「典型的な恋の病ですね」
目の前にいる医者がそう言い切った。これが昔馴染みのデカパンならまだしも、この医者はバカ田大学病院に勤務する医者だ。まともな診断をしてくれるはずなのに、こちらから視線を外してカルテを書き込む様はまともな診断をしたのだと言っているようだった。
「先生! 恋の病とはあまりに非現実的ではないか!?」
ただ、だからいきなり『恋の病』ですかそうですか。と納得できるわけではなく、思わず俺は声を上げてしまった。
「非現実的ではありますがれっきとした疾患なのです。この病は一過性のもので、放っておいても治りますのでご安心ください」
「……それなら、いつ治りますか」
医者に言葉を返したのは俺の斜め前に座る一松で、『恋の病』だと診断を受けたのは彼だった。そんな一松は医者に質問しているのに、視線は明後日の方向だ。
「一松、先生はもっと左側に座っているぞ」
俺にそう言われると一松は視線を左へ移動させたようだったが、後ろから見ていても明らかに医者が見えていない様子に俺は口を噤むしかなかった。
「恋は盲目」とは、周りが見えなくなってしまうほど恋に夢中になってる様を表しているのだと今まで思っていた。しかし現実では全てが見えなくなってしまうだなんて、事実は小説よりも奇なりと言ったがこんなことで実感するとは。
一松の『恋の病』は突然の発症だった。ラブストーリーは突然に。なんて歌があったが、まさにそれである。
のんびり朝食を食べた後、ひとり着替えもせず部屋の隅で四つん這いになっている一松がいた。
「一松にーさん?」
いくら不規則な生活を送るニートでも、起きて食事を済ませれば彼らなりに整容する。しかし四つん這いの彼は未だパジャマ姿で、窺うように十四松が名前を呼んだ。
「十四松、近くにいるの?」
近くも何もかなり近くで、少し動けば触れそうなほど傍に十四松がいるじゃないか。そうしてようやく十四松の方を向いた一松はどこか別の場所へ視線をやっているので、気持ちが落ち着かなくなってくる。
「……誰も、何も見えないんだけど」
「へ、」
俺か十四松か、はたまた誰かが素っ頓狂な声を上げては室内が静まり返る。その静寂は一松の言葉を噛み砕いて理解する時間が生み出したものだろう。とやけに冷静に脳が分析しては、一松の言葉を声なく反復した。
「一松にーさん、なんも見えないの?」
「うん」
「全くぜんっぜん、なんにも何も見えない?」
十四松がだらしなく垂れる袖を一松の顔のすぐ前で振ってみる。普通なら目に袖が入らないかと、反射的に瞬きするだろうが、彼はぼんやり前を眺めるばかり。ついつい俺も近くへ寄って手を振ってみたが、俺が近付いたことも気付かないようだ。
これは明らかにおかしい、しかもかなり深刻な事態だ。
それは他の皆も思ったのだろう。誰からも異論はなく、兄弟は手早く一松を着替えさせては最寄りの病院へ駆け込み。
冒頭の通りである。
「焦って損したわ、恋の病だったんだ」
診察の後、そう言ったのはおそ松だった。その様に深刻さはなく、むしろ世間話をするように穏やかなせいか、似てもいないはずの診察医の姿がだぶる。どうやらおそ松は一松の罹った病を知っていたようで、それだけ世間に知られる病であるのを実感するようだった。
医者によると、この『恋の病』は国内だけでも八割の人間が発症する非常に一般的な病だそうだ。特徴は発症者の目が見えなくなること、瞳の瞳孔が完全に閉じられ虹彩が満開の薔薇のような形になることだという。幸いにもこの病は後遺症もない一過性のものであり、短い時は数時間で治るという。
「今調べてみたけど、『恋の病』っていうから恋したら罹るのかと思ったら全然関係ないんだって」
一松の薔薇のような虹彩を見ていると、トド松がスマホを操作しながらそう言うものだから一松を除く兄弟が注目する。
「目が見えなくなる症状から『恋は盲目』、虹彩の形から『薔薇は愛を伝える花』、発症と治る時期が人によってまちまちなところから『恋心は気まぐれ』を連想させるから『恋の病』なんだって」
