街の片隅に、その居酒屋はあった。
古めかしいビルの一階。カウンター席が10少しばかりしかないとても小さな居酒屋は、三代続く息の長い店だった。元々は私の祖父が喫茶店として始めた店だったが、その跡を継いだ母が大衆酒場として改装して店を守ってきた。その母も数年前に引退し、今は息子である私が店をやっている。
折角の店だが、このご時勢では儲からないよ。少し街中に出ればチェーン店がたくさんあるんだから。それに君はまだ若いのだから、もっと違う道があるはずさ。友人たちは口々にそう言う。だが、私の関心は向くことはなく、今日も昼を暫し過ぎた時間帯になると店を開ける。
生まれてからずっとあった店をどうして手放せようか。ここはただの店ではなくもう一つの我が家なのだ。
そのような思いはあっても、友人たちが心配するように店をやっていくのは厳しかった。それでも、私が生まれる前からの常連客がこの店を支えてくれて、新たな客も僅かながら増えてきている。
その中の一人に、日乃本豪(ひのもとごう)という男性客がいた。
「ここの店は明るい内からのんびり飲めるのがいいねえ。いつもの冷をひとつ」
「花冷えでいいですか」
私が確認すれば日乃本さんは「それにつまめるものを1つ2つばかり見繕ってくれ」と席についた。
「久々にゆっくり飲めるぜ」
「今日は用事はないんですか」
「まあな」
彼は昼過ぎから飲むが、そこそこ忙しい勤め人らしい。そこそこの頻度で遠方へ勤めに行った話を聞いたり、以前には日乃本さんを呼びに同僚の人(日乃本さんと同じくらい長身で赤い長髪が印象的だった)がこの店に訪れたので、私が知らないだけでやり手の人物なのかもしれない。
遠方に行ってどのような仕事をしているのですか。体躯が良いから何かやっているのですか。近所にいないようですが、どこに住んでいるんですか。客に対し、そのように込み入った質問をしてはいけないのは接客では常識だ。それはわかっているのに、この日乃本さんはとても興味をそそられる人だった。
質問する代わりに、私は店にいる彼を観察するようになった。
ある時は大学生とサークルの話で騒いだかと思えば、自分より大分歳の離れたお爺さんと最近の若者は、とくだを巻いたりしている。観察したところで更に興味深くなるだけだった。
「日乃本さんは掴めない人だと言われませんか」
「なんだ、昼行燈みたいにふわふわしてると言いたいのかい」
「い、いえ、そういうわけでは……ただ、そう思っただけです」
気を悪くしただろうか。そんな心配が過ぎったが、日乃本さんは楽しげに笑ってはお猪口へ口付ける。その動作のスマートなこと、この場に女性がいたら凝視したに違いない。
「お前さんがじいさん譲りの皮肉を言わない素直な奴だってことはわかってるさ」
じいさん? 私の祖父は20年近く前に亡くなっているが面識があったのだろうか。しかし日乃本さんは私より歳上のようだけど、そこまで歳が離れているようには思えない。誰かと勘違いしているのか。
閉口した私を見て、珍しく日乃本さんは気まずそうに明後日の方向を見つめる。その様子は動揺しているようにも思えて、ついまじまじと見つめていたが、来客があったので私の意識はそちらに移った。
一通り料理を運び終えてカウンターの向こうへと戻ると、日乃本さんがひそひそと電話で話しているのが見えた。その表情は傍から見る内にころころと変わり、電話相手が彼にとって特別な人物なのがわかる。
時折、彼はこのような電話をすることがあった。その時ばかりは箸にも、酒にすら手を伸ばすことなく電話相手と会話をする。
「うん……相変わらず、あんたは融通が利かないな……、…今どこかって? 馴染みの店でちょいと一杯やってるとこだ。……ん、おう。わかってるよ、少しはオレを信用してくれないかね……」
心なしか、会話する声が柔らかい気がする。きっとそれは私の気のせいではなく、相手を想うあまりにそうなったのだろう。それを微笑ましく思っていると、日乃本さんは携帯電話をズボンのポケットへ仕舞った。
「もう電話を切りやがった……せっかちだな、あいつも……」
「相当好きなんですね」
「?」
「電話の相手のことですよ。見ていてよくわかります」
そうはっきり言えば、日乃本さんは反論することなく頭をがしがし掻いた。
「あんたにわかるのに、なんだってあいつにはわからないんだか……いつまで経っても昔馴染みの仲間としか思ってねえ」
