コインランドリーの彼 ※パラレル

 季節はまだ梅雨が明けない初夏。今朝も小降りだが雨がさらさらと静かに降っていた。脇に抱えた洗濯籠が傘を差すのにちょっと邪魔で、思わず籠を落としそうになりながらコインランドリーの戸を引いた。
 無人の室内にからからとサッシの扉が開く音が響く。
「よいしょ」
 洗濯籠の中の洗濯物をランドリーに入れると、蓋をしめてコイン投入口に100円を一枚入れた。勢いよく水が出る音が聞こえたら洗濯開始だ。
 毎週日曜朝8時と水曜夜22時、僕はこうして洗濯籠を抱えて最寄のコインランドリーへ洗濯しに行く。僕の住まいは洗濯機がないからよくお世話になっている。
 今の住まいは実家ではなく、安いだけが取り柄の一間のボロアパートだ。希望した遠方の高校へ通うために実家を出たのだ。高校生の一人暮らし、大変だろうなんて思われそうだがもうここに住み始めて二年少し経った。現在高校三年生で何かと忙しくはあるが慣れたものだ。今の住まいは同じ高校の生徒が多く入所しているから安全面は保証できると考えて選んだのだが、安全面はバッチリでも設備はなかなかに不便であった。
 部屋の台所が玄関入ってすぐにあるのは全く構わない。しかし室内の水周りはその台所にしかなく、トイレは共用だし、風呂はアパート内にはなくて少し歩いたところに銭湯があるくらいだった。トイレはまあ、共用でいいとして風呂はせめてシャワーくらいあれば良かったのだが、そんなものはなかった。トイレも風呂もないなら洗濯機なんてものもなかった。大家さんや先輩が流しの水道を使えばできなくはない、と言っていたがそうなるといちいちホースを蛇口へ着脱する手間もあるし、なにより洗濯機を置くスペースなんてなかった。 よくもまあ、こんな不便なところに高校生を投下できるな……そう思いつつ僕も投下された一人なんだけど。二年以上住んだ今にしてみれば不便な分、自分であれこれ考えて対処する場面があってたくましくなったから結果オーライだしいいんだけどさ。
それでもここ数年はこのアパートの不便さが浸透してきたのか新入生の入所はなく、現在高校生でここを借りているのは僕一人だけだった。それが正しい。ここに来たらたくましくなるけどわざわざ不便なところに来ることはないんだよ。

 長く過ごした分、もう今の生活ではそうそう大変とか不便とか思うことはなかったけど、時折風呂があったらなあとか洗濯機があったらなんて想像はする。ランドリーや銭湯への移動時間がない分きっと手間は軽減される。その代償として元から狭い部屋が更に狭くなるのは確実だな。 それはそれで嫌だから当分はいいや。それに、僕はコインランドリーで過ごす時間を気に入っていたりするから。

 部活もしていない男子高校生の洗濯物の量なんて少し溜め込んでも高が知れてる。大した量ではない洗濯物を回すのに50分、そして梅雨の時期にはこれに乾燥機を使用する時間が加算される。タオルケットみたいな大物さえなければ乾燥するのに30分。洗濯から乾燥まで1時間20分。そう考えると短いが、それまで待つとなると長い。そこでいつも僕は洗濯物と一緒に文庫本やテキストを持ってくる。
 この時間潰しが実は好きだ。このコインランドリーは普段から利用者が少なく、加えて大通りから離れているお陰で車のエンジン音もそう気にならない。集中するには結構いい場所で二時間近く待っても苦痛にならない。そして最近、雨が降る日曜朝9時近くになると必ず「彼」が来るから。

 「彼」とは、いつも通りならこれから来る人物だ。ちらりと壁掛けの時計を見ればまだ8時半をやっと迎えた頃だった。それでも早ければ来ている時間ではある。持参してきていた文庫本を開いて紙面に視線を落としたが、どうにも外が気になってしまい、何度か上目でこっそり外を窺う。
「あっ」
 思わず声を上げてしまい、誰がいるわけではないけど手で口を覆う。外に大きな人影が見えた。
 「彼」が来た。そわそわする気持ちを抑えて文庫本に視線を戻す。僕は彼が来るのを待っていたけど、彼と僕は知り合いじゃあない。良くて顔をたまに見る奴、それくらいの関係だ。
 からからと引き戸が動く音に、垂れた前髪越しに出入り口をそっと窺うと2m近い長身の男性が立っていた。この男性が僕が言っている「彼」である。彼は脇に抱えていた雨除けの袋に包まれた洗濯物を取り出すと乾燥機に放り込む。そして蓋を閉めてコインを二枚、投入口に入れた。ぶん、と小さく唸りながら運転開始した乾燥機を確認したのか、傍にあったベンチへどっかりと座った。
 彼がここに来るようになったのは5月の最初の日曜日だった。彼が持ってくる洗濯物は前もって自宅で洗濯しているようで、いつも一時間かけて乾燥機だけ回してゆく。多分に梅雨のこの時期、なかなか洗濯物が乾かないからこうしてランドリーを利用しに来てるのだろう。
 彼は太い腕を組み、目を伏せて俯いた。これは彼の待機する際の姿勢である。それを見届けると僕はそっと顔を上げた。前髪のないクリアな視界で見る彼の姿はまるで雑誌の切り抜きの一枚のようで、ついつい口からはため息が漏れた。月並みな感想だがいつ見ても格好良いなあ、顔や体つきからして外人さんかな? 体全体が骨太そうで、髪は黒いけど日本人っぽくはない。
 彼が目を伏せているのをいいことに読んでいた文庫本そっちのけで彼を観察する。何してる人なんだろう。背が高いし格好良いからモデル?それとも逞しい体をしてるからスポーツ選手? どちらにしてもこんなこじんまりとしたコインランドリーには場違いな感じのオーラのある人だな。
 心なしか辺りから聞こえていた機械音が小さくなったように思えて洗濯機を見ると、僕が回した洗濯が終わったようだった。さて、皺伸ばしして乾燥かけるか。ぱんっとタオルの皺を伸ばし、一度洗濯籠に畳み入れる。以前に皺伸ばししないまま乾燥機に入れてシャツがぐしゃぐしゃになって以来、面倒だなあと思いつつ皺伸ばしは必ず行っている。また、ぱんっとひと叩き、シャツの皺を伸ばしていると、目を伏せていた彼がいつの間にかこちらを見つめていて内心飛び上がりそうなくらい驚く。じっと見つめる顔は格好良いけど、ちょっと恐い。もしかして皺伸ばしに洗濯物を叩く音がうるさかっただろうか。
「す……すみません」
「いや、続けて構わない。気にしてねえ」
 あ、日本語上手い。謀らずとも彼との初めての会話。
 申し訳なく軽く頭を下げた僕に向けられた声は落ち着いた低さがあった。少々ぶっきらぼうな口調だけど怒ってはいないらしい。
 そのことにほっとしつつ、彼とほんの少しとはいえ言葉を交わせた事実ににやけそうになってしまい、誤魔化すように皺を伸ばす手を早めた。通称「コインランドリーの彼」は最近僕が気になる人で、彼に会える日曜の雨の日を楽しみにしている。それはほんの好奇心の始まりであり、まだまだ恋の予感などなかったんだ。

 「彼」は大体9時前に来るが、たまに9時過ぎに来ることもあった。彼の都合だってあるから来る時間がまちまちでも仕方ない。僕だってたまに寝坊したりして8時半過ぎにコインランドリーに向かうことがある。だから僕が8時よりほんの少し早く来て、彼が9時過ぎに来ると僕が帰る頃だったりする。折角彼が来たのに帰らなければならないなんて。でも用もないのにコインランドリーに滞在していたら怪しまれてしまうから、そんな時は横目でそっと彼を見つつ帰宅する。それなら時間をずらして僕も9時にコインランドリーを利用すればいいのだが、毎週日曜10時はバイトが入っているのでしたくても無理なのである。世の中、そう上手い具合に計画できない。
 「はあ」コインランドリーに僕のため息が落ちる。習慣である水曜22時の洗濯の時間、 24時間利用できるコインランドリーに僕以外の人はいない。
 今週の日曜日は前述したような展開があり、あまり「彼」を見られなかった。いつも通り腕を組んで顔を俯かせる彼を横目でちらっと眺めてランドリーを出た僕は我ながらちょっと変だと思う。変っていうか端から見たら不審者かも。でも仕方ないじゃあないか。彼は目が離せないくらい格好いいんだから。しかも10人いたらきっと12人振り返るくらいの格好良さなんだから。
 本当になんであんな格好いい人がこんなコインランドリーを利用するんだか。今僕がいるコインランドリーは洗濯機3台、乾燥機3台がある。利用者が少ないから問題ないけど、設備としてはそう充実してない。少し歩けばもっといいランドリーはいくつかあるだろうに。まあ…それでもここを使っちゃ駄目ってことはないし、家が近いとか些細な理由で使ってるのかもしれない。
「それでもなあ」
 納得できないというか、なんだかしっくりこないというか……うーん?
 彼がいつも座っている備え付けの水色のベンチに座る。彼より体重が軽い僕が座ってもぎい、と小さく軋んだベンチは所々ペンキが剥がれていて誰が見てもそういいものだとは思わないはずだ。そんなベンチに彼が座ると絵になってしまうんだからそれだけ彼が格好いいんだ。
 いつもの彼のように腕組みをして俯いてみる。たまに足も組んでるから組んでみたがどうしても僕がすると決まってないような気がして、組んでいた腕と足を解いた。
「……何やってんだろ」
 夜のコインランドリーでひとり、彼の真似をしながらポーズを決める僕は第三者から見ればおかしい奴だろう。ここが本当に利用者が少なくて良かった。
我ながら恥ずかしい奴め、なんて思いながら僕は持参していた参考書を開いた。

 日曜の朝、背中が汗でびっしょりで思わず起きた。
「……暑い……」
 起き上がると額に汗が流れる感覚があり、頬に前髪が張り付いて気持ち悪い。6月の頭、天気が良い日は気温が上がることもある時期になってきた。しかし時計を見ればまだ時間は7時を少し過ぎたくらいだった。こんな朝から暑いなんて今日はどれくらい気温が上がるんだ。
 シャツをぱたぱたと動かして涼みながら窓を窺うと眩いくらいの陽射しが射し込んできていた。晴れてる。梅雨の時期だからといって毎日雨が降ってるわけじゃあないから今日みたいな晴れの日だってある。でもよりによって、日曜の今日だなんて……。
 「彼」は雨の日の日曜9時前後にコインランドリーを訪れる。雨が降るから乾燥機を使いにきている彼は晴れたら来ないのはこれまでもあったので知っていた。しかしこれでは先週さえほんの少ししか会えなかったのに今週は全く会えないということではないか。
……それなら早く、行くかな。彼が来ないならわざわざ8時に行かなくたっていいんだし、今日みたいに良い天気なら早く洗濯して干せばバイトから帰ってきた頃にはからっと乾いてるだろう。天気がいいと乾燥機要らずだから100円浮く。だから得するのに僕の心境は空模様に反してもやもやと曇っていた。なんだかなあ僕ってば。
 気を紛らわすように部屋を出る準備を始める。寝巻き代わりに着ているシャツや短パンも汗で濡れてるからこれも洗濯に出してしまえ。脱いでパンツ一丁のまま洗濯籠に衣服をまとめ、そのままランドリーへ持ってゆく冊子を探す。明日は化学の小テストがあるから参考書でも持っていくかな。
「……?」
 参考書や教科書が収まる棚を端から順に確認するがお目当ての参考書がない。出しっぱなしだっただろうか。勉強机兼食卓である小さなテーブルを確認するがあるのは飲みかけのペットボトルとゲーム雑誌だけだ。
「あれ?」
 どこやったろうか?
 狭い部屋で探す場所は限られる。未だ布団が敷かれたままの床に放りっぱなしだろうか。そんなところに置いた覚えはないけど見当たらないので、僕はとりあえず手当たり次第に探すことにした。参考書を探して10分ちょっと、その姿を見つけられず僕は諦めてコインランドリーへ向かった。探し場所が限られてるので少しの時間でも十分に部屋中を探せたが、そのどこにも参考書はなかった。もしかしたら学校に忘れてきたろうか。普段から置き勉はしないのだがついうっかり鞄に入れ忘れたのかもしれない。
 代わりに化学の教科書を脇に抱えてランドリーへ到着した。日が入ってランドリー内は蒸し暑くなっていたのか、引き戸を開けた瞬間に熱気が出迎えてくれた。うわあ、この中で50分待てるだろうか。
 相変わらず利用者がいないのをいいことに戸を開放したまま、僕は洗濯機を回す。じゃばじゃばと回る洗濯機内の水音は涼しげだが、風通しの悪いランドリー内は開放しても暑い。また汗が流れ、首をつたう。こういう時は心底住まいにシャワーがあればいいと思う。今の時間だといつも利用している銭湯は開いてないので気楽に汗を流すことはできない。代わりに濡れタオルで体を清めたりはするけど、やっぱりシャワーの方がさっぱりするからなあ。
 そんなことを思いつつ教科書で顔を扇いでいると、出入り口から砂を踏みしめるような音が聞こえた。誰も来ないと油断していたら人がくるとは、うちわ代わりに使っていた教科書を広げて視線を落とす。それにしても参考書がないのはちょっと不便だな。明日は少し早めに学校に行こう。

「おい」

 すると低い声と共に視線の端に靴が見えた。
「おい、」
 その見るからに大きい靴は僕の近くまで歩いてきて、あろうことか僕の前で止まった。「聞こえねえのか」
 低い声はなかなかに美声だったが、その分凄みがあって顔を上げるのが躊躇われる。急に何の用かわからないけど、こんな怖い声の人と僕は関わったことありません。恐ろしくて反応したくないが勇気を出して人違いです。と言おうと顔を上げると、そこには「彼」がいて、毛が逆立ちそうなくらい驚いた。
 今日は日曜日だけど晴れだから彼はここに用はないはずだし……第一になんで僕に話しかけてくるんだ?
 驚きのあまり固まっていると彼は「やれやれ」と一言、僕の顔の前に冊子を差し出した。それは出掛け間際に探していた化学の参考書で、思わず参考書と彼の顔を見比べる。
「ここで見つけた。てめえのか」
 話さなくとも疑問は顔に出ていたようで彼はそう答える。そういえば水曜に持ってきたのは化学の参考書だったような…朧気な記憶だったが差し出された参考書を手にとって裏表紙を見ると僕の名前がしっかり書かれていた。まさか会えるばかりではなく話せるとは。驚きはおさまらずに黙っていると彼はランドリーの出入り口へ向かって行った。
 あれ、もう帰る? ここに用はないのか?それなら帰る前にお礼を言わないと。
「あの!」
 慌てて駆け寄り彼の隣に並ぶと僕の視線の高さに彼の肩があって、改めて高身長であるのだと知れた。そして僕を見つめた瞳が見たこともないような色を放っていて、直視出来ずにすぐそこに見える肩へ視線を移した。
「その、参考書……ありがとうございます」
「俺はその参考書を拾った奴に急かされただけだ。気にするな」
 彼はそう一言、踵を返して歩いて行ってしまった。そんな彼をお礼以上の言葉が見つからなかった僕は黙って見送ってしまった。……しかしこれって僕に参考書を返すだけのためにここに来たのか?
 そんな考えが頭を過ぎって僕は暑さとは別に顔が熱くなるかと思った。

 そういえば、なんで化学の参考書が僕のものだってわかったんだろう。
 帰宅して洗濯物を干している最中、ふとそんな疑問が浮かんだ。
 僕と彼はほぼ毎週日曜日、あのコインランドリーで一緒になる。でもそれ以上何かあったかといえば全くないに等しい。こちらが少しうるさくしてひとつふたつ会話を交わしたくらいにして、お互い名前も知らない。わかるのはコインランドリーの利用者というくらい。もしかしたら利用者が少ない分、顔くらいは覚えてもらえたかもしれないけど…それでも参考書が僕のだとわかるとは限らない。
 そう考えて、つくづく僕と彼は知らないことばかりだと気付く。当然だ、僕は彼を見つめるだけだし、彼は腕を組んで俯いてるだけなんだから。これで何かわかるならエスパーだろう。
 ……エスパーは冗談だとしてわざわざ渡しにきてくれたんだからお礼の言葉だけでは良くないような気がして僕は首を捻る。
 言葉以外なら品物?しかしそれはそれで難しい。お礼したいけど参考書に対して見合うお礼ならそう高いものだと彼が困るし、かといってお菓子……は彼はお菓子食べるかな。食べないもの渡しても迷惑だもんなあ。
 別に良く思われたいわけじゃあないけど。でも悪い方面に印象を持たれるのもそれはそれで避けたくて僕はバイトの時間ギリギリまで唸っていた。

