僕が「空条博士」を知ったのは、図書館に常備されている海外で発行されている新聞の紙面だった。
中学に入学した僕、花京院典明は進路に悩んでいた。まだ一年生なんだからそう悩まなくても、なんて両親には言われてしまったけど早い人では有名校の推薦枠を狙おうと動き出してるんだ。そんな同級生を見てしまい焦る気持ちが生まれてしまったのだ。このご時世、先へ先へと考えていかなければしわ寄せが来やすい。進路も早い段階で決めなければ後々大変なのだと同級生達が口にする。そんな発言もあって僕は焦る気持ちを抱えながら未だに進学したい高校すら絞り切れてなかった。
そんな僕にあくまでもマイペースな両親は高校だから自分の学力に合ったところを選べば良いと提案してくれたので、とりあえずは今の学力に見合った高校をいくつか希望したが先の見えない選択に少しの不安を覚えている。将来何になりたいなどないけど、だからといって適当に歩んでいいのかな。
どこの高校に進学したってそこからの自分の頑張り次第でどうにもできるのはわかるけど、なんだかしっくりこなくて今日も僕は最寄りの図書館へ向かう。
将来の夢がないなら探せばいいとそんな考えでここ一ヶ月、図書館へ通うようになっていた。
学校帰り、いつものように僕は図書館へ訪れると真っ直ぐにカウンターへ向かう。
「××タイムズの最新号ありますか」
図書館へ行くと僕は必ず海外の新聞をチェックする。日本の新聞では取り上げられないニュースも多く、参考になる記事もそれなりにある。
「花京院君のために寄せてありますよ。毎日ご利用ありがとうございます」
言いながら渡された新聞と職員の笑顔につい僕は苦笑が浮かぶ。通い続けたために、こんな風にいつの間にか職員の方に顔を覚えられてしまった。しかも職員によっては僕が新聞を借りようと声をかける前に新聞を出してくれたりするので少々申し訳ない気分にもなる。
「それにしても毎日英字新聞を読むなんてすごいわね。小さい頃から英語を勉強してるの?」
「ええ、まあ……」
そんな事実は全くない。今まで両親にも教えてもらったこともないし、そのような塾にも行ったことは一切なかった。学校の英語の授業で教えてもらうだけしかない。しかし僕は英語がとても得意だったのか、まるで最初からわかってるかのように英語ができた。
これは一種の才能なのかな? 英語の授業を受けて数ヶ月だが、英字新聞ならば時折辞書を引くくらいにして、特別不便なく読み通すことができる。
カウンターの職員がまた僕を褒めるので照れ臭い気持ちになりながら新聞を受け取ると児童書コーナーへ移動する。
目的地はその向こうにある閲覧席だ。児童書コーナーは小さい子が多く他のスペースより賑やかなせいで敬遠されがちだが、そこの奥にある閲覧席はほとんど人がいなくて静かである。目的地へと到着すれば今日は利用者がいない、こいつは都合が良い。早速一番端の窓際の席に荷物を置いて座る。人はいないけど端の方が落ち着くのであえてのここだ。
折り畳まれていた新聞を開けば一面には荒れた海の写真が掲載されていた。つい3日前、世界的な異常現象があったから、それについてだろう。
……あれは、何だったのだろうか?
世界規模で起こった異常現象は僕もリアルタイムで体験しただけによく覚えている。
まるで目に見えるもの全てが早送りされたように動いたのだ。その早送りの動きは穏やかに流れたはずの海や風を嵐に変え、人々を襲った。かと思えば、それは一瞬の出来事ですぐにいつも見るような穏やかさに戻ったのだ。
僕の住まう地域は異常現象に驚いた人が転倒して軽い怪我をしたくらいの被害しかなかったけど、場所によっては亡くなった人も出るくらいだったんだよな。
「ハイエロファント、君はどう思う?」
そんな僕の言葉に反応したように隣にきらりと全身緑色に光る人物が現れた……人物とは言ったけど人型なだけで、きっと現れた彼は人間ではない。彼は僕にだけ見える、僕だけの友人『ハイエロファント・グリーン』だ。
彼が何者かはわからない。わかるのは僕以外の人には見えないこと、そして自分の分身のような存在であるようであることくらいだった。ハイエロファントは僕が思った通りに動き、そして僕が怪我をすると同じところに傷が出来る。だから分身と解釈しているが、稀に僕が意識しない動きもするからハイエロファント自身の意識はあるようだ。それでも僕の意識することに逆らうことはしない。だから僕に限りなく近い存在だと思っている。
そんなハイエロファントは不思議な力を持っていて、体を糸状して周りに張り巡らせたり、エメラルドに光るエネルギーを塊にして放つことができる。明らかに人間ではできない能力をもった彼なら何かわかるかな、そんな思いで聞いてみたけどハイエロファントは考え込むように俯いてしまった。
「そっか、」
分からないのは仕方ない。それに未だ解明されてないことをハイエロファントが知っていたら一大事である。
僕は再び紙面に目を落とせば『調査中に嵐に巻き込まれたか?重傷を負いながらも奇跡の生還。』との煽りと共に小さく写真が掲載されていた。写真は救出当時のものなのか、大柄な人物が担架で運ばれている場面であった。残念ながらその人物は毛布をかけられていて、大柄だという以外わからない。
「……Dr.Kujo?」
どうやら運ばれている人物のようだが、それなりに有名な方らしい。その博士についてはケープ・カナベラルの被害状況と共に記載されていて、若くして海洋生物学界においての重鎮的存在である貴重な人物だと新聞で紹介されていた。海洋生物学者だから調査中に嵐に巻き込まれたなんて書かれているのか、なるほど。
「……くじょう、博士か……」
今まで海洋学は興味なかったし、もちろんDr.Kujoなんて人物も知らない。しかし僕はどうにもその人物が気になって、新聞を片手に図書館のカウンターへ向かった。
「すみません、この記事を印刷していただけませんか」
僕はカウンターへ行くと早速先ほどの記事をプリントアウトしてもらうことにした。
どうにも今日初めてその存在を知ったくじょう博士という人物が気になって気になって、博士について知らなければならないような気がしたのだ。
なんでだろう。僕は海洋生物どころか海にも滅多に行かないのに。
何に惹かれたのだろう。間もなく渡された記事のコピーを見ながら考えたが何か気になる一文があるでもなく、それでもその記事に書かれた『Dr.Kujo』が頭から離れなくて僕の足は図書館の出口へと向かって行った。
現役の学者ならば本よりインターネットで調べた方がすぐに情報が見つかるだろう。そう考えた僕は真っ直ぐ自宅へ帰ってきた。
「ただいまー」
自宅であるマンションの一室、返る声はない。共働きの両親は夜遅くにならないと帰らないのだから当たり前か。人のいない部屋に帰ることはさして珍しくもない僕は気にすることなく部屋へと入ると居間にあったパソコンの電源を入れた。
図書館で印刷してもらった記事を眺めながら僕は検索ページを開く。
「くじょう、海洋学、で検索したら出るかな」
記事をキーボード横に置いて早速僕は検索をかけた。あ、しまった。海外で活躍する学者なのだから英語で検索しないと出ないだろうに日本語で検索をかけてしまった。そんなヘマに検索ボタンを押した直後に気づいて、やり直そうと即座に動いた指先は液晶に表示された人物名に止まる。
「……空条、承太郎?」
空条ってDr.Kujoか?