「へえ、僕も恋の病は知ってたけど実際の恋とは関係ないんだ」
「チョロ松兄さん知ってて慌てたの?」
「いや、知ってたっていきなり目が見えなくなったら慌てるでしょ?」
なんと、チョロ松も『恋の病』の存在を知っていたのか。もしかして、知らない方が少数……なんてことはないよな、俺を含む兄弟四人は知らなかったのだから。
「どんな病気かわかったけど、なおるまで大変だね。一松にーさん、周りが明るいか暗いかもわかんないんでしょ?」
「まあね。暗闇でアイマスクしてる感じ」
瞳孔がない状態なので予感はあったが、明暗すらわからないほどとは。そのような状況で動いたことはないが、果てしない闇に誰の姿も捉えられない状況を想像しては、つい一松の肩に手を置いてしまう。
「恋のラビリンスにひとり、非常に心細いだろう……しかし心配無用だ、俺が底知れぬ迷宮を導こうではないか」
「ラビリンスと迷宮、ね……誰かと思えばクソ松か。あんたに手引きしてもらったら一緒に底知れない落とし穴へ落ちそうなんだけど」
「サンシャインに愛された俺がそんなヘマをするわけがないじゃないか! 病気が治るまで、俺が身の回りのことを手伝うのは不満か?」
「サンシャインって、どういう理屈だよ……不満というか、いつ治るのかわからないってあんたも聞いていたよね?治るのが数ヶ月後とかだったらどうすんの」
「どうもしないさ。一日だろうが一年だろうが、俺は手伝うぞ」
好きな奴の身の回りの手伝いを付きっきりでできるなんて、褒美でしかないだろう?
ちなみに一松に対する『好き』は兄弟に抱く『好き』とは違う、限りなく『恋』と呼ぶ『好き』だというのは墓場までの秘密であったりする。
数年前から、一松がそういう意味で好きだった。きっかけなどもう覚えてないが、彼を想うと切なく焦がれながらも愛しく感じるようになってしまったのだ。これは恋愛と呼ぶにふさわしい!恋はすばらしい!なんて浮かれた時期もあったが、一松と俺は同性であり兄弟である。兄弟間によくあるような好意ならまだしも、彼が俺を恋愛対象として見ることはないと早々に想いを秘めた。
ただ、秘めた想いはそこそこ大きいもので、誰よりも近くで好きな人を助けられる状況に思わず飛びついてしまった。
どうか邪な動機を察して断ってくれるなよ一松。俺は有言実行の男、やるからにはしっかり一松をサポートするつもりだ。
「それなら、期待してないけど頼むかな……まあ、期待はしてないよ。期待してないから」
「遠慮なくマグロのように期待していいんだぞ」
「遠慮なんてしてないから」
呆れたように一松の目が細められる。しかし、その眼差しは誰も捉えてはいなかった。
目が見えないとなると普段より接触が増えるだろうとは思ったさ。しかしながら、のっけから手を繋ぎながら病院からの帰路を歩くのは些かハードルが高過ぎやしないか?そのような期待はあるにはあったが、段階というものがあるではないか。
「うっかり手ぇ離すなよクソ松」
全く視界が見えないから、路上で手を離したら危ないのはわかる。わかるが、手を繋いだ状況で一松の「離すな」発言は俺にとってかなり刺激的である。
それこそ、一松の目がまったく見えなくて良かったと思ってしまうほど緊張してしまった。
そんな(俺にとって)波乱の帰路を経て、自宅へ帰ると意外にも一松はひとりでも然程不自由なく室内を移動できた。生まれ育った我が家、壁伝いであればゆっくりながら2階もひとりで行けた。しかし移動した台所で水を飲む、着替えるための服を用意するなどといった、視覚をより必要とすることはできず、やはり出先同様俺が傍にいなければならなかった。
水分補給をしようとする彼の手にコップを渡したり、本やテレビが見られない代わりにラジオをつけたり、ひとつひとつは些細なことばかりだったが、時折一松が気恥ずかしそうに口元をもごもごさせる様はひたすら楽しかった。それに、これくらいの接触ならば緊張に動揺することもない。