「その場合はお礼の言葉だけにして渡さなければいいのよ」
「そうなんですか?」
 皿洗いのバイトの最中も少し考えたが、結局どうするか決められなくて僕は就業後にホールリーダーへ相談してみた。リーダーであるその女性は濃いめのブロンドの髪と新緑のような瞳の色が日本人ではなく外人だと一目でわかるが、流暢な日本語ところころと笑う笑顔が親しみが持てて外人だというのが気にならなくなるくらい愛嬌がある方だ。人見知りな僕も密かに慕っている素敵な女性だったりする。そんなホールリーダーへの相談、一般的な意見を聞きたいだけなので軽い気持ちで相談してみたが彼女からはすぐにそう返ってきた。
「こっちが気にしていると相手も気にしてかえって気を遣わせてしまうわ。ちゃあんとお礼を言ったなら、感謝してると相手には伝わってるわよ」
 そう言われると確かにそうかも。僕が彼の立場ならばあまり気にしないでほしい。
「それなら、いいんですけど」
「そんなに気にするなら『お礼にお茶しませんか?』って誘えば?きっといい雰囲気になるわよん♪」
「な、何言ってるんですか……」
「ノリアキ君がそんなに気になってるから、それだけステキな人かと思って」
 彼はステキな人なのは確かに……とても素敵だけど、誘うのはちょっと……。
 思わずたじたじになる僕と、そんな僕を微笑ましげに笑うリーダーの瞳は何故か既視感があって思わず視線を落とした。

 水曜夜22時の洗濯は銭湯から直接向かう。僕が普段利用している銭湯は番頭さんがいる昔ながらのところで貴重品を預かってくれるし、荷物番もしてくれるから気軽に洗濯物を持参できる。
 僕はこの銭湯にはあえて就業30分前に訪れる。ここはおじさんおばさんの利用者が多く、僕くらいの年代の利用者は滅多に来ない。そうなると人が多い時間に来ると僕は若いという理由だけで声をかけられたり、話題の的にされやすい。子供は可愛がる対象とばかり大人たちは良かれと思ってあれこれしてくれる。悪い気はしないがほんの少し気まずくて苦手だったりする。それを避けるために僕は人の少ない時間を選んでくる。しかしそれでもたまにお節介な人と鉢合わせになってしまうことがあり、今まさにそんな人からチューペットを差し出されてしまった。
「溶けちゃうから早めにおあがりね」
「あ、ありがとうございます」
 チューペットをくれたおじいさんはしわくちゃの手で僕の頭を撫でるとゆっくりと銭湯をあとにした。僕なんかよりずっと小さいおじいさんなのに本人からすれば孫みたいに見えるんだろうか。
 思わず苦笑しつつ、僕も銭湯を出てコインランドリーへ向かう。

 今夜はコインランドリーへ向かうだけなので上はタンクトップ、下は七丈のステテコの寝間着兼部屋着の格好だ。長距離移動ではないし、夜の住宅街で同級生に会う確率は非常に低い。実際に何年ここを通っても同級生と鉢合わせしたことは覚えてる限りでも片手の指で足りる程度だ。会ったとしても大して気にはしないし、こんな夜にめかしこんで出掛けてる方が怪しいくらいじゃあないか。街灯と住宅からの疎らな明かりの中、僕は貰ったチューペットをぱきんと折って片方に口をつける。人影はないし食べ歩きくらいいいだろう。久々に食べるチューペットは甘酸っぱく記憶するより美味しくて、それならばもっとちゃんとお礼を言えば良かったと少し後悔の念が沸く。
 ……そういえば僕、彼にはちゃんとお礼を言えていただろうか。
 ふと、ホールリーダーの言葉を思い出す。しっかりお礼を言えていたなら彼女の言う通りの対応をしたら大丈夫だろうけど、驚きのあまりにまともに言ったか怪しくなってきた。どうだったかな。記憶を探るけど強い陽射しの下で初めて見た「彼」と、そんな彼の声が大人っぽくて、少し恐くて格好良かったくらいしか思い出せない。我ながらボキャブラリーが貧困な表現しかできないけど、あんなに視線を惹きつけられる人と会ったことがないから仕方ないじゃあないか。チューペットの厚いフィルム越しに氷菓を砕いていると前方に車が留まっているのが見えた。その車は暗いカラーリングで夜はあまり目立たないだろうに街灯に反射して微かに輝く車体は綺麗で、特別車が好きでもない僕でも手入れが行き届いているのだと感じた。
 ……うわ、これベンツだ。このマークは流石に僕だって知ってるぞ。この近辺の住宅に住むお金持ちのものか? そんな貧乏臭いことを考えながら覗いた内装も見るからに手触り良さそうな座席であった。
「何か用か」
「ひ、」
 突然背後から声を掛けられ思わずびくっと肩が跳ねた。夜中、こんな人通り少ない道路に長時間停車するなんてあまりに不用心だ。この場合近くに持ち主が居たっておかしくはない。そんな状況で僕は不躾にも車内を覗いていたわけで。これはどう見ても不審者ですお巡りさん紛らわしくてすみません。
 持ち主だろう声の主の方へ恐る恐る振り返る。気まずさのあまり俯いてしまうのは許してください。紛らわしいことをしてますが物取りじゃあないんです。
 まず見えたのは薄暗い中でも光る真っ黒な革靴だった。車同様手入れされてるなあ……なんて現実逃避しつつ、これではいけないとゆっくり顔を上げる。視線が上がるにつれて皺一つない真っ黒なスーツが見えて、背筋が冷えあがるようだった。
 金持ちではなく、まさかの「や」のつく方だとは。さよなら僕の青春時代。もう少ししたら高校卒業するのになんてついてないんだ。
 そうして180近い僕よりも随分大きいらしい持ち主の顔を見て、冷えあがった背中から更に汗が吹き出るかと思った。
「あ、あなたは、」
「あ? てめえ、洗濯場の……」
 一回り大きな「や」の人はまさかの「彼」で僕は思わず脇に抱えていた洗濯籠を落としてしまった。
「あっの、その、わっ」
 地面にひっくり返る洗濯物を慌てて拾おうとするが情けなくとも両手はチューペットで塞がれており、突然の彼で驚いている中で焦りも生まれる。そうしてわたわたしていると彼が洗濯物をかき集めるように拾い上げてあっと言う間に籠へ入れてしまった。
「すいません……」
「今からあそこ、行くのか。洗濯…コインランドリー」
「は、はいっ」
「なら、すぐそこだな。両手塞がってんなら持って行ってやる」
「あのっ」
 チューペットくらい片手でまとめて持てますから。と僕が言う前に彼は洗濯籠を軽々と抱えてコインランドリーのある方面へ歩き始めてしまう。かつかつとあの綺麗な革靴が鳴らしてるだろう軽快な足音が住宅街に響く。足音と共に翻す黒いスーツが様になっていて、反して自分のあまりにラフな格好に恥ずかしさを覚える。折角彼に出会ったのに……いやいや、恥ずかしがる前に洗濯籠を受け取らないと。歩幅のせいか彼の歩く速度は速く、僕は小走りでやっと追いついた。
「あのっ……僕なら大丈夫ですから、変わります」
「もうすぐそこだ。そう変わらん」
 彼の言う通り前方にはもうコインランドリーが見えて、しまったと思う頃には到着してしまった。
 先日の参考書といい、こんな些細なことで世話になるなんて。塵も積もれば山となるのと同様に些細なことも重なれば申し訳なさも膨れる。しかも些細なことだからこそ尚更申し訳なくなるのだ。
「すみません」
「……こういう時は謝るより感謝するもんだ」
「あ、ありがとう、ございますっ」
 僕の言葉に満足したのか彼はひとつ頷くとベンチの上に洗濯籠を置いてランドリーの出入り口へ足を向けた。暗がりの中歩く彼を見送る。全身黒い彼は暗がりでは目立たないはずなのに、「彼」は彼の車や靴のように目に付いた。
 今度はちゃんとお礼、言えたよな? やはり少し不安でこれで良かったのかと気にかかっていると、手に持っていたチューペットが目に入った。

「あの!あの、ちょっと待ってください!」

 人通りのない道路、僕の声はよく響いて「彼」が振り返る。すいません、でも、時間が許されるなら待ってほしい。
「あの、」
 立ち止まって振り返る彼に駆け寄ると僕は口をつけてない方のチューペットを差し出した。これくらいしかないけど、言葉だけでは足りないような気がしてせめてもの気持ちであった。
「良かったら、どうぞ」
 流石に彼は予想外だったのか、少し目を見開いて窺うよう瞬きを繰り返した。暗がりでもわかる緑の瞳がコインランドリーから漏れる灯りを反射して煌めいた。日本語は上手いけどやっぱりこの人外国人かな、見たことないくらい綺麗だ。
 思わず見とれていると彼の手が差し出した手に軽く触れて、我に返る。
 ……身長と同じく大きな手だな。
「おう、ありがとう」
 彼はチューペットを受け取ると目を細めて笑い、僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。あまりに大きな手は軽く撫でているつもりでも僕の髪の毛を乱す。
「……夜遅いから、帰りは気をつけるんだぞ」
 まさか撫でられると思わなくて固まる僕を尻目に彼は先ほどのように足早に去ってしまった。言いようのない気持ちが溢れ、思わずそこにしゃがみ込む。困惑を覚えつつ、でも嬉しい気持ちも少しあるようで、一体僕は彼の手に何を感じたのかわからなくて、それでも明らかな子供扱いに羞恥の気持ちはあって。
 僕はあまりの恥ずかしさに、手の中にあった溶けかけのチューペットを握りつぶしてしまった。

「よう」
 まさかだろう。
 日曜日、朝から土砂降りでこれは「彼」が来る確率は高いだろうと、できるだけギリギリにコインランドリーに訪れて密かに待っていた。その予想通りに8時半頃に彼は訪れ、ランドリーの引き戸を開けて……僕に挨拶したのだ。
 初めて挨拶された。
 何かの間違いか?そっと視線を上げて窺うと彼はしっかりと僕の方を見つめていて、どうしたものかと視線が離せなくなった。
「……、……おはようございます」
 なんでいきなり挨拶なんか?挨拶習慣?それとも第一声を投じることによる牽制? 戸惑いつつ、それでもスルーするのは良くないと挨拶を返すと彼はいつものように洗濯物を乾燥機に投入するとどっかりとベンチへ座り、腕を組んで目を伏せた。挨拶以外は普段通りだ。何か意図でもあるのか……それは「彼」のみぞ知るというもので、僕が少し首を捻って考えたところで憶測の域から脱することはない。
 しかしきっと「気まぐれ」の可能性は高い。そうだよ、顔見知りだから挨拶でも、程度の……うん、ごにょごにょ………そういえば、僕が知らない内に「彼」と顔見知り関係まで発展、していたんだよな。
 先日の夜の出来事を思い返しては、言いようのない気持ちが渦巻く。だって僕が一方的に彼を認識してるのかと思っていたのに、まさかの彼が僕をコインランドリーの利用者だと知っていたのだから。
 週に一度は対面するのだから、顔くらいは覚えてもらえるかもなんて期待したこともあったにはあった。でも実際に顔見知りの関係が成り立ったとわかるとまず僕は狼狽えた。だって僕は彼を見てるだけで十分だったから、知り合いになりたいとか仲良くなりたいなんて、そこまで考えてなかった。同じコインランドリーの利用者という繋がりだけで、彼みたいな人と関われるなんて思わなかったから。
 でも先日のあの夜のことも、先ほど挨拶を交わしたのも現実なんだよなあ。
「変なの」
 思わず独り言として口に出てしまう。現実なのに現実味がなくて信じられない。
ちらりとベンチに座る「彼」を見る。先日とは違い、彼は体にフィットしたTシャツとジーパンといったラフな格好だ。普段ここに来る時は大体こういう楽な格好でくる。乾燥機を使いにくるだけだからめかし込んでくる理由などないしなあ。
 先日のスーツ姿の彼を思い出し、姿を重ねては今の彼は全くの別人のように見える。それでもその服のてっぺんにあったのはあの端正な顔だったのだから同一人物だったんだよな。
「おい」
「わ、は、はいっ」
 突然彼がこちらに声をかけてきて我に返る。
 しまった。あんまりじろじろ見過ぎただろうか。
「洗濯、終わってるぞ」
「ああ、ああ、はい!」
 彼の言う通りに僕の洗濯物が回っていた洗濯機は止まっており、あわてて洗濯物を取り出す。そうして皺を伸ばしているとあろうことか再び彼が声をかけてきた。
「てめえ、アイス好きなのか」
「え?」
「アイス、好きかって聞いてんだ」
「はい、好きですけど……」

 でもなんでアイスなんだ?

 バイト帰り、最寄りのドラッグストアーで特売があったことを思い出し、その足で店へ向かった。あそこのドラッグストアーは特売だとペットボトルが安いんだ。これからの時期、飲み物は要りようなだけに助かる。日曜日だから売り切れてるかもなんて心配したがそれも杞憂で、店から出てきた僕の腕にはペットボトルを入れた箱が抱えられていた。
よし、これで一夏は保てるな。
 なんてちょっとオーバーなことを考えるくらいには満足な買い物をした僕はアパートに向けて帰ろうとすると、道路を挟んで向かい側に見たことのある車があることに気付いた。それだけじゃあ気に留めることもなかったんだろうけど、その車が焦げ茶色だったのが僕の足を止めた。
 あの焦げ茶の珍しいカラー、忘れようもない「彼」のベンツだ。じゃあ近くに「彼」もいるかもしれない。ベンツだってそう見ることはないけど、この色だってそうそう見ない。
 会ったら会ったでどうする気もないくせに僕の視線は車が停まる周囲を見回し、ついに彼を見つけた。彼はあの夜と同じく真っ黒なスーツに身を包んでいて、遠目から見ても十分なくらい格好良かった。歳はわからないけど、どちらかといえばまだ若いだろうに歩く様はそこらのサラリーマンなんて霞んでしまうくらいに様になっていた。
「あ、」
 そんな彼の隣にひらりと、何かが見えた。よく見てみるとそれはスカートであり、彼の大きな体の影になっていて気にするまでわからなかったが、女性がいた。
 顔はよく見えない。でも歩くのに合わせてふわりと揺れたブロンドヘアーと、見るからに清楚なイメージを与える真っ白なスーツがとても魅力的に感じた。それは黒でまとめる彼とぴったりで彼と、その彼の隣にいる女性だけ別世界の人のように見えた。
僕は顔を伏せ気味に歩き出す。たまたま偶然、ちょっと目についただけなのに、なんだか見てはいけないものを見た気分だ。
 なんでだろう。あんな場面、あんな素敵な彼なら女性を連れ歩いていたっておかしくなんてないのに。むしろコインランドリーに来ている彼よりずっと様になっているではないか。そう思うのになんだかもやもやして。とにかくその場から離れたかった。

 もやもやはなかなか晴れない。まるでなかなか明けない梅雨みたいだなんて、洒落た感じのことを思う。でもそれも洒落にするにはあまりに不鮮明な憂鬱で僕はついにため息をついた。
 実は不鮮明ながらも何が憂鬱の原因なのか知っている。知ってるけど、それがなんで憂鬱の原因になるのかよくわからなくて更にもやもやしてる。別に……別にさ、彼が女性と一緒に歩いてたっていいだろうに、なんだって気にしてるんだろう。いや、本当に彼が女性と歩いてたって良かったんだ。
「別に、さ」
 良いじゃあないか。格好いいんだから女性のひとりやふたり一緒にいたっていいじゃあないか。彼に限らず同級生が彼氏や彼女を連れて街中歩いてる場面も見たことあるじゃあないか。そうだよ、珍しいことなんかじゃあない。
「典明君、典明君」
「あ……はい」
 ついつい考え込んでしまっているところに、女性の声が耳に入る。
「もう閉めるけど、大丈夫かい?」
 そうだ。ここは銭湯で、僕はまるで自室のように扇風機の前にべったり座り込んでしまっていた。風呂上がり湿っていたはずの体はひんやり乾いていて、少しだけ肌寒い。
「のぼせちゃったかい?」
「いえ、少し暑かっただけで大丈夫です」
「そう? じゃあ、はい。預かってたお財布渡すわね」
「ありがとうございます」
 ぼんやりしていた僕に声をかけてくれたのは番頭のおばさんで、僕の顔を窺いながら財布を差し出してきた。そんなおばさんの向こうに見えた時計は10時5分前を指していて、自分が思っているより長居してしまったことを知る。
「お洗濯忘れてないかい」
「はい」
「じゃあ気をつけてお帰りよ」
「ありがとうございました」
 暖簾をおろしながら見送ってくれたおばさんに頭を下げて僕は歩き出す。
 見上げた空は雲ひとつない。夜は晴れた方が暑い空気が上にいくから涼しくなるんだったか。扇風機で少し冷えてしまった体を撫でる風は結構冷たい。7月も間近なんだけどまだ油断ならないな。
 晒された腕をさすりながら僕は足早にコインランドリーへ向かう。水曜日、例にも漏れず僕はコインランドリーだ。寒くたって暑くたって習慣は変わらない。あんまり長く洗濯物溜め込むとカビ臭くなる、ちょっと寒くたって洗濯しないと。でも晴れてるなら今夜は洗濯だけにして帰宅して干したら朝には薄い生地の服なら乾くかな。それなら100円浮くな。
「……?」
 前方、見慣れたコインランドリーが見えてくる。はずだ。見えてきたけど、何か違うものも見えて、僕は足を止めた。

