、こちらの動揺など気付いていない日本号は呑気に欠伸をしながら体を起こす。そうして、寝乱れた髪をゆっくりとした動作で掻き上げる仕草に行き場のない溜息が出そうになった。
 立てば芍薬とは言ったものだ。こいつは「立てば槍居すりゃ槍戦う姿は槍」のどうやっても槍の付喪神だが、その槍は日乃本一美しい槍である。
 長身はすらりと長い青貝螺鈿貼拵を彷彿させ、精悍な顔立ちには倶利伽羅龍の炎を宿して煌めく眼差しを持っている。だが、美しいばかりではなく、出陣すれば鎧を貫き馬を薙ぎ払ってみせる。勇ましき日乃本一の槍。
 そんなことを言えば、ついこの間まで同室だった傾国の刀あたりに「惚れた腫れたの色眼鏡」などと笑われそう(もしかしたら既にそのようなやり取りをしたかもしれない。俺は思ったことを口に出しがちらしいから)なので、思うだけである。
 だが、日本号の評価について、色眼鏡ではないと断言しよう。それはあいつが遠征に行った先での女人の反応を見たら嫌でもわかる。頬を赤らめざわめき、きっかけを得れば日本号へ声をかける者を多く見た。そして下心を向けられていると知らない日本号は邪険することなく自然に接するものだから、あの逞しい腕に指を添わせる者までいたものだ。
 あの時は慌てて部隊の連中と一緒にその場から引っ張り出したものだった。
 そうだ、こいつは自分の存在がどれだけのものか自覚がないから質が悪い。なまじ悪い奴じゃないのが余計に悪い。これで嫌味な奴なら可愛げもあったのかもしれないが、憎らしく癖はあっても良い奴だ。少なくとも俺にとっては「良い奴」なんて陳腐な表現で言ってはいけないのでは、なんて暫し考えるような存在だ。
「長谷部」
 不意に布団を引っ張られて名前を呼ばれる。
「なんだ」
「なんだって、さっきからぼんやりしてどうした……まだ眠いか?」
 目を細め、まるでこちらを伺うように小首を傾げる。動きに合わせてさらりと髪が太い首の上を流れ、落ちた髪を耳へかけては口を笑みの形に歪めた。
「…………いや、眠くない。ようく目が覚めた」
 代わりに頭を抱えて項垂れたくなったがな。しかし目の前には俺を案じて見つめる日本号がいて、口の中で小さく唸るしかできない。

 一晩過ごしてこんなことでは神経がどうにかなりそうだ。
 熱を持ち始めた顔を抑えながら、俺は日本号を睨みつけるしかできなかった。

 口を酸っぱくして言うが、俺は視力が悪い。
 お前さま、他に言うことはないのかね? なんて言われたってこいつを言わなきゃあ話が始まらないのだ。れべりんぐして良くなってはいるんだが、まだまだ並の視力とは言えないらしい。

 ここ最近、朝の支度は長谷部に手を引かれることから始まる。

「おはよう。今朝も早くから二口揃って洗面所に御出ましかぁ」
 素早く横切った白い塊は流石の俺でも見紛うことない鶴丸の姿で、朝陽を反射して輝く様に思わず目を細める。その様子に小さく鶴丸が笑う声がして、俺もつられて笑い返した。
 俺は整容するのに時間を要するため共同の場は混み合う前の早い時間帯に利用するのだが、この光源のように眩い刀とは何故かよく会う。そこのところは多分、俺の生活規則が似通っているだけで深い意味はないのだろう。きっと鶴丸も同様のことを考えているのか、頻繁に出会う割に疑念の言葉を向けられることはない。
「毎朝きみと長谷部が手を繋いでいる姿、もう驚きはないが見せ付けるものだなあ」
「はは、よせやい」
「驚かすことが趣味だと思っていたが、まさか冷やかしが趣味だったとは」
 不機嫌に低くなった長谷部の声に、少しだけ繋いでいた手に力を込める。鶴丸相手にそのような反応をしても面白がられるだけだろう。それに手を繋ぐなんて誰でもやるもんだ、そうそう過敏にならなくてもいいだろうに。
「俺は驚きを何よりも求める。それに賤しき冷えより甘き熱の方がいいものだと知ってるつもりだ」
「何が言いたい」
「さっきのは世間話みたいなものだってことさ、悪意はない」
「悪意のない悪はより質が悪い」
「なあ長谷部、話しているところ悪いがそろそろ顔を洗いたいんだがね。折角早く来たというのに時間がなくなっちまう」
 時間を費やす心配をしていたのは本当だが、このまま会話を続けて長谷部が不機嫌になるのは勘弁である。ぐいぐい手を引けば、長谷部は「急かすな」と一言、洗面所へと案内してくれた。
 右隣に長谷部が並び、左には真っ白な鶴丸が並ぶのが横目に見える。
 手拭いが邪魔にならないよう首に巻くと、顔を洗い始める。その間、横からじっとりとした視線を感じる。その視線は鶴丸のもので、つい俺は顔を洗う手を止めて視線だけを横へと向ける。
「やあ日本号、御姫様とはなかなか良好なようだが進展はあったのかい」
「おひいさまぁ?」
「藤の君は存じない?」
「藤の…………、……あんたは鶴にしては鳴き声が慎ましいと思っていたが、やはり鶴は鶴だな」
 藤の君で連想する奴を俺は一口しか知らない。どうやら、御姫様とは俺の隣で黙々と顔を洗う美丈夫を言ってるらしい。おひいさんなんぞ呼ばれている当事者が気付いていないだけ幸い(あいつは姫という可愛らしいものでもないから当たり前)だが、ちょいとばかり余計な言葉が多いのは困ったものだ。
「鶴というものは好奇心旺盛なんだ。そしてその好奇心は本能という無邪気なもの故、先程言った通り悪意はない」
「好奇心を満たしたいだけなのはわかったが残念だったな。あいつとは可もなく不可もなく、進展という進展もないぜ」
「不可がないのは良いことだ。それに、まったく進展がないというわけもないだろう?」
「まあ……話す機会は断然増えたから、そいつを進展と捉えるならそれくらいかねぇ」
「へえ?」
 だが、会話が増えたのは同室だから自然な流れだ。これを進展というには少々違う気がする。だが、鶴丸はこの返答で満足したのか、それ以上の言葉はなかったので洗顔を再開する。朝方の水は冷たく、肌が引き締まるようだ。
 それにしても、進展ねえ?
 良い進展ならばあった方が良いと思うが、これまで望んだことはなかった。きっと今後も望むものとは思えない。
 それに、第三者から良好と思われているくらいならばそれで良いじゃないか。
 そんなことを考えながら一通り整容を終えて、鶴丸と別れると再び長谷部に手を引かれて部屋へ戻る。遠くでぱたぱたと忙しない足音が聴こえ、間もなく賑わう洗面所の様子が浮かぶ。
「ところで日本号」
「なんだい」
「先程の……鶴丸と話していた、御姫様とは誰のことだ」
 世間話なのか、歩む足並みが緩むことはない。
 女人のいないこの本丸で「御姫様」はまず聞かないだろう。そこでたまたま聞いてしまえば多少にも興味が湧くというものか。
「おひいさん、ねえ……」
 ただ、ここで「おひいさんとはお前さんだよ」なんて素直に答えるほどの度胸はない。言っておくが別に長谷部に怒られるのが嫌だとかではない。寧ろ怒られる方がいいくらいで、最悪引かれてしまいかねないからな……こうして悩むくらいならば、察しても惚けていれば良かった。
 こうなるとどう返そうか。
 うんうん唸りそうなくらい悩んでいると、長谷部の歩みが急にぴたりと止まった。まさか止まるとは思わなかった俺は、勢い余って長谷部に寄りかかってしまう。
「……話は変わるが、今夜功労会が催されるのは聞いているか」
「功労会?」
 突然の新たな話題に間抜けにも聞き返せば、再び長谷部の歩みが始まる。
「その様子だと初耳のようだな。先の大阪城で多くの刀剣男士が活躍したと主が企画してくれたのだ」
 俺がなかなか答えないから話題を変えたのだろうか。そいつは大いに助かるが少し拍子抜けでもある。だが、あのままだと気まずくなるだけだろうし、ありがたいと思っておこう。
「確か大阪城は余すところなく出陣したんだったか」
「ああ。功労会について各部隊長には事前に知らせてあるが、お前も遅くならないよう努めるように」
「遅れなきゃ帰りに酒買ってもいいか?」
「それは部隊長に相談するんだな」
 すらりと返る言葉に歩みが止まりそうになる。
 任務帰りに寄り道するな。怠惰極まりない。くらいは絶対言われると思ったんだがなあ……こうなると要相談だが酒を買いに寄り道していいということだよな。
 これはまたしても拍子抜けだ。
 さっきから何かおかしいな。何がどうおかしいかといわれたら、はっきり答えられない部分があるが、少なくとも帰りに酒を買うことを渋る筈だ。妥協したところで本丸に戻ってから買いに行くよう、普段なら言うだろう。
 それでも覚える違和感はこちらに都合が良いものばかりで、俺は違和感を払拭するために帰りにどのような酒を買おうか考えることにした。