検索トップに上がっていた名前は「空条承太郎」という、明らかに日本人の名前だった。まさか海外紙の記事に出ていたのは日本人だなんて間違いではないか? そんな思いでリンク先をクリックすると表示されたのは2000年の古いネット記事だった。なんでも、ヒトデの生態についての論文により博士号を取ったという内容だ。僕がまだ1、2歳の時の話である。日本人だが海洋学者らしい内容に、半信半疑だった気持ちが確信に変わる。
博士というからそれなりの歳なんだろうけど一昔前の出来事みたいだ。ふむふむ、なんでもこの論文を書く上で日本のM県S市の海岸でも調査を行ったとか。S市は僕の父の実家があるところじゃあないか……それにしても海洋生物なんてたくさんいるのにあえてヒトデなんだ。何がきっかけかわからないけど変わった人だな。
記事を読みながら下へスクロールさせていると一枚の画像が表示されていた。その画像に写る人物に僕は思わず視線が離せなくなった。
そこには美丈夫という言葉が相応しい男性が写っていた。
もしかしてこれが空条博士? でも画像の男性は日本人とは到底思えない彫の深い整った顔をしていて、見たこともないような綺麗な緑色の瞳を持っていた。別の記事の写真じゃあないだろうか。しかし画像のすぐ下には「論文を発表する空条氏」と紹介されているのが目に入り、俄かに信じられないが画像の男性が空条博士であるとわかった。
もしかしてハーフとか? それなら日本人離れした容姿もうかがえる。この記事では空条博士について詳しいことは書かれてないけど、検索を絞り込めばそこんところもわかるかもしれない。
じゃあまずはこのページをプリントしておこうかな。
パソコンに繋がるプリンターのスイッチを入れようと立ち上がると、背中にこつりと何かがぶつかる。背後に物は置いてないし、両親は不在なのに一体何が。振り返るとそこにはハイエロファントが立っていた。
いつも僕が呼ばないと出てこないのに珍しい。
「どうしたの、ハイエロファント」
ハイエロファントは何も答えない。これは珍しい以前に初めてのことだった。いつもは些細な問いかけにも律儀に反応するのに。
俯き気味に立っているハイエロファントはパソコンに向かい合っている。まるでパソコンに気になるものが映ってるかのように、じっと眺めている。
「何か、あるの?」
ハイエロファントは相変わらず何も答えず、パソコンを見つめてる目が液晶の光を反射させてきらりと光るだけだった。
空条承太郎博士。
生まれも育ちも共に日本、名前は純和風だけどアメリカ人の母親を持つハーフ。30代手前にヒトデの生態の論文で博士号を取った海洋学者。現在の拠点はアメリカだが、博士号を取ったヒトデの論文執筆は日本のM県で行われていたとのことで時折日本に来ているみたい。
親族のコネでスポンサーには世界的に有名な大企業SPW財団がついており、そのお陰で海洋学関連の調査資金が潤って調査充実に大いに貢献した……のはなんか皮肉っぽいな。しかし彼自身教鞭を取るよりも現地調査が性に合うようで、同業者も危惧して行わない調査も進んで行うそうだ。そのためスポンサー抜きにしても野生種の生態調査に関しては空条あっての海洋学と言われるくらいの功績を残しているようだ。
現在42歳、例の異常現象で重傷を負っていたが無事に退院し、現場に復帰する準備をしている。らしい。
以上の空条博士の情報はこの半年間、海外のネットから引っ張ってきたものである。世界ではなかなかの評価のようだけど出身地である日本ではあまり注目されてないようだ。僕が最初に見つけたあのページ以外、日本語のページは引っかからなかった。
まあ……拠点が海外だし、そんなものなのかな。折角活躍してるのに、同郷に活躍が浸透してないのはこれまでの功績を知ってしまった僕としては惜しい気分だけど。
そんなことを思いながら、あるお気に入りのページを開く。するとそこには幼い子を抱えた空条博士が女性と一緒に写る写真が掲載されていた。
このページは唯一、空条博士の家族写真が掲載されているページだった。学者なのだから家族の露出もそう多くないのだろう、唯一の家族写真も2000年に撮影されたものでそう新しくない。空条博士に抱かれた娘と奥さんらしい隣の女性は微笑ましく笑っているのに、空条博士本人は穏やかながらも無表情だった。
「笑えば、もっといいのに」
笑った写真は見たことないけど、笑った方が更に素敵な家族写真となっただろうに。中学生の僕が大きなお世話だけど、この写真を見る度に思う。それでも僕はこの家族写真に惹かれるものがあって今日もこうして眺める。写真を見つけてから日を置かずこうして眺めるのが日課になっていた。
我ながら趣味が悪い日課を作ってしまったなあ。たまたま海外の新聞で名前を見つけた同郷の博士に興味を持った挙げ句、こうやって調べて見つ出した写真を毎日のように眺めてるなんて。
「変なの」
なんでこんなに僕は空条博士が気になっているんだろう。海洋学者だから?いや、今まで海洋学なんて全く興味ないどころか金魚すら飼ったことないし……美形だから? いやいや、確かにモデル顔負けの容姿だとは思うけど、だからといって調べるほどかな、と自問自答したくなる。
一体僕は彼の何に惹かれているんだろう。そしてそんな惹かれる彼にどんな思いを抱いてるんだろう。
考えても全てが靄がかかったようにぼんやりしていて、今日も僕は首を捻るしかなかった。
「最近は海の生物について調べているの?」
「はい。きっかけあって調べたらもっと知りたくなったもので」
「そういうものがあるのは素敵だわ。もし探してる本があるなら他の図書館から借りることもできるから気軽に言ってね」
「ありがとうございます」
笑顔を向けてきた司書さんに僕は上手く笑い返せていただろうか。そんな些細な心配をしながら僕は借りた本を鞄にしまい込む。
ここ数ヶ月、こうやって海洋生物について調べるようになったのは空条博士がきっかけだった。彼が研究する海洋学とは、海洋生物がなんなのか気になった……のも、まだ表向きの理由だ。
僕は彼がきっかけで海洋生物を知りたくなったんじゃあない。彼が研究している海洋生物を通して彼が知りたいだけなんだ。酷い理由だ。それでも、海洋生物について知ってゆくと海洋生物自体にも興味が湧き始めたのが幸いだと思いたい。
幾分か重くなった鞄を手に、僕は図書館を出る。前髪を揺らした秋口の風は冷たくて、夏の気配は一切感じられない。
中学一年の春に空条博士を知ってから一年を過ぎ、僕は中学二年の秋を向かえていた。同級生の中には早い人では一月後に高校入試を控えている者もいる中、僕は未だ進路先を決定することもなく図書館へ通っていた。
両親が帰宅し、少し遅めの夕食を終えた僕はリビングのソファーで図書館から借りてきた本を読んでいた。今回借りてきたのは日本国土のクラゲの生態についての本。近年温暖化と共に話題に上がるエチゼンクラゲを筆頭に、見たことのないような形のクラゲまで出ている本を眺めていると不意に影が落ちる。