 コインランドリーの前に車が停まっている。

 ちょっとした大家族でもぎゅうぎゅう詰めにしたら入るくらいの大きさの車は焦げ茶色だ。焦げ茶って日本車であんまり見ないせいか、やっぱり暗い色なのに目立つ。目立つし、きっとそうそうない。
 だからきっと、
「よう」
 「彼」がいた。
 その暗い焦げ茶色の車に馴染むような黒いスーツ姿の彼がのそりとコインランドリーから出てきた。
 彼は日曜日に見る彼の顔なのに着ているスーツはやっぱり皺がなくて、靴も磨きに磨いたようにぴかぴかだ。日曜日に見る彼も格好いいのに、今の彼もびっくりするくらい格好いい。ゆっくりと歩みを再開し、コインランドリーへ入ろうとすると彼が引き戸を開けてくれた。そんなエスコート紛いな仕草もまた格好いい。
「……こんばんは」
 ぺこりと頭を下げると彼は口元だけ笑みの形にして、いつものベンチへ座った。彼の特等席と化した色の剥げたベンチに普段とは違う彼が座っているのが酷く違和感で内心落ち着かない。
 なんでいるんだろう? いつも日曜日の朝だけなのに。
 疑問はあれど、ここをいつ利用しようとも彼の自由であるので黙々と洗濯物を洗濯機に入れる。洗濯機が動くのを確認して座ると彼と目が合った。
 うわ、なんだなんだ。
 どうしましたか?なんて彼にして聞けるでもなく、代わりに僕は笑いながら首を傾げて窺う。風呂上がりなんだけど何かついてるのか。
「……寒いのか」
「え……ええ、まあ……今日は特に冷えますからね」
 僕が腕をさすっていたためか彼はそんなことを尋ねてきた。
 彼はきっと些細な世間話なんだろうけど僕は内心いっぱいいっぱいだ。だって!彼が世間話をしてきたなんて……そりゃあ、日曜も会話したけどこうも続けて話すなんて。顔見知りまでなったなら世間話くらいはするんだろうけど……でも顔見知りになってしまったことさえ驚きだったのに、話せるなんて、まさか、
「そうか」
 すると彼は立ち上がってすたすたとコインランドリーを出ていってしまった。
 世間話をしていたと思ったら早々に帰ってしまうとは。流石にあれだけ短いやりとりで失礼な発言した覚えはなく、ただただ手を止めて出入り口を眺めるばかりだ。今夜も気まぐれ、か?寒そうな僕が目に付いたから、特に意味もない世間話をしたんじゃあないかな。
 ……そういうこともあるさ。同じようなことは一度二度続いたって、まあ……二度も世間話してもらえたのは奇跡の領域なんだから十分なくらいだ。それにしても奇跡にしても気まぐれとは恐ろしいよな。こんな僕に声をかけてしまうんだから。
 今は寒いけど晴れてるなら起きる頃には暑いのかな。初夏は寒暖の差が激しいのが悩ましい。着込んで寝るにしても、しまっていた毛布を引っ張り出して寝るにしても面倒だな。せめてこの寒さが学校に行く前まで続くなら暖かくして寝てもいいんだけど。
 腕をさすりつつ設置されている掛け時計を眺めていると、からからと引き戸が開く音が室内に響いた。なんだ。今夜は「彼」に限らず利用者が多いな。こんな夜だからいつもは僕ひとりきりなんだけど、そういう日もあるか。ちらりと珍しい来訪者を確認して、そこには帰ったかと思っていた彼がいて思わずそのまま固まった。
 あれ、帰ったはずじゃあないのか?
 そういえば彼の車はずっとランドリー前にあったから帰宅は有り得ないよな。でも、それならなんで一旦出たんだ? いつもは乾燥が終わるまで黙ってベンチに座ってるのに……というか、そもそも彼はなんでここにいるんだ?
 ここのコインランドリーはどう見たって設備が乏しいくらい機器が少ない。一度見回しただけでどれが動いてるかわかるくらいだ。でも、今動いてるのは僕が使用してる洗濯機一台。ならば彼は何も使ってないということになる。
 なんか、おかしくないか?突如浮かんだ疑問に戸惑いを覚えていると、再び戻ってきた彼がこちらに近付いてきた。
「ほら」
 そして僕の目の前に缶コーヒーを差し出してきた。
「?」
「寒いんだろ」
「ええ、まあ……?」
「これやる」
 寒いとは言ったけど、なんで急にコーヒーなんだ?
 ここまでの経緯に行き着く流れがよくわからなくて唖然と見上げていると、彼に手を取られて缶を握らされた。
「わ、」
 缶コーヒーの熱さと突然の彼の手に思わず缶を落としそうになる。それを彼の手が僕の手を包むように握りしめてきたので阻止された。
「寒いから、やる」
「どうも、その……ありがとう、ございます?」
「ん」
 離すなとばかりに手を握られた後、彼は納得したようにひとつ頷いてコインランドリーを出て行った。からからと閉まる引き戸の音の後、エンジン音が聴こえてそれは遠ざかっていく。それが彼が運転する車のエンジン音だと気付いたのは数分経ってからだった。

「……?」

 だから、一体彼は何をしに来たんだ?
 何がなんだかわからないけど誰も答えてくれるはずもなくて、コインランドリーには虚しく洗濯機が回る音が響くばかりだった。

◆◆◆

「これで全部か」
「ちょっと待って、こっちもお願いねん♪」
「おう…じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃーい、いつもありがとう承太郎」
 息子の頬にちゅっとひとつバードキスを落とすとムッとしつつも何も言わずに家を出ていった。
 毎週日曜日、9時からパートタイムがあるわたしに代わり息子が洗濯当番だ。正確には「乾燥機当番」だったけど、最近は率先して洗濯物を洗濯し、洗濯が終わればきちんと衣服の皺を伸ばして、雨の日なら洗濯物入れに洗濯物を入れてコインランドリーへ乾燥しに行ってくれるようになった。最初、知人のイタリアンレストランでホールスタッフのパートとして勤めてから、初めて迎えた梅雨の時期だから4月の終わりくらいかしら。その頃はわたしが頼むと露骨に嫌な顔をしながら嫌々コインランドリーへいっていたというのに…高校生の時は何かとわたしのすること頼むことを邪見して悲しかったけれど大学生ともなると一味違うのね。ママうれしいわ承太郎!
「るんるん♪」
 息子の変化に思わずスキップしながらわたしはパートに行く準備を始めた。

「あらあらまあまあ!良かったじゃないノリアキ君!」
「ええ……まあ……」
 うれしいことって続くのかしら、今日はノリアキ君が気になる子とお話できたんですって!目の前で照れ笑いしたのはわたしのお勤め先で皿洗いのお仕事をしているノリアキ君。ラストネームは難しいからまだ覚えられないからファーストネームで呼んでる。そんなノリアキ君はわたしの息子のひとつ下、シニアハイスクールに通う男の子、息子と歳が近いだけあってついつい構っちゃいたくなる。それが過ぎるとノリアキ君は照れたり困ったりするからベリーキュート!カワイイ!!
 もちろん、息子もキュートでプリティーだけどノリアキ君は息子にはないカワイイを持ってる。もうひとり息子ができるならノリアキ君みたいな子がいいわ!
「良かったんですかね」
「良いことよ。誰かと仲良くなれるのはとってもステキなことなんだから!」
「仲良いわけでは……」
「挨拶とお話したなら相手はノリアキ君と仲良くなりたいと思ってるハズよ」
 相手が思ってるのはライクなのかラブなのかまではわからないけど、ノリアキ君をスキなのはわかるわ。なんでわかるかって?
 それはママの勘かしら?

 本当に、いいことって続くのかしら!
 パートが終わって携帯電話を確認すると息子から「仕事終わったら電話寄越せ」と留守電が入っていた。それだけでも嬉しい驚きなのに、留守電の通り電話を掛けたら嬉しい申し出をされた。
『今夜、親父のコンサート行くなら送ってやる』
「まあ承太郎ったら……でも今日もパパのリハーサルのお手伝いあるんじゃあないの?」『今夜は人手が十分だからたまには客席から見れだとよ。だから開演に合わせて会場に行くつもりだ』
 わたしの大好きなダンナ様はミュージシャン。いつもは世界中を飛び回ってるんだけどこの1ヶ月はコンサートがあるために帰国してる。そんなダンナ様……貞夫さんのコンサートは結構大掛かりでたまに人手が足りなくなることがあったから、社会勉強だとばかりに息子が駆り出されていた。流石に学業に支障出ちゃいけないってリハーサルがある夕方からの手伝いであるが、それもあって今回のコンサートは私ひとりで行っていたのに…それが今夜は息子と行けるだなんて!
 でも時間があるからって送ってくれるなんてどういう風の吹き回しなの承太郎、ママまだお店なのに感激しちゃったじゃない。
「じゃあお願いしちゃおうかしら」
『なら、6時に車出すから準備しておいてくれ』
「それなんだけどね、今日はお仕事だったからお店から真っ直ぐに行こうかと思って準備は大丈夫よん♪でもまだレストランだから帰るまでちょっと待っててほしいわ」
『それなら、そこまで迎えに行くか?』
「まァいいの!?」
『チッ……いいから俺から提案してんだ』
「ウフフ、ありがとう承太郎!」
 思わず受話器にちゅっとキスを贈ると『行くから待ってろ』と一言、ぶつりと切れてしまった。もう、つれないんだから!でもわざわざ迎えにまで来てくれるなんて承太郎もいいことあったのかしら?
 そんな疑問はあったけど、それ以上に息子が迎えに来てくれるのが嬉しくてるんるんで更衣室へ向かう。そこへ先に帰り支度を終えたらしいノリアキ君が出てきた。
「お疲れ様ノリアキ君!」
「お疲れ様です……何かいいことでもあったんですか?」
「これから息子とドライブデートなの♪」
 早く来ないかしら承太郎。
 承太郎と一緒に貞夫さんのコンサートなんて何年振りかしら!

◆◆◆

 あれは結局何だったんだろう。
 水曜日の夜、習慣であるコインランドリーへ洗濯に行ったら「彼」が来て、あっつい缶コーヒーをくれた。彼は僕が寒いと言っていたからコーヒーをくれたそうだが、だからといって僕が彼からコーヒーをもらえる理由にはならない。確かに寒かったからあったかい飲み物は飲みたくはなる。でもそれは自発的に買うのが普通であって誰かに買ってもらうのはおかしい。あったとしても親だとか親しい友人ならあるかもしれないがそのコーヒーを買ってくれたのは顔見知りである「彼」だった。
 顔見知りという関係はそう親しくはない。少なくとも寒いからという理由だけでは缶コーヒー貰う仲では……。
 気まぐれも過ぎたら良くない。きっとコーヒーを買ってくれたのも気まぐれなんだろうけど、その気まぐれのために僕はこうやって悩む。その気まぐれにもしかしたら何か意味があるのかと首を捻る。でもたとえ意味があったとしても、大した意味はないよな。

 日曜日を迎え、「彼」に会える日となった。しかし外は朝から快晴で微塵にも雨が降る気配はない。こんな日は乾燥機を利用する彼は来ない。その事実に僕は残念な気持ちと共に安堵した。
 水曜の夜のことが未だに引っかかっていたのだ。
 大した意味がないにしても、僕にはあの缶コーヒーが大層な問題になりつつあった。どんな意味や理由があったところで僕は彼から缶コーヒーを奢ってもらってしまった事実は変わらないと気付いたからだ。寒いから、とか、気まぐれ、なんてこと以前だった。
これは流石にお礼の言葉だけでは申し訳なくて僕は更に悩んだ。そしてこの間のチューペットみたいな適当に手に持っていたものを渡すんじゃあなくて、ちゃんと「彼に渡す」ものとしてものを用意しなければと思い至ったのだ。そうして彼には何を用意すれば良いかわからず、僕は今日まで悩んでいたのである。会えないのは惜しいけど、何も用意できてない中で会うことにならなくて良かった。これで一週間後、何を渡すか決まれば一番いいのだけど。僕は洗濯籠を抱えてアパートを出る。7月最初の日曜日、空には入道雲が見えて木々からは蝉の鳴き声が聴こえてくる。降り注ぐ陽射しはじわりと肌を刺激するくらい強くて夏を感じた。
 そろそろ梅雨明けだろうか。今年は長引くというから梅雨明け自体はまだ先にしても晴れの日が多くなりそうだな。
 雨の中、それでは肩が濡れてしまうのではないかというくらい小さな傘をさしてここに来る彼も見納めの時期になってきたのか。見るだけで良かった分だけ、見られなくなると思うと寂しい。それでもこの2ヶ月程で彼と会話出来る仲にまで発展したのだから良かったのである。それに運が良ければまたここを利用してくれる可能性はあるしね。
「ふう」
 アパートからコインランドリー、そう距離はないが暑さもあって思わず息をつく。朝からこんなに暑いだなんてどうかしている。冷房なんて設置されてないコインランドリーも暑いんだろうな、なんて思っている内に到着した。
「あ」
 硝子の引き戸を開けようとして、中にいた人物が見えて僕の手は止まった。
気まぐれは続く。のか?
 今日は確かに日曜日だが空は晴れ渡っているのに、戸の向こうには「彼」がいた。いつものようにベンチに腕を組んで座って目を伏せている。
 あれ、今何時だ。
 天気もそうだが彼が僕より先に来てるのは初めてで、時間を確認しようと引き戸を開けた。からからという音と共に彼の顔が上がって目が合った。
「どうも……おはようございます」
「おはよう」
 予定外だ。なんでこんなに晴れてるのに彼はここにいるんだ。しかもランドリー内の掛け時計を見たら8時を過ぎたばかりだった。
 どうしたんだろう。気になりつつ僕はいつものように洗濯物を洗濯機に入れて、運転が開始したのを確認して席についた。そしてまた何故か彼と目が合う。遠慮なく輝くその瞳は綺麗だけど、綺麗な分にひどく居心地が良くない。
「てめえ、」
「は、はい」
「受験生か?」
「ええ、まあ……そうですけど」
 正確には受験生だった。なんだけど。第一志望だった大学へは推薦を貰って皆より一足先に合格してしまっていたのだ。
 それはともかく?
「あの、どうして僕が受験生だと分かったんですか」
 そんな話を今までしたことがなければ、僕が学生服でここへ来たこともないのに何故彼は分かったのか。ついに口に出して返してしまった。
「この間の参考書」
「参考書?」
「あの参考書、俺も高校3年の時に使っていたやつだった」
 参考書って、この間届けてくれたあの参考書か。
「だから受験生かと思った。それだけだが」
「ああ、そうなんですか……」
 なんてことはない理由に気まずさに拍車をかけた。僕が使っていた参考書が自分が受験生の時に使っていた参考書だったから、もしかして受験生なのかと推測くらいはできる。何を変に疑ったんだ僕は……。
 そんな僕を気に留めるでもなく彼は話を続ける。
「大学はどこに行くつもりなんだ」
「ええと…隣町の大学です」
 彼はこんな饒舌なのか。だから僕にこうやって話しかけたり、挨拶したりしたのかな。今まで黙っていたから勝手に寡黙な人なんだって思っていた。
 時間が経たないとわからないことは多いな。話すタイプの人間だとわかると心なしか少し気が楽になった気がする。
「そこの、どの学部入る予定なんだ」
「教育学部です」
「そこの生物学部は、入る予定はないのか」
「はい。前からそこの教育学部入ろうと目標にしてましたから」
 そういえば僕が行く予定である大学では海洋生物についての研究が有名なんだよな。僕はそこの教育学部しか興味ないから具体的な研究内容はわからないけど。僕の返答に彼の口が窄まったような気がした。生物学について話したかったのだろうか。一部界隈ではかなり注目されているみたいだから、きっと話題のネタとしてはいいのかもしれないけど僕はそこのところ全く興味ないんでわからないんですすみません。
「その大学、受かりそうか」
「はい」
 もう受かってますから。とは話の流れと彼の変わらず容赦ない眼差しで言えなかった。
かたん、と音が響き、彼の後ろで回っていた乾燥機が止まった。今日は晴れていたけど乾燥機を使いに来てたんだ。彼は乾燥機から洗濯物を取り出すとそのまま洗濯物入れに入れ始めた。
「あの、それだと皺になります」
「あ?」
 乾燥した衣類は温かい内に畳まないと皺が残りやすい。この二年での経験からつい口を出してしまった。じろりとこちらを見るその顔は凄みがある。うわ、怒らせた?
「皺になるのか?」
「は…はい。温かい内に畳んだ方が、その、綺麗ですよ」
「そうか」
 すると彼はランドリーに設置されているテーブルの上に乾燥させた洗濯物を広げると畳み始めた。先ほどの反応に怒ったかと思ったが案外に彼は素直だった。
 ……もしかして、見た目がちょっと恐いけどかなりいい人なのか? 参考書届けてくれたし、コーヒーくれたし。明らかに年下な僕の言うこと聞いてるし。
 見てるだけではわからないことが今日は次々出てくる。
「あの、畳むの手伝っていいですか。待ってるだけなんで暇なんです」
「いいのか」
「はい」
 あなたとお話するのが少し慣れて来ましたから。なんてことを思ったって相変わらず言えないし、僕の申し出に口元だけ笑う彼はすごい格好良くて直視できないけど僕は彼の洗濯物を畳み始めた。