 我が本丸に所在する刀剣男士の数は五十弱。ようやく中堅になった程のあまり大きくない本丸だが、それでも勢揃いした時の騒がしさはなかなかのものである。
 主が催す功労会、欠席する刀剣は一振りも居らず、会場は冬の時期だというのに熱気に溢れている。
「あなた、珍しく飲んでいるんですか」
「あるじが、今夜は際限なくのめと、いっていたからな」
 そう言って麦酒の入ったコップを呷ると、向かいに座る宗三が気怠そうに頬杖をついた。
「無礼講に代わる文句ですよ。それに際限なくとは言いましたが、限界越えてまで飲め、という主命ではないですから」
「ほう?」
 相槌を打つように首を傾げれば、宗三はこれみよがしに大きな溜め息をついて俺のコップを取り上げる。
「なにを、」
「長谷部、まともに食べない内に麦酒ばかり飲んでいるの、わかっててやってますか」
「そうだったか?」
「そうでしたよ。酒に弱くはないくせ、飲み方を知らないのだから。まったく、呑み取り槍の日本号と同室になったというのに……」
「べつに、あいつと一緒だからなんだというんだ」
 日本号と同室になって、そろそろ一週間。共に過ごす時間が増え初めて知ることはそれなりにあったが、まだまだ知らないことの方が多い気がする。
「まださかづきすら、交えてない」
 取られたコップは諦めて、宗三が空けていたコップを奪って麦酒を注ぐ。勢い良く泡まみれになった麦酒が溢れそうになったので、思わず口付けて泡を吸っては、そのまま半分以上飲み下した。
「ちょっと、自分のが使えないからって何してるんですか」
「のみたいんだ。いいじゃないか」
「良くないですよ……ああ、誰か。誰か長谷部に追い水をやってくれませんかぁ?」
 追い水? まだそんなものを飲むような時間ではないだろう。そんな思いで少し離れた席に視線を移せば、蜻蛉切と御手杵に挟まれて座る日本号の姿がある。その顔は遠目で見ても和やかで、この宴会の席を楽しんでいるのが知れた。
 仲の良い二槍と一緒に何を話しているのか、ここからでは会話は一切聞こえない。しかしきっと、あの二槍にならば俺には明かせなかった「御姫様」の話もしているのかもしれない。
 同室になって物理的にだけでなく、精神的にも距離が縮まったかもしれないと少しばかり思っていたのだが、そう上手くはいかない。たかが一週間そこらで何が変わろうかと問われたらそれまでだが、朝の挨拶を交わすばかりの鶴丸よりも親しくありたいと思ってしまう。
 これは良くない。明るみに晒せない仄暗い感情だ。
 景気付けにコップに残る麦酒を飲み干すと、腹の中からちゃぽりと何かが波打つ音がした、気がした。
「…………っ」
 まだあまり食べていないのに、苦しいくらい腹が満たされている。俺の体はどうにかなってしまったのか、一瞬だけそんな心配が過ぎったが、麦酒の炭酸が腹を膨らましているだけだと気付いて安堵する。
 すると横からぬっと、厚と博多の顔が出てくる。
「あつし?それに、はかた?」
「おいおい長谷部、まだ一時間も経ってないのに顔真っ赤だぞ」
「こんな早うから酔うとう珍しかね、水持ってきたけど飲めると?」
 言いながらなみなみと水が入ったコップを出されたが、あまりの満腹感に首を横に振る。
「じゃあいけるようなったら飲んでくれん」
「ああ、」
「もしかして、具合悪いか?」
 厚の問いに、また首を横に振る。いくら酒を飲んで酔っ払おうとも、眠くはなっても体調不良にはなったことはない。今も体調不良の気配はなく、溜め息を誘う浮遊感しかない。
「ふぁ、」
 溜め息ではなく欠伸が出て、微かに覚えた倦怠感に腕を伸ばす。
 もしかして、俺は眠いのか? そう思うと途端に倦怠感が眠気に変わり、俺は抗うことなく瞼を閉じた。

 暗い縁側。先行して歩くのは厚と博多で、暗がりでも目立つ博多の銀杏色の頭髪を頼りに歩みを進める。そんな俺の背中にはぐったりと眠りこける長谷部がいて、酔っ払い特有の熱を放つ。
「俺はこいつが飲むのを初めて見たが、いつもこんな風に酔い潰れてんのかい」
「いつもはそうでもなかけど、たまーにあるばい」
「別に酒が弱いわけじゃないし、ほんとたまにだよな。」
「たまにねぇ……そのたまにが今日だったのか」
「そういうこと」
 過去の持ち主の影響を受け易い俺たち。そして背中の奴は織田や黒田と渡った御刀、話で聞く通りに酒に弱くはない筈だ。それがこうして潰れているのだから、具合を意識せずにひたすら酒を飲み下したのだろう。
 酒は美味いものと思って飲む性分としては、あまりいただけない飲み方である。これは直々に俺が飲み方を教えなければ。
 今日はお気に入りの一本を買ってきたし、あれを開けて教え……
「そうだ、申し訳ねぇが俺の酒を宴会場から持ってきてくれないか。長谷部ばかり気にして忘れちまった」
「博多は長谷部の水持ってるから俺が持ってこようか。酒って日本号が座っていた近くにあるのか?」
「おうよ。どれかわかんなきゃあ蜻蛉切に聞いてくれ。あいつには教えたからわかる筈だ」
「了解。そのまま持ってきていいのか? 希望あればお燗したりするぜ」
「今日買ったのは自室でも飲めるよう涼冷えが一番美味いやつだ。そのままで頼む」
「あいよ」
 暗がりで、風のように何かが横切る。それは厚なのだと気付くが先か、博多に服を引かれて進行を促される。
「博多は、こいつがこんな風に飲むことがある理由、わかるのか?」
「わかっとうなら防ぎようあるけど、ようわからんばい」
「ふうん」
 ではその時にならなければわからないわけか。それはそれで面倒だな。
 そのような会話をしている内に足早に厚が戻ってきて、酒を持ってきてくれた礼もそこそこに部屋へと到着した。
 未だ寝ている長谷部は部屋の隅へ横たえて、二口に手伝ってもらいながら布団を用意する。彼等に感謝しつつ、こういう時ばかりは視力がもう少し良ければ、と考えてならない。
 俺がこうして長谷部を運んでこれたのは、厚と博多が俺を呼んでここまで案内してくれたからだ。きっと、自力では長谷部が酔い潰れていることさえ暫く気付かなかっただろう。
 それは同室の者として些か格好がつかない。別に格好つけたいわけでは断じてないのだが、長谷部が加減せず酒を呷っていた時に、俺は呑気にしていたのだと考えると渋い顔になるしかないし、これはあまりに格好が悪い。
「布団は敷いた。水はある。ほかに何かあるか?」
「俺の酒もあるし、ないと思うが……まあ、何かあればえっちらおっちら宴会場へ行くよ」
「この時間なら粟田口の部屋にも何口かいるばい。宴会場までの道程がわからなかってん、そっち行けばよか」
「あんがとよ、今夜は助かった」
「黒田の誼み、良いってことよ!」
 溌剌とした厚の言葉に、思わず笑みが浮かんでしまう。この二口ならば黒田の縁など関係なく手を貸してくれそうなのに、そのように言ってくれることを喜ばずにいられない。
「じゃあ長谷部を頼むばい」
「任せときな」
 軽快な足音が遠ざかってゆく。それを聴きながら俺は、静かに眠り続ける長谷部を抱えて布団へ移動させる。移動の最中も長谷部は小さく唸るくらいで、布団に横たわると気持ち良さそうに手足を伸ばした。
 その無防備な様に、普段の長谷部の影はない。
「あんたはなかなか下手な酔い方をしてくれるな」
 酒は飲んでも飲まれるな。圧し切りと呼ばれた御刀が酒に酔うとこうなるとはねえ……まあ、自身がこうだから、俺が出先で酒を飲むとつい口煩くなるのかもしれない。
 具合はいかがかと、顔を寄せて前髪を掻き上げる。顔はいかにも酔っ払っているとわかる赤さがあって、安堵の溜め息が出た。肌が赤いのなら長谷部の体は酒気を抜こうと努めている証拠だ。そこそこ酔いが覚めてくれば、体が水を求めて自然と目覚めるだろう。
 それにしても、何度見ても小さな顔だな。俺の両の手で覆えそうな程だ。身長は頭一つ分しか違わないというのに不思議なものだ。
 それでも、この御刀を「おひいさん」と呼ぶのはどうかと改めて朝の会話を振り返る。無防備な側面を見せたり、不思議に小さな顔を持っていても、御姫様なんて性分に収まる刀ではない。やはり、鶴丸の言葉に乗らなければ良かった。
 支えてゆきたいとは、思うんだがね。
 御姫様ではないが、その存在をひたすら大事に支えてゆきたいと思わせる刀だ。良くも悪くも全力の御刀、いくら敵を打ち負かす刀だとはいえ、勢い余っていつか折れそうな危うさがある。だからいつだって槍の俺が敵の脚を薙払ってやるから、お前さんは柔い首ばかり狙えばいいと願う。
「んん、」
「お。長谷部、起きたか」
「…………日本号?」
 間近で開いた長谷部の瞳が俺を捉える。その眼差しは酔いでぼんやりと蕩けていて、まだはっきり覚醒していないのが知れた。
「まぶしい、電気けしてくれ」
「ああ、今消すから暫し辛抱してくれ」
 手探りで室内灯を消すと、室内が真っ暗になって長谷部を見失ってしまう。そのことに気付いたのは消してからで、せめて文机の灯りをつけてから室内灯を消すべきだったと後悔する。ひと手間増えたと再度室内灯を点けようとすると、長谷部が俺の名前を呼んだ。
「日本号、きこえてるか。日本号」
「応よ。どうした、水でも飲むかい」
「水じゃない、おまえだ。まっくらだと、みえないだろ」
 激しく布団を叩く音がする。どうやら長谷部が俺を誘導してくれているらしい。酔いが覚めている様子はなかったが、こちらを気にする程度の余裕はあるのか。
「日本号。日本号、はやくこい。日本号」
「急かして転んだら、近くで寝てるお前さんも巻き込まれるぜ。今行くから待ってくれないか」
 電気は……まあ、大体の場所はわかるし、床に手をついて進めば問題ないか。
 そう考えていると空気が揺れた気配がして、それが何か把握する間もなく背中を強く引かれてひっくり返りそうになる。
「……おい、長谷部ぇ? 転んだら巻き込まれるなんて話をしたばかりだよなぁ?」
「布団まであんないしよう」
「はあ」
 そいつは助かるが、酔っ払い特有の力加減の無さはかなり危ないんだがね。頭からひっくり返るところだったぞ。
 まともな部分とそうではない部分の差が激しく、厄介な気が長谷部から漂い始める。とりあえずゆっくりじっくり誘導するよう、繰り返し頼みながら移動してゆっくりと床に就く。すると隣でばったんと激しく音を立てながら長谷部が横になるので、己が把握する以上に酔いが酷いことを再確認してしまった。
 見えなかったがこいつこそ転んでないよな。今のこいつなら有り得そうだと心配の念が芽生えて、長谷部の寝ている方へ手を伸ばす。すると長谷部の方から掛布団ごと体を押し付けてきた。
 酔っ払いの相手は面倒だな。と僅かに思っていたというのに、狡いものだ。
「おまえはぁ……床につくといっそうやさしい顔をする」
「布団の中でなんだって顔を顰める必要があるんだい」
「そうではなくて。そうではなくてな、ほんとうに、やさしい顔をする」
 そいつはお前さんのことじゃないのか。酔っているせいか、随分優しい声音で長谷部がそう言う。それがなんだかしみじみ言っているようにも聞こえて気恥ずかしさを覚えてしまう。
 つい布団に顔を沈めれば、長谷部が声を上げて笑った。
「この酔っ払いが……近い内に酒の飲み方ってもんを教えてやる」
「ほーう?そいつはたのしみだ」
 本心なのか、声からも明らかにわかる好奇心の傾きに少しだけ布団から顔を出す。
「なら、明日から早速教えてやろうじゃあないか。言っとくが俺は厳しいぜ」
「ふん、のぞむところだ」
 ふてぶてしい言い様と共にもぞもぞと布団の塊が動く。なんだ、まさか布団の中でふんぞり返ってやしないよな。酔っ払いでもそんなことされたら笑うしかないだろう。
「なら、夜は絶対に空けとけよ」
「もちろん」
「潔い返事、見事だ」
 どうやらまだ終わっていない書類仕事は念頭にないようだ。こちらとしては好都合だが、主命さえも酒に飲まれたか。
 これは冗談抜きで酒の飲み方を覚えないといつか後悔するぞ。
「さて、明日からの予定が決まったんだ。今夜はもう寝ようか」
「はやくないか」
「早くはねぇな。多分寝るにはいい時間だ。それにあんた眠いだろう?寝ちまえ」
 いつもの就寝時間を考えれば大分早い時間には違いない。だが、そんなこと言わなければきっとこの酔っ払いにはわからないのだ。それに、たまに早寝するくらいがこいつには丁度良い。
「それなら寝ようか……」
 くぐもった声に長谷部が本格的に寝ようとしているのがわかり、俺も寝てしまおうと目を閉じる。
 正直なところ、飲み足りなくて堪らない。しかし明日は長谷部と飲めるのだと考えると宴会の賑わいは然程名残惜しいとは思えず、考えれば考えるほど明日への楽しみしか湧かなかった。