「典明、ちょっと話いいか?」
影に顔を上げるとそこには父が立っていた。
なんだろう。こう改めて父に呼ばれるなんて滅多にない。促されるままに食卓のテーブルにつくと向かいに父が座った。こうして真正面に話す姿勢なのも珍しくて微かに緊張が走る。
「典明、先週頭に三者面談があっただろう」
「うん」
三年も間近、そろそろ進路先を決定しないといけない時期になったというのに僕は三者面談で進路について言葉を濁した。成績は悪くないから進学先の選択肢はそれなりにあるけど、そこから一校に絞り込めてなかった。
「あれからまだ進路は決まってないか?」
「うん、まだちょっと……」
「そうか。あの日、最後に先生と父さん二人で話したのは覚えてるか」
「うん」
きっと僕の前では話せないこともあるんだろう。素行は気をつけてるだけに悪くはないと思っているから、多分に進路のこと。でも未だ決めかねてる僕に問題があるから仕方ないとその時は思ってたんだったか。
そういうことがあったから進路についてはいつか言われると思っていたけど、思ったより早かったな。
「そこでな、進路が決まってないなら××高校の英語科を受けたらどうかと薦められたんだ」
「英語科?」
「ああ。英語、得意だろう? 折角得意なら本格的に学んではどうかと先生は言うんだ。お前は英語が得意なだけでなく洋楽も好きだからいい話だと思うんだ」
父の言う通り僕は一年時に英検一級を取れるくらいには英語が得意で、ポリスを筆頭に洋楽が好きだ。熱心に英語の勉強をしたことはなかったけど、何故か英語は特化して得意である。
熱心に勉強しなかっただけに考えたこともなかったけど、英語科か……。
「……考えてみる。」
それから僕が××高校の英語科を進路先に選ぶまでそう時間を要さなかった。中学三年時、僕は××高校英語科の試験に問題なく受かった。
そんな僕は高校生になっても変わらず同じ図書館へ通っては海洋生物について調べていた。空条博士を知ってから4度目の春、この図書館に所蔵されている海洋生物関連の本は一通り読んでしまい、今では遠方の大きな図書館から本を取り寄せてもらっている状況である。
「頼まれていました冊子になります。取り寄せが遅れてしまい申し訳ありません」
「いえ、わざわざ県外から取り寄せていただきありがとうございます」
図書館のカウンターで受け取った薄い冊子は、県外にあるここより大分大きな図書館でしか取り扱っていない海洋学専門誌の最新号だ。今回、この専門誌に空条博士についての記事が載るということで司書さんに頼んで探してもらったのだった。先に購入を考えたんだけど、日本の書店じゃあ取り扱っていないということで困っていただけに助かった。
閲覧席について早速冊子を開けば専門誌らしく細かな英文が並んでいる。こういう時、得意な理由は未だ分からずとも英語ができて良かったと思う。特に空条博士については海外でしか取り扱ってくれないから、英語は必須である。
パラパラと目的の記事を探しているとやけに目玉の大きな魚の写真と共にDr.Kujoの名前を発見した。
「……この人、また変な生き物を……」
最近ネットでも話題に上がらないし何をしていたかと思えば、今回は深海魚の調査をしているようだ。ページには空条博士が撮影したという珍妙な魚達の写真が並ぶ。ヒトデに始まって、今回は深海魚とは……もっと愛嬌ある生物を調査したいとは思わないのかな。頭部の半分以上が目で占められている魚を見てはこんな生物なんて地上にいないだろ、なんて思いつつ、こういう生き物をあえて選ぶ辺り彼らしいとも思えてしまう。
しかし、深海での調査は厳しいんじゃあないかな。深海は光は届かず真っ暗で、海水も凍てつくように冷たい。だから普通の魚はまず生きられないし、その中を人間が調査するのも容易ではない。調査資金が充実しているというから設備も充実しているだろうけど大丈夫かな。
そんな心配をしつつ調査内容を読み進めるが空条博士自体の情報は一切無くて、つい僕はため息をついた。専門誌だからそんなものだろうけど、ちょっとでも何かあればいいのに。
「なんだかなあ」
その言葉は目下の記事に対してか、そんな期待をしてしまった僕に対してか。もしかしたらそのどちらともかもしれなくて僕はまたため息をひとつ。
この3年で僕の海洋生物についての知識は結構なものになった自覚はある。それだけ膨大な文献を繰り返し読んだから。それでも僕は変わらず海洋生物を通じ空条博士を探っていた。
この不純な行為の正体はなんだろう。
英語が堪能であろうとも、常人より海洋生物に詳しくなってもそれはわからず、三度目のため息が出そうになった。
そんな自身の本意を知らず、それでも海洋生物と空条博士について調べ続けていた僕は高校二年の春を迎えた。
相変わらず僕は図書館に通っていて、中学時と同様だと思われそうだがそこまで僕は馬鹿じゃあない。折角英語科へ進学したのだから大学は外国語学部のあるところにしようと一年の内に進路は定めていた。英語にするか、思い切って他の外国語の学科にするかそこまではまだ決めていない。得意な英語を極めるのもいいけど、最近少しだけフランス語にも興味の触手が動いたのだ。フランス語も結構色んなところで話されてるし、出来るようになれば使う場面もそれなりにあるだろう。ああでもアラビア語もちょっと気になるんだよな……。
「ハイエロファント、君はどの外国語がいい?」
もうひとりの僕はどうかな。そんな思いで呼び掛ければハイエロファントは不思議そうに首を傾げながら現れた。その仕草は悩んだためのものというより、話を理解してない故のあどけなさが滲んでいて僕はつい苦笑してしまう。彼は僕なのだから、僕が選べないことは同様に選べないだろうに。
大学は決めたけど具体的にどうしたいかまで決まってない辺り、中学時を彷彿とさせてしまう。そこはもう少し時間があるしぎりぎりまで考えてみよう。
そんなことを考えながら学校から図書館の道のりを歩いていると前方にしゃがみ込んでいる女性が目に入った。何か落とし物を探してるのかと思ったが、その女性に近付くにつれて何かおかしいことに気付く。
「……う」
おかしいと思いつつ通り過ぎようとした際に見えた横顔が真っ青で、ついに僕の歩みは止まった。この人、明らかに顔色が悪いし具合悪くてしゃがみ込んでいたのか。
「あの、大丈夫ですか」
その女性の隣にしゃがんで声をかけると俯いていた顔が上がる。同時に僕を捉えた強烈な色を持った瞳に思わず目を奪われた。
この人、空条博士と同じ緑の瞳だ。
空条博士の写真で見てもとても神秘的だったが、突如目の前にそれが現れてしまって続く言葉が飛んで消える。ハイエロファントより濃い色の瞳に魅入ってしまう。
「……sorry,」
そんな僕を前に女性は小さく呟くと、苦しげに呻きながら嘔吐した。
そうだ、女性の顔色悪いから声をかけたっていうのに僕というやつは!
