日本号のちょい呑み配信2

 
 人が行き交う盛り場に蝉の鬱陶しい鳴き声と共に生温い風が通り抜ける。見上げれば快晴が広がっていて、自分が覚えている不快感はどこから来るものなのかと顔が歪む。梅雨明けはした筈なんだがこうも空気が湿っていると気温が高くなってきたのもあって不快感がより増している気がする。
 不足した文具を買いに万屋へ向かっていたのだが、戦闘服のまま街中に出たのは失敗だった。額に滲む汗を拭い、上着を脱ぐといくらか不快感は軽減された気がしてほっと息を吐いた。
 早いところ用を済ませて帰ろう。システムによって環境が整えられた本丸内の快適さを思い出しては、自然と歩みが早くなる。そのままの勢いで万屋へ入ろうとしたが、店の前で注目を集めている人物がいて歩みを止めた。
 あいつは人間ではなく「大槍」か。思わずその「大槍」を睨み付ければ、季節を過ぎた筈の白藤がこちらへ向いた。その白藤は時折日本号が着る軽装を彩るもので、注目されていた大槍もとい軽装姿の日本号が俺の姿を認めて傍へ寄ってくる。
「よう。こんなところで会うとは奇遇だな」
「奇遇も何もここは本丸から最寄りの万屋だ。お互い万屋に用があれば鉢合わせにもなるだろう」
「それこそが奇遇ってもんだ……それとも、ここで会ったのは必然だったとでも言うのかね」
「な、」
 買い言葉に売り言葉の如く深く考えず返した言葉が思わぬ形で打ち返され、続く言葉をすぐに放り出せない。無様にも音無く口を開閉させていると、日本号が為て遣ったりとばかりに笑った。
 これは小馬鹿にされる流れかと口元を引き締めていると、近くを歩いていた一般人が足を止めてこちらを見ていた。そして日本号と俺を交互に見ると何か言いたげに笑ったので、俺は日本号の袖を強く引きながら万屋へ入店する。
「おい、引っ張るなって。皺になるだろうか」
「それを着ている貴様が悪い」
 ただでさえその容姿で目立つというのに、白藤の柄物に紋付き羽織を纏っているとくれば刀剣男士に見慣れた者でも目を奪われるというものだ。戦闘服や内番では機能性重視した服装をしているのに、普段着る機会の多い軽装は何故あんな目立つものにしてしまったのか。それが似合ってしまうから尚のこと憎らしい。主と一緒に並ぶことを想定しているなら申し分ないものだが、自分が並ぶとなるととんでもないものだ。
 さて、再び誰かの目に留まる前に買い物を済ませて帰ってしまおう。袖を手放しそそくさと文具を探しに行こうとすると、視線の端に大きな影がついてきた。それが何なのかわからない程愚鈍ではない俺は歩みを早める。
 だが、その影は離れることなく着いてくるものだから、俺は堪らずその影に向かって肘打ちを向ける。それは容赦なく当てるつもりだったが影は易々と避けてしまう。
「っと、危ねえな」
 何が危ないんだ。動きにくい軽装でそこまで動けたら何も危ういことはあるまい。そんなことを内心思いながら肘打ちを向けた方を見上げると、危うさを微塵も感じさせることなくこちらを見下ろす日本号と目が合った。
「俺は買う物があるんだ。邪魔をするな」
「俺だって買い物に来てるんだ、邪魔しているつもりはねえ」
「……ほう? 一体何を買うんだ?」
「氷菓子だ。粟田口連中から土産もんをもらってな、そのお返しだ」
「俺は文具だから売り場は離れているな。同じく買い物を目的としているが、同行する必要は無いだろう」
 はっきり突き放してしまえば流石については来ないだろう。奴の反応を確認することなく足早に文具が置かれている場所へ移動すれば、日本号の姿はどこにもなかった。
 そのことに安堵しつつもどことなく腑に落ちない心地を覚えながら、俺は目的のものを手に会計を済ませる。その間にも周囲を確認していたが、あの目立つ大槍の姿はどこにもなかった。
 あいつは氷菓子を買うだけ、早々に買い物を済ませて店を出たのだろう。再会したところで気まずさが勝るだけなので助かる。さて、帰ったら主へ挨拶をして、それから翌朝からの出陣の準備をして、それから……。
 これからの予定を考えながら万屋を出ると大きな黒い壁が俺を出迎えた。なんだこれはと思うが先か、その塊が振り向いたので、俺は半ば反射的に後退る。
「遅かったじゃねえか」
「貴様、何故ここに……」
 黒いのは羽織を纏う日本号の背中。一瞬壁と錯覚する程広い背中を持つ彼は、あろうことか驚きに後退する俺の二の腕を掴んで引っ張ってきた。
「何故って待っていたんだよ。あんたもあとは本丸に帰るだけだろう?」