 ずきずき頭が痛む。外はまだ僅かに夜の色を残しており、きっと空を見上げたら明けの明星がはっきり見えるだろう。
 どうやら、酒に酔ってそのまま寝てしまったらしい。しかも普段着のまま寝たとは、主に知られたら失笑ものだ。なんたる失態……そこまで飲んでしまったのか。
 それにしても昨日何かとんでもないことがあったような気がして、痛みを誤魔化すよう米神を押さえる。酔っても記憶を無くすようなことは今までなかったというに、記憶が曖昧になるくらい飲んでしまったのか。こんなに二日酔いが酷いのはそのせいか。
「何が……」
 酒は弱くない俺は、記憶を失くす程の酔い方をしたことはない。寝起き間もなく、頭痛もあってなかなか思い出せないだけ。
 そう、一時的なもので、きっと覚えて、
「…………、」
 宴会場で、楽しげな日本号を遠目で眺めながら飲んだ麦酒の苦さが一気に蘇る。それに伴うよう、部屋に戻った時の記憶が雪崩のように溢れる。
 やはり記憶は無かったわけではなかったが、その記憶に、俺は頭痛を忘れる。
 大して好きでもない麦酒に、他の奴と和やかに酒を飲み交わす日本号。呆れる宗三、心配して介抱してくれた厚と博多。酔った俺を見つめる日本号の眼差し。そして勢いで交わしてしまった約束。
 二日酔いに加え血の気が引く錯覚がする。それを誤魔化すためか、意識せず視線が泳いでしまう。そして泳いだ先に眠る日本号の姿を捉えてしまい、引いたと思った血が上るようだった。
 目眩がしてきそうだ……いや、別に酒の飲み方を教えてもらうのが嫌なわけではない。それに、奴と酒を飲み交わす理由ができたのだ。だが、こちらにも自尊心というものがある。
 酔っていたとはいえ、もう少しおもに約束を取り付けられなかったのだろうか。日本号ははっきり言わなかったが、あれは酒の飲み方が下手くそだと思っての話の流れだ。普段からあいつの飲酒を咎めることの多い身としてはあまりに、あまりにお粗末な展開だ。
 仕切り直す? しかし残念かな、記憶する日本号は酔いの気配はまったくなかったので約束をしっかり覚えているだろう。勿論、酔っ払った俺の姿もよく、覚えているに違いない。
 その事実は鉄をも焦がすような羞恥心を与えてきて身悶えそうになる。なるほど、このように歴史修正が栄え……いや、過ぎたものは仕方がないのだ。仕方ない。
 そう思うのだが、堪らない羞恥心は暫く俺を身悶えさせては、辺りが明るくなるまで俺を苦しめるのであった。

◆◆◆

 俺は視力が良くない。最近じゃあそれなりに視覚に頼って行動することも増えてきたが、それでも並みの視力とはいえないらしい。
 そんな俺は普段、視覚を除く五感で周囲を把握するのが癖になっており、音を頼りに朝の身支度する同室の長谷部の傍へ寄る。
「昨日のこと、覚えているよな?」
 ぼやけた視界の中にいる長谷部が不自然に動きを止めたが、俺の問いに応えることはない。それは昨晩の記憶を思い返しているのかと暫し思ったが、そろそろとゆっくり静かに離れてゆく長谷部にしっかり記憶があることを知る。
 いくら俺の目が悪いといってもすぐ傍でそんな動きされたら気付くもんだ。すかさず肩を掴んで引き寄せれば、変な声を上げながら体勢を崩した長谷部の隙を狙ってその体を抱き込む。こうして捕まえておけば流石に逃げる気は失せるだろう。 少々強引なくらいがこいつと対抗できるものだ。
「なあ、覚えてんだろ?」
 聞き逃すなとばかりに耳元で囁けば、腕の中に収まっている長谷部が小さく震える。それは屈辱的な現状から来るものなのか、または昨夜のことを思い返して堪らないのか。できれば前者であればいいと思いつつ俺は言葉を続ける。
「昨日、俺が酒の飲み方を教えると言ったのを、あんたは覚えているはずだ……まさか、あれだけ快く返事をしておいて忘れたというのはないだろう」
 抱き込んだ腕に力を入れて顔を覗き込む。そうして無言で押し通すことはさせないとばかりに藤色の目を見つめれば、みるみる内に長谷部の顔が赤く染まった。
 怒りは冷静さを削ぐのが難点だが、手っ取り早く関心を向けさせるのにはうってつけだ。そして煽られやすい長谷部なら尚更で……しかし、見える表情に怒りの片鱗はなく、微かに感じた戸惑いに腕の力を少し緩める。
「……忘れてはいないし、約束は守るが……その、まず、腕を解いてくれないか」
「さっきみたいに離れられて距離を置かれたらかなわねえ」
 しっかり話す姿勢で臨んでくれたら解放してやる。そう言う代わりに腕の力を強める。
「……っ、覚えていたらなんだ。俺の失態を笑うつもりか」
「そんな悪趣味なことはしない。ただ、覚えてんなら、今日はいい所で業務切り上げて早く部屋へ帰ってきてほしいと思ってな」
「何故だ?」
「何故って、酒飲むんだろう? そうなると肴くらいなけりゃあ下手すると昨日みたいなことになるぞ」
 思い当たる節があるのか、微かに長谷部が息を呑む気配がする。功労会で長谷部と一緒に飲んでいた宗三の証言では、空きっ腹の内に飲み過ぎたのが酔いの一因だという。それを長谷部もしっかりわかっているのか、反論する様子は全くない。
「それに、食えりゃあなんだっていいわけじゃないだろう。一緒に万事屋行って、あんたの好きそうなつまみ買おうぜ」
 不味いものを用意するつもりはないが、飲みのお供にするなら好きなものを揃えた方が良い。慣れない内は尚更であり、酒を飲むというのはつまみ選びから始まるということも教えなければ。
「一緒に。とは、貴様と二口でか?」
「まあ、誰も誘ってねえからそうだな」
「二口で……」
 言葉尻小さく呟いた長谷部の様子に、何か引っ掛かりがあったかと思わず首を傾げる。二振りだけでは気まずいと思ったかと一瞬考えたが、同室になって数日経ったのだからそれはないと考え直す。ただ、どういった理由であれ俺と二口で万屋行くのに乗り気ではない様子は、見ていてあまり良い気はしない。
「俺と二口だけは、駄目か?」
 窺うよう控えめに問えば慌てたように激しく首を横に振った。その様はとても必死そうで呆気に取られていると、隙をついたとばかりに長谷部が俺の腕からするりと抜けていった。
 腕の中に仄かに残る藤の香りの憎らしいこと、ついつい顔を顰めてしまうと袖口を引っ張られた。
「別に、駄目とか、嫌ではないんだ。嫌ではないんだ」
 その表情はぼんやりして見えないが、俺に訴える声音が長谷部の心情を伝えてくる。
「……嘘とは思ってないさ。あんたがそんな下手な嘘をつかねえだろ」
 下手な嘘をつくとは思ってないが、嘘が下手とは思っているけどな。俺と二口が嫌ではないのは本当だろうが、何か俺に明かせないことがあるように思えてならない振る舞い。
 だが、そこで思うまま疑問を吹っ掛けて、約束がなくなるのは避けたい。
「嫌じゃねえなら、できるだけ早く部屋に帰ってこいよ」
「善処しよう」
「善処と言わず、必ず来るくらいの気持ちでいてほしいもんだがねえ」
「……約束は守る性分だ」
 しっかりした物言いに、ぼんやりとしか見えない長谷部に向かって手を伸ばす。そうして指先が柔らかな毛髪を捉えると、手探りで彼の輪郭を撫でた。言われるがままに応えるのではなく臍曲がりな言葉選びはいっそ微笑ましい。そのような気持ちでつい手が出てしまったのだが、長谷部はこれを気に入らなかったかのようにそろそろと手から離れていく。そんな反応もまた微笑ましくてとうとう笑ってしまえば、無言で足蹴をされた。
 一切容赦のない一撃に俺はひっくり返りそうになって身を屈めていると、視界の端に紫色がはためくのが見える。
 長谷部の可愛げなさが一周も二周もまわりにまわり、微笑ましさの中に言い様のない気持ちを覚えている内に軽快な足音が遠のくのが聴こえた。どうやら足音の主は長谷部のようで、足音が随分遠くなる頃には周囲から一切の気配がなくなった。
 もう足音はなく、遠くで誰の笑い声が聞こえる。自分と無縁の喧騒がなんだか滑稽に思えて、誰が見ているでもないのに口元を手で押さえては自分と長谷部の予定を思い返す。
 今日の俺は一日畑当番で、長谷部は昼過ぎまで出陣である。お互い遠征もなく炊事当番でもないので夕時は暇だ。長谷部が他の用事を入れなければ夕餉前に外出は可能であろう。
 それに、あいつも約束は守ると言ったからな。何かあっても上手い具合に都合つけて戻ってくる筈だ。
 それならば俺は仕事をこなしつつ長谷部が何を買うのか予想してみようかね。思えばあいつの好きなものを何も知らないからな。
 一体何が好きなのやら。あまり選り好みはしている様子はないから嫌いなものはないだろうが、好物というものはあるのだろうか。刀身に個性があるように、刀剣男士の食の好みもそれぞれ違う。口にしないだけで食の拘りがないかもしれない。そんな予感は少しの不安と、それと同じくらいの期待を呼び起こす。
 知らないことがあるのは不安を煽るが、これから知る機会があると分かれば楽しいものである。万屋に行ったらあいつは何を買うだろうか。そして酒の席でどんな話が聞けるのだろうか。
 考えるだけで気分の高揚を覚える。ただ、つまみの買い出しに行って酒を飲むだけだっていうのに。確かに楽しいものには違いないが、こんなに浮かれるものだろうか。
 ふと、そんな疑問を抱いたがそろそろ畑に行かなければならない時間帯だと気付き、俺は慌てて支度をし始めた。