ここには居ない誰かを思うその表情はひどく憂いを帯びていて、酒を楽しむ時と全く違う印象を受ける。いつでも飄々とした彼にこんな表情をさせる相手が、一体どういう人なのか。とても気になった。きっと、とびきりの美人で、日乃本さんと対等に付き合える素敵な大人なのだろう。
「それなら、いつもと違う格好をしてはどうですか? これまでと違った姿を見せれば、相手も意識するんじゃないですか」
「違う格好ねえ……オレはあんまり上等な着物は持ってないんだが」
「それならばプレゼントを用意してはどうですか。例えば花束とか」
「花束なら用意できるが、オレも相手も柄じゃないな」
「確かに日乃本さんに花束はあまり想像できませんけど、それがかえって特別なプレゼントに思えるんじゃないですか」
ですから試すだけでもしてはどうですか。そう言う代わりに笑いかけると日乃本さんは少し神妙な顔をしながらも、ひとつ頷いた。改めて、出過ぎた真似をしたかと思ったが、彼が怒ってないようなのでほっと息をつく。
「もし。もし良かったらですけど、うまくいったらここに連れてきてくれませんか。日乃本さんの好きな人なら、きっと素敵なひとでしょうねえ」
「ああ、まあ、素敵かもしれねえが…お前さんが思う奴じゃないと思うぞ」
そうは言うのに、素敵な人であることは否定しない日乃本さんに、私は微笑ましい気持ちでいっぱいになった。
それから数日後。日中は殆どが常連客ばかりの店に、明らかに初めて見る客が現れた。
深紫のジャケットを着こなした若い男性は、まるで雑誌モデルのような綺麗な姿勢のまま一番奥の席に腰を下ろした。
紫のジャケットなんて、そこらの人なら珍妙な格好に見えるだろうに、明るい色の髪と瞳を持つ男性にはとても似合っている。ただ、それはこの店にはとても不似合いで、彼の座った周りだけ違う店のようにも見えてしまう。
不似合いなだけにあまりこういった店に馴染みがないのか、どこかそわそわと落ち着きがない。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
私が差し出したメニュー表を見た彼は、僅かに眉を寄せる。
「……アルコール類以外はないだろうか」
「緑茶かウーロン茶であればありますよ」
「それならば、緑茶をひとつ」
「かしこまりました」
居酒屋と知らずに入ったみたいだけれど、たまたまここが目について入店したのだろうか。それにしたって何の気まぐれでここへ来たのか。この人ならば表通りのカフェに入った方がずっと様になるはずだ。
お湯を沸かしながらお茶の葉を用意する。その間もちらちらと奥の席を見れば、彼は壁掛けの時計を見つめていた。
もしかして、誰かとここで待ち合わせしているのだろうか。それならば、この不似合いな居酒屋に彼ひとりで来店するのも納得ができる。ただ、もしその予想が当たっていたら、誰がこの店を待ち合わせ場所にしたのやら。自分の店ではあるけど、この人との待ち合わせ場所にするには趣向が違う気がする。
お茶と共にあんぽ柿を差し出すと、彼は瞳を少し見開いた。
「あまりものですが、人を待っているならお茶だけでは足りないと思いまして」
お代は要りません。と言えば、暫し黙った後、控えめな声で礼を述べて柿を受け取った。
「……気を遣わせたようですまない。待ち合わせ場所に指定されたから来たんだが、まさか酒を飲む店だとは思わなかったんだ」
やはり待ち合わせしていたのか。予想が当たっていたことに内心安堵する。
「いえいえ、この時間帯ならランチ代わりに食べ物だけ召し上がるお客様もいますからお気になさらずに」
近くで対応して初めて気付いたが、今まで見たことのない薄紫色の瞳をしている。ついそれに見とれては、会話を続けてしまう。
「それにしても昼間の待ち合わせに居酒屋を指定するのも変わった人ですね」
「まあ、相手は無類の酒好きなんだ。この店が好きで指定したのかもしれない」
綺麗な見た目故の冷淡さを感じていたが随分話しやすい人だ。だが、このまま話し込むわけにもいかないと、ごゆっくりと一言残して、その場から離れた。
しかしそれから30分経っても、彼の待ち人は現れることはなかった。こんなに待たせるなんてどこの誰なのか。ここをあえて待ち合わせ場所に指定したくらいだから常連客だろうが、誰なのかまったく見当がつかない。
そうしてそろそろ一時間が経とうとしたところ、私は新しいお茶を持って再び彼の席へ行った。空になったカップを新しいものと取り替えて皿を下げると、彼が戸惑った表情で見上げてくる。その顔は案外にあどけない。