「最近承太郎、すっごいキゲンがいいのよ♪ 何かいいことがあったのかしら。」
 バイト先のホールリーダーである女性がそう話す。彼女恒例の「息子のじょうたろう」の話は始まると長い。お客さんが少ないのをいいことに厨房へ引っ込んで話し始めてそろそろ20分くらい経っただろうか。彼女は好きだがこうも話が続くと苦笑も続く。
 しかしその「じょうたろう」の話をする時の彼女はとても溌剌としてるから止めようとは思わない。
「もしかしてノリアキ君みたいに好きな人ができたのかしら」
「僕は別にそんな人は……」
「アラ、でも今日は気になる子とお話たくさんして楽しかったんでしょう?」
「いや、その……まあ、」
 そんな話を彼女にしたけど好きな人とか大層な存在ではないんだけどな……まあ、好き嫌いなら明らかに好きな人ではあるけど、うん……
「承太郎もノリアキ君の相手みたいなステキな人と出会っていればいいのに」
「あの、じょうたろうくんに好きな人ができたとは限らないのでは……」
「アラ、そうかしらァ」
 そうなんじゃあないですかね。年頃とはいっても僕もそのじょうたろうくんもそう好きな人がどうこうは頻繁にないと思う。少なくとも僕が話題にした「彼」は好きな人というより格好良くて憧れの人とか、ちょっと特別な人なだけだ。
 じょうたろうくんは……どうかな? 僕はリーダーの話でしかじょうたろうくんを知らないけど、あんまり遊んでいるイメージはないからもっと些細なことな気がする。僕も残念ながら遊び歩かないのでなんとなくわかる。
「でもうちの承太郎ももう19歳なんだから気になる子いないのかしら……」
「そう急かさなくても大丈夫ですよ」
 母親である彼女は外人な上にとても美人だ。もしじょうたろうくんが母親似ならかなり美形だろうし、相手も選び放題じゃあないかな。それに大学一年なんだろ? 大学なら出会いも多いしまだまだこれからだ。
 急がずともじょうたろうくんは素敵な人をちゃんと見つけるさ。

 仕事終わり、再びホールリーダーから声をかけられた。
「ねえノリアキ君、あなたの学校はいつから夏のお休みが始まるの?」
「再来週の土曜からです」
「そうなのね。ねえノリアキ君、良かったらお休み入ってからわたしのお家に遊びに来ない?」
「え?」
「それともお休み中はお母さんたちのところに帰るかしら?」
「帰るには、帰りますけど、お盆の間だけで…あの、家へ?」
「オボン? じゃあそれ以外なら大丈夫なのね」
 ノリアキ君がいいなら来てほしいんだけど? 上目で窺う様子にノーとは言えない。でもバイト仲間であるだけの僕なんかがお呼ばれされていいのか。
「でもどうしてまた、僕なんかを?」
「僕なんかじゃあないわ、ノリアキ君だからよ!ノリアキ君一人暮らしだっていうからいつかお夕飯一緒に食べましょと誘いたかったのよ」
 夕飯の言葉に思わず口元が引きつる。
 僕は一人暮らしを初めてから自炊を始めた。実はそれ以前は殆ど料理をしたことがなかったりする。二年以上自炊すれば上達はすれど経験がゼロに近かったところからの上達は高が知れていてやっと人並みに自炊ができるようになったレベルだ。一方彼女は家にいる限り三食全て自炊主義の上に、お菓子もよく手作りするらしい。時折持ってくる差し入れなど明らかに凝った品々ばかりなのにおいしかったから腕は確かだ。
 そんな人から夕飯の誘いとなるとまだまだ食べ盛りな高校生である僕は悩みに悩む。お邪魔するのは申し訳ない反面、かなり魅力的なお誘いだ。
「それに、またふたりでの食卓に戻るからちょっと寂しくなるし……」
「あの、どうしてふたりなんですか?」
 確か今は旦那さんもいるからじょうたろうくんと合わせて三人だった筈では。
「貞夫さん、日本でのコンサートが終わって来週から台湾でのコンサートが始まるの。だからまたしばらく承太郎と二人きりなのよ。だからノリアキ君来てくれたらきっと承太郎も喜ぶと思う」
 だからどう? 彼女がちょっと身を乗り出してくる。日本人ではあり得ない緑の瞳が迫ってきて圧倒されそうだ。
 加えて先ほどの話だ。僕が歓迎されているような錯覚になりそうである。

「それじゃあ……お呼ばれして、いいですか?」
「モチロンよ!」
 一回だけならいいよね? 夕飯いただいて帰れば、そう迷惑にならない。
 だから大丈夫、そう都合良く言い聞かせる僕の夏休みの予定はここで決定したかもしれない。

 今からすれば一目惚れというものだったのかもしれない。
「行ってらっしゃーい承太郎!」
 雨の降る中、朝から元気の塊のようなおふくろの声が俺を見送る。全く、乾燥機を使いに行くだけだというのにうるせえぞ。
 雨が降る日曜の朝、洗濯物を近場のコインランドリーで乾燥するのが梅雨を迎えてここ数ヶ月、俺の役目になっている。うちのおふくろは毎週火曜、金曜、日曜のサイクルで洗濯を行っているらしいのだが、日曜日は9時からパートタイムがあるとかで洗濯はできても乾燥機を使いに行く時間がないとのことで俺に声がかかった。
「曜日や時間ずらしたりできねえのか」
「日曜日はお洗濯曜日にしてるの、承太郎が小学生の時からなのよ。変えたらリズムが狂っちゃうワ。できれば変えたくないのよ」
「……」
「だから早起きしてお洗濯して乾燥機使いに行けばいいかしらと思ったんだけど、朝ご飯や玄関先のお掃除、お庭の水まきのことも考えたら遅くても5時くらいに起きないと、」
「わかった。俺がやる」
 家の家事という家事は全ておふくろに頼りっぱなしだ。今年で19歳になるというのに、とは我ながら思う。そんな現状に多少にも負い目はあった。
「いいの!?」
「日曜だけだぞ」
「日曜日だけ都合つかないから日曜だけでいいの!まあまあ…ありがとう承太郎!」
 おふくろの喜び様にやれやれと思いつつ、断られる覚悟で頼まれたのだとわかり思わず頭を掻いたのは忘れられない。

 そんなことで雨の日の日曜日は最寄りのコインランドリーへ通い始めてそろそろ2ヶ月、だろうか。俺は乾燥機を使うのと同時に「あいつ」目的でコインランドリーへ訪れるようになっていた。「あいつ」とは誰かって? 俺もようわからん。日曜日の朝にコインランドリーを利用していることと、どうやら高校生らしいことしか知らない。日曜日の朝だけでなく夜も利用してるらしいと知ったのも最近だ。
 そう家から遠くないコインランドリーに到着すると引き戸越しに「あいつ」が見えた。おふくろ同様にリズムというものがあるのか、日曜日に姿を見ないということはない。引き戸を開けるとあいつの一房だけ長い特徴的な前髪が少し揺れた気がした。
「よう」
 伏せ気味だった顔が見たくてつい挨拶をすると、あいつはゆっくりとその顔を上げた。
「……、……おはようございます」
 窺うような上目遣いにそういやこうして挨拶するのは初めてだったと気付く。まあ、昨日今日初めて出会ったわけではないから挨拶くらい構わないだろう。乾燥機に洗濯物を放り込みスイッチを入れ、備え付けのベンチに座る。待つ間は暇なので目を伏せているが、視線を感じて薄目を開ける。すると少し離れた場所に座るあいつがこちらを見ていた。
コインランドリーでよくある光景。あいつは普段からテキストや文庫本を片手にここに来ているが、時折紙面に向かう視線を少しだけ上げてこちらを窺ってくる。
 アメリカ人と日本人のハーフ故に好奇の視線はよく向けられる。人よりも頭一つ分飛び抜けた身長や、アメリカ人である母親譲りの緑の瞳は良くも悪くも注目されやすい。だから慣れているはずなのにあいつの視線だと思うと徐々に落ち着かなくなってくる。
「おい」
「わ、は、はいっ」
 思わず声をかけてしまうと驚いたように跳ねた声が返ってきた。いきなりだったがそんなに驚かなくても良いだろうに。
「洗濯、終わってるぞ」
「ああ、ああ、はい!」
 そう言ってやると慌てた様子で洗濯物を取り出し始めた。取り出した洗濯物は今日もきっちり伸ばしている。皺を伸ばしてから乾燥機に入れた方がいいとあいつを見て知ったのだ。
 確かに皺を伸ばして乾燥機を使用した方が綺麗に仕上がる。それはあいつの行動を模倣して実証したのでわかるが、よくも面倒なことを毎回するものだと思う。きっとこの間の夜もこのコインランドリーで一人黙々とやっていたのだろう。毎回見る光景なだけに容易に想像できた。俺より年下だろうにマメな性分である。
 ……そういえばこの間会った時、こいつアイス食べてたな。
「てめえ、アイス好きなのか」
「え?」
「アイス、好きかって聞いてんだ」
「はい、好きですけど……」
 なるほど。アイス好きか、記憶しておこう。きっとこれからの季節、アイスなんていくらでも食う機会がある。

 俺は目の前のこいつが気になって仕方ない。
何故かと言われても自分でもようわからん。ただ、一目見た瞬間から気になって、今ではこいつ目当て同然にここへ来ている。

 6月に入ってから俺はミュージシャンである親父のコンサートの手伝いをしている。親父は「忙しいから息子の手も借りたい」と言ってのけたが果たしてそれはどこまで本当なのやら。図体ばかりでかい、アルバイトすらしたことがない社会人でもない俺ができることなど高が知れてる。本当に忙しいのなら俺よりも使えるスタッフは少し探せばすぐ見つかるだろう。おふくろが手伝いに行く俺に対して冗談半分に「社会勉強ね」と言っていたが、多分にそちらの線が強いのではと思う。果たして俺は人並みの働きができたのだろうかとコンサート会場から自宅までの帰路、車を走らせていた。周りのスタッフは俺が親父の息子だと知っているだけあって、あまりとやかく言ってこない。そのせいもあって何か不備があってもそう口を出してこない。お互い仕事だろ、息子とは関係なく何かあれば言ったほうがお互いのためだろうに。
「チッ」
 あくまでも俺は息子でしかないのかと思わず舌打ちが口をつき、煙草でも吸って落ち着こうとポケットを漁る。しかし出てきたのは空箱で苛々が募り空箱を握り潰してしまった。よりによって一本もないのか。
 仕方ない、家に帰るまでの辛抱だ。家に帰ればカートンで買った煙草があったはずである。
 深呼吸をひとつ、アクセルを少し強めに踏む。車が人も対向車も通らない道を走る。街灯も住宅からの光も疎らでまだ22時前だというのに深夜のようだ。そういえば、こんな暗い夜道で1週間前「あいつ」に会ったのだった。夜なのにいつものように片脇に洗濯籠を抱えて、俺の車の近くに立っていたところ出会った。毎週見るあいつは後姿だけで一目でわかり、声をかけると酷く驚かれた。まあ、偶然とはいえコインランドリーでしか見たことがない人物に会ったのだから。
 ……毎週日曜の朝に必ずコインランドリーに来ている奴だから、もしかしたら毎週決まった時間帯に来るだろうか?
 そんな考えが過り、俺はアクセルを踏む力を弱める。いつも訪れるコインランドリーは家から近い。そろそろ道脇に見えてきてもいいころだろう。
 俺の考え通りならコインランドリーに「あいつ」がいる時間帯だ。そんな期待をしながら間もなく車はコインランドリーへ到着した。車を降りて煌々と明かりがつくランドリー内を覗くがあいつの姿はない。推測が外れただろうか。いや、今の時間は先週会った時間より早いからまだ来てない可能性もある。
 少し待つか。10分待つくらいなら別にそう苦痛もない。
 それでも来るなら早く来ればいいのに。なんて願いで引き戸から顔を出して辺りを見回すとこちらへ向かって歩いてくる人物が見えた。
 「あいつ」だ。
「よう」
 暗がりでもわかるその人物は一瞬、立ち止まって俺を窺っていたが再び歩みを再開した。そんなあいつに引き戸を開けてやると「こんばんは」と一言、小さく頭を下げた。そんなあいつの脇にはいつもの洗濯籠があった。どうやら俺の推測は正しかったようだ。こいつは日曜朝だけでなく今日……水曜夜もここを利用しているようだ。
 推測が当たって思わず満足しながらベンチに座っているとあいつは晒された腕を擦っていた。決して女性的な線などない、むしろそこらの男よりも逞しい二の腕はやけに白くて違和感を覚えるくらいだった。血行悪そうな肌色だが、もしかして。
「……寒いのか」
「え……ええ、まあ……今日は特に冷えますからね」
 脈絡ない切り出しだったろうか。あいつは一瞬だけ不思議そうな顔をしたがそう答えてくれた。今俺はスーツを着込んでいるがこいつは見るからに薄手のTシャツと短パンだからな。俺が体感するより寒いのかもしれない。
「そうか」
 寒いのか。それなら確かここに来る直前に自販機を見た。
 一旦コインランドリーを出て道路脇を確認すると記憶した通り自販機があった。寒いなら温かいお茶でもやろう。そう思って一通り眺めたがあったのはブラックコーヒーだけだった。
 まあ……高校生、らしいからブラックでも大丈夫だろう。
「ほら」
 そして足早に戻って買ってきた缶コーヒーを差し出すとあいつは不思議そうに首を傾げた。珍しい年相応の反応が新鮮と同時に少しじれったく思える。
「寒いんだろ」
「ええ、まあ……?」
「これやる」
 これで体あっためろ。一向に受け取らない奴の手に缶コーヒーを握らせると想像以上にその手が冷たかった。いつもと同じく洗濯するならまだ一時間ほどいるだろうに。こんなに冷やしやがって。早くあったまれとばかりにぎゅうぎゅうと手を握ってやる。
「わ、」
「寒いから、やる」
「どうも、その……ありがとう、ございます?」
「ん」
 無事に受け取ったことを見届けると俺はランドリーを出て車に乗り込む。そうして満足した気分で車を走らせ始めて、コインランドリーに来てからの己の行動を思い返して首を捻った。
 これじゃあ俺、あいつに缶コーヒーやっただけじゃねえか。
 特に用もないのにコインランドリーにいた俺を「あいつ」はどう思うか。単純にあいつがいればいいなと思って訪れたのだからそれ以外の用事など考えてなかった。
「まあ、いいか」
 あいつに会えたことに越したことはない。