「これから万屋? まあ、何もないからいいぜ」
「急な誘いで悪いな薬研」
 一回りも二回りも大きな槍が俺の背丈に合わせるよう身を屈める姿に、つい頭をぽんぽん撫でたい欲求が芽生える。それをそっと堪え、見下ろしてくる深紫の眼差しを見つめ返す。
「俺も買いたいものがあったからいいってことさ。それにしても、まさか日本号の旦那から誘われるとは思わなかった」
 日本号とはよく同じ部隊に組まれることが多い。だが、言い方を変えるとそれくらいしか接点がない存在だ。そんな日本号だが、仲が良くないかと問われればそんなことは全くなく、遠慮のない仲故のこの距離感であると俺は思っている。
「んー……やあ、誘ったのはちょいとこっちの事情があってな」
 真っすぐ向けられていた視線が逸らされ、明らかに言葉を続けるのを躊躇うように口元がすぼまった。位持ちであることをよく口にするだけあって、普段から大らかな彼にしては珍しい様子に思わず首を傾げてしまう。珍しいとは言ったが、記憶する限りでは初めて見る姿だ。
 そうさせているのは……彼の言った「こっちの事情」だろうか。
「俺は誘われただけ、そちらの事情は関係ないってことさ。そうだろう?」
「まあ、そういうものかねえ……なんか気ぃ遣わせてすまねえ」
「誰かを誘うというのはそういうもんだ。たまたま顔を合わせたから。なんて些細なことで誘うこともあれば、口に出すのも躊躇うような理由が潜んでいることもある」
 万屋へ誘う理由なんて高が知れているとは思いつつ、目の前の日本号は確かに難色を示しているのだ。もしかしたら俺が想像できないような底知れない理由があるのかもしれない。だがここで好奇心の赴くままに底を覗くのはあまりにお粗末というものだ。
 だから俺は日本号の誘いには乗るが、あれやこれと詮索するつもりはない。
「いやあ……そう言ってもらえるのは助かるが、別に大層な理由はないんだ。当初は長谷部と二口で万屋に行く予定だったんだが、あいつが俺だけだとあまり良い顔をしなくてな」
「長谷部?」
 長谷部といえば先日から日本号と同室になったよな。どういった経緯で同室になったかまでは知らないが、先週やけに乱が気にしていたのをよく覚えている。
 どうして乱が気にするのか。不思議に思ったのは暫しの間だけで、誰に追究せずとも同室になってからの長谷部の様子でどことなく察するところはあった。その様子の変化は乱が言うに色恋が絡むらしいが、そこのところは恋を語るより鎧を貫く方が容易いと思ってならない俺にはわからなかったものだ。
 だがきっと、長谷部が日本号と二口であることを気にかけるのは、彼等が同室になってから現れた変化と同様のものであるのはわかった。
 さて、恋路の邪魔をすれば馬に蹴られるなんて人間は言ったものだが、この場合はどうなのだろう。馬とはどうにも上手くやれない俺なら比喩でもなんでもなく言葉のまま蹴られそうではある。だが、俺は同行するだけ下手に口出ししなければ邪魔にはならないよな?万屋で恋路が発展するとはどんなに疎い俺も思わないぞ。
 ならば長谷部がいることを知ったところで断ることもない。そう判断した俺は日本号と言葉を交わしながら、呑気に万屋で何を買おうか考えるのであった。

 いくら同室になったところで、日本号と二口で出掛ける。という事実は俺にとってそれなりに難関だったりする。それは何故か。そう問われれば具体的な答えは延べられないが、彼と俺だけで出掛ける場面を想像するだけで緊張を覚えるのだ。だから俺なりに覚悟して部屋で待っていたのだが……現れた日本号の隣には薬研が立っていた。
 俺の記憶が確かならば、日本号は誰も誘ってないと言っていた筈だが……薬研はあいつと同じ部隊に組まれていたから出陣先で誘ったのか? こちらは覚悟したというのに、同行者がいるとは……。
 予想しなかった同行者に拍子抜けした気持ちでいると、薬研が何か言いたげに笑ったので背筋を伸ばした。いかんいかん、視力の影響でこちらの様子がよくわからない日本号と違って、薬研には俺の様子がしっかり見えているのだ。心情のままに振る舞ってはいけない。
「まさか先に部屋にいるとは、流石約束は守ると言っただけはあるな」
「約束は守るもの、当たり前だ……それにしても、今朝は貴様だけだと言っていたが薬研も一緒なのか」
 捉えようによっては嫌味にも思える言い回しに薬研は相変わらず笑っている。背丈こそ可愛い大きさだがその内にある肝っ玉は可愛げの欠片もないものだ、俺の一言で表情を曇らせることはない。
 もしかしたら、朝の俺の様子から薬研が同行する流れになったのだろうか。朝の俺は確かに些か宜しくない振る舞いをしたが、ああも無遠慮に距離を詰められたらあのような反応をしてしまうのは仕方がないと弁解したいところだ。
「日本号の旦那が万屋に買い出しに行くと聞いてな。俺も丁度買いたいものがあったから同行を希望したんだ」
 片目を瞑って日本号を見上げる薬研に、それに気付いていない様子の日本号が僅かに眉間に皺を寄せる。どうやら予想した通り、日本号が薬研を誘ったようだ。
「それはまた都合の良い偶然だな」
「ああ、まったくだ。ははは……まあ、世間話もそこそこに早いところ万屋に行かないか。夕餉の時間には戻らないといけないだろう?」
「まあ……ああ、そうだな。遅くならない内に行かねえとな」
 薬研の催促に露骨に安堵する日本号に、俺は内心舌打ちしたい気分になってくる。こちらの覚悟を無駄にするような展開には気分を害したが、だからといって彼の気分まで悪くするつもりはなかった。憂さ晴らしに少しだけ嫌味を言えば良かっただけなのに。
 だが、そんなことは意気地のない言い訳にしかならない。それは微妙な空気が感じられる現状で嫌でも分かり、俺はこれ以上空気が澱むのを避けたく閉口した。
 そんな俺の手に、薬研が飛びつくようにくっついてきた。
「なんだ薬研」
 これが他の粟田口の短刀なら気にも留めないが、前述したようにこいつは可愛いのは見た目だけだ。少なくとも、そこそこ長い付き合いの中でこいつがこんなことをした覚えはまったくない。
「第三者からすると、俺たちはまったく接点のない三人組にしか見えない。そうなると長谷部や日本号、あんたらが怪しまれる可能性が出てくる。だが、こうして手を繋いでいれば容姿は似ても似つかないが、兄弟のように見えるだろう?」
 ぴったりと俺の手に引っ付いた姿はきっと可愛いものなのだろう。だが、どう見ても俺にはらしくないことをしている短刀の姿にしか見えない。
「ほら、日本号も手を貸してくれ。あんたは長谷部以上に怪しまれる可能性が高いからな」
「……この三口の中じゃあ、俺が一番若手なんだがねえ」
「そんなことは人間にはわからないからなぁ」
「まあ……遠征で博多の父親と勘違いされたりするから、人間にはひと世代上くらいに見えるんだろうな」
 薬研に手を差し出す日本号の顔に苦笑が浮かぶ。それでも、先程より僅かに気まずさが紛れたようにも見えて、小さく安堵の溜め息をついた。
「そういうわけだから、一目見て仲が良いとわかるようにしないとな」
 そうして日本号の手を取ると、俺にしたのと同様に彼の大きな手にくっついた。日本号に寄り添う薬研は体格差もあってより小さく見える。それは先程可愛さの欠片も感じなかった薬研をどことなく愛らしいものに見せるので、思わず目を逸らしてしまった。