我に返った僕は女性の背中を撫でながら声掛けを再開した。
「ごめんなさい、家まで送ってもらっちゃって」
「いえ、近いですし、また帰宅途中で具合悪くなったら大変ですから」
暫くして幾分か体調が良くなった女性が心配で、彼女の家まで送った僕は豪邸と呼ぶに相応しい日本家屋の玄関先にいた。
女性は緑の瞳と、それに見劣りしない人形のような整った顔立ちに一目で日本人ではないとわかる容姿をしていたけど、こんなザ・日本家屋みたいな家が彼女の自宅なのか……ちらりと見えた庭も玉砂利が敷かれていてテレビで見るような日本庭園のようだった。玄関に続く廊下には襖が並び、その奥には畳の部屋がありそうな予感がする。
「あたし、日本人の父とアメリカ人の母のハーフで、ここはあたしの家といっても父の実家なの」
あたしみたいな外国人がこんなとこに住んでるなんて変でしょ?
そう続けた彼女に、僕があからさまに好奇の視線で屋内を眺めていたと知れて恥ずかしくなる。別に外国人が日本家屋に住んでいたっていいだろうになんて不躾な。申し訳なさに俯いてしまうと女性はくすくすと笑う。
「あたしだってあんたの立場なら不思議に思うわよ。それにここに来てまだ一週間で慣れてないから、違和感があったって当然だわ」
だから気にするなとばかり背中をばんばん叩いてきた彼女に少しだけ顔を上げると、緑の瞳を細めて笑うのが見えた。言葉の通りに気にした様子はなくてほっとする。
「ところであんたの名前は?あたしは徐倫」
「花京院、典明です」
「カキョーイン・ノリアキね。改めて、さっきはありがとう。立てないくらい具合悪かったから助かったわカキョーイン」
今ではすっかり顔色が良くなった女性、徐倫さんは右手を差し出す。釣られて僕も右手を出すとがっしりと握手をされた。
それ以来僕は学校から図書館までの道のりで時々徐倫さんに出会うことがあり、友人とまで言わずともそれなりに仲の良い知り合いと言える関係になるまで時間を要さなかった。
「ところで徐倫、最近調子いいみたいだけどつわりはもういいのかい?」
「全くつわりがなくなったわけじゃあないけど、安定期入ってるから徐々に落ち着いてきてるわ」
初対面時、見目僕とそう変わらないと思っていた徐倫はお腹に子供を宿した成人女性だった。お腹の子がいるのも驚きだったが、故郷であるアメリカには旦那さんもいるという。アメリカに頼れる身内が限られているとのことで、出産は父方の実家にしようとこうして日本に来たという。
そんな年若くも僕よりお姉さんな徐倫はとても気さくで今ではお互いを呼び捨てで呼び合うくらいにはなった。自慢になんてならないが友人らしい友人なんて同級生にもいない僕が、偶然出会った徐倫とここまで仲良くなれたなんて信じられない。でもなんだか波長が合うのか、こうしてたまに会って話すのは嫌いではない。
「こうして散歩できるくらいには元気なんだから大丈夫よ」
「数ヶ月にこの道で吐いてた人がよく言うよ」
「あの時が一番つわりが酷かったから仕方ないじゃあない」
「……でも気をつけるべきだよ。安定期と言っても妊婦さんなんだから。最近は日中も肌寒いし、体温調節も気をつけないと」
最近、涼しい秋の気候かと思えば朝夕は凍てつくような、冬の寒さも感じる時期になってきた。日が照れば少しは暖かいけど、それでも外に出るなら上着が必要な程だ。学ランを着ている僕でも寒いと思う時があるから妊婦さんなら尚更、気温の変化には気をつけないと。
「全く、ノリアキったら父さんみたいなこと言って……」
「お父さんだって徐倫と赤ちゃんが心配なだけだよ」
「わかってるわ。でも気をつけるべきところは気をつけているし、そう心配しなくてもいいのに」
徐倫は拗ねたように口を尖らせる。ひと月前に仕事で遠方に出ていた彼女のお父さんが帰ってきて以来、こんな表情を見る機会が多くなった。でもそんな表情も口うるさいお父さんの不満からだけではなく、親だから向ける子供の表情のようで微笑ましい。
「あたしの心配もいいけどノリアキは自分の心配したらどう? この間、目が痛いと言っていたじゃあない」
「ああ、それは……」
数週間前、僕は両目に激痛を覚えて両親に抱えられて病院に運ばれた。その後数日で痛みは治まったが、何故か両目に刃物で斬られたような痕が出来てしまった。その痕にお医者から、激痛は以前に両目を怪我したのが原因だと診断されてしまった。でも僕はこれまでそんな怪我をしたことはなかったし、両親も知らないという。
結局激痛の痛みも痕が出来た原因も分からず終いだったけど、それから何があるでもなかった。
「今は痛みはないし、検査結果も異常ないから大丈夫だよ」
「そう? でも万が一ってあるからノリアキも気をつけるのよ」
「それは徐倫もね」
「もォ、分かってるわよ」
二人、顔を見合わせて笑っていると不意にずきりと体に痛みが走った。でも、それは今し方心配された目ではない。もっと、体全体に感じて……しかしそれは一瞬の出来事で、錯覚とも思えた。
「ノリアキ、また痛いの?」
急に黙ってしまった僕に違和感を覚えたのだろう。徐倫が僕の顔を覗きこんだ。
「いや、大丈夫……もう痛いのはごめんだと思ってさ」
だから先ほどの痛みは気のせいだと。そう思ったんだ。
室内に注がれる日光は暖かだけど、朝方とても寒かったからカーディガンを羽織っていこうかしら。
「徐倫ちゃん、今日はカーディガンだけじゃあ寒いわよ。おばあちゃんのポンチョ貸してあげるからお散歩に行くならそれも着ていきなさいね」
玄関で散歩に行く準備をしていたあたしにグランマがそう声を掛けてきた。振り返れば笑顔のグランマと、手には真っ赤なチェック生地に飾りの真っ白なポンポンがついたポンチョ。
そんな派手でふりふりした可愛らしいポンチョ、あたしには似合わないわ。そう言いたいけど、言ったところであたしがそのポンチョを着なくて済む確率は皆無だろう。
出産予定の時期を考えれば日本で冬も過ごすと分かっていたから冬物も持ってきていた。しかしそのどれもが妊娠前のもので、ぽっこりと大きくなってきた今のお腹では着用できなくなっていたのだ。今日着ている紺のマタニティーワンピースだって、サイズの合う冬物が全くなくて困っていたあたしにグランマが買い与えてくれたものだったりする。
衣類同様、お腹を配慮したサイズのジャケットなど持ってないあたしに拒否権はないのであった。
大人しくポンチョを受け取って羽織ればグランマが声を上げる。