 一緒に帰ろう。そうは言わなかったが、腕を引いて歩き始める日本号に俺は抗う暇を与えられず一歩二歩と前進していく。衣服越しに感じる奴の手はその大きさに反して掴む力は弱い。それは俺が容易く振り払える程のもので、これは強制的なものではないと伝えてくるようだ。
 もしかしたら奴なりの気遣いなのかもしれない。だが、それがかえって気まずさを募らせると気付いているのだろうか。腕に痕が残る程力強く握られていたなら思いっきり抵抗できたというのに、これは日本号の策略なのかと思いたいくらいだ。
「……」
 実際、これが策略だったら大したものだ。もっと強引なものだったら文句のひとつも言えたのに、何を話していいかわからない。幸いにも万屋を出て暫くは盛り場だが、本丸へ近付くにつれて人通りが少なくなる。その時はどうやって日本号との場を繋ごうか。
 こいつと俺は同じ本丸にいるだけで、特に共通点は無い。
 羽織の下から時折ちらつく白藤が眩しくて目を細めている内にも周囲の建物が少なくなり、人の行き来も比例して少なくなってゆく。別にだんまりと帰路を歩いても良いというのに、どうして何か言わなければならない気になってくるのだろう。
 徐々に落ち着かない気分になってくると共に、暑さや湿気から来るものとは違う汗が滴る。思わず額を手の甲で拭っていると、数歩前を歩いていた日本号が振り返った。
 拭ったはずの汗がひやりと冷たくて、耳の裏からとくとくと心音のようなものが聴こえてくる。
「お前さん、珈琲味の甘味はいける口か?」
「? 別に食べられるが」
 脈絡のない話にとりあえず素直に答えては、何故そんなことを聞いてきたのかと疑問を抱く。すると日本号は歩みを止めると掴んでいた俺の腕を解放した。
 突然自由になった腕はどうすれば良いかわからず進行方向へ僅かに伸ばした形のまま固まっていると、日本号は手に下げていた袋を漁り始めた。
「珈琲味の氷菓子が食べたくて買ったんだが、生憎二人分でな。余らせて駄目にしちまうくらいならあんたに食ってもらった方が良いと思ったんだ」
 それなら残ったものは冷凍庫で保管すれば良いだろう。そう言おうとした瞬間、口に何かを突っ込まれて仰け反りそうになる。驚きに固まっていると、口に予想しない冷たさと甘さが襲ってきた。
 これは……今しがた話していた氷菓子か? 口に突っ込まれたものを手に取って確認すれば、いつか本丸の誰かが食べていた円筒状の氷菓子だった。
 話し振りからして俺に食わせるつもりだったようだが、あまりに強引過ぎないか。俺は食べるとまだ答えてなかったし、もし食べるにしても本丸に帰ってからでも良かったものだ。
 だが、既に口を付けてしまったものを押し返すこともできずにいると、日本号も同じように氷菓子に口をつけた。
「歩き食べなどして……」
「歩きながら酒飲むよか可愛いもんだろう?」
「それはそうだが、ながら食べは感心しない」
「誰も見ちゃあいないんだ。そう固いこと言うなよ」
 日本号の言う通りいつの間にか辺りは行き交う人間はひとりもなく、俺と日本号だけが氷菓子を口にして道端に突っ立っている状況だ。
 そのことに気付いた俺は居たたまれなさに右往左往しそうになるのを堪えて、氷菓子に口を付けながら本丸に向かって歩いてゆく。そんな俺を追いかけるよう少し後ろを日本号が歩いていて、視界の端にちらりと羽織の裾が揺れた。
 氷菓子など欲しくはなかったが、こいつを食べるため口が塞がっているせいで会話をしなくて済むのは助かる。
 もしかして日本号はそんな俺の心情を見越してこれを渡したのだろうか。そう考えるとすべて見透かされている心地がして、あくまでも奴の言う通り氷菓子を余らせるのが嫌で俺に寄越したのだと内心自分に言い聞かせるのだった。
 

『始まったばい!』
『どうも。今夜も日本号のちょい呑み配信、付き合ってくれよ』
 低く落ち着いた声はいつもの配信で聴く日本号のものだというのに、気恥ずかしくなるのは万屋から帰城するまでの出来事のせいか。あの大槍め、変なことをするから配信を純粋に楽しめないじゃないか……この恨み、どこで晴らしてやろうか。
『今日のつまみは海扇稚貝の酒蒸しだ。時期的に成貝も旨いが、酒蒸しにするには稚貝の方がいける』
 帆立は食べたことはあるが、『チガイ』とは食べたことどころか聞いたことがないな。話しぶりから察するに子供の貝だろう。珍味の部類なのかと視聴者のコメントを眺めていると、何故か本丸特定を心配するものがいくつか流れてきた。
『うちの本拠地は特に隠してなか、心配せんでも大丈夫たい』
『そこんとこは食材を扱う配信をやる以上、大体の場所はバレても仕方ねえとここの主も了承しているからな。あとはあんたらの良心次第ってとこだな』