 訪れた万屋は視力の良くない俺もすぐわかる程に賑わっていた。これまで昼間しか来たことがなかったが、夕時はこんなに賑わうのか。そんな感想を覚えている間も近くを多くの人が行き交う気配がして、俺は用心するように薬研の手を強く握る。万屋はそんなに広い店ではないが、はぐれてしまうとそれなりに厄介だ。
「さて、日本号と長谷部はつまみ探しだったか。俺は文具を見てくるからそっちはそっちで店内回ってくれ」
 強く握った筈の小さな手が器用にすり抜け、視界の下に薬研の黒い頭髪がちらついた。そしてこちらが呼び止める間もなく、薬研の頭の天辺を見失ってしまった。
「……、」
 短刀は機動力が高いのが特徴だが、何もこんな場面で発揮しなくても良いじゃねえか。
 はぐれたらつまみを探すどころではないというのに。突然放り出された状況に緊張を覚えていると、左隣から誰かがぶつかってきた。
「おっと、」
 すまない。そう続く筈の謝罪の言葉は、左手を掴まれて出ることはなかった。そして賑わう中でも微かに鼻を掠めた藤の香りに、ぶつかってきたのが誰なのか気付く。
「貴様、何を呆けている。そう時間もないのだから早く済ませるぞ」
「……ういー」
 俺の肩口辺りから長谷部の藤色が見上げてくる。別にこいつの存在を忘れてはいなかったが、薬研を挟んで反対側にいた奴は遠くにいるものだと勝手に思っていた。予想だにしない近さに返事をひとつ固まっていると、掴まれていた手を引かれた。
「つまみ、本当に俺の好みで選んで良いのか」
「そりゃあ勿論。そして俺はそれに合わせた酒を選ぶ。それとも酒もお前が選ぶか?」
 酒の選び方には自信があるが、今回は長谷部に酒の飲み方を教えるのが主題だ。希望するものがあるならそれを優先するのがいい。
「酒はよくわからない、そちらに任せる」
「あいよ」
 酒は好かないわけではないようだが関心は薄いのだろうか。もしかして功労会で同じ麦酒ばかり飲んでいたのは飲みたいものが思いつかなかったとか、そのような理由なのだろうか。
 そうなると麦酒が好きで飲んでいたわけでもない可能性があるのか。
「お前さん、麦酒は好きか」
「麦酒? 別に……寧ろ麦の酒はあまり進んで飲まないな」
「へえ? 麦の酒というと麦酒に限らず焼酎もか?」
「ああ。焼酎は麦に限らずどうにも巡り合わせが悪いのか旨いと思えるものと出会ったことがない」
「まあ、焼酎は飲み手を選ぶからなあ……」
 焼酎も旨いには旨いが好みが出てくるからな。種類が豊富だが、旨いと思えるものが出てくるまで開拓が難しい酒だろう。
 焼酎はあまり得意ではないと……これは酒を選ぶにあたって参考になりそうだ。少なくともこの情報で今回は麦酒と焼酎は選択から外すことができる。まだまだ選択肢は多いが、除外される部分もそこそこ多いのは助かる。
「それで、お前さまは何を選ぶんだい」
 返事を促すよう握る長谷部の手を指を絡めるように握り返すと、びくりと隣の長谷部が震えた。
 俺は手を握り返しただけだが、そんな驚くことか? 手を握ってきたのは長谷部の方だし、握り返されるくらいは想定の内だろう。それでも、長谷部の反応がどうにも気になってしまった俺は彼の顔を覗き込む。
「長谷部? ……何買うか決めてるか?」
 俺が見つめているのに気付いていないのか、彼がこちらを見つめ返すことはない。そんな様子に、先程の長谷部の反応が自分の勘違いであったのではないかと思ってしまう。
「当然だ。買うものは朝の段階で決めたからな」
 長谷部の声が小さくなったような気がしたと思えば、握っていた手の力が一気に強まった。それはあまりに容赦なくて痛いくらいだ。その行動の脈絡のなさにほんの少し引っ掛かりを覚えて、握られている手を軽く引っ張る。
「なんだ」
 即座に返事するのはいつもの彼らしいが、隣にいるのは引っ掛かりを覚えるいつもと様子が違う長谷部だ。違うならばどこまでも違っていれば疑念が膨れることはなかったが、いつもの彼といつもと違う彼が同居する様はいっそ奇妙さを際立たせる。
「いやな。朝の段階で即決したとは、一体何を買うのかと思って」
 だが、ここで思うがままに言ってしまえば、長谷部は完全に「いつものへし切り長谷部」に徹するだろう。そうなればいよいよ引っ掛かりの糸口を見失いかねないので、代わりに他愛ない話を切り出す。
「そう大層なものではない、鯖の味噌煮缶だ」
「へえ。それはまた定番のところを選んだな」
「朝餉に鯖の味噌煮が出た日があっただろう」
「ああ、いつだったかまで思い出せねえがあったな。あの味噌煮は濃いめの味付けでなかなか良かったが……もしかして、あれで一杯やれたら、なんて考えての選択か」
「ああ。つまみには詳しくない俺でもあれは合うと思ったんだ」
 あれは白米でも酒でもどちらでもいける甘辛い味だったな。俺も肴にしたら旨いだろうと考えている内に平らげてしまったものだった。
 それにしても鯖の味噌煮か。これに合う酒を考えるとつい先程選択肢から除外した焼酎が結構いけるんだよな、熱々の味噌煮に氷だけ入れた焼酎という組み合わせなんて、想像しただけで垂涎ものだ。
 鯖となるとどうしても臭いというものが気になる。魚らしい匂いと捉えれば食欲をそそるものだが、これが合わないものにはとことん合わない。そのため、過去には鯖専用の日本酒が製造されたものだった。その日本酒は鯖に合わせることに特化した一品、いくら品揃え豊富な万屋と言えども売ってはいないだろう。あったら既に俺が購入している。
 ああ、でもそのような酒が出ているなら、日本酒は合うんだよな。
 あの朝味わった味噌煮を思い出しては、これまで飲んできた日本酒を想像の中で掛け合わせる。臭いだけでなく脂もそれなりの味噌煮、それに負けない程度に飲み応えがあるものがいいな。それならまろやかな甘口よりは辛口の方がいいか。しかし焼酎が然程得意ではない長谷部の味覚を考えれば辛口でもあまりくどくないものがいいよな。それでがつんと冷……もいいが人肌燗くらいで飲むのも良さそうだ。いっそ冷でも燗でも飲めるものを選ぼうか? その方が楽しみも増えるし良いかもしれない。
 ごとごとと近くで何か固いものが動く音に、思考に没頭しかけていたことに気付く。
「日本号、お前は何かつまみに買いたいものはあるか」
「お前さんの味噌煮を少し分けてくれたらそれでいい」
「それはいいが……他にないのか?」
「夕餉後の晩酌だ、そうそう食えねえ」
「それもそうだな」
「じゃあ次は酒だ。日本酒の棚に行ってくれないか」
 目を凝らして確認しながらゆっくり進行すれば俺だけでも目的の棚に行けるが、長谷部がいるのだから遠慮なく頼って良いだろう。案内頼むとばかりに未だ強く握られている手を軽く引く。大きくもなく小さくもない、収まりの良い手は僅かに力を緩めるとある方向へと俺の手を引いて誘導を始める。
「……貴様はなにかにつけて日本酒だな。他には飲まないのか」
「確かに日本酒は好きでよく飲むかもしれねえが、不味いもん以外ならなんでも飲むぜ。今は落ち着いたが、一時期日本酒より洋物の蒸留酒やら葡萄酒飲んでいたこともあったもんだ」
 あれはあれで美味しかったものだ。ただ、多少に新しいもの故に惹かれていた節があり、今はまた日本酒に落ち着いている。
「ぐい呑みで酒を飲んでいる姿ばかり見ているせいか、葡萄酒を飲んでいるなんて想像すらできないな」
「まあ、葡萄酒は脚の長い洋盃で飲むのが鉄板だしな。それでも俺はぐい呑みで飲んでいたもんだ」
「なんだそれは、拘りか?」
「いんや。拘りでもなんでもなく、洋盃を持ってなかっただけだ」
「貴様は拘りを見せながらもどこかいい加減だな」
「拘りはあるが堅苦しいのは嫌なもんでね」
 そんなやり取りをしていると、手を引いていた長谷部の歩みが止まる。
「日本酒の棚に着いたぞ。」
「ありがとよ……それで、案内ついでにお目当ての酒を探してくれると助かる」
 自分で探そうと思えばできるが、一本一本手に取って名前を確認しなければならないから場合によっては非常に時間が掛かってしまう。時間が許されるならそれでも良いのだが、今回はできるだけ早く帰った方が良い。そうなると長谷部に頼り切ってしまうのが得策である。その考えは長谷部も同様だったのか、嫌がることは全くなく「どんな名前だ。」と一言返すだけだ。
「女の浮世絵が目印の『くどき上手』というやつだ」
「なんだその浮かれた名前の酒は」
「酒の名前はちょいとばかり浮かれたくらいが丁度いいってもんだ。山形出身の別嬪さんで、意中の相手にゃあこいつを盃に口説けば良いと言われる一品さ」
 辛口でそこそこ度数もあるのに飲みやすい、一口で多くの者を口説き落とす酒だ。それでいて辛口特有のコクも損なわれていないので、海産物との相性も良い。酒を飲み始めたばかりの者にとっては多少冒険するかもしれないが、飲み方が下手なだけである程度飲んでいる長谷部ならいけるだろう。
 我ながらこの短時間で良いものを思いついたと感心していたが、突然隣からがたがたと何かが落ちる音が聞こえて意識がそちらに持っていかれる。それは一体何の音だったのか、気にすると同時に長谷部が俺の手を引いた。
「意中の相手。とは、なんだ」
「あ? この場合は……」
 なんでそんなことを尋ねるのか。今日は俺と長谷部だけで飲むから相手なんざ一択だとわかるだろう。
「そりゃあお前しかいないだろ長谷部。ご要望とあれば口説き上手の飲み応えの如く口説いてやろうか?」
 茶化すように長谷部の手を口元へ引き寄せると、その手の甲に軽く唇を押し付けた。すると長谷部が文字通り飛び上がり、ずっと握られていた手がするりと抜ける。その一連の出来事はあっという間で、呆然としている内に彼がゆっくり離れてゆく。
「おい、長谷部っ」
 ちょっとした冗談だというのに距離を置かなくても良いじゃねえか。それに店内に俺だけというのは困る。
 見失う前に慌てて長谷部の方へ手を伸ばして腕を掴むと、離れようとしていたその体を引き寄せる。引っ張られた長谷部がぼやけた視界の中でもわかるほど不本意そうに顔を歪ませているのが見えて、申し訳なさと共に少しばかりからかいたい気持ちが芽生える。だが、再び俺の手からすり抜けて見えないところまで離れられたらかなわないので、下手なことはせずに掴んでいた彼の腕に己の腕を組み合わせて拘束した。
「はなせ!」
「放したらどこか行っちまうだろ。調子に乗って口付けしたのが癪に障ったのなら謝るから、離れないでくれ」
「っ……癪に障ったとか、そのようなことはないのだが、その……」
「その?」
 続きを催促するが、長谷部はそれ以上何も言うことはなくだんまりとしている。その無言はどのような心情からくるものなのか、気になって顔を窺おうとしたが、俯いて髪の毛の合間から覗く耳や首元しか見えない。
 すぐ隣にいるのだから少し屈んで覗き込めば見えるか。
 背を丸めて顔を寄せようとすると、腰のあたりを引っ張られた。
「あまり戯れが過ぎると、見世物扱いされるぜ旦那方」
 誰と間違えることのない存在感ある薬研の声が背後から聴こえ、思わず組んでいた腕を離して放して振り返る。そこにはぼんやりと薬研の小さな顔が見える。
「戯れって……そんな風に見えるってか」
 こちらは長谷部が離れかけて焦っていたところなんだがね。実際遊び興じているように見えたにしても心外である。
「仲良く見えるようにとは言ったが、ちょっと待てと思う程度にはな……それより、買い物は済んだか」
「あ、」
「その反応だとまだみたいだな。まだ少し時間はあるが、早いところ買ってきた方がいいぜ」
「ういー」
 時間がないことを決して忘れていたわけではないんだがな、思っていたより時間を要していたようだ。残るは飲むもんだけだし、見つければあっという間か。
 再度長谷部に目的の物を探してもらうよう頼もうとすると、突然冷たくて硬いものを押し付けられる。それはよく見れば日本酒の瓶で、押し付けているのは長谷部だった。
「貴様が探していた『くどき文句』なら近くに置いてあったぞ」
 さっきまで俯いてたどたどしく話していたはずだったが淡々とした物言いは確かに長谷部もので、相変わらずの切り替えの早さに一瞬誰なのかわからなかった。まあ、先程の状態で話するのも居心地が悪いから良いのだが、こうも早いとこちらが追い付かないというものだ。
「……『くどき上手』な」
「そう。くどき上手ならここにある」
「ほんとかあ?」
 押し付けられていた瓶を受け取って確認すれば、くどき上手の最大の目印である女性の浮世絵が描かれていた。
「ここで別の酒を渡してどうなるというのだ」
「まあ、そうだがねえ、」
「いちゃいちゃしてないで早く買ったらどうだい旦那方」
 いちゃいちゃってなんだそりゃあ。思わずそう聞き返しそうになったが、長谷部に引っ張られてその言葉は出ることはなかった。