「待ち合わせ相手に請求しますから、遠慮なくどうぞ。一時間貴方を待たせた代償としたら安いものですよ」
「その心意気、感謝するが相手は来ないかもな」
「どのようなご関係の方ですか」
不躾な質問に、困ったように笑って首を振る。そして何かを言いかけて口を噤むが、私が辛抱強く待っていると、小さな声で「昔馴染みの仲間」だと言った。
「そいつが、今日、大事な話があると誘ってきて……」
昔馴染みの仲間という一言に既視感を覚える。それは果たしてどこで聞いただろうと記憶を遡り、ようやく一つ思い当たった。
日乃本さんだ。でも、この人と日乃本さんはどうにも結びつかない。
「どうやら俺との約束を忘れているようだ」
それなのに寂しげに笑う彼の姿は、どこかあの日の日乃本を彷彿とさせる。
意外とこの人と日乃本さんも気があうかもしれない。基より誰ともフレンドリーな人だし、今ここに居ないのが少し悔やまれる。彼が居たら、少なくともこの人の一時間はあっという間に過ぎたに違いない。
「大分時間が過ぎたな……長居して申し訳ない」
立ち上がり、会計の準備をする男性に自分のことのように胸が痛くなる。ここの常連客はみんな良い人ばかりだと思っていたのに、この人をこんなに待たせてしまったのは誰なのだろう。
「あまり良い思い出のある店ではないでしょうけど、良かったらまた来てください」
「もちろん。それに、あいつがこの店を待ち合わせ場所にした理由もよくわかったからな」
そう言い残すと、彼はジャケットを翻して店を後にした。
全く、とんでもない人も居たものだ。あんな誠実そうな人を弄ぶなんて……何より、そんな嫌で堪らない人が私の知る人かもしれないなんて。
苛々した気持ちを抱えながら、やつあたりとばかりにつまみの下ごしらえを始める。もしかしたら今日はちょっと大味になるかもしれない。
ぐつぐつとモツを煮込んでいると、引き戸が割れんばかりに勢いよく開き、一人の客が店内に飛び込んできた。突然のことに苛々も吹っ飛んでしまった私の前には、よく知った人物がいる。
「……日乃本さん?」
目の前に立つ日乃本さんはひどく息を弾ませ、手には一輪の真紅の薔薇が握られていた。それはここにくるまで強く握り締めていたのか、よれよれのくしゃくしゃである。
一息ついた日乃本さんは店内をぐるりと見回し、私以外の姿がないことを知ると、すぐにカウンターに飛びついてきた。
「なあ、あの。あんた、オレより頭ひとつ背が低くて、やけに小奇麗な召し物を着ていて……藤色の瞳を持った男が来てなかったか」
私の脳裏には『彼』の姿が浮かび上がり、その彼の瞳の色は藤の花の色だったのか、どこか頭の片隅で納得する。
「その人なら、ついさっき、出て行きましたよ」
「え、」
驚く間もなく日乃本さんは店を飛び出していくので、私は慌ててその後を追う。
「その薔薇、丁寧に扱わないと渡す前に散ってしまいますよ!」
叫んだ私の一言に、彼の足がぴたりと動きを止めた。その後、薔薇を丁寧に丁寧に持ち直してゆっくりと慎重に歩きだす。しかし辛抱堪らないのか、次第に歩幅が大きくなり、再び走り出した。
「もしかして、」
昔馴染みの仲間。一時間待った彼と、薔薇を手に現れた日乃本さん。
うまく言葉にできない、もどかしい気持ちが競り上がってくる。そんな気持ちを抑えて店内へと戻ろうとすると常連客のひとりが来店した。
「店主、生一つ」
「はいただいま。あと、出来立てのモツ煮込みがありますけどどうですか?」
「そいつはいいねえ。お願いするよ」
お客さんはどっかりとカウンター席の真ん中に座ると、さも面白げに口を開いた。
「そういえばさ、花屋で日乃本さんを見かけたよ」
「花屋?」
花屋と日乃本さんに、先程のくしゃくしゃになった薔薇を思い出す。
「それが想い人に花を贈るんだって、一時間も悩んでたっていうんだ。お熱いねえ」
一時間も、とまで聞いて、吹き出しそうになるのを必死で堪える。事の真相がどんどん見えてきた。
「結局買ったのは真紅の薔薇だったから、あれは愛の告白をするつもりだな」
「……ぶふ、」
ついに噴き出してしまった私にお客さんが怪訝そうに見つめてくる。何でもない、とそそくさとカウンターの内側に逃げ込み、素敵な話を聞かせてくれた常連客に頼まれてもいない小鉢のつまみを用意する。
あんなに苛々していたのに今はわくわくした気持ちが溢れる。それでも、一時間の遅刻を日乃本さんはどう埋め合わせるのか心配になった私は、近い未来にふたりでここに来店するのを願うのだった。