 日曜の朝、目が覚めるとこれでもかというほど晴れていたので、寝起き早々に洗濯機がある水場へ向かうと既に洗濯機が回っていた。どうやらおふくろが早めに洗濯を回しているようだ。
「おはよう承太郎。今日はお天気イイからお仕事行く前に洗濯物干しちゃうわね」
「いい。俺がやる」
「え?」
「俺がやるから、置いておけ」
「まァ!」
 俺の申し出におふくろが露骨に驚く。わざとではないんだろうがそこまで驚くな、俺だって洗濯物くらい干せるだろ…そんなことではなく俺が進んで申し出たことに驚いてるんだろうがあまり面白くない反応だ。
「本当にいいの? 日曜なんだしゆっくり寝てていいのよ?」
「日曜なんだからだ。これくらいやる」
 俺だってもう今年で19歳だ。これくらいするくらいの気遣いはできる。俺は今日一日フリーだがてめえはこれから仕事だろう。そんな思いを込めて睨み付けるとおふくろは顔を真っ赤にして破顔した。
 おふくろの中で俺はどれだけ動かないイメージがあるんだ。やれやれ。
 浮き足立ったように自室へ行くおふくろの背中を尻目に俺は障子を開けて外を窺う。空は誰がどう見たって晴れ晴れとしていて雨など降る気配がない。絶好の洗濯日和だろう。
しかしそれはすなわち、乾燥機の出番がないということだ。イコールとしてコインランドリーに行く理由がない。
 俺は乾燥機だけだが「あいつ」はいつも洗濯機も利用していたから今日も変わらず訪れているだろう。
「……」
 外は晴れている。きっと洗濯物を干せば午前の内に乾きそうなくらいの快晴だ。だが、乾燥機を使ってはいけない理由では、ない。
 そういうことだ。

 普段より一時間近く早めにコインランドリーへ向かうとまだ「あいつ」はいなかった。いつも俺よりも早く来ているが流石にそこまで早い時間には来てはいないのか。乾燥機に洗濯物を放り込むと俺はベンチに座る。
 それにしてもこのコインランドリーは本当に利用者が少ない。ここ以外利用したことはないが、もう少し人が来てもいいんじゃあないか?
 あいつも未だ来ないのでとりあえずいつものようにベンチに座りながら目を伏せる。射し込む日差しが暑くて、正直待つにはあまり居心地の良くない場所だが8時近くになればあいつもくるだろう。少しの辛抱だ。それでも煙草の一本でもあれば時間潰しになったと考えていると引き戸が開く音が聞こえた。
 その音に釣られて顔を上げると待ち人である「あいつ」がいた。
「どうも……おはようございます」
「おはよう」
 今日は挨拶された。この間から挨拶をしたお陰だろうか。普段からあまり自分から声を掛けるようなことはないのだが功をそうしたようだ。やってみるものである。
あいつはいつものように洗濯機を回すと、普段から座っている丸椅子に座った。
 そうだ、こいつに以前から聞きたいことがあったのだ。折角思い出したのでここで聞いてしまおう。
「てめえ、」
「は、はい」
「受験生か?」
 以前届けた参考書、俺が去年まで使っていたのと同じ参考書だった。高校生らしいとはこれまでテキストを読んでいる様子から把握できたが受験生だとはその参考書を手にするまで考えもしなかった。
「ええ、まあ……そうですけど。あの……どうして僕が受験生だと分かったんですか」
 ふむ。あまりに唐突な話題だったか。俺はさり気なく前から気にしていたんだが。
「この間の参考書」
「参考書?」
「あの参考書、俺も高校3年の時に使っていたやつだった。だから受験生かと思った。それだけだが」
「ああ、そうなんですか……」
「大学はどこに行くつもりなんだ」
「ええと……隣町の大学です」
 俺が通う大学だ。近場だからもしやと思ったが、やはりそうだったか。
 それなら、来年には俺が所属している生物学部に入る可能性もあるかもしれない。そんな期待が沸いて普段はそう開かない口が開く。
「そこの、どの学部入る予定なんだ」
「教育学部です」
 そういやあったな、教育学部。校舎が違うからそこの奴らとは全くあったことはないが。
「そこの生物学部は、入る予定はないのか」
「はい。前からそこの教育学部入ろうと目標にしてましたから」
 ここの近場で教育学部があるのはうちの大学だけで評判も悪くない。なるほど……しかし惜しいな、生物学部なら学年は違えど会える機会が増えるというのに。だが、同じ大学であるなら何も校舎ばかりが出会いの場ではない。
「その大学、受かりそうか」
「はい」
 即答するあたり、受かる自信はあるようだ。そのことに満足すると背後で回っていた乾燥機がかたんと音を立てて停止した。俺が早い時間に回したのもあるが早いな。あいつと少ししか話してねえぞ。しかし終わってしまったものは仕方ないので洗濯物入れに洗濯物を移す。
「あの、それだと皺になります」
「あ?」
 するとあろうことかあいつから声をかけてきた。予想外のことに一瞬返す言葉を見失う。
 なんだ、このまま入れると皺になると?
「皺になるのか?」
「はい。温かい内に畳んだ方が、その、綺麗ですよ」
「そうか」
 なるほど、そうなのか。言われた通りに洗濯物入れに入っていた衣類を出して畳むといつもよりも容易に形良く畳めた。やってみないとわからないものだな。
新発見だと次々と衣服を畳んでいるとあいつが近くまで寄ってきた。
「あの、畳むの手伝っていいですか。待ってるだけなんで暇なんです」
「いいのか」
「はい」
言いながらあいつが笑ったので嬉しくなって笑い返すと、何故か俯いてしまった。
何だ、うまく笑えてなかったろうか?

 夕方、仕事から帰ってきたおふくろがやけに上機嫌だった。いつもうるさいが今日は雰囲気がもう騒がしかった。
「ねェ承太郎。次の日曜日の夜、予定空けといてねン♪」
「……なんだ、何かあるのか」
 その頃には親父も次のコンサートに向けてもう海外へ出た後であるし、仕事がある日中ではなく夜とは。何があるか見当がつかない。
「ついに! 来週! ウチにノリアキ君が来ることになりましたァン!!」
「ノリ……ああ、」
 仕事から帰ってきたおふくろがよく話題にする「のりあきくん」か。おふくろの勤め先で皿洗いのバイトをしている俺のひとつ下の高校生。一人暮らしだからとおふくろが何かと気に掛けている奴だ。いつか夕飯やお泊りに誘いたいと口にしていたがとうとう実行したのか。
「その、のりあきという奴の都合はいいのか」
「そこはバッチリ! 土曜日から夏休みだっていうし、本人からもちゃあんと了解もらいましたーッ!」
 夏休み早々におふくろみたいなオンナに誘われてお邪魔することになるとは未だ会ったこともないが同情する。話を聞いた限りだと押しに弱そうだし、断りきれなかった結果なんじゃあないだろうか。
「承太郎も一緒にお夕飯食べるから予定空けとくのよ?」
「やれやれ」
「ゼッタイね! きっと承太郎も気に入るイイコなんだからん」
 おふくろはやけにのりあきというヤツを気に入っている。俺と歳が近いのもあるんだろうが、話を聞く限りでもわかる素直さがお好みなんだろう。
 しかし、おふくろのいう「のりあきくん」がどんなにいい奴でも今の俺には「あいつ」より気に入る奴はできない確信があった。

◆◆◆

 そういえば僕は「彼」の名前を聞いたことがなかったな。と思い出して、バイト先のホールリーダー……ホリィさんと僕を迎えに来た車の運転手の顔を見た。

 今日は夏休み始まって最初の日曜日。そんな今日、僕はホリィさんに家で夕飯を食べようと誘われた。それならバイト帰りに真っ直ぐ行った方が迷子にもならなくてイイわ、なんて彼女に言われ、じょうたろうくんが車を出して迎えに来てくれることになった。そういえばじょうたろうくんは車が運転できるんだったなとホリィさんの話を思い返してみる。19歳で車運転か……まあ、僕も18歳になれば免許取れるからあとひと月すれば取れる。車はすぐに要りようではないけど免許はほしいからお金貯めておこうかな。
「承太郎、こっちよ!」
 車道に向かって手を振るホリィさんについ僕もそちらへ視線を向ける。どうやら迎えの車が来たようだったが、ゆっくりと焦茶色の車がこちらへ向かってきた。しかも、ベンツだ。
 誰が乗っていたか忘れるはずもないその車はあろうことかホリィさんの傍に停車してしまった。
 運転席の窓が開いて中の人物が姿を現す。

「紹介するわね、 息子の承太郎よん♪」

 確かに。確かにさ、ホリィさん似ならばその息子さんは格好いいだろうなとは思ったこともあるさ。
 だからって、
「空条、承太郎だ」
 現れた「彼」の口から出てきたのはホリィさんに会う度に出てきた「じょうたろう」という名前だ。ハーフなのにじょうたろうなんて純和風な名前だなあなんていうことくらいしか考えたことなかったけど……。
 コインランドリーの「彼」が「じょうたろう」なんて、ベタでどうかしてると思うんだ。

「……花京院、典明です」

 移動中の車内はホリィさんのオンステージで、僕と「彼」改め承太郎さんは彼女の話題に相槌を返す程度しか口を開かなかった。僕もだけど承太郎さんも気まずいのだろう。まさかこんな繋がりがあったなんて、今日みたいに誘われなかったらお互い知らないままだった可能性が高かったから。
 ホリィさんも承太郎さんも嫌いではないけど……これは時間が経っても気まずいだろう。これから一緒にご飯なんて大丈夫かな。
 そんな僕の心配をよそに車はある日本家屋の前に留まった。そこはまるでテレビや雑誌に出てくるような豪邸で、広がる庭はそのような知識がない僕でも分かるくらい手入れが行き届いている。ここは僕のアパートから割と近いはずだけどこんな場所があったんだ。
「車入れてくるから先行ってろ」
 承太郎さんの言葉にホリィさんが車を降りるので僕もそれに倣って降りると車はどこかへ行ってしまった。あれ、承太郎さんは同行するんじゃあ?
「さぁノリアキ君、空条家にようこそ!」
 走り去ってしまった息子の車を見送ったホリィさんは豪邸の門を開けながら僕にそう言った。空条家?
「ここ、ですか?」
「そうよ。承太郎は車しまってから来るから先にお上がりになって」
 空条家と言ったがまさかここだなんて。いやいや、これは空条家ではなく空条邸だろう、なんて内心ツッコミを入れつつ僕はホリィさんに促されながら門をくぐった。
 到底アメリカ人が住んでるなんて思わないくらい純和風な玄関を上がり、そこから続く廊下はどこまで伸びるのやら。貞夫さんが不在で承太郎と二人きりだと広いのよ。なんて以前ホリィさんが言っていたが三人でも十分に広いだろう。旦那さんは世界で活躍するミュージシャンだというから収入もグローバル級なんだろうか。
 そんな下世話なことを考えていると畳の部屋に通された。脚の短い大きなテーブルが中心を占領してるところを見ると居間だろうか。
「お夕飯、用意してくるから待っててね」
「お手伝いします」
「ノリアキ君はお客様よ? あと10分くらいで仕上げるからちょっと待っててねん♪」
 ここで黙って待たされるより手伝いした方が気を遣わなくていいんだけどなあ。そうは思いつつ食卓だろうテーブルに向かって座る。うーん……母子二人で使うには大分大きいテーブルだな、僕の住む部屋に置いたら座るスペースさえなくなりそうなくらいだ。人数ではなく家の規模に合わせて揃えたんだろうか。
 待つばかりで暇を持て余してる僕はきょろきょろと室内を見回していると、外廊下から承太郎さんが入ってきた。即座に目が合ってしまい僕は笑って誤魔化す。
「……どうも……先ほどはその、お迎えありがとうございます」
「別に。俺も暇だったから構わない」
 承太郎さんはテーブルを挟んで向かい側にどっかりと腰を降ろす。そこから何かするかと思えば何をするでもなく、縁側の方へ視線を向けた。その視線はきっと他に向ける宛てがなかったのだろう。
 予感はしたけど、やっぱり気まずいな……しかも、よりによってホリィさんがいないなんて。この場での僕と彼の共通点はホリィさんだ、彼女がいれば気まずいのは変わらないかもしれないが今よりそれが軽減されるだろうに。あまりの居心地悪さに思わず俯く。
「おい」
「は、はい、」
 すると向かいの承太郎さんが声をかけてきた。なんだ、何かしたろうか。
「てめえ……かきょういん、のりあきって名前なのか」
「ええ、まあ……」
 そういう貴方は空条承太郎でしたね。出会ってから何度か話したことがあるのにこうしてお互いの名前を聞くのは今日が初めてとは。しかし僕らの出会いは自己紹介など思いつかないくらい些細なものだったから仕方ないのかな。
「なら、花京院と呼んでいいか?それともおふくろみたいに下の名前で呼んだ方が良いだろうか」
「できたら、名字でお願いします」
 名字が珍しいため名前より名字で呼ばれることが多い。日本の名前難しいワなんて言っていたホリィさんは下の名前で呼んでいたけど、学校の同級生や先生は揃って名字呼びなので慣れた方を呼んでもらえたら助かる。
「そうか」
「あの、僕は貴方のこと承太郎さんと呼んでいいですか?」
「さんは要らねえ、承太郎でいい」
 いやいやいやいや、名前で呼ぼうと名字で呼ぼうとさんは必要だろ。僕の一つ上だから呼び捨てで構わないということかもしれないが、一つ上にしてはあまりに色々と大人びていて呼び捨てなんて恐れ多い。無理無理、呼び捨てしたとしてもそう続かないだろう。
「承太郎……さん、でいいですか」
「……まあ、構わねえよ」
 僕の申し出に承太郎さんはそう言ってくれたがあまりいい顔はしなかった。慣れたら、いつか呼び捨てするんで申し訳ないです。

 その後間もなく料理がよそわれた大皿を両手にホリィさんが現れて、迎えの車内と同様に居間は彼女のオンステージと化した。ちょっと気まずかった僕としては助かったけど、承太郎さんは面白くなさそうな顔をしていた。いくら美人でも自分の親だから気にかかるのかな。眉間に皺を寄せて口を真一文字にしてた。僕としてはそんな彼が少し恐ろしい印象があったのにホリィさんが「そんなに拗ねないの」と言うと承太郎さんは舌打ちをひとつしただけで頬杖をついた。そんな承太郎さんの様子は19歳らしくてこっそり笑ったのは内緒である。
 そんなこともあって夕飯が終わって軽く談話する頃には気まずさからくる緊張は殆どなくなっていた。
「すみません、帰りまで送ってもらって」
「別に構わん、近所らしいからそう手間でもない」
 うん、近所だから送らなくてもいいと最初は辞退したが、夜遅いからと承太郎さんが車を出してきたかと思えば半ば無理やり助手席に押し込まれた。歩いても10分ちょっとでアパートに到着するから大丈夫なんだが、承太郎さんが「乗ってくよな?」と言わんばかりに睨みつけてきたので大人しく助手席に収まった。以前からたまに思ったけど変なところで強情なんだな。
 乗り込んだ助手席は硬めではあったが手触り良い生地で、流石高い車だと感じる。まさかそんな車に僕が乗れるなんてこれまで思いもしなかった。
 ちらりと運転席の承太郎さんを横目で見る。暗がりで見る彼はこれまで見た彼同様に絵になる格好良さで、ハンドルを軽く握る姿も様になっている。これで19歳……いや、まだ誕生日を迎えてないと今日聞いたので18歳なのか。ちょっとした詐欺だ、そう歳は離れてないにしてもとっくに成人を迎えた大人だと勘違いしてたくらいだ。きっと僕に限った感想ではない。
 そんなことを考えていると車の速度が落ちて、僕の住むアパート前に停車した。
「おい、ここでいいのか」
「はい、ありがとうございます」
 歩いてもそう時間がかからないだけに車での移動だとかなり早い到着だな。助手席から降りると何故か承太郎さんも運転席から降りてきた。わざわざ降りて見送るのか?実はマメなのかな。
「今日はご馳走様でした」
「誘ったのも、用意したのもおふくろだがな」
「まあ、そうなんですけど……承太郎さんには行き来に車出してもらってありがとうございます」
 以前お礼を言うものだと彼に言われたことを思い出して、出来る限りの愛想笑いをしながら頭を下げる。今日はしっかりお礼を述べられたよな?もしも笑顔がぎこちなかったらそこだけはスルーしてほしい。意識して笑うのは苦手なんだ。
「どう致しまして」
 どうやら問題ないようで承太郎さんの言葉にほっとして頭を上げると、彼の大きな手が伸びてきたのが見えた。
 そしてその手は僕の頭に置かれた。くしゃりと髪の毛が手の動きに合わせて動くのがわかる。痛くはないけど大きな手である故にちょっと加減のない動きにあっという間に僕の髪の毛はぐしゃぐしゃになってしまった。
 その手は僕の頭を撫でているとわかった時にはもう離れてしまう頃だった。
「おやすみ、花京院。また来いよ」
「……おやすみなさい……承太郎さん」
 颯爽と車で帰宅する承太郎さんを見送る僕はしばらくそこから動けなかった。
 僕の一つ上なんてまさかだろ。なんであんなに様になるんだよ。見た目が大人びていると中身も大人びてしまうのか?
 あまりのことにそんな見当違いな見解をしてしまい、僕は彼が「また来い」と言っていたのを聞き逃してしまった。