 夕餉を平らげた後、厨で食器を片付けながら湯を沸かす。缶詰の中身は常温でも美味しくいただけるよう作られているし、万屋で購入した味噌煮缶も同様のものである。だが、鯖の煮物なら温めて食べたいと日本号が洩らしていたので、缶詰を湯煎しようと今に至っている。
「缶のまま温めるのか、てっきり鍋に中身を開けて温めるもんかと思った」
「それでも良いが、湯煎だと鍋があまり汚れないから後片付けが楽だ」
「ほう」
 興味深く鍋の中を眺める日本号の様子は新鮮で、あちらが俺の視線に気付いていないことを良いことにじっくり眺める。どこから見ても貫禄ある男の顔は案外に表情豊かで、鍋を眺めている間も目を細めたり何か思案するように口先を尖らせたりしている。
「缶詰ならつまみによく食してそうだったが、意外にも湯煎はしなかったのか」
「そういうのは今まで蜻蛉切がやってくれていたからなあ。今の俺に火の扱いは時期尚早とかなんとか言って、厨には殆ど連れて行ってくれなかった」
「蜻蛉切がか。御手杵より放任気味にも見えたが、結構気にしているんだな」
「あいつも最初は極力自分のことは自分でやるように言っていたが、俺が爪切りで指の肉をひとつふたつばかり切ってからはそんな感じだな」
 初めての爪切りなんてそんなものだろうに心配性だよな。そう言って笑う日本号に、何か思うが先か彼の腕を引いて鍋から離す。
 刀剣男士は顕現して数日は人の身に慣れておらず失敗もそこそこする。だが爪切りとなると少々勝手が違うだろう。爪が伸びるのも時間を要する、切らなければならないほど伸びる頃には人の身にも慣れているだろう。だから爪切りに失敗したところで深爪してしまうくらいの筈だ。
 そこで視力が良くないこいつが指を切った(しかも話し振りからして一本指だけではない)となると心配性にもなる。俺も話を聞いて、うっかり鍋に近付きすぎて火傷するんじゃなかろうかと心配になった。
「なんだよ」
「……湯も煮え立った。缶を入れるから離れろ」
「そうか、そいつはすまねえ」
 まだしっかり煮え立ってはいないが缶詰を入れるには良い頃合いか。周りに湯が飛び散らないようにそっと缶を湯に投入して蓋を閉める。沸騰したら火を止めて、数分置けば十分に熱が通るよな。
 それにしても、缶詰を温めるだけでひやりとする事態になるとは……日本号を厨にあまり連れて行かなかった蜻蛉切も、爪切りの一件以外にも肝を冷やした場面があったのかもしれない。想像するだけで同情の念を抱いてならない。
「ところで、あの『くどき文句』は燗付けするのか」
「『くどき上手』な。味噌煮が温かいなら常温でいいからしなくていい」
 そいつは良かった。これで燗付けを頼まれたら厨での肝試しが延長になるところだ。
 ほっと一息ついていると鍋の中の湯が沸騰しているのに気付き慌てて火を止める。ここから数分だから……食器を用意し終えれば丁度いいくらいか。
「酒器は何を使う」
「部屋にあるもんを使う。あんたの分もあるからこっから持ってくもんは皿と箸くらいでいい」
 こいつと宗三が部屋交換しただけで歓迎会と飲み会を開いたくらいだ、些細なことを理由に誰とでも飲むから自分の者以外の酒器も揃えているのだろう。それを今夜、俺が使うことになるのか。
 日本号が持つ酒器は別に貴重なものではないし、使った者もそれなりにいるだろう。それでも、これから同じ卓を囲んでそれを使うのだと考えるとまだ酒を一滴も飲んでいないというのに顔が熱くなるようだった。