「カワイイ! とっても似合うわよ!」
「……ありがと、グランマ」
でもきっとこういうものはあたしよりグランマの方がずっと似合う。そう返したくなるけど言ってしまえば「そんなことないわ」の一言を皮切りに、何倍になって返ってくるので素直に感謝の言葉を述べた。
「いってきまーす」
「行ってらっしゃーい♪ 何かあればおばあちゃんでもお父さんでもいいからお電話するのよ」
「父さん、大学で仕事の筈じゃあ、」
「今日は昼には切り上げると言っていたから間もなく帰ると思うわ。動けないくらい具合悪かったらお父さん呼ぶのよ?」
「ハァーイ」
性格は違うけどグランマも父さんも過保護なんだから。
「やれやれだわ」
「そう言ってくれるなよ」
そんな、先ほどのあたしとグランマの話をノリアキは笑いながら聞いている。人事だと思って……しかし明らかな愚痴なのだから、それだけ気兼ねなく聞いてくれる方があたしも気を遣わないから助かる。
「好みの服が欲しいならおばあちゃんやお父さんを誘って買いに行けばいいんじゃあないかな」
「エー」
「えーって……だってそれなら徐倫の好みのマタニティーウェアが買えるじゃあないか」
「それは、そうだけど……ちょっと、ね……」
グランマとは幼少期に会って以来だし、恥ずかしい話だけど父さんとだって19歳まであまり仲が良くなかったし。そこでいざ誘って出掛けようなんて気まずい。
「ふうん……じゃあアメリカにいる旦那さんに買って送ってもらうよう頼んでみたら?」
「……アナスイの好みは、あたしよりグランマ寄りかもしれないから……」
「ああ、そうなんだ……」
アナスイは案外に可愛いのが好きだから、あたしに似合うものを選んでくれるか怪しい。あたしは背が高いから可愛いものは似合わないのに。
「あたしひとりで行けたら一番いいんだけど、ひとりで遠出した先で何があったら大変だから駄目って言われてるのよ」
散歩だと言ってこっそりひとりで出掛けてもいいけど、それ以前にあたしは日本語が殆どできないからそれは難しいだろう。せめて日本語が出来たらまた違ってたのかしら……日本語か……。
「そうだ!ノリアキ、あんたがいるじゃあない!」
「僕?」
「そうよ、ノリアキが一緒に来てくれたら助かるわ!」
ノリアキは基本クイーンズイングリッシュなのに時折フランス訛りや中東訛りが混じる不思議な英語を使う。でもあたしと会話するだけならそれで十分だし、父さんやグランマと比べてノリアキなら余計な遠慮は要らない。
「ねえ、駄目かしら? 付き合ってくれたらグランマのチェリーパイあげるわよ?」
「……チェリーパイ?」
ノリアキがぴくりと前髪を揺らし、少し見開いた瞳が煌めいたような気がした。
前にグランマの作ったチェリーパイの話に食いついたからもしやと思って出してみたけど、いい感じだろうか。これなら受けてくれる可能性が高い。
「……どう?」
「じゃあ、土曜日なら……」
「OK! ありがとうノリアキ!」
「チェリーパイって、この間話してたチェリーパイだよね? チェリー2缶使ったチェリーパイ」
「そうそう、そのチェリーパイ」
「約束だからね。あと、徐倫が具合悪い時は延期だから無理のないように」
「余計な迷惑はかけないわ」
あたしだってひとの親よ。そこはわきまえるわ。
ぐっ、とお互い握手を交わして約束をする。どれだけチェリー好きなのよ。断られる可能性も考えたのにこんなに快く受けてくれて笑っちゃいそうじゃあない。
じゃあ帰宅したら早速グランマにチェリーパイを頼まないと。早くも気分は土曜に向かって、どのような服を買おうか楽しみになってくる。でも日本であたしの背丈に合うものになると限られてくるかしら。できれば好みのものがあればいいけど。
そんなことを考えていると、隣にいた筈のノリアキの姿がないのに気付く。
「ノリアキ?」
きょろきょろと辺りを見回すとあたしの後ろ、道沿いの塀に寄りかかっているノリアキがいた。なんだろうと思ったと共に寄りかかっていた彼の体がその場に崩れて倒れた。
「ちょっとどうしたのっ!?」
倒れたノリアキを起こそうと体に触れると皮膚がびっしょりと濡れていた。ひどい冷や汗だ。
「ノリアキ! ノリアキしっかりしてっ!」
声掛けしながら体を揺するがノリアキは小さく呻いただけで辛そうに固く目を閉じるだけ。その様子に数週間前に原因不明の目の痛みに襲われたことを思い出す。ここ数日すっかり良くなったと聞いたけど、また具合悪くなったのでは……それなら早く病院に連れて行かないと。
「ストーンフリー!」
あたしじゃあノリアキを抱えられないからストーンフリーを呼んで抱えてもらう。真っ白な顔でぐったりと抱えられてる彼の姿に、多少無茶をしても急がないとと動こうとした足がぴたりと止まる。あたしは普段受診しているSPW財団系列下の病院しか知らない、その病院まで車でも20分はかかる。家からほど近いここからその病院を目指して行くとなるとそれなりの時間を要してしまう。かといって最寄りの病院を近くの住民に聞き出せるほどの日本語は使えない。
「どうしよう、」
あたしひとりでは余程運が良くない限り、病院にノリアキを連れて行くまで時間を要するのは確実だ。このままではいけないと思考を巡らせていると、出掛ける際にグランマが言っていた言葉を思い出す。
そうだ、今日は父さんがいるんだ。父さんならあたしよりずっと土地勘があるし、車も出してもらえる。あたしはポケットから携帯端末を取り出すと父さんの番号に発信した。
「父さん助けて!ノリアキ、ノリアキが大変なの!」
荒げてしまえばお腹の子につかえる。そう知っていたけど、ストーンフリー越しに伝わるノリアキの体の冷たさに冷静になんてなれなかった。
腹部がひどい激痛に襲われる中、僕は不思議な夢を見た。
それは淡く青白く輝く大きな手が僕の手を握り締める夢だった。その夢では何故か僕の手はハイエロファントのような緑色をしていた。そんな僕の手を大きな手は柔く握っては時折優しく撫でてきた。かと思えば力強く握ってくる場面もあった。
この手は誰のものなんだろう。全く知らない大きな手、しかしこの手の感触に僕は安堵を覚えていた。それと同時に激痛に苦しみ途絶えそうになる思考を繋ぎとめてくれる。それでも大きな手は何も語らない。ずっと、黙って僕の手に触れ続ける。
君は誰なんだ。そして君は何をしてるんだ? 見ず知らずの僕に一体何をしようとしてるんだ?