これが俺が求めていた展開だ。手渡しで飴を食べている一松を、見えないことをいいことに隣で眺めては笑顔になるしかなかった。
家にいる限り、そのような平穏が続くと俺は思っていた。しかしそう都合良くいいことばかりが続くわけがないのだ。
今夜の夕食はいつもより少しだけ小さな唐揚げに、トド松がやけに喜んだ彩り富んだブロックサラダだった。どうやら目の見えない一松でも食べられる食事を考えた結果、スプーンで食べやすいメニューになったようだ。
「それにしてもいつもより品数少なくない?」
「ブロックサラダは意外と手間がかかったのよ、文句あるなら食べなくたっていいのよニートたち」
「僕はわかってるからね母さん、それはそうと写真撮るからまだ食べないでよ兄さんたち」
わいわいと家族がやり取りする中、一松は見えないなりにメニューを把握しようと鼻をひくつかせる。それはまるで猫のようで、その可愛さに胸ときめかせてはひっそりと身悶えてしまう。幸いにも周りは変わらずの賑やかさで、俺の異変には気付いていないようだ。
落ち着こうと小さく溜息を吐き、一松の分の唐揚げとサラダをよそって彼に手渡す。
「いただきます」
いつものように食べ始める兄弟と一緒に、スプーンを手にした一松も食べ始める。しかし、いくら使いやすいスプーンでも狙って掬うのは難しいらしく、ぽろりと食べ物をこぼしてしまう。それは見てるだけで落ち着かなくなってきて、思わず一松の肩を叩く。
「皿とスプーンを貸してくれ」
「はあ?なんで、」
「上手く掬えてないから気になってな……俺がいる時は食べさせよう。はい、あーん」
皿とスプーンを受け取るとサラダをひと救い、一松の口の前に差し出す。すると彼は不服そうに前を睨みつけたが、黙って口を開けた。どうやら見ていた以上に食事に苦戦していたのか、意外と素直に口を開けた無防備さに顔が熱くなる。
目が見えない状況で食べさせてもらうなんて、何を口に放り込まれるかわかったものではないのに。それだけ俺を信用しているのか、そうであればいいな。
何故か兄弟から「見せつけるねえ」なんて言われながら夕食を終え、次は最難関の風呂である。流石にいつものように銭湯は兄弟がついていても不安だからと、目の見えない内は自宅の風呂を使うのは決定事項だった。勿論風呂も俺が手伝うつもりだったが、食事の時と一転して一松は自分ひとりで入ると言って聞かなかった。
仕方なく、大変なら人を呼ぶように。と話をつけて好きにさせれば、一時間以上かけて風呂を済ませた。
「シャンプーとボディソープ間違えてえらいことになった……」
聞けばシャンプーの間違いだけでなく、お湯の温度調整が上手くできずに冷水を被ったり、洗面器を踏みつけて転びそうになったりもしたという。
これは慣れるより怪我をする方が先かもしれない、明日からは彼がなんと言おうと手伝おう。
「ドライヤーで髪を乾かすからこっちに来てくれないか」
「別に自然乾燥でいいよ」
「髪が傷むだろう?」
手を引いて傍に座らせると、タオルで軽く叩くように髪の水気を取る。それを粗方済ませるとドライヤーのスイッチを入れた。程良い熱風と共に指を髪に通そうとして、その軋んだ触り心地に一瞬怯む。そういえばシャンプーとボディソープを間違えたんだったか…一松のふわっと柔らかそうな跳ねた髪が好きなんだが、これはやはり俺がしっかりシャンプーで洗ってやらなければ。
軋んだ髪をうっかり引っ張らないよう気をつけながら、集中して髪を乾かしてゆく。そうしてふと、一松が静かだと気になって彼を見てみると目を閉じて気持ちよさそうにしていたので、俺はいよいよ満足感で胸が一杯になってしまった。
できたら「恋の病」の最中は外出を控えるよう医者からも言われていたし、実際に病院から自宅までの帰路で(主に俺の気持ちが)苦労したので一松を外に出したくなかった。しかし「猫が気になるから外に出たい」と、朝食を終えてからずっと見えない目で俺を探しながら訴える彼を誰が止められようか。
俺はどぎまぎに心震わせながら一松の手を引いて外へ繰り出した。