 ひらひらとこちらに手を降る日本号を見て、特定して迷惑をかける奴がいるだろうか。いや、この配信は良心的なコメントも多いのでいないに違いない。うんうんと画面に向かって頷きながら、食材で本丸の所在がわかるとは博識な者もいるものだと感心する。
 ボウルいっぱいに入った帆立が画面真ん中に置かれる。その帆立は記憶するより一回り小さくて、確かに稚貝であると知れた。
『今回使うのは養殖ものなので砂抜きは不要だ。もし、天然物を食べるなら砂抜きを忘れるなよ』
『あの水ん中かちゃかちゃ動いとるの見たかぁ』
『そういや前に浅蜊の砂抜きした時には暫く見ていたな、ああいうの好きなのか』
『うーん……好いとるというより面白かちゅうほうが近いかもしれん。あの、動いとる虫ば観察する感覚たい』
『ああ、興味惹かれるわけか』
 そんな話をしながら、日本号の大きな手が束子でがしがしと帆立の殻を洗ってゆく。
『洗ったら水を切って鍋へ投入する。貝が開きやすいように重ねて置くなよ。その上に塩ひとつまみに酒適量、切昆布一枚を入れて強火にかける』
『おいしゃん、お酒の種類と分量!』
『これは好みだからなあ……酒は好みの清酒をひと回し。酒臭いのが良いならふた回しかね。沸騰してきたら弱火にして蓋をして八分程蒸し焼きにして出来上がりだ』
 材料をすべて鍋に投入して火にかける。
『今回は簡単やね』
『簡単だが旨いんだこれが。煮立ち始めた頃に酒と海扇の匂いもまた旨そうでな。ああ、旨いといえば注意点として食べる前にウロを取ってくれよ。あれも旨いには旨いが下手なもんだと腹を壊す危険がある』
『忘れず取って食べてほしいばい!』
 ことことと小さく音を立てて煮え始める鍋の近くにぐい呑みが置かれると、先程鍋に投入していた清酒が注がれる。それを日本号の手が掬い上げると、煮え立つ音に紛れて微かに何かを飲下す音が聴こえた。どうやらつまみが完成する前に一杯始めたようだ。
『……さて、注意点を話してもまだ八分にはならねえか。何か適当にネタを拾って話すかね』
『今日はおいしゃんに聞きたいことあるけん、それでも良か?』
 僅かに表示画面が上向き、撮影者である博多が日本号を伺っているのがわかる。画面左上にはぐい呑に口付ける日本号の口元がちらりと映り、先程の予想が当たったようだと知れる。
『俺に聞きたいこと?』
『うん。最近おいしゃん……長谷部に餌付けしようと目論んどるん?』
 邪気の色は微塵も感じられない博多の問いに、画面の日本号とそれを見ていた俺が噴き出す。俺の聞き間違いか? そう思いながら咳払いをひとつしたが、ざわめくコメントと画面の向こうの日本号が盛大に噎せている様子に聴覚は正常だと確認する。
 日本号が俺に……いや、この配信先の本丸にいる長谷部に餌付けしようとしているだって?
『けほ……、……なんでまた急に、』
『いやぁ、この間長谷部が夜遅くの帰りだって聞いてお夜食作ったり、今日は一緒ば買食いしとったところ見かけたって青江から聞いたんよ』
『あー……まあ、どちらも事実だが、それって餌付けになるのか?』
 確かに、それだけでは餌付けと繋げるには厳しいのではないだろうか。
 それにしても、この日本号とへし切長谷部は買食いする程仲が良いのか。俺とうちの日本号は帰路を歩くのすら気まずいというのに、違う本丸にいるため関係性の違いも出るとはわかっていても不思議な心地だ。
『それだけじゃなか。わざわざ福岡の茶屋から仕入れた新茶を長谷部のため用意しとったり、試作で作ったクッキーを粟田口経由でどうにか食べてもらおうと企てていたじゃなかと?』
『いやいやいや!確かに滅多に手ぇ出さない新茶頼んだりしたがね、あいつは関係ないぞ。だから餌付けなんかしてない』
『……ふーん、関係なかかぁ』
 博多の顔も、日本号の顔もどうなっているか画面ではわからない。だが、日本号が博多の追求にたじろいでいるのだけはわかる。そんな様子に俺は少し笑った後、彼らとへし切長谷部の仲を垣間見て、明らかな羨望の念を覚えてしまったのだった。

◆◆◆

 
 季節は夏真っ盛りと言っても過言では無い程の陽の照りよう。その日差しを一身に受けた畑の作物はいつの間にか花を落として実を大きく膨らませていた。成長の早さは凄まじいもので、ここ数日の畑当番は草抜きもそこそこに収穫に勤しんでいた。
 しょき、しょき、と不規則な鋏の音が聞こえる。本日畑当番である俺はその音に耳を傾けながら黙々と収穫をしていた。今日の収穫物は甘唐辛子と玉蜀黍、枝豆の三種の作物で、それらは既に収穫籠に半分以上入っている。
「はせべぇ、もう充分採ったんじゃないか?」