「だれ、」
言葉が口をつき、視界が明るくなる。視界の先に青白い手はなく、代わりに白い天井が広がった。
「典明? 気がついたの典明!?」
馴染みある声が、聞いたことがないような余裕ない響きを持って僕を呼んだ。
「……母さん?」
発したか細い声音に驚く。これが僕の声なのか? 自分が置かれている状況が把握できなくて視線を彷徨わせていると、こちらを見つめる両親と目が合った。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃあないわ、 あなた3週間意識がなかったのよ!」
「……3週間?」
まさかそんな。思わず体を起こそうとすると腹部の痛みと腕に入った点滴に寝ていたベッドに沈んでしまった。
点滴にベッド……ここは病院? そして僕は……? 母さんが僕は3週間意識がなかったって?
見聞きした情報を纏めていると父さんが席を立つ。
「先生を呼んでくる」
「ええ、お願いあなた」
ここは病院で、どうやら僕は何かしら遭って運ばれたのだろうか、でも一体何があったんだ?
ここに至るまでの流れが思い出せなくて、僕は記憶を呼び起こす糸口を探す。
「気がついて良かった……」
それでも、心底安心した様子の母に僕は危険な状況下にあったのがわかって、未だ痛みある腹をさする。
そうだ。いつものように学校帰りに図書館へ行く途中、徐倫に会って、それから…話している最中、急にお腹が痛くなって。立っていられないくらいの激痛の後…そこからはとにかく苦しくて、何がどうなったのか記憶にない。きっとその間に僕は病院に運ばれて今に至るのかもしれない。
「……徐倫、」
そういえば徐倫は? 記憶した限りなら徐倫と一緒の時に倒れた筈だ。もしかしたら妊婦である彼女に負担をかけてしまった可能性がある。なんともなければいいけど。
「そうよ、空条さん」
「くうじょう?」
「空条徐倫さん。彼女、典明が倒れた時に病院まで運んでくれたのよ。意識が戻ったら連絡が欲しいと心配していたから、お礼も兼ねて連絡しないと」
何かしら関わっただろうと思っていたけど、まさか彼女がここまで連れてきてくれたのか…しかし彼女自身のことも気になったが母の言葉が何よりも僕を驚かせた。
「母さん、今空条徐倫と言ったよね?」
「ええ、空条徐倫さん。あなたとは友達だと聞いたけど」
「ああ……うん。徐倫とは友達なんだ、」
思えば徐倫の名字なんて聞いたことがなかった。
出会いが出会いだっただけに行きずりの関係であった僕らには名字を知らないなんて些細なことだった。それに名字を知らないことに支障を感じたことはなかったから今まで気にすることもなかった。でも、空条って。
何年も見てきた名字に、胸がざわつくような感覚が沸いてくる。
「ねえ、」
母にもう少し詳しい話を聞こうとすると白衣を着た医者らしい人を先頭に看護師さんたちが入ってきた。
「花京院典明くん、気がついて良かった。私は主治医の…、……」
それからすぐに検査が始まり、僕は母から話を聞くタイミングを逃してしまった。
僕は原因不明の腹部と内臓の異常により意識不明になっていたそうだ。主治医の話ではまるで交通事故で腹部を強打したかのように内臓が傷ついていたらしい。しかしそのような事故には遭ってないのは倒れた時に一緒にいた徐倫が証言してくれた。
だがそれが事実だと分かったところで原因はわからないままだった。わからない以上主治医の先生は応急処置の施ししかできなかったと言っていたが、幸いにも僕は腹部から背中にかけて大きな痣のような跡を残しただけで回復に向かっているようだ。負傷していた内臓も外科手術は必要なく、薬と栄養剤の投与で治療できる範囲だという。主治医の話では今の調子で回復するなら数週間あれば退院できるということだった。
気がついた翌日、母から連絡をもらった徐倫がチェリーパイが入ったバスケット片手に病室を訪れた。
「妊婦はデリケートなのよ。あんたが倒れてあたしまで倒れるんじゃあないかってくらい慌てたわ」
到底倒れそうには見えない仁王立ちをしながら徐倫は口を尖らせる。その姿は笑いを誘い、ついつい口が笑みの形になってしまった。
「ごめんごめん」
「まあ元気そうで良かったわ、これで何かあったら折角のチェリーパイが台無しよ」
「倒れた時はお世話になったようだね、ありがとう徐倫」
「別に……無事に越したことはないわ。お腹の方はいいの?」
「痣が残ったみたいに皮膚が引きつって変色はしてるけど……検査には異常ないって。様子を見ながら経口で十分な食事ができるようになったら退院できるよ」
「じゃあ、まだチェリーパイなんて、だめ?」
「少しだけなら。暫く食べてなかったせいで胃腸の働きが悪いくらいだから」
まだ食べ物はお粥くらいしか食べてないけど、少しくらいなら大丈夫だろう。お医者さんにも特に止められてない。
それなら切り分けるわ。言いながら徐倫がバスケットを開けば、真っ赤なアメリカンチェリーが敷き詰められたパイが現れる。正直、意識が回復した昨日の今日だから食欲なんてなかったけど、甘そうに表面が照るパイに唾を飲み込んだ。できれば健康的な空腹時にたらふく食べてみたかったなあ。きっと今の僕では一切れ食べきれない。自分の体だ、具体的な様態は分からずともそれくらいは察せた。
徐倫が切り分けたチェリーパイと共に渡してくれたフォークでひとすくい。真っ赤なチェリーを口に含んで噛めば、記憶するよりしっかりした歯ごたえと強い酸味を感じた。
「……はやく元気になりたいなあ……」
「何、急に」
「暫くまともに食事してなかった口には、チェリーは刺激的みたいだ……」
刺激を感じる味覚が突起して味がよく分からない。甘い甘いアメリカンチェリーの缶を使ったパイだからとても甘いと徐倫から聞いていたのに、本来の味がわからないなんて。
仕方なく少しでも味わえないかとじっくりとパイを咀嚼する。うーん…これは退院祝いに徐倫のおばあちゃんがチェリーパイを再度焼いてくれないだろうかと願いたくなる。おいしいだろうに、惜しい。