一松に道のりを教えてもらいながら猫の集合地へ訪れ、手探りで猫を愛でる一松を少し離れた場所で見守る。
一松の「恋の病」は一体いつ治るのだろう。人によって違うのは知っているが、ある程度の目安があれば助かるのに。
そう考えるとどんどん気になってきて、携帯端末で『恋の病』と検索をかけてみた。
トド松も検索で調べていたが、見逃している情報があるかもしれない。一般的な病だけあってたくさんの検索結果が標示される。その中にはブログやSNSの記事といった、実際に病にかかった人の証言や体験談などもあったのでそこから見てゆく。
どうやら早い人だと数分で治るが、長い場合は一月以上かかるらしい。やはり個人差がかなりあるのか…目的の記事がないなと、ある書き込みを見て、つい指が止まった。
『僕は好きな人とキスをしたら治りました。都市伝説は真実!』
書き込みはSNSの、呟き程度の短いもの。なんでも、片想いしていた相手とキスをしたら治ったという。
「恋の病」とは実際の恋とは無関係ではなかったのか?疑問にページを下にスクロールさせると、書き込みにいくつかコメントがついていた。それは同意するコメントが殆どで、極めつけには「運命の人のキスだから治せたんだ!」と書き込むものまであった。
現実味ないのは名前だけにしてくれないか。そうは思いつつ気になって『恋の病 キス 好きな人』で検索すると、10年前のからここ数日のものまで、似たような記事がたくさん出てきた。
……病気のより良い治療法を選ぶのに多数決はいかがなものと思うが、ここまで大々的に有名なのであれば本当なのだろうか。
何故病院で教えてくれなかったのかと考えたが、医者に「治療法は好きな人とのキスです」なんて言われて実行に移せるかと一松が聞かれたら絶対ノーと答えるだろう。いや、答えるだろう、ではない。答えるに決まっている。もしかしたら一松のようなシャイボーイな患者もいるから、医者もキスの治療法を教えなかったのかもしれない。
しかしそれで良かったのかもしれない。一松が誰かとキスして、それで病が治って一件落着なんて想像しただけで挫けそうだ。
叶わない恋とわかっていても、俺の恋を失恋にしてしまうにはまだ早いから。
昨日のことがあったので今日から風呂も手伝うと一松に言えば、彼は明らかに嫌な顔をしたが断りはしなかった。昨日の入浴はそれ程に堪えたのかもしれない。早速、濡れても大丈夫なように腰にタオルだけ巻いた姿で浴室に一松を引き入れる。
全身にお湯をかけると頭を上向かせて、しっかりとシャンプーを泡立てて、ふわっと乾いた一松の髪を想像しながらしゃかしゃか手早く洗う。兄弟の背中はよく洗うが、髪を洗うのは初めての事で楽しくなってくる。その楽しさは僅かな遊び心を呼び、見えないことをいいことに泡で猫耳を作ってみたりする。
「……やってもらってなんだけど、ちゃんと洗ってるよね」
「勿論さ。そろそろ洗い流すが、痒いところはないか?」
「ない、大丈夫」
湯加減を確かめて頭の泡を洗い流す。泡が残らないよう指を使って細かく濯いでいると、一松が力を抜くように大きく息を吐き出す。
「………勃起しそう」
「ぼ…っ、何故っ」
思わず手元が狂い、一松の顔に思いっきりお湯をかけてしまう。突然のお湯の襲来には流石の一松も驚いたのか、素早く椅子から飛び退く。
「……げほ……クソ松、窒息させる気かよ……」
「すまない! しかしだな、いきなりあんなこと言われたら動揺するじゃないか」
「あんただって男なら、その気がない時も勃つことあるでしょ」
滴るお湯を拭い、濡れた髪の毛をかき上げる。それがなんだか色っぽくて、そしてその下には反応しそうになっているものがあるんだと思うと急激に羞恥心が溢れ出てきた。
「……まあ、そうだな……うん、あの、体は自分で洗えるよな?ボディソープはこれだから、あとは自分でやってくれ」
一松の返事を聞かぬまま素早く浴室を出る。
確かにあれは生理現象だから突然なるのは経験があるが、まさかこんな場面で出くわすなんて神様も悪戯が過ぎる。ラッキースケベ、なんて言葉はあっても、これは俺にとってはかなり刺激的だ。