 話しかけられた方へ振り向けば、俺と共に畑当番である御手杵が窮屈そうに身を屈めながら甘唐辛子を採っている。槍を扱うのに向いた手足の長い体では屈んでの作業は苦痛なのか、顔には飽きより苦痛の色が濃く浮かんでいる。
「甘唐辛子は良いが、枝豆と玉蜀黍がまだ足りない」
「結構あると思うんだけどなあ」
「玉蜀黍はひと振り一本、枝豆は五鞘食べるとしよう。それで足りるか?」
 御手杵は収穫籠の中身を暫し見た後、何か思い出すよう斜め上を見上げた。
「……俺は玉蜀黍は三本、枝豆は少なくとも二十鞘食べたい」
「ならば明らかに足りないとわかるだろう。玉蜀黍は少なくとも収穫籠ふたつ、枝豆は籠一杯に欲しいところだ」
「それで足りるか?」
 先程俺が投げかけた台詞を御手杵が返す。こいつは本丸の中でも特に大食いなのもあってか、俺が提示した量では物足りなかったらしい。御手杵に限らず食べ盛りの男士が多いので、御手杵が足りないと感じたのなら多少多いくらいが丁度良いかもしれない。
「足りないと思うなら十分だと思うくらい採るんだな」
「じゃあまだまだだな……はああ、こうも屈んでいると腰が凝ってくるぜ」
 立ち上がった御手杵が目一杯体を伸ばすと、ぼきぼきと面白いように節々が鳴る。俺が思うより無理をした体勢で作業していたのか、凝りを解すよう体を伸ばす御手杵にある提案をする。
「少し休憩にしよう」
「いいのか?」
「夕餉の準備まで時間はある。それに無理を強いて効率が落ちる可能性を考えると休む方が良いだろう」
 人の身であると長時間の畑仕事は疲労が蓄積するだけでなく熱中症の危険もある。昼餉以外にもどこかで休憩を取るべきと考えると、今この場面であっても構わないだろう。
「じゃあ休憩にするか! 厨からお茶持ってくるぜ」
 枝切り鋏と軍手を放り投げた御手杵がばたばたと軒下へ走って行く後ろ姿は元気そのもので、先程見せた苦痛の表情は何だったのかとさえ思えてくる。
「午前から畑に出ているっていうのに手杵の奴は元気だなぁ」
 背後から聞こえた呟きに背筋が強ばる。そんな俺の緊張に気付いていないだろう声の主はしょきり、と鋏を鳴らした。
「それにしてもお前さんから休憩を提案するとは意外だな」
 何が意外なのか。御手杵が疲れているようだから休憩を提案した。そう考え至るのは何も可笑しいことはないと振り返ると、泥がついた軍手を脱ぐ日本号の姿があった。
「疲労が溜まっていい加減な働きをされるより、休憩を挟んだ方が効率が良い」
「へし切長谷部とは休みなく働くもんかと思ったが違うんだな」
「創作物の見過ぎだ」
 どこのへし切長谷部の話をしているんだ。俺のことを把握する程関わりも無いくせにいい加減なことを言う奴だ。確かに「へし切長谷部」とはそのような印象を持たれがちだが、他の男士を巻き込んでまでそのような無茶はしない。
「それよりも、いつまで畑にいるつもりだ」
「ん?」
「今日の畑当番は俺と御手杵だけで、貴様は違うだろう」
 内番は基本的に二振りで行い、今日の畑当番も収穫物は多くても増員は無かった筈だ。それなのにいつの間にか「酒のあてを探しに」とこいつがひょっこり現れて、暫く三振りで収穫を行っていた。こいつの手を借りるのは不本意ながら、人手が多いのは助かると黙っていたが……酒のあてならば十分採れた頃だというのにこいつは一向にここから立ち去らない。
「そりゃあそうだが、貰うもんだけ貰って退散するのも感じが悪いだろ。それに収穫するなら手が多いに越したこたあねえ、最後まで付き合うぜ」
 じっと俺を見つめてきた日本号に俺はたじろぎそうになるのをぐっと堪える。だが、奴の言葉に反論することが出来ず、情けなくもごもごと口を動かすことしか出来ない。実際人手が増えて助かっていただけに、今更突っぱねるのも無礼に近いものである。かといってこのまま口を無様に蠢かせているのもどうなのか。
 反論出来ないにしても何かないのか。誤魔化すように口元を押さえていると御手杵の声が聞こえてきた。
 どうやら御手杵が戻ってきたようだ。第三者の登場に安堵した俺は御手杵が脱ぎ捨てた軍手を拾い上げる。
「日ノ本ぉ、麦茶持ってきたんだがあんたも飲むよなあ」
「応よ! 酒ばっかだと口煩くなる奴がいるしなあ」
「な、」
 この場に居るのは俺と日本号と御手杵で、日本号が言う「口煩くなる奴」とは俺だとすぐにわかって思わず声を上げてしまう。
「誰が口煩いだと?」
「お前さんのことだが?」
 俺が反応するのは想定内だったのか、日本号は特に悪びれる様子もなく御手杵の方へ向かっていく。別に奴を驚かせるつもりは毛頭にもなかったが、あまりに薄い反応が癪に障って小走りで奴を追い越して御手杵のもとへ向かう。