 前触れもなく僕の腹の虫がぐーと鳴って、珍しくも承太郎さんが目を丸くしたのだから僕は恥ずかしさに消えたくなった。
 日曜日の朝、僕と承太郎さんはいつものようにコインランドリーで会った。最近は晴れてる日でも承太郎さんはここへ乾燥機を使いに来るけど洗濯物を干せない事情でもあるのかな、なんて思った矢先の……僕のお腹の音である。
 基本的にいつも僕はコインランドリーを利用してから朝食にしている。寝起きしばらく食欲が湧かないのが理由だ。だからたまに目覚めたお腹が鳴ることもあるけど、まさかそれを承太郎さんに聞かれてしまうとは。
「朝飯、まだなのか」
「ええ、まあ……帰宅してから食べようかと思っていましたから」
 案外にも彼が腹の虫に関して普通に返してくれたことに羞恥心が薄れる。これで笑われたり、逆に無反応だったなら僕は居たたまれない気持ちになっていただろう。
「花京院、この後時間あるか」
「この後、ですか」
 この後、とは洗濯が終わってからだよな。バイトは10時から、洗濯は大体9時前には終わるから10分から20分ならばあるだろう。
「10時からバイトがあるんで少しなら大丈夫です」
「そうか。バイトはおふくろも勤めてるところか」
「はい」
「なら、俺ん家で飯食っていけ」
「え?」
「朝飯、まだなんだろう?」
「ええ、まだですけど……」
「なら、食っていけ。バイト先の店なら俺も知ってるから車出してやる」
 ……すみません、ちょっと話の流れが分からないんですけど僕の理解力が乏しいんでしょうか。 朝食を済ませてなくて空腹なら朝食を食べればいいのは当たり前だ。幼稚園児だってわかる。だからって何故承太郎さんの家でご飯の流れになるのか僕は解せないんですが。
「おふくろの作る飯の量が多いの知ってるだろう。ひとり増えたってそう変わらない」
「それは、そうですけど、」
 先週お邪魔した際にホリィさんの料理をいただく前にまず思ったのはとにかく多いことだった。卓上に並ぶ品数も勿論だったが、それ以上に量が凄かった。最初見た時はまだ3、4人ほど誰か呼んだのかと思ったくらいだ。
「ちょっと張り切り過ぎちゃったワ♪」
 なんてその時ホリィさんは言っていたけど過ぎるにしても限度があるんじゃあないかと内心突っ込みを入れたものだ。あの様子なら普段もそれなりの量を作るのだろう。
…しかし、だからといって先ほどの承太郎さんの誘いが理解できるかといえば限りなくノーである。
「いつも余ってしまうから片付けてもらえると助かるんだが」
 いやいやいやいや、なんでそんなに誘うのかわからないけどかなり無理ある理由じゃあないですか。そう言いたいのは山々だったが承太郎さんがこちらをじっと見つめてくるので、ついに僕の口は窄まった。

「乾燥機に入ってる洗濯物、あのままでいいんですか?」
「乾燥終わるの待ってたらバイトに間に合わねえだろ。入ってるのは俺とおふくろの部屋着くらいだし、盗られるようなもんもあるまい」
「万が一、とか」
「こんないい天気にあの閑散としたコインランドリーに人が来るとは思えないが」
 ですよねえ、それは長年あそこを利用している僕もよくわかります。うん、雨の日ならたまに人が来る日もあるかもしれない程度で滅多に人なんて来ないです。代わりとばかりに浮かんだ苦笑に承太郎さんは前を歩いてゆく。
 結局承太郎さんの無言の威圧感に負けてしまい、僕は空条家で朝食をごちそうになることになった。なんだって僕は押すのも押されるのも苦手なんだ……しかし今更悔やんでも遅く、コインランドリーから間もなく空条家というより空条邸だろうと何度だって突っ込みたくなる立派な彼の家が見えてきた。そうして相変わらずの豪邸に畏まる僕をよそに承太郎さんがさっさと門をくぐってしまったので慌てて着いていく。
「お邪魔します」
「おふくろはいないからそう畏まるな」
「ホリ……お母さん、いないんですか?」
「てめえは10時かららしいがおふくろは9時からの出勤だ。今の時間帯にはもういない」
「そうなんですか……?」
 じゃあ今、この広い家で僕は承太郎さんと二人きりなのか? その事実に暑いのに背中がひやりとしてきた。
 これまで何度かコインランドリーで承太郎さんと会って話もしたし、夕食も一緒に食べた仲にはなった。だけど承太郎さんに慣れたのかといえば違う。確かに眺めるだけだった時に比べたら大分慣れたかもしれないけど緊張しないわけではない。加えてこの空条家だ、どうあがいても畏まるしかない。
 そんな緊張に冷や汗をかく僕は居間に通される。
「用意してくる、待ってろ」
「僕も、手伝います」
 流石にここまで来て前回のように置物になるわけにはいかない。何を言われたって引いてたまるかと承太郎さんを見上げる。すると案外にも彼は何もせずに奥へと歩んで行く。ホリィさんとは違って手伝うのはいいのかな。沈黙は了解の意だろうとついてゆくとキッチンへ出た。
 やっぱり立派なキッチンだが、台所というよりキッチンと呼びたくなる明らかな洋式なのはホリィさんの好みなのかな。何に使うんだっていうくらいでかいオーブンや冷蔵庫がある。
「そこの冷蔵庫に麦茶が入ってる。まずはそれを持って行ってくれないか」
「はい」
 言われた通り冷蔵庫を開けると意外にもすっきりと整頓された中身だった。流石主婦の冷蔵庫、綺麗だな……僕の部屋の冷蔵庫は一人暮らしなのにきっとこの冷蔵庫よりあれこれ入ってるぞ。
 整頓された冷蔵庫からすぐに麦茶を発見し、承太郎さんから手渡されたグラスと共に居間へ持って行く。戻ると準備をしている承太郎さんの傍には既に何品か小皿に乗って並んでいた。
「そこにお櫃があるから茶碗と一緒に持って行ってくれ。お盆と茶碗はそこに出ている」
「おひつ?」
「そこにある桶みたいな容器だ。そこに飯が入ってる」
 言われてすぐにお櫃を見つけ、用意してくれていたお盆に乗せて運ぶ。お櫃って初めて見聞きしたものだけど直接炊飯器からご飯を盛らないんだ。なんだかすごいな空条家。そうして準備を終えて食卓についた僕の前には到底お家の朝食とは思えない空条家の朝食が並んでいた。お櫃からよそったご飯に豆腐とわかめ、長ネギの入った味噌汁を始めとして副食はだし巻き卵にほうれん草の胡麻和え、きんぴら牛蒡に牛の大和煮。そしてデザートとばかりにヨーグルトのリンゴ和えだ。僕の母親だって朝食はそれなりのものを用意してくれたけど、実家でもこんなちゃんとしたものは食べたことがないぞ。
「おふくろの作り置きしたやつだが遠慮しないで食え。おかわりもある」
 こんなに品数多いならおかわり不要だろうに流石空条家。
「……では、いただきます」
「いただきます」
 行儀良く手を合わせてから箸をつける承太郎さんは強面だけどあのホリィさんに育てられた故の育ちの良さを知る。
 そして朝からこんなにちゃんとしたものを食べていたならそれは確かに大きくなるよな、と彼の長身を眺めながら納得してしまった。

「食器の片付けは僕がやります」
 朝食を食べ終わって早々に僕はそう申し出た。先手必勝、朝食をいただいた恩義のつもり。前回のように全くのタダ飯は避けたかったので片付けくらいはしたかった。
「時間はいいのか」
「まだ9時半前なんで大丈夫です」
「そうか……なら頼む」
 ホリィさんと違って承太郎さんは僕の申し出を断らないので助かる。前回は手伝おうものならことごとくホリィさんに阻止されてしまったからな。遠慮しないで寛いでという意味合いからなんだろうけど、手伝いして少しでもお役に立てた方が僕としては気持ちが楽だったりする。
 皿を洗いながら水回りを見渡す。冷蔵庫同様に整頓されていて、目に付くのは水切り籠と調味料入れくらいだ。僕はよく使うボールやフライパンを置きっぱなしにすることがあるから見習いたい整頓具合だ。
 水切り籠に泡を流した食器を並べていると、あることに気付いてしまった。
 ……そういえば洗濯物、どうしよう。承太郎さんがお店まで送ってくれるから時間に余裕があると思っていたけど、お店に行く前にまず帰宅して洗濯物を干さないといけない。バイト終わってから干すなんてあまりに遅すぎる。
 食器を拭きながらこれからどうするか頭を回転させる。
 申し訳ないけど承太郎さんにはアパートまで送ってもらって、そこから急いで洗濯物を干して走ってバイト先まで行けばギリギリ間に合う、よな? よな、じゃあなくこの流れで間に合わせるしかないだろう。
 皿洗いのバイトで培われた後片付けの速さに我ながら感心しつつ、それでは早速承太郎さんに行き先をアパートに変更してもらおうと居間へ戻る。しかしそこには彼の姿がなかった。
「承太郎さん?」
 呼びかけると小さく承太郎さんが応える声が聞こえた。声が遠いから隣の部屋にでもいるのか?
「ええと、どこですかー?」
「ここだ」
 先ほどより大分声が近くなり、聞こえた方へ振り返ると承太郎さんが庭から姿を現した。そんな彼の手には何故か僕の洗濯籠。もしかしてわざわざ籠を持って待っていてくれたのか?
「すみません、籠持ってもらって……、…?」
 慌てて籠を受け取ったがやけに軽い。まるで中身がはいってないような…違和感に籠の中を確認するとそこには洗濯物が一枚も入ってなかった。
「あの、洗濯物は?」
「そこだ」
 承太郎さんが指差した方を見るとそこには洗濯竿に干された僕の衣類があった。
「洗濯物干す時間ねえだろ。手が空いていたから干しておいた」
 まあ、時間は結構ギリギリでしたけど……なんで僕の洗濯物が承太郎さんの家の庭に干されることになるんだろうか。これは僕の理解力の乏しさを抜きにしたって理解が追いつかない。戸惑う僕をよそにいつの間にか承太郎さんは車の鍵を手にしていた。
「バイト終わる頃には確実に乾いてる。帰り寄ってけ」
「でも、」
「時間、40分過ぎたぞ」
「えっ」
「間に合うのか」
「その……ちょっと危うい、です」
「なら早く行くぞ」
 承太郎さんは言葉と共に僕の手を掴むとずかずかと玄関へと歩き始めた。僕の手を掴む彼の手は力強くて容易には離れられないだろう。
 ホリィさんと違って、なんて先ほど思ったけど向かうベクトルが違うだけで親子揃って強引じゃあないか。有無を言わせない彼の大きな背中が、似てもいないのに先週のホリィさんを彷彿とさせた。
 そのままバイト先に送られた僕は、洗濯物の事情を知ったホリィさんによって再び夕食に誘われ、今週も空条家でごちそうになってしまったのだった。

 まさか二週続けて空条家で夕飯をいただくとは、押しが弱いとはいえ不覚だ。しかも今日は朝食までいただいてしまった。こいつはいけない…もしも次があったなら絶対断らないと。
 なんて、思いながら僕は薬味たっぷりの蕎麦をずるずるとすすっているわけで。長ネギと茗荷と白胡麻に刻み海苔、千切りしたきゅうりにおくら。そしてとどめとばかりに天かすまで麺汁に投入したざるそばは具だくさんで食べごたえある。全部入れるなんてセンスがないだろうと言われそうだがおいしいものはおいしい。咀嚼すると蕎麦よりも薬味の歯ごたえが勝っていて天かすの油っぽさと野菜類の青臭さが絶妙である。
うん、おいしい。思わず口の端が上がってしまう。
「ごめんねノリアキ君、今晩お蕎麦とお稲荷さんしかないのよ」
「いえ、いただけるだけで嬉しい限りです」
 ざるそばと稲荷寿司さえあれば十分なのではないかと思いつつ、これで少ないと思う辺り空条家だなと実感する。
「それにざるそばなんて久しぶりに食べました」
「アラ、お蕎麦って茹でるだけだからお手軽じゃあないかしら?」
「蕎麦自体は楽なんですけど、薬味がちょっと…家だと僕ひとりなんで結構余るんですよ」
 一人暮らしだと地味に薬味が面倒だ。一人分の薬味なんてちょっとずつあれば十分だ。天かすや海苔は日持ちするけどかさばるし、野菜類は賞味期限が心配だ。以前特売できゅうりが安かったからと大量に買った際、全てのきゅうりを消化する前に底にあった一部のきゅうりが溶けてしまったのを見て以来野菜の溜め込みはしないようにしている。
 冷蔵庫でも腐るものは腐る。そのため買い込んでも2、3日で食べきれる程度しか買わないようにしてるため、残りが多く余ってしまう薬味なんかは避けていた。
「そんなに余るかしら?」
「僕ひとりなもので。きゅうりはまだそのまま食べられるのでいいんですけど、長ネギや茗荷がどう消化すればいいか……」
 自慢にならないが一人暮らしした年数イコール自炊した年数である僕の料理レパートリーはそう多くない。どうにかレパートリーを増やそうとしてるけど、困ったらチャーハンや鍋に投入は未だよくある。無理に使い切ろうとするから長ネギライスとかミョウガライスとか不味くはないけど食べられたらいいレベルのものができたり、鍋は冬場ならばまだしも夏にはなんとも食欲が削がれる。
 食べるのは僕ひとりだし、それでも良いと言えばいいのだけど作るからにはおいしいものが食べたいとは思う。
「それなら長ネギや茗荷を使ったお料理のレシピ教えてあげるわ」
「いいんですか?」
「ええ!特に長ネギのお料理はたくさんあるから、ノリアキ君が好みそうなのもあると思うわ!」
 流石主婦、流石ホリィさん。調べてレシピを覚えるより教えてもらってレシピを覚える方が何かといい。教えてもらいながらならわからないところを聞けるし大変助かる。
「ではお言葉に甘えて、お願いします」

「今の時期なら冷やしておいしい和え物がいいと思うわ。ノリアキ君はぬたは大丈夫?」
「ぬた?」
「お味噌とお砂糖、お酢をあわせたものよ。ぬたなら色んなお野菜に合うし用意もカンタンよん♪」
「なるほど、」
「カンタンだから今から作ってみましょうか。作って食べた方がよくわかるワ」
 まさか実演しながら教えてもらえるとは。
 ホリィさんは水が入った鍋に火をかけると用意していた長ネギと茗荷を手早く洗い始めた。僕もそれに倣って洗っていると向かっていたキッチンに影が落ちる。
 なんだろうとちらりと後ろを見れば承太郎さんがこちらを見ていて、まさかの彼に背筋が伸びる。
「アラ承太郎、飲み物なら冷蔵庫よ」
「二人で何してんだ」
「今ノリアキ君に長ネギと茗荷のぬた和えを教えてるのよ。あとで承太郎にも味見してもらうから居間で待っててねん」
 ホリィさんが承太郎さんの頬にキスをする。うわあ、テレビなんかで見たことあるけど外国人ってやっぱり気軽にキスするんだ。
 思わず僕が凝視してしまったせいか承太郎さんはこれでもかというくらい露骨に顔を歪めてキッチンを出て行く。お母さんとのキスだからより気まずかったのかもしれない。どうにもいけないなと水場へ視線を落とすと、隣にいたホリィさんが小さく笑った。
「承太郎ったらノリアキ君のことになったら落ち着かないんだから」
「まあ、お客さんですからね。」
「いいえ!他のお客様にはもっと無口で素っ気ないのよ? 今だって、ノリアキ君がいたから台所に来たと思うわ」
「そうですかね」
「そうよ。承太郎ね、あんまりお喋りじゃあないから分かりにくいかもしれないけど、ノリアキ君のこと気に入ってると思うの」
「まさかそんなことは……」
 それはないのでは。僕は彼に何をしたわけでもないのに気に入られる理由がわからない。これまで何度か顔を合わせたことはあったけど…何か特別なことはあるだろうか? 逆に僕が承太郎さんにしてもらったことならいくつか浮かんだが、やっぱり僕が彼に気に入られるようなきっかけが思いつかない。
「承太郎さんは僕が年下だから気を遣ってるのではないですか」
「それはないと思うわ。歳が近いから気になることはあるかもしれないけど、歳によって態度を変えるなんてなかったもの」
 話している内に鍋の中の水が煮え立ってきた。ホリィさんは少しだけ日を弱めると長ネギと茗荷をそこに投入した。
「あまり湯がいちゃうと長ネギあたりは溶けちゃうからさっとお湯にくぐらせる程度にね」
「はい」
「ねえノリアキ君」
「なんでしょうか」
「ノリアキ君は承太郎のこと……どう思うかしら?」
「え……」
「少なくとも承太郎はアナタのこと悪しからず思ってるのはわかるんだけど、ノリアキ君はどうなのかなぁなんて、気になっちゃって」
 どうかしら、とにこりと笑うホリィさんはなかなかにプレッシャーで僕は慌てて言葉を探す。承太郎さんをどう思うかって……悪くは思ってないけど、だからどう思ってるかといえば……どう、思ってるんだ?
 そういえばそうだ。以前から気になる存在であったけど、それ以外に何かあるかと考えて……あれ?
 あれってなんだよ僕。
 思わず自身に突っ込んでは首を傾げた。
「ノリアキ君?」
「ああ、はい……とてもいい人だと、思っては、います」
「あらあらそうなの! それなら良かったわ」
 選択籠を持ってくれたり、寒いからとコーヒーをくれたり。先週は送り迎えしてくれたし…今朝のこともあるからいい人なんだろうけど。うん……でもだからどうしたこともないのが僕の言葉尻を小さくさせる。
 話の流れ的にホリィさんは承太郎さんと僕が仲良くなってほしいようだとわかったが、僕としては今以上の関係なんて考えもしなかった。それどころか今のこの関係すら信じられないくらいだったのに。
 何度だっていうが僕は承太郎さんを見てるだけで良かったんだ。いわゆる彼は僕にとっての高嶺の花のような存在だったんだ。見て愛でるものであって触れたり摘んだりしてはいけない花、承太郎さんも見てるだけで話しかけたりなんて恐れ多い、そんな人だったんだ。
「良かったらこれからも仲良くしてやってね」
「はい……」
 仲良くしてもらってるのはきっと僕の方だろうに。でもホリィさんの笑顔にそれ以上は返せず、笑うしかできなかった。