「あったあった。長谷部、これ食卓に置いてくれ」
「ああ」
 部屋に戻った日本号は手探りで己の所有物が収納されている戸棚を漁ると、お猪口をふたつ取り出して俺へ渡してきた。
「いつもはぐい呑みを使ってなかったか」
「俺だけで飲むならぐい呑みだが、誰かと飲むならお猪口だな。小さい器でちょこちょこ飲むのもいいもんだ…………お、余ってた南瓜の種の素焼きがあった。これも出そうか」
 種が入った袋を手に食卓の傍に座る。そんな彼の顔は既に上機嫌で、日本号に気付かれない程度に顔を背ける。
 そんなことをしなくても彼からこちらの表情がわからない程度に離れているというのに、気持ちがどうにも落ち着かなくて顔を隠したくなる。それでもこの状況は決して嫌なものではなく……的確な言葉が見つからないが、気恥ずかしい気持ちに少し似ている。
「長谷部、お酌するからお猪口をこちらへ差し出してくれないか」
「溢さないか?」
「これくらいはできるもんだ。爪切りより断然簡単だしな」
「まあ、それはそうだが……」
 少なくともお酌をしただけでは指を切ったりはしない。そういう意味では簡単で安全だろうが、厨でのことを思い出すと苦笑しか出ない。冗談にしては手放しで笑えないものがある。
 こいつは視力の悪さに反して警戒心が低いと思ってならない。戦の時はそんなことはまったくないというのに、普段のこいつは意味が分からない。そんなことを考えている内に差し出したお猪口には溢れそうで溢れない絶妙な量の日本酒が注がれていて、思わず「おお」と声を上げてしまう。すると日本号は得意そうに鼻を鳴らす。
「器用だな」
「だろ? 俺にもお酌してくれないか……一杯目はあんたから貰いたい」
 お猪口を手に少しだけこちらへ傾ける仕草は、特別なことをしているわけでもないのにやけに様になっている。それは酒飲みである彼だからこそなのか、そうであってほしいと頭の片隅で思いながらお猪口へ酒を注ぐ。
「さて、この素敵な夜に乾杯と行こうかね」
「なんだその文句は」
「なんだって旨い酒とつまみがあって、飲み相手にあんたがいる。素敵な夜だろ?」
 こいつと会話をしていて頭を抱えたくなったのは何度目だろう。実際に頭を抱えなかったのを切実に褒めてほしいくらいだ。なんだってこの槍はこうも安易に誑かしにくるのか。意識してやってないだけに世間話の最中で奇襲を掛けられた心境だ。夕の万屋での振る舞いなんて期待や喜びを圧倒的に凌駕するような驚きに襲われていたんだぞ。
 心底自身の容姿や能力を考えた振る舞いをしてほしい。
「何が気に入らねえかわらないが、こうしている内に折角温めた味噌煮が冷める。早いところ乾杯しようぜ。」
「まあ、そうだな……」
「では、改めて。素敵な夜に乾杯」
「……乾杯」
 お猪口を掲げるのが、まるで日本号の言う「素敵な夜」に同意するようで恥ずかしくなってくる。それを誤魔化そうと早速お猪口に口をつける。
 すると酒臭さとは少し違う華やか香りを感じ、口内に甘味が広がった。そう思えば甘さの後に苦味を覚えて、思わずまた一口と飲み進める。
「旨いのはわかるがそいつは辛口だ。加減して飲めよ」
「これが辛口だって? 辛口というのはもっとぴりっとした飲み応えだろう」
 もう一口飲んでみて……言われてみれば辛口のようにも思えたが、それにしてもとても飲みやすい。
「辛口なのに飲みやすい、それが『くどき上手』の口説き上手なところなんだよ。旨いもんだとは思うが飲むばかりじゃなく味噌煮も食え」
 日本号は味噌煮が乗った皿を寄越してくるので、見るからに柔らかく仕上がっている味噌煮に箸を差し入れる。それだけでほろりと崩れた身に、夕餉を済ませたというのにとても食欲をそそられる。そうして一口食べれば、鯖の脂と味噌の甘辛さに口が緩みそうになる。
「んん、」
「味噌煮も美味いようだな……どれ、俺もいただこうかね」
「小鉢も持ってきたが使うか? 近くに寄せた方が食べやすいだろう」
「そうしてくれると助かる」
 食卓の端に寄せていた小鉢に味噌煮をよそって日本号に渡す。彼は目を凝らすよう目を細めては、綺麗な箸使いで味噌煮を食べ始める。
「あん時食べた味噌煮の方が美味かったが、これもなかなかいけるな」
「料理当番は拘りが強い奴ばかりだ。缶詰の味噌煮も良いものだが、そこらのものより断然美味いものを作っている」
「そりゃあ比べるのが間違いだったな」
 美味そうにお猪口を呷る日本号に釣られてまた一口飲もうとしたが、お猪口の中は空で傍にあった酒を注ぎ足す。
「おいおい、酌なら俺に頼めよ」
「お前は飲んでいるところで手が空いてなかっただろう。お酌ならこちらがするから文句は無しだ」
「文句がないよう、次は頼んでもらいたいものだね」
 一杯目を飲み干したのか、お猪口をこちらへ差し出してくる。それに即座に応えて酒を注げば、日本号が眉の端を僅かに下げて笑った。
 その顔のだらしのないこと、普段の男前が台無しだというのに、俺は見惚れて暫しの間固まってしまった。

 くどき上手もそこそこに、味噌煮が無くなると同時に新たな酒を出して数時間。つまみは南瓜の種さえなく、いつの間にか出した洋盃には蒸留酒の水割りが半分程残っている。それを飲むのは向かいに座る長谷部で、だらしなく頬杖をついている。明らかに出来上がっている様子に、こいつはしくったと酒で緩くなりかけた頭で反省する。
 宴会でのこともあるから程々にしようと思っていたが、どうにも止め時が分からなくて飲み続けてしまった。
 そして長谷部もそうだが、俺も微妙に酔い始めているのもどうにも良くない。自室だから酔い潰れて寝ても良いのだが、今回はそのような事態を避ける為の飲みだった筈だ。
「なんだ、むごんになって。」
「いや、なんでもねえよ……そろそろお開きにしようと思ってな」
「なんだ、よったか貴様」
 にやり、という表現が的確な程の意地の悪そうな笑みを浮かべた長谷部に、お前が酔ってるからお開きにしようなどと言えずに頭を掻く。口調は酔っ払いのそれだが、どうにも自覚がない様子だ。
「ああ、酔ったからお開きにしよう。眠くて仕方がねえ」
 眠気はないが嘘も方便だ。寝る為に布団を敷く、その為にはこの食卓を片付ける必要がある。飲みを終えるには適当な理由だ。
「そうか。それならこっぷを文机に寄せてかたづけるか」
「なんだってこっぷを寄せるんだ」
「俺はこいつを飲んでからねる支度をする」
 おいおい、まだ飲むってか。飲むにしても酒が一切入ってない水飲めよ。内心そう突っ込んでいる内にも長谷部が水割りを飲もうとしているので、彼の隣まで移動して洋盃を呷ろうとしている手を掴む。
「あんたもお開きだ」
「まだ飲む」
「……止めないと昨日みたいなことになるぞ」
 効果はないだろうが威嚇の意も込めて長谷部を睨みつける。するとこれまで据わっていた目が僅かに見開くと、困ったように眉を八の字にした。その劇的な変化に、こちらが仕掛けたというのに戸惑ってしまう……いや、もしかして俺に言われて昨日の出来事を思い出したか? そういうことなら歓迎するぜ。
「はなしてくれないか……」
「このこっぷを置くか?」
 こくりとひとつ頷いた長谷部の手を放せば、躊躇う様子なく素直に洋盃が食卓に置かれる。それにほっと一息ついていると、何故か長谷部も安堵したように息を吐いた。
「なんだい。俺の睨みがそんな恐ろしかったか」
「ああ、おそろしい……みつめられると、どうすればいいかわからなくなって、緊張する」
 長谷部が睨みつけられただけで怯みはしない。ただの冗談だった筈なのに予想外の返しに彼をじっと見つめれば、確かに緊張したように視線を他所に向けた。
威嚇の為の睨みが効果覿面であるのは良いことであるのに、それがよりによって長谷部に効いてしまうとは……。
「まさか、お前さんが恐ろしいと思うなんざ予想もできなかった」
「貴様は、じかくがたりないんだ……」
 そう呟いて口を尖らせる様は恐ろしいものに直面した顔と言うより拗ねたそれに見えて、俺は極力穏やかな表情を意識しながら長谷部の顔を覗き込む。すると彼は唇と噛み締めると、俺の胸元目掛けて頭突きを食らわせてきた。
「ぐ、」
 一切の用心をしていなかった俺は受けた衝撃に抗えずに引っくり返る。
 この流れで頭突きが来るなんて予想できるか? いくら酔っ払いの行動は脈絡ないことがあるからといって頭突きはどうなんだ。人の身になりながらも圧し切ろうと思ったのなら大した御刀様だ。
 頭突きを食らったところを擦りながら起き上がると、ふらふらと長谷部が立ち上がる。行動は激しいが、酔っ払い特有のふらつきがあって危なっかしい。
 だが、目の前の長谷部にはそんなことは関係ないらしい。ぼやけた俺の視界でもわかる程堂々とした仁王立ちをすると、彼は大きく息を吐いた。
「貴様はもっと自分の影響力を考えろ!このすけこましめ!!」
 すけ……?すけ、こましとはなんだ、この本丸には女なんかいねえだろ。それにこの流れでなんだって女がどうこうという発言になるんだ。
 突然の発言に呆気に取られていると、仁王立ちしていた長谷部が足早に部屋を出てゆく。それは到底酔っ払いの所業とは思えないほど早く、俺が呼び止める間もなく遠くへ行ってしまった。
「なんだよ、すけこましとか、影響力とか……」
 すけこましの印象の大きさで関心が薄れたが、俺の影響力? 強面であることを自覚して振る舞えってか?
 しかしながら出てゆく時の長谷部の様子は到底俺を恐がっているようには思えず、ただただ首を傾げるばかりだった。

 俺と同室である日本号は視力が良くない。以前に比べれば劇的に良くなっているが、それでも時折見当違いな方向を見たり、こちらの表情を窺う為だけに肩がぶつかる程近くに寄ってきたりと、未だに視力が良くない様子を窺わせた。
 まあ、視力の悪さを補うために近くに寄るのは良い。良い、というか仕方がない。よく見えないから近くに寄って見るのは俺だってすることだ。
 だが、程度というものがあると思ってならない。