「あの、ノリアキ。食べながらでいいから聞いてちょうだい」
もごもごと咀嚼を繰り返してる僕を何故か神妙な顔で見つめながら徐倫は口を開く。なんだろう改まって…食べながらでいいというけど気になってパイをごくりと飲み込んだ。
「ノリアキは『スタンド』って知ってる?」
「スタンド?」
「『スタンド』……傍に立つ者、という意味でそう呼ばれている存在がいるの」
「傍に立つ者……知らないな」
傍に立つ者か……ホームズにおけるワトスンみたいな相棒のような存在か?もしくは僕でいうところの、もうひとりの僕であるハイエロファントとか……いや、彼は僕にしか見えないし違うか。
「そう。その『スタンド』はスタンドを持ち、操れる『スタンド使い』にしか見えない存在なの。だからあまり世間では知られてないかしら」
「……へえ……しかしなんで急にそんな話を?」
「それは、今回ノリアキが倒れたのはその『スタンド』の攻撃であると考えたからよ」
「それは……」
限られた者にしか見えない存在。それなら僕に知られず攻撃できるかもしれないから否定はできないけど、スタンドなんてよくわからないのに。そもそも僕がそのスタンドに攻撃されたとしても、攻撃される意味がわからない。
「直接確かめた方が早いわ……ごめんね、ノリアキ……」
するといきなり徐倫の腕がまるで解いた毛糸のように糸状になり、その先端が勢いよく僕へ向かってきた。何が起こったのか、現状をこの目でしっかり見たのに信じられない気持ちでいると糸がくるくると僕の体に巻き付いてきた。
「っ!」
しかもあろうことか糸は収縮し、体を締め付けてきた。その力は強くて危害を加えそうなそれであった。
しかし僕を締め付ける糸に繋がる徐倫は何を言うでもなく、じっとこちらを見ている。顔は限りなく無表情で何を考えているかわからない。きゅう、と更に力が加わって息苦しさを覚え、腹部がじくじくと痛む。何かわからないけどこのままじゃあ危険だ。それだけは分かった。
「は、ハイエロファント……!」
僕は締め付けられて手出しできないから、そんな思いでハイエロファントを呼び出すと彼の出現と共に糸が解け、しゅるしゅると徐倫の腕の形へと戻っていく。解放された安堵を感じつつ、再びあの糸が襲ってくるのではないかという緊張感に僕はハイエロファントを室内に張り巡らせた。
「……やっぱり……ノリアキ、あんたスタンド使いなのね」
「僕?」
「そのハイエロファントっていうやつ、あたしのストーンフリーと同じ『スタンド』だわ」
「ハイエロファントがスタンド? それにストーンフリーって……」
傍にいる者。その説明にハイエロファントを連想させたけど、彼が徐倫の言う『スタンド』とは信じられない。すると彼女の隣に人型ながらも『人』というには何か違う人が現れた。
「これがあたしの『スタンド』であるストーンフリー。スタンド使いにしか見えない存在よ」
「まさかそんな……」
戸惑う僕の耳にノック音が入る。反射的にはい、と返せば看護師が病室へ入ってきた。
「花京院さん、昼の検温ですよ」
看護師はハイエロファントの触手が張り巡った室内を平然と歩き、ストーンフリーと並ぶ徐倫に笑顔で会釈した。それに頭を下げて返す徐倫の隣には変わらずストーンフリーがいたが、看護師は見えていないかのように僕の検温を始めた。いや、これは『見えていないかのように』ではなく『見えてない』のだ。僕のハイエロファントも、彼女のストーンフリーも。
その事実に未だ少し信じきれないけど、徐倫が説明する『スタンド』であるストーンフリーと僕とずっと一緒だったハイエロファントは限りなく似た存在だと感じた。一通り徐倫からスタンドとスタンド使いについて教えてもらい、その能力者の中には他のスタンド使いに危害を加えるような集団がいると知った。
「その、DIOという人物の残党が僕みたいなスタンド使いを狙うのか」
「残党というより、異常なまでのDIOの崇拝者ってとこかしら。主のためなら何でもする、みたいなことをさらりと言える奴らよ」
「それまた物騒な……」
「そう、能力も考えも物騒だから厄介なのよ」
やれやれだわ。口癖と共に徐倫の口から溜息が漏れる。その様子だと僕と同じくスタンド使いだという彼女も襲われた経験があるのかな。
「スタンドの能力は様々。だからあたしに知られずノリアキを攻撃するのも可能なスタンド使いがいる可能性があるわ」
「なるほど……」
それなら原因不明の負傷もあり得るわけか。人の体が糸状になる徐倫の能力があるくらいなんだからスタンド能力というものは無限大だろう。
「でも僕がそういう奴に狙われる意味が分からないんだけど、それは僕の理解力が乏しいせいかい?」
「あたしもそこんとこよく分からないからノリアキを襲った奴の思考回路がいかれてるだけだわ」
「僕はまともなようで幸いだよ」
「……いかれてるというならDIOの仲間というより、単なる愉快犯の可能性も否めないわね」
「『スタンド使いであれば誰でもいいからやっつけたかった』とか言ってくれるのかい、その愉快犯の人は」
「その方がわかりやすい動機でしょ?」
「まあ……DIOの仲間に狙われるよりは、だけどね」
この17年間、知らず人様の恨みを買ってしまったことがあったかもしれない。しかしそのDIOの関係者に恨まれることしてないと断言できる。小さい頃からずっとハイエロファントがいてくれたけど、彼を悪用したことは一度もない。
「いかれてる奴の動機なんてきっと理解できないだろうし気にすることはないわ。肝心なのはそんな奴からどうやって身を守るかよ。動機はなんであれ、襲ってくる事実は変わらないわ」
「それだよ……そんな奴らと戦ったことないから全く勝手がわからないよ」
僕はこれまでハイエロファントの能力を悪用どころか使ったこと自体ほとんどない。そんな僕がハイエロファントとうまいこと協力して身を守ることはできるだろうか?