「御手杵、茶を一杯貰おうか」
「なんだなんだ、あんた喉が渇いていたのかあ。そう急がなくても大きめの水差しにいっぱい入れてきたから三振り分あるぞ」
 へらりと笑う御手杵は安心感の一言しかなく、黙って御手杵の持ってきたグラスを並べて麦茶を注いでいく。麦茶は冷蔵保存していたらしく、硝子製の水差しは薄ら白んで冷たい。その冷たさに自分の体が自覚しているより火照っていることを実感しつつ、麦茶を注ぎ終えるとそれをがぶ飲みした。ごくりと飲み下した麦茶は口内を潤すよりも腹をひやりと冷やして、半ば反射的にグラスから口を離してしまう。その拍子に口の端から麦茶が零れ落ち、顎を伝って内番着を濡らしてしまった。
「茶に足が生えて逃げるでもなしに、そう勢いよく飲むなよ」
 俺も手杵もあんたの分は飲まねえよ。言いながら日本号は俺の顎に触れてきた。撫でるように動く日本号の腹の指はどうやら麦茶を拭っているらしい。その指は俺と一緒に陽の下で作業していたにも関わらず少し冷たい。
 明らかに自分のものとは違うものが触れてきていることに、冷えた筈の腹の中が煮えたように熱くなってくる。それが溜まらなく喉の渇きを誘って、俺は日本号の手を払うとグラスに残っていた麦茶を飲み干した。

 夕餉時の食堂は窓を開け放しているというのに夏虫の鳴き声を掻き消す程騒がしい。夕餉の主役は昼間収穫した玉蜀黍と枝豆を茹でたもので、既に幾つもの玉蜀黍の芯と枝豆の殻が皿に積み上げられていた。
 幸いにも休憩終わりに御手杵が「ひと振り一本じゃ絶対足りない」と、予定より随分多めに玉蜀黍を収穫してくれたお陰で茹で玉蜀黍はまだまだ沢山大皿に乗っている。これならば俺が余計に貰っても問題ないだろうと、三本目の玉蜀黍を手にして齧りつく。
 突き立てた歯が玉蜀黍の粒を破き、茹で玉蜀黍の甘塩っぱい味が広がる。もしゃもしゃもぐもぐ、そんな音が聞こえてしまいそうなくらい咀嚼を繰り返してその味わいを堪能する。男士の中には小柄のような刃物を使ったり、器用な者だと指の腹で粒を取り分けていくが、俺は玉蜀黍については齧りつき一択だ。ぼろぼろと食べて家禽の餌でも拵えているのかと言われても構わない。ちまちま食べるのは好かないし、齧りついたところで玉蜀黍の旨さは変わらない。
 余すところなく囓りついていると少し離れた席で同じように玉蜀黍を食べて……否、玉蜀黍の粒を指で削ぎ落としている日本号がいた。
 あいつ、あんなでかい手をしているのによくも綺麗に粒を取れるものだな。俺と日本号の席はそこまで近くはない。それでも粒を潰すことなく取っているのがわかり、奴の皿には玉蜀黍の小さな山が出来つつあった。
 図体こそ大きいが、元より細かな作業が苦にならない質なのだろうか。
 日本号を眺めながら、頭の片隅では配信で見る別本丸の日本号を思い出す。あいつも大きな手を器用に動かして料理をしていたものだ。しかし大きい割に指はすらりとしていて、細かな動きは得意なのかもしれない。
 あんな指であの大槍を握って戦っているのだから不思議なものである。まあ、そんなことを言えばあの美しい本身は人だけでなく虎とも戦ったなんて逸話もあるのだから、人の形を得る前から結構奇妙な奴であるのかもしれない。
 玉蜀黍を食べ終えて枝豆を数鞘手に取って皿に移す。そうして一鞘を手にすると口元に持っていって、豆を押し出した。固めに茹でられた豆の歯応えと絶妙な塩加減がまた旨い。玉蜀黍も枝豆も、茹でて塩を加えただけだというのにどうしてこうも旨くなるのだろう。もしかしたら俺が知らないだけで料理番ならではの秘訣があるのかもしれない。
 そんなことを考えながら枝豆をもう一鞘取っていると、視線の先の日本号がどこからともなく酒を取り出して飲んでいるところだった。つまみは先程削ぎ取っていた玉蜀黍と枝豆、飲んでいるのは普段奴が飲んでいるものと違って少し白濁としているものだ。
 また酒など飲んで……と一瞬思ったが、これを食べて酒を飲まないのも如何なものかとまた枝豆を一鞘口に寄せる。俺は翌朝早いので酒は飲まないが、明日非番であったなら一杯くらいは良かったかもしれない。
 しかしアルコール度数の低い麦酒の一杯なら飲んでも……いやいや、それが明日には抜けているとは限らない。だが、そこまで酒に弱い質でもないし、寝る前に水や茶でも飲めば……。
「……」
 悩んでも仕方がない、飲みたいなら飲めば良いではないか。日本号だって酒を飲んだ翌日、けろりとした様子で出陣しているのだ。麦酒の一杯くらいどうってことはない筈だ。