「それで、あの槍と痴話喧嘩した末にここへ逃げてきたわけですか」
 心底呆れたような眼差しで見つめてくる宗三なんて今までいくらでも見てきたのに、日本号から逃れてきた今夜ばかりはひどく居心地が悪い。
「……どうやったら日本号と痴話言を交えたと捉えることになるんだ」
「寝る支度をしているところに飛び込んできたのが酒臭い貴方ですよ。酔って日本号と何かあったのだと思うのが普通でしょう」
「普通じゃない」
 己の顔が酷く歪むのがわかるが、酔いもあってかそれを隠す余裕がない。だが、今話しているのはいい加減な誤魔化しの通用しない宗三、今から隠すのは無駄だろう。
「まあ長谷部だからなあ、日本号と何かあったとは思うな」
 そう言ったのは御手杵だったが、大して興味がないとばかりに手元の冊子に視線を落としている。
 なんだ、貴様も宗三みたいに日本号の名を出してくれるな。同室だからといってあいつと何かあったとは限らないではないか。
「痴話喧嘩も仲が良いからこそ起こるもの、良いではないですか」
 朗らかという表現がふさわしい笑顔を向けてきたのは蜻蛉切。それはいつもなら無害そのものだというのに、今は宗三の眼差しと同等のものを覚える。いや、微塵の悪意がないだけに余計に質が悪いかもしれない。何故揃いも揃って痴話喧嘩を否定しないんだ。
 募る居心地の悪さにこの部屋に訪れたことを後悔し始めていると、呆れ顔のままの宗三が隣を軽く叩いて俺の名前を呼ぶ。
「何度も来られても嫌なんで。話だけは聞いてあげますから気が済んだら速やかに戻ってください」
 見つめる眼差しは冷めたもので、到底まともに話を聞いてくれそうに思えない。だが、普段の宗三の振る舞いを踏まえるとむしろ安堵を覚える印象で、俺は素直に宗三の隣へ座った。
「別に、話すことはないんだが……」
「では何故ここへ来たんですか。日本号と二口で気まずいだけなら行き先は中庭や食堂でも良かったじゃないですか」
「あいつは夜になったら真っすぐな廊下も手探りだもんなあ」
「……」
 まるで宗三の言葉を補足するように御手杵が続ける。
 あいつが夜の廊下をまともに移動できないことを同室の俺はよく知っている。そしてきっと、日本号と仲の良い二槍と、そんな彼等と同室になった宗三もそのことを知った上で「あえて」言わなかったのだろう。
 ああそうさ。あいつと一緒にいるのが嫌なら部屋から離れたらいいだけなのは俺だってわかっている。それなのに誰かが確実にいるこの部屋に訪れたということは…宗三の言わんとするところということだ。
 だが入室間もなく痴話喧嘩と言われた手前、彼らに話すつもりだったことを口にしにくい。
「何を言うか忘れた」
「では部屋に帰ってください」
 即座に返る言葉の容赦のないこと。しかしその反応は今の俺には好都合で、僅かに覚えた安堵感が顔に出ないよう気を付けながら立ち上がる。ここを立ち去るなら面倒そうにしている今、俺へ関心を向けられていない内に退室してしまおう。
「夜分邪魔したな」
「まったくです。今後はこのようなことが、」
 宗三の言葉が途切れるが先か出入口の引き戸が勢いよく開く。そして開いた戸の向こうにいた男の姿に御手杵が声を上げた。
「おう日本号。長谷部追っかけてきたのかー?」
「あいつ、ここにいるのか」
 低い声と共に室内に一歩踏み込んできたのは、俺が今一番対面したくなかった同室者。そいつはまた一歩進んでは周囲をゆっくり見渡すので、俺は素早く、そして静かに彼から距離を取る。
 対面したくない同室者とはここの部屋の住人が口を揃えて名を出した日本号で、彼の視力が悪いことをいい事に後退りしてゆく。
 自室からここまで直進でいけるとはいえ、こんなに早く来るとは……ここに入ってゆくのを見られた? いや、こいつに限ってそれはあり得ない。視界に入っていたとしても至近距離ではないとわからない筈だ。
「あいつの声と香りがしたんだが、勘違いだったかね」
「声と…………か、香り、ですか」
 宗三の呟きの後、この場にいる全ての者が無言になる。そうして静かに日本号を除く三対の目が俺へ向かった。そのどれも何か言いたげなもので、俺は思わず反論してしまいそうになる。
 何を思っているのか知らんが、俺は香の類いを使うような色気なんて持ってないぞ。それに物言いするなら俺ではなく日本号の方だろう。なんだ俺の香りとは。何か衣服から匂いがしても普通は気付かないぞ。おかしいではないか、犬猫かあいつは。
 そんなことを考えたが、この場面で言うことではないとぐっと堪えて、そっと、そうっと、日本号の後ろを通り抜けようとする。今はまだこいつと面と向かってやり取りする気持ちにはなれない。そんな思いに己が持つ隠蔽力を総動員する。
 幸いにも日本号は偵察が大の苦手だ、誰かが変な動きをしない限り気付かれることはないだろう。
 息を潜めて、廊下へと足を踏み出す。一歩、二歩……もう少し行けば中庭、そこへ出てしまえば流石に音を立てても俺だとは思わない筈だ。
 合戦場であってもここまで隠蔽を意識したことはあっただろうか。合戦場ならば、ばれてしまえば返り討ちにすれば良いだけだが、ここで日本号に気付かれたらそうもいかない。
 抜き足差し足、忍び足……。
「そら、なあにやってんだ」
 微かな軋みひとつ立てなかったのに、そんな一言と共に襟首を強く引っ張られ、中庭へ向かっていた俺は先程までいた部屋へ引き戻される。突然のことに驚き、そしてそれはどういうことなのかすぐに把握すると、背中が一気に冷えた。
 まだ酔いの醒めない俺の足はどうにか床を踏みしめると、襟首を掴んでいたものを全力で振り払う。そして振り返ると、何もするつもりはないとばかりに胸の前で小さく両手を挙げる日本号がいた。
「長谷部、だよな」
 顔はこちらを向いているが、その視線と合うことはない。
「だったら、なんだ」
「夜も遅い。部屋に戻るぞ」
 日本号は距離を確かめるよう俺の方へ手を伸ばすと、こちらが再び退室する前に距離を詰めてくる。その俊敏さは視力の悪さを感じさせないもので、逃げる間もなく彼に捕まってしまった。
 そうだ。こいつ、視力は相変わらずだが練度はそれなりだ。俺が知らないだけで、視力の悪さを補う術を得ている可能性は大いにある。
 しかし練度なら俺だってそれなりにあるというのに、こうも容易く捕まってしまうとは不本意極まりない。宗三達が傍で見ているのを構わず抵抗していると、首にするりと日本号の腕が巻き付いてきて太い血管を軽く押さえてきた。
「うぐ」
「日本号殿っ、絞め技はやりすぎだ!」
 気管は潰されていないため息苦しさはあまりない。しかしこのままでは意識を手放すのも時間の問題。これには周囲も驚いたのか、蜻蛉切が制止の声を上げる。それに対して日本号は腕の力を緩めることなく、ゆっくりと廊下の方へ進んでいく。
「ここで手加減して逃したら探す宛がないもんでなあ。なに、こいつが大人しくなったら解放するさ」
 大人しく……それは失神する時なのではないか? そう気付くと焦りの気持ちが込み上げてきて、俺は半ば日本号を引っ張っていくように自室へと戻っていった。

 自室へ到着して戸を閉めると、ようやく日本号が首を解放してくれた。いつもなら密着されるとあれこれ意識してしまって気が気じゃないのだが、今夜ばかりは別の意味で落ち着かなかった。
 あいつの視力の悪さを良いことに、何度かこっそりと距離を取ったり逃げたりしたことはあった。そんな俺に日本号は対応策を立てたらしく、それが先程の絞め技なのだろう。
 効果はてきめん。捕まった俺は早々に降参した。
「酔いは醒めたようだな」
「……お陰様でな」
 首をキメられて呑気に酔っ払い続ける奴がいるか。狙ってやったんだろう、日本号を睨み付ける。だが、彼にはそこまでは見えないようで何食わぬ様子で辺りに手を伸ばしている。
「酒器ならこちらだ」
「お。よく俺が酒器探しているとわかったな」
「お開きにするんだろう? 貴様のことだ、酒器をそのままにして寝ることはあるまい」
 日本号は少ない所有物を大事に扱う。それは今夜使った酒器も同様であり、それらを片付けるために大きな手を彷徨わせているとすぐにわかった。
「お猪口と徳利はこれだ」
「ありがとさん」
「残りの洋盃と小鉢は俺が持とう」
「それくらい俺だけで持てるぞ」
 こちらに渡せ。と空いた手をこちらへ寄越して催促する。それに酒器は渡さず、代わりに俺の手を乗せる。すぐに違うものを寄越されたとわかった日本号はこちらへ顔を寄せてくる。かつてのように吐息を感じるほど近くには来なかったが、それでも彼の顔は随分近くにある。
 この距離感はどうにも慣れなくて、視線を日本号と反対の位置にある戸へ移す。
「盃は?」
「どの道貴様を厨まで連れていかなければならないのだ。ついでだ」
 それに視力が良くない中、酒器を両手に抱えて歩かせるのは不安がある。流石にもう中庭に落ちることはないが、何かあっては両手が塞がっていると対処できないだろう。
 気をつけてついてこいよ。日本号が酒器をしっかり持っているか伺うと、ゆっくりと手を引いて厨へ導き始める。すると彼は俺の顔を見つめて無防備なまでに頬を緩めた。
「お……、…?」
 いきなりのことに無意識の内に声を上げてしまう。
 この場面で何故、そんな顔をするんだ。俺はいつものように日本号の手を引いて誘導しようとしていただけだというのに……もしかしてまだ酔っているのか? その割には顔はまったく赤くはないが、思い当たることはそれくらいしかない。
 そんなことを考えている間、俺はずっとその場に立ち尽くしている。それには日本号も不思議に思ったのか、近かった距離が更に詰められる。否応なしに、そして容赦なく彼と視線が交わる。
「長谷部?」
 窺うように俺の名前を口にして小首を傾げる様子に、飛び退きたい衝動に駆られる。だが幸か不幸か、日本号と手を繋いでいるためそれは阻止された。

 こいつ……ほんっと自覚が足りないな! きっと俺に向けたその表情も、大した意味なんてない。今更なことだがそういう奴なんだ。
 真っ直ぐ向けられる眼差しに俺の体内はえらく五月蠅くなってくる。酒を飲んだ時以上に不穏な血の巡りは落ち着く様子がなく、片手に抱えた洋盃を落としそうになった。