正直自信などなくて不安だ。
「そこは大丈夫、今日からあたしは犯人を探しつつノリアキを守ることにしたから」
「うん……、…え? 守る?」
未知の能力者が僕を狙う。もしかしたら次は今回以上の攻撃を仕掛けてくるかもしれない。
話から察するに徐倫はスタンド使いとの戦いにおいて場数を踏んでいるらしい。そんな彼女が守ってくれるのはとても心強い……でも守るって、
「徐倫、君は妊婦さんだろ? 守ってくれる、その気持ちは嬉しいけど無理はできない体じゃあないか」
安定期、だったか。それが来たとは聞いたけど、常人と同じ行動をするだけでも体への負担は変わらず大きい筈だ。徐倫が僕を守ることで体を動かして無茶した結果、徐倫はおろかお腹の子の危機に繋がるのだけは嫌だ。
「そこは大丈夫よ、今回はあたしの父さんもノリアキを守ってくれるから」
「お父さん?」
「ええ、あたしの父さんもスタンド使いなの 。もう50間近のおっさんだけど戦い慣れているし、もしかしたら今のあたしより頼もしいかも」
「……へえ?」
徐倫からお父さんの話は何度か聞いたことがあるけど、こうして明らかに褒めることは今までなかった。それが頼もしいと言うなんて……なんだかんだ言いつつ父親として、そしてスタンド使いとして認めているんだろうなあ。
そんな徐倫のお父さんってどんな人なんだろう? 彼女の話では言葉足らずだけど、とても心配性な人のようなイメージを持った。でもそれ以上のことは何も知らない。
「お父さん、そんなに頼りになるんだね」
「父親としてはイマイチだけど、スタンド使いとしては最強よ」
「言い切るんだ?」
「ええ」
にやりと、まるで面白いことが始まりそうな 無邪気な笑みを浮かべる。それは発した言葉への自信の現れだとすぐにわかった。彼女の性分を考えれば盲目的に自信を持たない、きっとそれだけの実績が彼女の父にはあるんだ。
「そいつは楽しみだ」
「でも期待はしないのよ。あいつ、強いだけのコミュ障崩壊じじいなんだから」
「酷い言い様だな」
「それだけ酷いのよ、父さんの無愛想」
そういえばスタンドの話が先行して徐倫に聞くことがあったのに忘れていた。そのことに気づいたのは徐倫がとっくに帰ってしまった夜のことだった。
「空条、承太郎……空条、徐倫……」
空条なんてそうある名字じゃあない。かつて同じ名字を持つ日本人ミュージシャンが世界で活躍していた……しかし、その日本人は空条博士の父にあたる人だった。それを踏まえて可能性の域は出ないが、同じ空条姓を持つ徐倫が空条博士の親族であるかもしれないと僕は考える。加えて博士も徐倫も父親を日本人に持つハーフという共通点もある。我ながら浅く単純な考えだが二人がまったくの無関係とは思えなかった。
13歳から『空条博士』という存在を知って4年が過ぎた。紙面と液晶越しでしか知らない博士への一方的な関わりとしてみると決して短くはない期間。そこでやっと僕は彼に関する大きな情報を得ようとしていた。
そう思うだけで胸がざわざわと落ち着かなくなる。でもそれは何故起こるのか分からなかった。一度も会ったことがないのに変だと思う。ずっとずっと、そう思っている。どうして僕は空条博士に執着しているのだろう。
変というより、気味悪いな……何か変 な執念を覚える。
それもずっとずっと思っていることだったけど、僕はこうして今も空条博士のことを考え続けているので手遅れだ。重度の空条博士疾患者である。
不明瞭な気味悪さは気分を濁し、ついに僕はベッドへと潜り込んだ。変だろうが気味悪いだろうが明日もきっと僕は空条博士について考えるし、徐倫が訪れようならば空条博士について伺うのだ。そう決まっているも同然なので気が滅入る前に休もう。
ベッドランプを消して目を閉じようとすると、視界の端に何かが過ぎった。それは知った淡い緑色をしていて、思わず横になっていた体を起こす。
「ハイエロファント、どうかしたのかい?」
その緑はハイエロファントで、外を眺めていると彼の視界を通じて知れた。
「誰か、いるの?」
視界に見えるのは月明かり で照らされた病院前のロータリーだけだ。それとも僕に見つけられないだけで何かがいるのか?
ハイエロファントに倣うように窓から外を見てみる。しかし見える景色は先ほどのままだった。
何もないじゃあないか。そうハイエロファントに言おうとすると彼はするりと外へ出てゆく。あっという間に彼はロータリーへ降り立ち、そこを越えてしまった。
……ハイエロファント、君はそこまで動けるのかい?
これまで稀に僕が意識しない動きをしたことはあったけど、僕から離れて動いたことなんてなかった。驚きは続くがハイエロファントは何を目指して動いてるんだ。彼のように身軽に外へ出られない僕は視界を通して窺うとベンチが見えて。
青白く光るシルエットが見えた。
シルエットは目視するだけでも僕やハイエロファントより随分大きいのが分かる。シルエットの人物はハイエロファントの存在に気付いたかのように長い頭髪を靡かせ、そしてその大きさに見合った腕が伸びてきた。
「あ、」
これ、夢で見た。夢で見た光景に、とてもよく似ている。
青白い大きな手はハイエロファントの手を取って手の甲を撫でた後抱きしめてきた。ハイエロファントを通じて感じる抱擁に体が強張る。
でも、大きな体に反して僕を包む力は繊細さを感じるほど緩いものだった。この人物が誰なのか…このデジャヴは、まだ覚えている。
『君は誰だ?』
ハイエロファントの口を通じて僕は抱きしめる人物へ問いかける。記憶する通りなら、彼は夢で見たあの青白い手の持ち主…いや、あれは夢ではなく ハイエロファントが見た光景で、僕が意識がない間にこの彼と会っていたんだ。
「それは私の台詞だ」
目の前の彼の口は動かないのに声だけが返ってきた。
『?』
視界より下に聞こえた声に足元に見えるベンチへと視線を移して。そこにはハイエロファントを抱きしめている人物とはまた違う人影が見えて、僕は何もされてないのにびくりと体が跳ねた。
『なんで、』
緑色の瞳がハイエロファントを見上げてくる。それは徐倫の瞳にとてもよく似ていたけど、そんなことなんて気にしてられなかった。
「君は、誰だ」
分厚い唇が動いて、僕と同じ言葉を返した。
なんで、ここに空条博士がいるんだ。
ベンチから見上げていたのは何年も僕が調べていた空条博士その人だった。