虫が飛び交う街灯の下、僕は雑誌を片手に歩いていた。時間は深夜の1時少し前、さすがに人も車も疎らで、歩く道のりはとても静かだ。そんな道を歩いてどこへ行くのかというと24時間営業のスーパーだった。
正確にはそのスーパーに設置されている喫煙スペースが目的地だ。深夜帯ともなるとそこは利用者が少なく静かなため、気分転換に来ることがあった。
自宅から数分歩いて、煌々と夜道を照らすスーパーの灯りの眩しさに目を細める。店内に入るとミルクたっぷりといううたい文句のついたカフェオレを一本購入して喫煙スペースへ向かった。目的地の扉を開ければそこには先客がいて、その人物はこちらを振り返って片手を上げた。
「月明かりに誘われたか。今宵も会ったな、不良青年」
「山野一松だから、変な呼び方をすんじゃねえおっさん」
片手を上げて迎えてくれたおっさんを睨むが、相手は気をする様子もなく笑う。それが面白くなくて舌打ちをひとつ、吸い殻入れを挟んで向かい側に座る。
「高校生のくせに深夜出歩いて煙草吸うなんて立派な不良じゃないか。改めてこんばんは、山野君」
ええ、僕はまだ高校生ですけど。だから自宅では煙草なんて吸えないから、気分転換だけではない理由でここに来てるんだけどさ。
「その山野君もやめてくんない……名字で呼ばれるのは慣れてないから」
「俺は人を下の名前で呼ぶのが慣れてないんだが」
「……」
目の前のおっさんはああ言えばこう言う。きっと言葉を返せば、また同じように返されるのは明白なので早々に降参してポケットに入れていた煙草を取り出した。
向かいに座るおっさんはふた月前にこの喫煙スペースで知り合った。毎日かは知らないがこの時間帯に来ると必ずいる。おっさんは灰色に白が混ざったいわゆるロマンスグレーの頭髪を持ち、僕ととても良く似た顔立ちをしていた。そのせいか一見するととても若く見える。しかし頭髪の色と目尻に刻まれた皺に彼の老いを感じた。
「この雑誌、あんたがよく言ってるオザキの特集してた。そんな需要あると思えないんだけど」
「需要ならここにあるぞ。何年経ってもオザキは素晴らしく、その魅力は廃れることを知らない」
ぺらぺらと話し始めるおっさんに持参した雑誌を渡せばぱらりとページを開いては目を輝かせた。
このおっさんとこうして話すようになったのは定期購読している音楽雑誌がきっかけだった。彼も僕と同様に音楽が好きなようで、この喫煙スペースで雑誌を見ていたところ「Xは好きか?」と尋ねてきたのだ。そうして音楽、というよりオザキが好きなおっさんと話すようになり今に至る。
雑誌に目を落とすおっさんの横顔を眺めながら手にしていた煙草を銜えて火をつける。大きく息を吸い込めばちりり、と先端が赤く燃えた。
「俺にも一本くれないか」
またか。
おっさんは落ちていた視線を僕に寄越して煙草を催促する。これは今日に始まったことではなく、出会って間もない頃から僕たちの間で交わされる会話。
とん、と煙草の箱の尻を叩いて一本出してやるとおっさんはそれを受け取って口に銜えた。
「ん」
そしてこちらへ軽く顔を突き出すのでライターで煙草に火をつけてやる。
「ゲッホゲホ」
「……煙草吸えねえなら無理に吸うなよ」
「ケホ……、……煙草が吸えない奴が喫煙スペースにいると思うか」
「実際、吸えてねえじゃん」
「咳込んだのはたまたまだ。俺は喫煙者だ」
最近そんな会話が恒例で、相変わらずの言葉のいたちごっこに紫煙と一緒に息を吐いた。
おっさんは毎回のように煙草を要求する割に今のように咳き込む場面が多かった。気管が弱いのか、そう考えた時期もあったが、どうやら単純に吸い慣れてない故に咳き込んでしまうようだった。事実、彼が煙草を持参して吸ってる場面は今までなかったし、ライターすら持ってなかった。それについて以前尋ねたことがあったが、その時は「家に忘れた」と返された。しかしそれは見え透いた嘘であり、普段から煙草を吸わないのは明らかだった。多分に喫煙者でもない奴が喫煙スペースにいることを気にしてるんだろうが、店員はともかくとして僕は気にしてないのに。深夜帯で人も滅多に来ないのだから長居しないのなら使っても構わないだろう。
「口寂しいなら、ガムでも噛んだらどう」
「馬鹿にするな、俺だって大人なんだから煙草の一本や二本平気だ」