 周りを見渡すと、少し離れた位置に王冠が抜かれた麦酒瓶が数本置かれている。中身は空のものもあったが、半分以上残っているのもあり、俺は手持ちのグラスを空にすると麦酒瓶を引き寄せる。
 すると突然一期一振がひょこりと顔を寄せてきて、驚きに体を仰け反らせる。
「そのように驚かなくとも良いのでは。私はずっと長谷部殿の隣で食事をしていたではありませんか」
「それはそうだが」
 明るい頭髪を揺らして首を傾げた一期が片手を挙げる。
 彼の言う通り、会話をしていなかっただけで一期はずっと俺の隣にいたのだが、まさか顔を突き合わせるとはまったく想定していなかったのだ。だからこれは不可抗力だと弁解したい。
「こうして隣になったのですからお酌のひとつでも。大勢いるというのに手酌というのも味気ないですから」
 決して強引ではない一期の手が、するりと麦酒瓶を俺の手から掠め取っていく。そして注ぎ口をこちらへ向けてくるので、これは断る方が手間というものかとグラスを手にして一期の方へ傾けた。
「ありがたくいただくが、酌をしてもらうだけでは俺が落ち着かない」
「勿論、長谷部殿にお酌をしてもらうつもりです」
 麦酒を注ぎながらにっこりと笑う一期の顔に粟田口の面々の顔が被る。口調や佇まいで生真面目な者かと思っていたが、改めて考えてみれば個性派揃いの弟達の兄にあたる太刀なのだ。俺が知らないだけで、ただの生真面目で済む奴ではないのかもしれない。
 今度は俺が一期から瓶を受け取り酌をする。とくとくとグラスに注がれた麦酒は存外に泡立っており、俺が注ぎ口を上げると共に一期が慌ててグラスへ口を寄せる。
「お、」
 小さく啜る音の後、グラスを口から離した一期の鼻下には泡がまとわりついていた。その姿は白い口髭をたくわえたように見え、俺は衣嚢から懐紙を取り出して一期へと渡す。
「かたじけない」
「いや、それはこちらの言葉だ」
「ははは、長谷部殿は案外気にする質のようですな」
 笑顔を崩さず一期は口周りを拭く。髭泡もすぐに拭われて、ほっとしては自分が立ち膝であったことに気付いて腰を落ち着けた。
 俺はただ麦酒の一杯が欲しかっただけなのにどうしてこうなってしまったのか。一期はまったく気にした様子がなかったのは幸いだが、これならば失礼を承知で断っても良かったのかもしれない。
 ……まあ、気にして時間が過ぎても麦酒が生温くなるだけだ。気持ちを切り替えようと麦酒を飲んでいると、誰かの視線を感じて隣の一期をちらりと見る。だが、彼はこちらが見ていることにも気付いていない様子で、気のせいかと視線を戻そうとして……日本号と目が合った。
 グラスの中の麦酒が揺れ、勢い余って溢れて手を濡らす。麦酒の匂いに湿ったものが混じり、手は濡れて不快感さえ覚えてもおかしくないというのに、俺は気にすることなく日本号を見つめ続けている。
 訂正するか。日本号を見つめることしかできない程動揺している。
 きっと先程の視線の正体は日本号のものだろう。俺があいつの姿を見ることができたのなら、あいつの視界に俺が入ることも有り得る。それはまあいい。だが、そうなると一期とのやり取りも見られていた可能性がある。
 まだ少しばかりの麦酒しか飲んでいないというのに顔から首にかけて火照ってきたような気がする。それは麦酒とは違うものからくるものだと自覚するより先に、視線の先の日本号が俺に向かってお猪口を傾けてきた。
 それが意図することとは? 考えるだけで身が焦げるような羞恥心が襲ってきて、俺は麦酒を一気飲みすると隣の一期へグラスを突き出すのだった。

 自分が纏う匂いが酒臭くて、頭ばかりが鮮明だ。
 あの後、一杯で済ます筈だった麦酒を勢いのまま四杯飲んでしまった。どうしてこうなってしまったのかと聞かれたら「勢いのまま」としか返せないのが辛い。
 ……本当のことを明かせば、日本号の視線が引き金であるのだが、それは折れて鉄の塊になっても言うつもりはない秘密だ。これは苦い経験として記憶の隅に留めておこう。
 寝支度もそこそこに水を片手に自室へと戻り文机の灯りだけつけると、そこに寄りかかるように座り込む。
 朝が早いのはわかっているが、暫し腰を落ち着けたい。決してこのまま寝るつもりはない。少しの間だけ落ち着きたいだけ。頭の中でそう弁解しながら文机に突っ伏していると「ぽん」という音が聴こえてきた。
 これは……日本号の配信通知の音だ。時間的には配信があってもおかしくないだけに、俺はのろのろとタブレット端末を取り出して画面に触れる。そして動画プレイヤーを読み込むといつもの光景が映し出された。
『今夜も始まったぜ。日本号のちょい呑み配信、今日は先に飲んじまっているから次の機会で出すつまみを作る』