出る時にボディソープを直接渡したし、湯加減も調整済みだから体を洗うのは大丈夫だよな? 万が一を考えてここで待機していようか…しかし、俺がいなくなったと思った一松が自身の処理を始めてしまったらどうしよう。薄い浴室の扉越し、始めたら絶対わかってしまう。
邪な想像に、お湯の熱気とは違うもので頬が熱くなってくる。それを誤魔化すよう、俺は手で顔を仰ぎながら浴室から静かに離れた。
初めの数日は波瀾万丈だったが、お互いニートで行動が限られているのも幸いして10日を過ぎた辺りからほぼ日常と化していた。
これまでマザーに任せきりにしていた料理も、自分で調べて考え、一松が食べやすい料理を作るようになった。
外出時に手を繋ぐことにも慣れた。時折、仲の良い双子だと囁かれて落ち着かない気分になったが、最初の時のような緊張はあまりなかった。
風呂に関しては、一松が入る前に俺が湯加減の調整とシャンプー類のセッティングをすることで解決した。
このように、うまいことやっているというのに、未だ一松の「恋の病」は治らない。
「しっかしカラ松もマメねえ」
居間で一松の風呂の待機をしていると、これから銭湯へ行くおそ松が隣を座った。
「マメとは?」
「だって、一松の風呂上がりを待って、上がってきたら着替え手伝って髪乾かして、あいつが暇しないようラジオなんか引っ張ってきてから自分の風呂でしょ?マメじゃん」
「そうか?」
「そうだって。俺の時なんか母さんも父さんもそこまでしなかったって」
「……俺の時?」
「だーれも覚えてないみたいだけど、俺も五歳の時に『恋の病』なったんだよね。俺は遊べなくて暇だったからよく覚えてるけどさあ」
「五歳とは、今の一松とは大分歳が違うな」
「そういう病気だからな。年齢関係なくいきなりなるから俺もびっくりしたわ」
五歳の俺たちというと既に六人で行動することが多かったが、意外と忘れているものだな。もしかしたら発症期間が短かったから印象が薄かったのかもしれない……この病は治る時期も個人差が大きいのが特徴だ。
「恋の病」について思い返し、ふと、あることが頭を過った。
「……なあ、それ、好きな人物とキスしたらすぐ治ったとか……そういうのか?」
ネットで得ただけの情報。もしかしたらおそ松だって自然治癒だったかもしれないのに、俺は何を聞いているのだろう。
少しばかり自嘲の念すら抱いていたのに、おそ松は意外そうに眉をぴくりと上げた。
「なーんだカラ松知ってんの?俺はそうなんだよね」
まさかのおそ松が該当者だと?
思わず固まっていると、おそ松は得意気に鼻の下を指で擦った。童貞ニートの筆頭であるこいつがキスをして病を治しただなんて本当だろうか。
「その時、好きだった子とキスしたらさ、暗がりに電気つけたみたいに、ぱっと目が見えるようになったんだって」
おそ松のことだから嘘かもしれないと一瞬だけ考えた。しかし好きな人の、運命の人とのキスで治る、という情報をわざわざ何かで調べてまで嘘をついたとは考えにくい。そもそもキスの話を出したのは俺からなのだ、それに対して間を置かずに返答したまということは実体験なのだろう。
些か胡散臭い治療法だったが、身内に実証者がいれば話が違ってくる。
「トド松の準備できたみたいだから行ってくるわ」
「いってらっしゃい」
口では見送りの言葉を述べていたが、頭はもう一松のことでいっぱいになっていた。
ふと、薄明るい中、俺は目を覚ました。周りを見れば兄弟は皆寝ており、一松の頭上に置いてある時計はまだ朝と呼ぶには早い時間を示していた。
上体を少し起こして隣の一松を覗えば小さな寝息を立てて眠っている。目が見えなくてテレビや本が見られないから、と最近は早寝するようになった彼だが、あまり早い時間帯であるだけにまだまだ夢の住人のようだ。
身の回りの世話をすることを許してくれているのだ。決して一松に嫌われてはいない、と俺は思う。