言いながら煙草を銜えて大きく息を吸う。今度は咳き込みはしなかったが、目がじわりと潤んだ。無茶するなおっさん、咳き込むの我慢してんだろ。
いつも僕をあしらうように飄々としているのに、時折このように意地になる場面があるからおっさんと話すのが嫌いになれない。きっと僕よりも、僕の親の方が歳が近い奴だろうに、歳の近い兄弟と話しているような錯覚になる。
僕は一人っ子だったのに不思議な感覚だ。
「なあおっさん。いい加減あんたの名前、教えてよ」
友人や兄弟のようだと思える程度には仲良くなったと、僕は思っている。たった二ヶ月程の月日、この喫煙スペースだけの交流。それでもこのおっさんなら親しい仲と躊躇いなく口にできる情を感じていた。それなのに僕の気持ちなど気にとめないとばかりにおっさんは未だ名前を教えてくれない。
「それは内緒」
今日もやはり名前を教えてくれることはなく、おっさんの筋張った人差し指が薄い唇の前に立てられた。
「なんで」
「名前がわからない方がミステリアスだろ?」
「ミステリアスなんて要らない」
「大人の男には必要なんだ」
にんまりと笑う顔はどことなく無邪気な印象を持ち、続く言葉を見失ってしまう。無邪気さは愛嬌を滲ませ、老いた彼に華を感じた。
そんな華はまた視線を手元の雑誌に落とす。
「それより、今日の夕にヴィジュアル系バンドの特番があったな」
「……それ録画したけどまだ見てない。帰るのが遅くなって放送時間に間に合わなかった」
「そうなのか。学校、受験生だけあって忙しいのか?」
「いや、路地裏に寄り道して、つい」
「ははは、お前は相変わらず猫ちゃんに夢中か」
相変わらず? おっさんには路地裏へ猫に会いに行ってる話はした覚えはなかった気が……そもそも寄り道するほど猫が好きなことは明かしてなかったような。覚えてないだけでいつの間にかそんな話もしてしまったのか。
「山野君にかかれば猫ちゃんもめろめろじゃないのか」
「まさか。気ままに甘える子もいれば無視する子もいるよ」
「猫ちゃんは強いなあ」
「おっさんだって、僕が凄んでも笑うだけだろう」
「だって、凄んでも手足が少し出るだけだろ? だから全く怖くない」
「僕は怖くないと」
「まあ、それが山野君だからな」
僕だから。学校では目付きが良くない、とか、言葉数少ないから怖いとかよく言われる僕なのに。そんな風に言われたことが嬉しい反面、そこまで言ってくれるのにおっさんの口から名前が語られないのがもどかしい。僕はもっともっと彼のことを知りたいのに、時折わざとらしいまでにうやむやにされる。
微かに苛立ちを覚えて煙草の紫煙を胸一杯に吸えば、あっという間に煙草はフィルターギリギリまで灰になってしまった。
……そんな苛立つ気持ちを向けてもこのおっさんはロマンスグレーの髪を翻し笑って誤魔化すのだ。そんな姿は老いてもなお魅力的であると同時に、魅力的故の隔たりを感じる。
「やっぱり僕は、あんたの名前、知りたい」
「……知って、どうするつもりだ?」
「呼んでみたい」
おっさんなんて呼ばず、彼の名前を呼んでみたい。僕からおっさんと呼び始めたが、あんたは歳はおっさんでも、おっさんなんて似合わない。
もっと似合う彼自身の名前で呼んでみたい。
「お前が俺の名前を呼んだら、きっと俺は山野君を一松と呼んでしまうからだめだ」
「いいじゃん」
「いいのだろうか」
「少なくとも悪いことはねえだろ」
「そう、なのかな」
それっきりおっさんは黙って目を伏せてしまった。その仕草は何かを隠すようで、微かだった苛立ちが膨れ上がる。
「何が駄目なの」
思わず彼の手に僕の手を重ねて身を乗り出す。すると伏せられていた目が見開き揺らいだ。どうして、そんなに驚くんだ。凄んでも笑っていられたじゃないか。こんな些細な触れ合いなのに、どうして。
「勇気が足りないから、」
「?」
「俺にはまだ、勇気が足りない」
「それが、駄目なことなの」
「まあな、俺はちょっと歳を取りすぎた、かな」
だからなかなか勇気へ向かう一歩が踏み出せないのかもしれない。
言いながらおっさんは重なっていた僕の手を取る。
「お前は相変わらず指先が冷たいな……煙草を控えないと益々酷くなるぞ」
「……気をつける」
なあ、おっさん。
僕とあんたが触れ合ったの今日が初めてなのに、なんでそんなことを言うんだ?