 会話もそこそこに、出来上がったぬた和えをみんなで食べてみる。これは確か実家で白味噌和えといわれて出されたものと似ている。簡単な上に教えてもらいながら作ったため、おいしく出来上がった。
さっぱりした和え物は三人で食べたらあっという間になくなってしまった。
「これ、花京院が作ったのか」
「はい」
「今度、俺のために作ってくれないか」
「? ええ、僕で良ければ」
 なんだろう。承太郎さん、そんなにぬた和えが好きだったのか。

 承太郎さん本人は勿論、彼の周囲にあるものはなかなかに人の目を惹く。
 買い物袋を両手に下げて僕は意気揚々に帰路を歩く。よく利用しているスーパーの特売の帰り、暗くて地味な色なのにやけに目に付く車が道脇に停まっていた。焦げ茶色自体は地味だけど……やっぱり目立つよな。焦げ茶色の車はベンツのロゴが入っていて、きっとそれは彼の車だ。そうそうあったらおかしい。
「花京院」
 背後から聞き慣れてきた声が聞こえてきて振り返ると予想に違わずそこには彼がいた。
「こんにちは、承太郎さん」
 そこにいたのは真っ黒なスーツを着用した承太郎さんだった。久々にスーツ姿の彼を見たが相変わらず様になっていて、ばさりと上着を脱いだ。
 暑そうに額の汗を拭う仕草もこれまた様になっている。格好いい人はちょっとした仕草も格好いいな。
「おう。その荷物……買い出しか」
「はい。承太郎さんは?」
「おふくろの知り合いの催しに行っててな。その帰りだ」
 催し……とはパーティーかな、だからスーツ姿なのだろう。彼はあまりそういう集まりを好かないイメージがあったけど参加するんだな。
 そういう割にはホリィさんの姿が見あたらないし、こんな道端に車を置いてるのはなんでだろう。
「あの、ホリィさんは?」
「おふくろはこの近場で二次会だ」
「……じゃあ承太郎さんは見送り、ですか?」
「まあな」
 そうなると承太郎さんは見送って帰るところだということか。
 帰るだけのせいか彼はワイシャツの袖を捲り、ネクタイを解いて首もとのボタンを外す。きっちり着こなしていた姿だけじゃあなく、着崩した姿も様になってる。額に垂れた前髪を鬱陶しそうに指先で払う仕草さえ絵になってる。承太郎さんだからだろうな。僕が同じ格好で同じことをしたって着慣れてないリクルートスーツに汗だくになってる学生にしか見えないだろう。
「帰るだけだから、送ろうか」
「?」
「アパートまで送ってやる。帰るついでだ」
「あ、あの、」
 答える前に承太郎さんが僕の肩を抱いて助手席のドアを開ける。肩を掴む手はやっぱり大きくて容易には離れられない強さがあった。
 見上げればあの端正な顔がすぐ傍にあって、至近距離で見る彼も変わらず格好良い。アップに耐えられる美人は本物の美人なんて聞いたけど彼みたいな人を言うんだな。
 思わず見とれてしまっていると肩を抱いていた手が離れて、代わりに手に持っていた買い物袋を奪われて後部座席に放り込まれてしまった。
「乗れ、早くしないと車内が暖まる」
「あ、はいっ」
 荷物は既に車内、促されるままに助手席に乗り込むと続くように承太郎さんが続くように運転席についた。僕がシートベルトを着用したのを確認するとゆっくりと車が動き出した。こういうのって、相手に不快な思いをさせずに断るタイミングがわからないな…。
相変わらず申し訳ない気持ちを抱えつつ、僕は冷たい冷房の風に目を細める。7月も半ばを過ぎたこの時期、昼間はなかなか暑いだけに気持ちいい。
 近道なのか、車は狭い路地へと入ってゆく。そこらの車に比べたら大分大きいはずのこの車はするすると危うくなく路地を走る。よく運転するのかな、運転しない僕からしても承太郎さんの運転は上手いと思う。これで歳がたった一つ上なんだから世界は不平等だ。
思わずハンドルに手を添えるように軽く転がしてる姿を見つめてしまう。
「車、好きなのか」
「え?」
「前もこいつを見ていたなと思って、車が好きなのかと思った」
 承太郎さんは変わらず前を向いているが僕の視線はそんなに無遠慮だったろうか。慌てて視線を前方へ移動させる。
「人並み程度、ですけど好きですよ」
「そうか。車は持ってないようだが、免許は持ってるのか」
「いえ、まだ18歳になってないんで取ろうにも取れないんです。免許があればなにかと便利なので、冬休みに合わせて合宿行こうかと考えてます」
 実は免許を取ろうかと考え始めたのは割と最近だった。そのきっかけになったのは僕の隣で運転する彼なのは僕の中だけの秘密である。流石に最初の車は中古車になるけど、承太郎さんみたいに運転できたならさぞかし気持ちいいだろうと思ったんだ。
「まだ、18じゃあないのか」
「はい。でも来週の木曜日に誕生日なんで間もなく、18歳ですかね」
 そういえば誕生日はもう来週なのかと思い返す。実家の母親からはお盆とはいわず誕生日に合わせて帰ってらっしゃいなんて連絡も来たものだ。僕といえば夏休みとばかりにお盆ギリギリまでバイトに入る日を増やしてしまったので、帰ってこいと言われてもそう簡単には帰れなくなっていた。そのため結局は予定通りお盆に帰ることになったのだ。
 電話越しに不満をもらしていた母親の声を思い出しつつ、ついつい笑ってしまう。
「……ほう」
 すると何故か承太郎さんは口元に笑みを浮かべながら顎を撫でた。それはまるで何か考えているようにも見えたが僕にはただただ格好良いだけの仕草だという感想しか持たず、特に追求することなく帰路についてしまった。

 そんな己の失言に気付いたのは日曜のバイトの時だった。
「ねえノリアキ君、今週の木曜日お誕生日なんですってね!」
 昼時を過ぎて厨房へ引っ込んできたホリィさんが開口一番にそう言った。
「何故それを、」
「この間承太郎が言ってたのよん♪」
 何言ってくれてんだ承太郎さん、よりによってホリィさんに知られてしまうとは。誕生日のことは過ぎるまでホリィさんには内緒にしておきたかったのに。
 だって知られたらホリィさんのことだから絶対お祝いする。
 これは自惚れとかではなく、前例があるからだ。今回の僕みたいに以前ふとしたきっかけで近々誕生日だとホリィさんに知られたあるスタッフがいた。そのスタッフさんは特にプレゼントを催促したわけでもなかったのだが、誕生日当日に彼女から手作りケーキと何か大きな紙袋を貰っていた。聞いてみればこのようなことは珍しくないらしく、ホリィさんの友人でもあるここのレストランのオーナーに至ってはあの大きな空条家でパーティーを開いたそうだ。
 これを聞くと特に仲の良くない僕にも何かしらありそうで用心していたのだ。それでなくても彼女は何かとよく僕を気にかけてくれるし……。
 明らかな弁解だがホリィさんの好意が嫌なわけじゃあない。むしろ嬉しいくらいだ。でも僕は普段から彼女によくしてもらい過ぎだから誕生日だけは遠慮したかったのだ。
「木曜日、時間あるかしら? 良ければお誕生日お祝いも兼ねてお夕飯食べにいらっしゃい」
 まさか承太郎さん経由でバレるとは思ってなかったがこの誘いは……実は予想範囲内だ。
「申し訳ないですが、誕生日は高校の友人と遊ぶ予定がありまして……お誘い嬉しいですが行けそうにありません」
 そんな予定はないし、丸一日フリーだったりするが僕の口はそう言葉にする。誘ってもらって嬉しいのは本当だ。しかしだからといってお誘いに乗り続けるのは良くない。
 申し訳ないけどこれ以上甘えるわけにはいかないので嘘をついてしまいます、ごめんなさい。内心そんな思いを込めて頭を下げる。
「お顔上げてノリアキ君、予定が入ってるなら仕方ないじゃあない」
「すみません」
「謝らないで、ね?」
 どうにか断る理由を作るために嘘をついた後ろめたさはなかなかだ。少し顔を上げるとホリィさんが僕の顔を覗きながらにっこり笑うもので、僕は後悔の念が生まれるのを感じた。

 明日は誕生日だから、自分のプレゼントにゲームでも買おうかな。夜のコインランドリーで洗濯が終わるのを待ちながら記憶する限りの新作を思い浮かべる。誕生日の日、予定のない僕は新作ゲームで一日を費やそうと計画していた。
 誕生日にぼっち? 大いに結構じゃあないか。お盆に実家に帰れば数日遅れになるが両親が祝ってくれるし、誕生日当日は自分の好きなように時間を使えるというのも悪くはない。
 まあ、ホリィさんの一件は未だにちょっと引っかかっているが……でも夏休み入って何度かお世話になってるだけにきっぱりと断るべきだったんだ。
 かたん、と音が響いて洗濯機が停止する。さて、洗濯も終わったし、続きはアパートに帰ってから考えるかな。洗濯機から洗濯物を取り出しながら皺を伸ばす。今週初めに梅雨明け発表されたし、天気予報も晴れだから今夜は乾燥機の出番はない。
「梅雨明け、か」
 7月に入ってから晴れの日も多かったがとうとう明けてしまった。最近は晴れの日も承太郎さんがここを利用する日があったけど、それも少なくなるだろうか。
 ……そう思うと少しばかり寂しいな。
 名前を知り、街中で会えば声を掛ける程度の仲になったけど僕と彼の出会いはここだったから、その繋がりがなくなってしまうのは……。
 ついついため息をついてしまい苦笑する。これは仕方ないことだ。僕と承太郎さんの出会いはたまたま同じコインランドリーを利用していたという偶然の産物なのだから、今の関係まで発展したのが奇跡の領域なのだ。
 そうわかってはいるんだけどなあ。
 再び漏れそうになるため息にどうしたものかと、宛てのない気まずさに思わず前髪をいじっていると突然大きな音を立てて引き戸が開いた。なんだこんな夜に…それに乱暴に開けて壊れたらどうするんだ、公共のものだぞ。
 そんな非常識な来訪者に呆れながら出入り口へ視線を移すと、そこには誰かが横たわっていた。
 なんだなんだっ、来訪者は急病者か? 恐る恐る様子を窺いに行くと見知った顔がそこにあった。
「承太郎さん……?」
 倒れていたのは顔を真っ赤にした承太郎さんであった。
 まさか、でもなんで? 顔が赤いからもしかして熱があるとか? 体に触れて体温を確認しようと更に近付くと酷いアルコール臭が鼻についた。
 もしかして酔ってる?
「あの、承太郎さん?」
 揺すってみると彼は薄目を開けてこちらを見上げた。どうやら意識はあるようだ。
「大丈夫ですか。体、起こせますか?」
「ん、」
 倒れてはいたが思ったより意識ははっきりしているようで、腕を床について起き上がろうとしていた。ゆらりと立ち上がった巨体は一歩二歩と前進したかと思えばベンチへ倒れてしまった。元からよく軋むベンチは長身の承太郎さんが全身を預けたことで大きな音を立てる。
「ちょっと、あの、承太郎さん!?」
「ん?」
 ベンチに俯せで横になっている彼は不思議そうに声を上げる。
 ん?じゃあなくて承太郎さん!危ないですよ!!
 先ほどより少し強く肩を揺すると承太郎さんの瞳が僕をとらえた。しかし焦点がぐらぐらしていて僕を認識しているのか怪しい。酔っ払いの扱いはよくわからないけど、このまま放っておくのも良くないかな?
「承太郎さん、帰りましょう?立てますか?」
「ん、」
 先ほどから「ん」しか言わないけど、僕の呼びかけをちゃんと理解してるのだろうか。心配が膨れるが彼はゆっくりながら体を起こしてベンチに座ったので、こちらの対応次第でどうにかなるかもしれない。
「帰りますよ、承太郎さん」
「ん」
「……帰りましょうね」
「…おう」
 やっと「ん」以外の言葉が彼の口から出てきてほっとする。それでも帰ると言ってるのに腰を上げないので承太郎さんの手を取って引っ張る。しかし大きな体はびくともしなくて大きく長い腕が伸びるだけだ。
「承太郎さんっ」
「んおう」
 やっと承太郎さんが立ってくれたがゆらゆらと体が揺れていたので、慌てて彼の脇から腕を通して支えてやる。結構飲んだのか、ふう、と吐き出された息は熱くて酒臭い。
 承太郎さん節度ありそうだけど結構お酒飲むんだな……いや、待てよ。この人未成年だよな。
 こんな見た目だけど18歳なんだよ。
「あまり外にいたら良くないんじゃあ……」
 どこで飲んできたかは知らないけど、未成年である承太郎さんがこうして酔いつぶれかけているのは良くない。半ば僕に寄りかかっている体は重いけど早く彼の自宅へ行かないと。僕は承太郎さんに声を掛けながら出来る限りの急ぎ足で空条家へ向かった。

 コインランドリーから空条家が近くて良かった。心底そう思うくらいに僕は疲れてしまい、承太郎さんの自宅に着く頃には軽く息が上がっていた。できるならば今にも座り込みたいくらい。
 しかし到着した空条家は真っ暗で鍵も開いてなくて僕は内心焦りが生まれていた。
「ごめんくださーい!」
 玄関の戸を強めに叩いてみる。夜の23時は過ぎている時間、ガンガンうるさくて近所迷惑になりそうな音なのに何の反応も返ってこない。よりによってホリィさんが留守なのかな……どうしよう。庭から入る? いやいや、そこまで不用心じゃあないよな。
 どうしようか悩んでいると俯いていた承太郎さんの顔が上がる。暗がりで見るその顔は未だに赤く、締まりのない表情をしているので酔いは醒めてないのだろう。
「なに、してんだ」
「家に入りたいんですけど、」
「鍵……ある、ポケット、」
 そうか、そうだよな。ホリィさんが留守なら承太郎さんは鍵を持ってなければならない。手当たり次第に彼のポケットを漁ると尻ポケットから星のキーホルダーがついた鍵が出てきた。
 見た目に似合わずファンシーなキーホルダーだなと思いつつ鍵を射し込んで回すと無事に玄関の鍵が開いた。
 ああ良かった……一時はどうなるかと思ったが家に入れるなら大丈夫だ。
「承太郎さん、お家に着きましたよ。起きてください」
「ああ、」
 返事をするが相変わらず承太郎さんは僕に寄りかかりながら歩く。帰宅部の体力舐めるなよ、そろそろ僕は限界なんでできたらご自分で歩いてください。
「はあ、」
 真っ暗な廊下を進み、居間へ出る。何度か利用した部屋に出てつい安心してしまい腰を降ろした。
「疲れた……」
 ずるりと承太郎さんの体が座った僕の脚の上に落ちる。僕がこれだけ苦労したのにどれだけ飲んだんだこの人、起き上がることもしない。
 また顔を窺おうと落ちた前髪を払ってやると気になるのか承太郎さんは首を小さく降ると僕の脚に顔を埋めてしまった。
 だからさ、起きないのかな。このままじゃあ僕動けないんだけど。
「承太郎さん」
 いい加減起きてもらわないと困るのでちょっと乱暴に揺すってみる。万が一怒られる可能性も考えたけどこのまま本格的に僕の脚の上で寝入られてはたまったものではない。
「承太郎さん、僕帰りますから起きてどけてください」
 耳元でそう訴えると承太郎さんの手が少し動く。その調子で起きてくれないか。
「承太郎さん、起きてください」
 するとどうしたことか彼の手は僕の衣服を強く掴むと、再び動かなくなってしまった。
 まさかだろ、寝ぼけてるのか?繰り返し呼び掛けながら体を揺するがもう彼は動くことはなく、僕は暗い空条家の居間で途方に暮れてしまった。