好きな人とのキスでの治療法を、一度やってみても良いのではないか。
そっと、物音を立てないよう用心しながら一松に顔を近付ける。目を瞑るといよいよ自分とよく似た寝顔に、どうにも胸が高鳴ってくる。それはあまりにうるさくて、一松が起きないか心配になるほどだ。
……ええい、やるつもりなら覚悟を決めないか俺。このままでは時間が過ぎるばかりだ。
深呼吸をゆっくりして、顔を近付ける。そうして互いの唇を押し付けた。それはキスというにはあまりに拙いもので、それでも今の俺にはこれが限界であった。触れた唇の意外な柔らかさがやけに気恥ずかしくてすぐ離れてしまえば、全身がじんわりと熱くなってくる。
拙くたってキスはキスだ。物の試しの治療とはいえ、本人の知らないところでこんなことをしてしまった。興奮と同時に罪悪感がじわじわと押し寄せてきて、顔は熱いのに指先が冷えて震えそうになる。
「………カラ松?」
寝息ばかりだった室内に自分を呼ぶ声がして、一松から離れようとしていた体が強張って固まる。いよいよ指先の冷えが全身に回るようで、温かだったはずの布団さえ冷たくなったようだった。見た目に反して声は個性的な六つ子、紛うことない一松の声に視線を下ろす。
視線が定まらない一松の目が開いており、怠そうに伸びをひとつする。唇に触れられて起きてしまったのか。
まさかキスにも気付かれたのか?悪い予感に黙っていると、俺を探るように一松がこちらを向いた。
「あの……もう起きる時間?」
薔薇が咲く瞳に背中がざわり、と不快な感覚が襲う。薔薇の瞳ということはつまり、恋の病は治っていないということであり、俺は一松にとってそのような存在ではなかったということだ。
「……いや、まだ明け方だ」
俺は何を期待していたのだろう。わかっていたじゃないか、俺が一松にとってそのような相手じゃないことくらい。
「ちょっと目が覚めてしまってな……起こしてしまってすまない」
わかっていたけど、こう知らしめられるとショックだ。
喉が震えて目頭が熱くなってくる。なんて俺は勝手な奴だろう。キスをしたのは俺からなのに、一方的に期待して、ひとりで傷付いているなんて。
「……マミー、なんだか風邪気味だから、下で寝て良いだろうか」
「確かに鼻声で目も腫れぼったいわねカラ松」
情けなくとも両親が起きてくる直前まで居間で泣いていた俺は具合悪そうに見えたらしい。疑うことなく兄弟と別で寝ることを許可され、薬を飲んで休むよう促された。
それから一松とは特に接触しないよう努めた。幸いにも在宅する家族の多い我が家、誰かしら一松の手助けをしているようだった。
彼と今まで通りに接するにはまだ時間が必要だったから、身勝手だと承知ながら距離を取った。
「あの、そこいるのカラ松だよね……髪乾かして」
「すまない。ちょっと手が離せないから他の誰かに頼んでくれないか」
その「手が離せない」状況も中断できるものだったが、一松の目が見えないことを逆手に取り断れば、明らかに気落ちした様子で誰かを探しに行ってしまった。そうして手探りで移動する姿に罪悪感がどっと襲ってくる。
俺は自分のことばかりで一松を困らせてしまうなんて、こんな俺が恋の病を治せるわけがないのだ。
この数日間上手く接触を避けていたつもりだったか、目が見えなくとも気が付いたらしい。俺が彼の要望を断る度に不機嫌な皺を眉間に寄せるようになった。
そしてついに、表情だけだった不機嫌が爆発してしまったようだ。
皆が銭湯に行った後、風呂に入っていたはずの一松が詰め寄ってきた。それは未だに目が見えてないのが嘘かのように真っ直ぐこちらに来たものだから、俺は思わずその場で竦んでしまった。
「一松、風呂は?」
「風呂どころじゃないから」
二の腕を逃さないとばかりに強く掴まれる。それもそうだろう、今の一松は距離を取られたら誰がどこにいるかわからなくなってしまうのだ。
「……風呂どころではないとは?」
「避けてるでしょ、僕のこと」
バレている予感はあったが、こうして本人に言われると何も言えなくなる。それでも黙っていれば肯定ともなりかねないので、気合を入れるように小さく息を吐く。