『今日はおつまみに恵まれたけん、飲んでしもうたよね』
『ああ。夏はやっぱつまみにするもんが多くていいな』
 それは確かに。夕餉に食べた玉蜀黍や枝豆を思い出していると、画面の向こうの日本号が枝豆と甘唐辛子を取り出す。
『ということで今日は夏と言えばこれぞという品、「枝豆の浸し豆」と「冷し甘唐辛子」を作る。浸し豆は知っている奴も多いだろうが、冷し甘唐辛子とはいうのは二十世紀末から福岡で局地的に流行った「パリパリピーマン」というもんだ』
 パリパリピーマンとは聞いたことがないな。福岡にいた時は自由に出歩くことが出来なかったから当然といえば当然なのだが、同じ立場であった日本号が知っているということはそれなりに有名なものなのかもしれない。それにしても、ぱりぱり、とは、響きからして食感を表したものだろうか。
『まずは枝豆の浸し豆を作る。材料は茹で枝豆十鞘ほどに昆布一切れ、醤油と味醂を大匙二に水一杯だ』
『おいしゃん、水の分量』
『……大体大匙四くらいだな』
 説明しながら日本号は燗付けに使用するような小鍋を用意して、昆布と調味料、水を投入していく。
『まずは枝豆以外の材料を鍋に入れてゆっくり煮立たせる。その間に茹で枝豆の豆を取り出して薄皮を剥いていく。薄皮については剥かなくてもいけるが、剥いた方が味が染み込みやすいからこっちを薦めるぜ』
 話している間にも枝豆の鞘から次々と豆が取り出されていく。その器用さは夕餉に見た日本号の姿を連想させて、俺は背筋を伸ばして首を振った。
 どちらも日本号なので連想するのは仕方ないにしても、この場面で思い出すのはいただけない。折角落ち着いてきた羞恥心がこみ上げてきそうで、せめてもの抵抗だと文机に額を擦り付ける。しかしまだ記憶に新しいそれは容易く誤魔化されることなく、脳裏にはお猪口を自分の方へ傾ける日本号の姿がちらつく。それはどんどん鮮明になっていき、想像の中の日本号が俺を見て笑いかけた。
『次は……、…だ。まず……』
 微かに聞こえる日本号の声を借りて、脳内の日本号が何かを言ってくる。それは聞き取れなかったが、羞恥心を煽るのには十分なもので、俺は配信が終わるまで顔を上げることができなかった。

◆◆◆

 日が短くなってきても暑さは続き、帰城した第一部隊は真っ先に食堂へ向かう。その足取りの真っ直ぐなこと、誰として主のいる執務室に向かうことはなく、傍らで掃除をしていた俺は思わず部隊員の一振りである南泉一文字を呼び止めた。
「なんにゃ」
 呼び止めたというのに南泉の歩みは止まることなく、俺は並び歩いて奴を足止めしようとする。
「なんにゃじゃない。帰城した部隊は先ず主へ報告しに行く義務があるだろう」
「それなら大丈夫だ。こっちに戻る前にこんのすけに連絡した時、帰城したら直ぐに水分補給するようにって主から言われたんだ。ねっちゅうしょう、という病気だったか。あれになるかもしれないから報告より先に休息を取れって」
 ここひと月ほどラヂオでも熱中症予防の呼びかけが流れていたな。人間の肉体を持っている以上刀剣男士も気をつけなければならない夏の病であり、この本丸でも注意を促されているものである。
 幸いにもここではこれまで熱中症になった男士はいないが、自覚症状が出てくる頃には手遅れの場合もあるという。刀剣男士となれば死ぬことはないが、それでも数時間起きられないほどの重症となるだろう。
「南泉君、お茶の用意が出来たから早くおいでよ!」
 食堂からひょっこりと顔を出した燭台切がこちらに向かって手招きしてくる。そして南泉の隣に俺の姿を認めると、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「長谷部君も一休みしないかい? 屋内であっても定期的な水分補給は必要だよ」
「まだいい」
「そう言わずにさ。今なら日本号君お手製の糠漬けもあるよ」
「日本号……?」
 唐突な日本号の名に思わずそれを口にしてしまうと燭台切の笑みが深まった。しまった、ここで反応すると断りにくくなる。そう思うが先か、燭台切は俺の傍へ素早く近寄ると背中を押してきた。
「そうそう。日本号君が作っている土佐鷹茄子の糠漬けなんだけど、これがさっぱりして美味しいんだ。お茶とすごい合うから是非食べてほしいなあ」
 この話を聞いたら勿論食べるよね? そんな嫌みたらしいことをこの燭台切は言わないし、そんなことを微塵も思っていないのはわかっている。嫌味でもなんでもなく、ただただ「美味しいから食べてほしい」という純粋な気持ちからこんな話をしているのだ。