 そんな夜を過ごしたがどうやら僕は朝を迎える前に寝てしまったようで、次に気がついた時には外が明るかった。
「……どこだ、ここ…」
 そして僕は知らない部屋に敷かれた布団で寝ていたわけで。
「え?」
 思わず状況を確認しようと室内を見渡す。
 室内は生活感はあるもののこざっぱりしていて、そしてやけにアンバランスであった。畳と襖の和室なのに床にはギターが置かれ、壁には有名なJPOPミュージシャンのポスターが貼られている。かと思えば相撲力士のカレンダーがその隣にぶら下がっていて部屋の主の趣向がいまいちわかりにくい。なんだこの部屋は?
 わかるのは少なくともここは空条家の一室であることと、ここまで運んでくれたのは承太郎さんだということくらい。
 取りあえず起きようかと立ち上がると襖が開いて、そこには承太郎さんがいた。流石に酔いは醒めたのか、彼は普段通りの表情だ。
「目が覚めたか……その、昨晩はすまない」
 酔っていた時の記憶があったようで承太郎さんは珍しく気まずそうに後頭部を掻いた。まあ、記憶があって良かった……これで彼の記憶がなかったら人様の家の今で行き倒れになっている不審者である。
「いえ、こちらこそすみません。帰る前に寝てしまって」
「それも俺のせい、だろ?」
 ……ご名答です。言わない代わりに苦笑で返すと承太郎さんの口がへの字にの形になった。あの承太郎さんの口がへの字に……そんな顔に出るほど気にしてるのか。いつもは余裕ありげな無表情が多いだけに、その口元は僕の笑いを誘う。しかし承太郎さんは申し訳なさからこんな顔をするんだから失礼だと笑いはこらえる。
「せめてもの詫びだ、帰りは送ろう……用事、あるんだろ」
「用事は特に……」
 今日はバイトはないし、夏休み真っ最中だから学校すらないし暇なくらいなのだがどうしてこんな朝から用事があると思ったのだろう。そんなちょっとした疑問を抱いた僕に何故か承太郎さんも不思議そうな顔を返す。
「今日誕生日だから、ダチと遊ぶんじゃあないのか」
 おふくろからそう聞いたぜ。そう続いた言葉に自身がホリィさんについてしまった嘘を思い出す。そういえば、そんな断りの口実だったな……嘘をついたことを思い出すと気が病むからと記憶の彼方へと押し込んでいた。
「それは、その……夕からなんで大丈夫です」
「そうか、なら良かった。準備ができたら送る」
 先ほどの気まずそうな表情はどこへやら、僕が断る場合など念頭にないとばかりに承太郎さんは部屋を出て行く。そこんところは相変わらずだなと駆け足気味に彼の背中を追えば居間へと出た。居間は昨晩とは違って煌々と朝日が入って明るい。
 そんな居間を眺めながら昨晩のことを思い出していると、突然目の前に紙袋を突き出された。突き出したのは承太郎さんでいきなりのことに黙って顔を見つめる。
「やる」
「これ、ですか?」
「ああ。今日誕生日だからプレゼントだ」
 プレゼント? まさかのものに開いた口が塞がらなくなる。誕生日だからプレゼント、それだけ聞いたら当たり前のことなのに、それを用意してくれたのがまさかの承太郎さんだとは。驚きを隠せないまま紙袋を受け取ると、承太郎さんは目を細めて笑いながら僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「誕生日おめでとう、花京院」
 祝ってもらえるとは思ってなくて、祝ってもらおうとも思ってなかったのに。
 頭を撫でながら祝ってもらってしまった現状に僕は嬉しさと恥ずかしさに言葉を失って俯いてしまった。

「すまないな」
「いえ、僕も洗濯機を借りてますから」
「それも昨晩のことがなければ借りることもなかったろう」
 まあ、それはそうなんですけどね。今回のことがあってこれまでの借りを返せそうな僕としては、今空条家のキッチンに立つまでの経緯はあまり気にしてなかった。

 準備が終わったら送る、という承太郎さんの申し出に甘えて大して持参物のない僕はいただいた紙袋を抱え、ポケットの小銭入れを確認して…あるものがないことに気付いた。
肝心の洗濯物がない。昨晩はどうしたかといえば酔った承太郎さんを支えて家まで送るのに精一杯で洗濯物に目をかける余裕などなかったから、もしかしたらコインランドリーに洗濯物を置き去りにしたかもしれない。
 あの利用者の少ないランドリーなら盗まれる心配はないだろうけど二度洗いは必至だな…ああ、100円無駄にした。承太郎さんにはバレない程度の小さなため息をひとつ、居間にあった時計を確認する。まだ7時前か、なら家まで送ってもらってそこからコインランドリーまで行っても問題ない。幸いにも今日は何の予定もない誕生日だから時間はたんまりある、我ながら皮肉な話である。
「準備できました」
「早かったな、まだ洗濯が終わってないんだが20分ほど待ってくれないか」
「洗濯?」
「昨晩、忘れただろ……洗濯物」
 言いながら承太郎さんは何かを僕の前に突き出す。それは僕がいつも使っている洗濯籠であった。置いてきたと思ってたけど……あれ、でも中身がない。籠も大事だけど中身が肝心なんだけどどこへ……なんだ、ひどいデジャヴを覚える。以前にも承太郎さんが空の洗濯籠を持っていて、その時は承太郎さんが庭に僕の洗濯物を干してたんだよな。
 そしてついさっきまで交わされた会話。
「あの……今してる洗濯って、何洗濯してるんですか」
「何って、てめえの服だ」
 さらりと返された言葉に僕はどんな顔をすべきなんだろう? 流れからして予感はあったにしても実際していたことに困惑しか覚えない。親切心かもしれないけど、うん…なんて言えばいいかな。まずはお礼?ええと?
 だってわざわざ朝からコインランドリーへ僕の洗濯物を取りに行って、洗濯してくれてるんだろう?
「あと少しで終わるからテレビでも見て待ってろ」
「ありがとうございます」
 促されるままに居間へ座らされ、既についていたテレビには朝の情報番組がやっている。久々に見たな、学校でもない限りまだ寝てる時間だぞ。
 朝っぱらから人様の家で何故僕はぼんやりテレビを見てなければならないんだろう。あと20分かかるんだと言ってたかな。自宅で20分なんてあっという間なのに、心穏やかに待てる気がしない。せめてホリィさんがいれば違うんだろうけど昨晩と同様に彼女の姿はない。どこかお泊まりでもしてるのかな。まあ、息子である承太郎さんは大きいんだし泊まりがけで出掛けたりはするよな。
 現実逃避のようにホリィさんのことを考えていると不意に「ぎゅー」という音が聴こえてきた。なんだ、と顔を上げて辺りを見回すがテレビがついていることと、縁側で承太郎さんが煙草を吸っているだけだった。
 あれ、承太郎さん18歳なんだけどな……昨晩はお酒飲んでいたけど煙草も吸うのか。強面だし、口調もあんなだし僕が知らないだけで不良、なのか。
 ……でも、優しいんだけどなあ。
 ふう、と煙を吐き出し、あの分厚い唇が煙草を銜える。歳はあれだけど吸い慣れてる一連の仕草にテレビそっちのけで眺めているとまた「ぎゅー」とも「ぐー」とも聴こえる音が聴こえた。その音に僕はその体制のまま固まってしまった。
 視線の先には変わらず承太郎さん。しかし僕には先ほどから聞こえる奇妙な音の発信源がわかってしまった。
「……気にするな」
 承太郎さんが横目でこちらを窺いながらそう呟く。いや、しかし気にするなというけど現場を見てしまった以上、目が離せない。もしや、という気持ちで僕は口を開く。
「承太郎さん。お腹、空いてるんですか」
 返る言葉はなく、代わりに舌打ちが聴こえた。彼は苦々しい顔をしたけれど否定はしない。
 ……お腹空いてるんですね。
「僕に構わず朝食にしてもいいですよ」
「……食うもんがねえ」
「え?」
「おふくろが帰るまで飯はねえ」
 言いながら承太郎さんの口が曲がる。まるで食べたくとも食べられないのだと言わんばかりの表情だ。
 ホリィさんが帰るまで食べるものがないなんてまさかそんな…空条家の冷蔵庫は確かに入っている物が少なめだったけど、承太郎さんひとりが食べるだけの食材は入ってそうではある。いや、彼はホリィさんが帰ってこないと朝食はないと言ったんだよな。
 ……つまり、材料である食材はあってもホリィさんが食べるものを作らない限り、承太郎さんは食べるものはない、と言っているのか?
「……あの、冷蔵庫覗いてもいいですか」
「ああ、特に何もないが構わない」
 何もない? 本当かな……。
 承太郎さんが嘘をつくとは思えないけど、何もないとも思えなくてキッチンへ向かう。
相変わらずキッチンは綺麗で清潔感がある水場を横目に、僕は二人暮らしでも三人暮らしであろうとも大きい冷蔵庫を開ける。
「……」
 開けた向こうにはパックのたまご、ベーコンにチーズ、合い挽き肉と魚の切り身のパック。そして茹でたらすぐ食べられるタイプのうどん一袋。
「……」
 扉を閉めてその下の野菜室を開けるとそこにはナスとキュウリにおくら、レタスとキャベツ1玉ずつあった。まあ、大型冷蔵庫に入っている食物としてはかなり少ないが……。
「ないだろ」
 僕のあとをついてきたらしく、隣に立っていた承太郎さんがそう言う。いやいやいや……これはあるって言います。
 そういえば、この間の朝は既に調理されたものしかなかったしなあ。あれはホリィさんがあらかじめ作ってくれたものだと聞いた。
 その事実に頭の端に浮かんでいた疑問が確信に変わる。承太郎さんは料理をしないし、きっとやろうとしても普段からやらないためにできない人だ。
「承太郎さん、普段料理されますか」
「しねえ」
 即答したよこの人。思わずため息をつきそうになる僕など知らず、承太郎さんはなんだとばかりに瞬きする。
 そりゃあ調理しないなら食べるものないですよね。しかしご飯くらいは炊けるんじゃあないか。
「ご飯炊いたりとかは、」
「しねえ」
 ああ、そうなんですか……ご飯があれば卵かけご飯とかお茶漬けとか、とりあえずある程度お腹を満たすことができるだろうに。きっと自分で炊こうという考えはないんだろう、とことん料理しない人はそんなものだ。
 ご飯は自動的に出てくるものなんて、一切料理をしたことがなかった中学までの僕なら目の前の彼と同様だったかもしれない。
「承太郎さん」
「なんだ」

「ちょっと台所借ります」

「勝手ながら洗濯機を借りたお礼です」
「勝手というならてめえの衣服を洗濯したのは俺の勝手だ、礼なんて要らなかった」
「……でしたら、これはお礼でもなんでもなく僕が勝手に作ったものということで、いいですか」
「……」
 ちょっと強気に見つめ返せば黙ってしまった承太郎さんの前に丼を置く。
 冷蔵庫の中を確認した僕はついつい食料を取り出して調理にかかっていた。せっかく食べるものがあるのに空腹に腹を鳴らしてるのもどうかと思ったのだ。
 僕はそう料理は得意な方ではないけど簡単なものなら作れる。冷蔵庫に入っていたうどんを茹でて、その上に水で解いた片栗粉でとろみをつけたおくらとナス、挽き肉を乗せたあんかけうどんを作った。調理時間10分弱の手軽な一品である。
 勢いで作ったがホリィさんの料理に比べたら大したものではないから彼の口に合えばいいのだけど。
「作ってからなんですけど、無理に食べなくてもいいですよ」
「食べないとは言ってねえ」
 承太郎さんは「いただきます」と一言、うどんに口をつける。
 彼が食べ始めたことで会話は途絶え、テレビからの音ばかりが室内に響く。しかし僕の視線はテレビを捕らえず、食卓を挟んで向かいに座ってうどんを食べる承太郎さんを見つめていた。
 黙々と口を動かしてうどんを食べる承太郎さんの表情は特に変わったところはなく、果たしておいしいのかそうではないのかよくわからない。まずいものは作ったつもりはないけど、好みというものがあるじゃあないか。
「あの……おいしいですか?」
「ん、うまい」
 ぺろりと下唇を舐めながらそう言うと、また彼はうどんを啜る。その言葉に嘘はないようで、僕は頬杖をついて再び承太郎さんを眺める。むぐむぐとうどんを頬張る彼の姿は年より幼くて新鮮だ。こういうところがあるのはずるいよな、何がずるいと言われても……ちょっと説明できないけど、ずっと見ていても飽きないというか、とにかく目を離せない。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまです」
「こういうの、毎日作ってるのか」
「はい。たまに買って食べたりしますけど、そればかりだと食費が嵩みますからね」
 外食や惣菜は少々高い。三食カップ麺ならば自炊より安くなることもあるけど、そんな食事では栄養失調になる。経済面、栄養面どちらも配慮するなら自炊が妥当なのだ。
ここだけの話だが、高一の時にお茶漬けにハマって昼を除いた二食お茶漬けを食べ続けていたら栄養失調で病院にお世話になったんだよな。情けない話なので親にはそのような理由でお医者にかかったとは言えなかったが、それ以来食事には気を遣っている。
 まあ、気を遣っているといっても野菜を必ず食べようくらいの意識しかない小さな気遣いだけど、そういう経緯もあって経済的な話ばかりでなく極力自炊をするようになった。
「うまいな、毎日食いたいくらいだ」
「いやあ……ホリィさんのご飯に比べたら、そんな……」
「俺はお世辞は言わん」
 じっと僕を見つめる承太郎さんの目力は相変わらず容赦なく鋭い。つい視線を落としてしまうと彼の口の端にあんかけがついているのが見えた。あんな恐さも覚える視線を寄越すのにお弁当つけてるとか、失礼だと承知でも吹き出してしまった。
 むっと口を歪めた承太郎さんの顔はいつもなら怯むはずなのに、口元の存在が僕の笑いを誘う。
「いきなりなんだ」
「……いえ、すみません、すみません……」
 笑いを我慢しようとするとひい、と引き笑いになってしまって首を横に振る。笑うつもりはなかったんだけど、すぐに笑いは収まらない。
「その……承太郎さん、いつも大人っぽいなあと思ってるんですけど、やっぱり僕とそう変わらないんだと思いまして」
「……変わらないどころか、今日から同い年だろ」
「そういえば、そうでしたね」
 同い年か……それはそうだけど言われても不思議な感覚だ。こんな承太郎さんも18歳で、僕も今日から18歳。僕が目の前のような18歳にはなれないけど、同い年なんだよな。
「しばらく承太郎さんと同い年なんて実感沸かないです」
「学年は変わらねえし、歳以外は変わりないしな……そうか、同い年か」
 承太郎さんは自分で言ったことを反復しながら目を細める。
 これって何か考えてる時の顔、だったような……それなりに交流が増えたせいか、ほんの少しだが承太郎さんの表情についてわかってきたような気がする。それは気がするだけで、なんでもない表情なら良いのだけど。
「……承太郎」
「え?」
「今日から承太郎と呼べ」
「……なんでまた、」
 急に。そりゃあ最初に呼び捨ての方が良いような言い方をしていたが、僕には呼び捨てなんてハードルが高すぎて結局はさん付けで呼んでいたのに。
「今日から同い年だ。さん付けする理由もなかろう」
 ……そういう言い分か。しかし、同い年になったとしても僕のハードルがいきなり下がるわけじゃあない。
「そんな急な……」
「俺としてはそろそろタメ口で話してくれないかと思うくらいなんだが」
 また、じろりと承太郎さんは僕を見つめる。相変わらず口の端が汚れているが、そのことにはもう笑えなくて頭を下げた。
「……承太郎」
「ん、なんだ」
「呼んだ、だけです。」
「そうか」
 それきり黙ってしまった承太郎さんが気になって少し顔を上げる。すると彼は今まで見たことのないような満面の笑みを浮かべていたので、僕はしばらく顔を上げられなかった。

 なんでそんなに嬉しそうなんだ、僕は名前を呼び捨てしただけなのに。