「まさか、避けてなんていないぞ」
「避けてる」
「避けてない」
避けたりなんかしてないから腕を離してくれ。言う代わりに体を引いたが、それでも離そうとしない。
「……否定するということは……避けているのは僕のせいなんでしょ」
それは違う。それこそ否定しようと顔を上げると、怒りと悲壮感が入り混じったような表情の一松がいた。
「それは、ちがう……」
全ては俺が一松を好きになったからこうなったのだ。俺が期待に勝手にキスをして、勝手にショックを受けて気不味くなって。
一松は何もしていない。
「だって……あまり、べたべた俺ばかり世話したら、気持ち悪いだろう?」
一松への下心から世話を始め、治療法を試すといった理由で寝ている彼に勝手にキスしたのだ。想いやキスについて一松がまったく気付いてなくとも、俺はあまりに不純なものを抱え過ぎてしまった。
「気持ち悪い、ね……そう、ごめんね」
どうして謝罪なんかするのか。嫌な想像しか思い浮かばなくて胸が重くなる。
彼も俺ばかりが世話を焼くから気持ち悪いと思っていたのだろうか。そうなれば、俺が避ける理由も納得して、つい謝罪の言葉が出るかもしれない。
回ってすらいなかった恋の歯車も壊れてしまったな。
「そういうことだから、腕を放してくれないか」
振り放すだけの勇気はなく、彼にそう言ったが、掴む手の力は少しも緩まない。
「放したら、あんた絶対僕から離れるだろ」
それはそうだ。あまりべたべたしたら気持ち悪いと、つい先ほど言ったばかりだろう?
「そろそろみんなも帰ってくるから、俺がいなくても大丈夫だ。だから放してくれ」
「やだ。絶対やだ」
「嫌だって……このままの方が嫌だろう?」
「やじゃない。あんたは嫌かもしんないけど、」
「俺は嫌じゃないが、一松が嫌なんだろう?べたべたしたら気持ち悪いじゃないか」
「そう言ったのはあんただろ!」
髪の毛を逆立てて一松が叫ぶ。こちらを見つめる瞳は素晴らしく咲き誇っており、そのアンバランスさが憎くなってくる。
恋の病なんて無ければこんなことにならなかったのに。愚かな欲を出さずに済んだのに。
見当違いな方向に怒りが向かっているのを頭の片隅ではわかっているのに、見つめる薔薇に口が動いてしまう。
「……なら、すぐに『恋の病』を治してやろう。そうすれば、俺が離れてもいいだろう?」
突然の提案に一松が驚いたように目を見開く。
「治すって、どういうことだよクソ松」
「恋の病は好きな人とキスをすれば治るんだ」
「は?」
「自力で行ってこいとは言わない。好きな人を教えてくれたら何が何でも連れてこよう」
彼のことだから幼き頃から俺たちのアイドル的存在のトト子ちゃんだろうか。はたまた俺の知らない子かもしれない。好きの度合いはどうあれ、二十も過ぎた年頃なのだから好意を寄せる子のひとりくらいいるはずだ。
そんな存在を知ってしまえばいよいよ立ち直れない予感があったが、相手がいるならばと諦めもつくかもしれない。
一松の言葉を待っていると予告なく引き寄せられ、彼の顔が一気に近付いてくる。一体どうしたんだ、と言葉を返す間もなく近付く顔は俺の顔にぶつかり、衝撃に怯んでいると腕を掴んでいた手が頭を鷲掴みした。そうして髪の毛をぐしゃりと混ぜ、指が耳と頬を撫ぜると、唇を彼の唇で塞がれた。
「ん、ふぁ?」
それはつまりキスされているというわけで、実感した瞬間、目から火花が散ったように視界がちかちかする。
驚きが勝って抵抗を忘れていた俺の口に、一松の舌が侵入してくる。口内を柔らかなものが撫でる感覚は未知のもので、胸は高鳴るのに頭がぼんやり夢心地だ。
ちゅ、と些か恥ずかしくなる音と共に唇は離れ、どちらともなく息を吐く。
「……呪いを解くのは口付けとか、『恋の病』と言われるわけだ」
しみじみと呟く一松の声にぼんやりしかけていた頭が覚醒する。
「い、いきなり何を……」
「いきなりしないとあんた逃げるだろ」
「逃げるって…そんなつもりはないぞ!」
「そんな情けない顔してよく言うね」
「情けない顔などしては……顔?」
自分が見えない顔を何故一松が知るのか。彼の発言を改めて考え、容赦なく真っ直ぐ睨みつけてくる瞳の薔薇が消えているのに気付く。
「もしかして……見えているのか?」
「見えてるに決まってるでしょ……あんた言っただろ、キスしたら治るって」
そう言って気まずそうに逸らされた視線は見えているからこそする仕草で、視力が戻っているのがわかる。
確かに今一松と俺はキスをした。だが、誰彼構わずキスをしたっていいわけではない。好きな人が相手でなければいけないはずだ。
「しかし、先日キスした時は何もなかったのに……」
「………したんだ?」
「あ、」
あああああああああああああなんてことだ!!急展開とはいえ秘かに行ったキスを自ら明かすとは…。
「キス、したんだ?」
逸らされていた視線がこちらに向く。薔薇の影すらない瞳はしっかりと俺を捉えており、いい加減な返しでは誤魔化せない予感がした。
「僕、知らないんだけど」
「……寝ている時に、したからな……すまない……」
「へえ?」
軽い返事が却って恐ろしい。寝込みを襲ったようなものなのだ、彼が怒ったって仕方がない。
「寝ている時なら舌入れるキスとか、そういうのは、」
「そそそそんなのっ、寝ていたって、起きていたってできるわけないじゃないか!」
「じゃあキスはキスでも、口をつけるだけのキスじゃ駄目だったってわけじゃないの……まあ、僕はキスで治る話はまったく知らなかったから、もしかしたら違う理由なのかもしれないけど」
唇を触れ合わせるのだって立派なキスじゃないか!そんな舌を入れるようなハードルの高いキス限定なんてどうなんだ…だから病院では一切薦めなかったのだろうか。それならば納得である。
「詳しいことはわからないけど、好きな奴とのキスで治るのは本当なんでしょ?」
「それは多分……きっと、そうだ」
「あんたにしては曖昧だな……僕はそうだと思ってるのに。『恋の病』が治ったのは、そういうことだよクソ松」
それはつまり、そういうことなのだと思い悩んだ俺にはすぐにわかってしまい、直接的な言葉ではないのに体が熱くなる。
「寝てる僕にキスしたあんたはどうなの?」
物の試しとはいえ、兄弟間の好意ではやろうとは思い至らないだろう。一松はそこのところをよくわかっていて、あえて俺に聞いているのかもしれない。
もしかして、治療を理由に秘かにキスした罰はこれなのか?
未だに一松の視線がこちらに注がれている。これは腹を括るしかないと深呼吸をひとつ、ついに俺は彼への想いを吐露した。
「それガセネタだから」
一松の『恋の病』が治って数日後、世間話の延長で「恋の病は好きな人とのキスで治る」話をしたらチョロ松に一蹴された。
「ガセネタ……なのか?」
「前々からそういう噂があるけど、医学的には何の根拠もないから。口を重ねただけで病気が治るわけないって臨床試験しなくたってわかるでしょ」
「しかし……キスしたら治ったという記事がネットにあったぞ?」
「有名な話だから客寄せのフェイクとかじゃないの。いいところで、タイミングよくキスした時にたまたま『恋の病』が治ったとか」
「たまたま……」
治る時期が個人差あるこの『恋の病』、そのようなこともあるのかもしれない。
ふと、一松が治った時のことを思い出し、気分が重くなる。あの治療法は嘘だった、なんて知られたらどうしよう。
「クソ松」
不意に呼ばれて反射的に顔を上げると、部屋の出入り口に立つ一松と目が合う。
「ちょっとコンビニ付き合って」
「ああ」
見下ろす瞳が俺を捉えている事実だけで、徐々に胸が高鳴る。
真実はどうあれ、俺と一松の間にあった出来事は変わらない。そして互いに抱いた気持ちも。治療法は嘘でも、それは嘘ではない。それで良いじゃないか。
一松に着いてゆくよう退室する際に後ろでチョロ松が何か言う。その声は何故かひどく遠く聴こえて、『恋の病』は盲目になるばかりではないのだと実感するのであった。