 良い奴なんだこいつは。だからこそ背中を押す手が強引なものではないのに俺は抗うことが出来ず、あっという間に食堂へと連行されてしまった。
 食堂には既に何振りかの男士が席についている。
「南泉遅かったけどどうかしたの?」
「いんにゃ、何でも」
 南泉に続くよう席につくと、すぐさま目の前に冷茶と小鉢が置かれる。小鉢にはつるりと光る茄子が数切れ乗っていた。
 これが日本号が作ったという茄子漬けなのか。見た目は何の変哲も無い茄子漬けだが、それを作ったのが日本号というだけで特別なものに思えるから不思議だ。
 しかし何故糠漬けなんて作ったのか。そう疑問を抱いたのは一瞬だけで、つまみ目的だと直ぐに気付く。塩気があって保存も利くとなればつまみとして優秀だ。
 だが糠漬けとは管理が面倒だと聞いたような気がするのだが、そこのところは奴にとって些細なことなのか。それに面倒というのも聞いた話なので、俺が知らないだけでそこまで手間ではないのかもしれない。
「うまかあ。これ本当に土佐の茄子っちゃ?」
 どこか博多に似た訛りで誰かが声を上げる。それは食卓を挟んで斜め向かいに座っていた豊前で、奴の隣に座っていた篭手切も同じように声を上げた。
「林檎みたいな甘さもありますね。土佐鷹は癖がなくて食べやすいと以前桑名から教えてもらいましたけど、評価に違わぬ味わいですね」
 茄子漬けにしては奇妙な感想に俺は水分補給もそっちのけで箸を手にする。一口大の茄子をひと切れ。記憶する糠漬けよりも明るい色合いに浅漬けにも見えたが、口元へ寄せるとつんと糠の臭いがして、これは正真正銘の糠漬けであると知れた。
 手製の糠漬け、漬け方次第では色合いも変わってくるのだろうか。青みが映えるそれを口へ放り込み咀嚼すると茄子漬けにしてはしっかりした歯応えを感じ、思わず小鉢の中を確認する。しかしそこにはどう見ても茄子しかなく、今食べているものがどんなものなのか確かめるようゆっくり咀嚼を再開する。歯応えは胡瓜に似ているが味は確かな茄子のものである。そして塩味は漬物にしては仄かなものであり、共に篭手切の言う「林檎みたい」な甘さを感じた。
 ……これは茄子かもしれないが、俺の知っている茄子と違う気がする。土佐鷹と言ったか、その種は甘みが強いのだろうか。これはあんな奇妙な感想になるというものだ。それでも糠の塩気と茄子の甘みの組み合わせはとても合い、箸と口が止まることを知らない。それは他の男士も同様なのか、いつの間にか黙々と茄子漬けを食べている。
「日本号君の糠漬けはどうだい?」
「はい、とても美味しいです!」
 燭台切の問い掛けに篭手切が眼鏡の向こうの瞳を煌めかせて応える。
「でしょう? 今回が初めての糠床だっていうんだけどあまり塩辛くなくて美味しくてさ、お裾分けで貰ったんだけど僕だけで食べるのも惜しくてこうして出してみたんだ」
「これが初めてなんですか? 味が安定する前に失敗する方もいると聞きますけど……」
 どうやら俺の認識は合っていたらしい。糠床作りがどれだけの難易度かはわからないが、そう簡単にできないものであるのは確かなようだ。
「料理の一手間が苦にならない性分なのかな……流石は日本号さん、よくおつまみを自作しているだけありますね」
 篭手切の一言に黙って茄子漬けを食べていた俺はついその口を止めてしまう。
 時折つまみを自作しているようであるのは察していたが、そこまで交流が深いとは思えない篭手切が知るほどあいつは料理をしているのか。薄らと予感はあったが、日本号という刀剣男士自体料理好きなのだろうか。知っている日本号はここの本丸の奴と配信の日本号しかいないので断定はできないが、基から酒を嗜む性分だっただけに食関連も凝るのかもしれない。
 日本号が料理好きであることについて不確かなことだというのに、奴について少し知った気分になってむず痒くなってくる。もしかしたら俺の勝手な思い込みかもしれないのに。そうわかっているからこそ気持ちが落ち着かなくなってきて、俺は残りの茄子を一気食いしてはそれをお茶で流し込んでしまった。
「……」
 茄子漬けがなくなった皿を見て、ほんの少しだけ胃の心地悪さを覚える。胃袋は結構丈夫な方だが、漬物数切れでこうなるとは……口当たりが良くても塩気が多かったのだろうか。
 労るよう腹を擦りつつお茶を飲んでいると、ばたばたと慌ただしい足音が聴こえてくる。この重さは打刀か、太刀もあるだろうか。少し重量あるそれは徐々に大きくなり、足音の主の目的地がここだと気付くと同時に白い塊が転がり込んできた。
「光坊いるか!」
 ばさりと鳥の羽根のようにはためく白い袖に、反射的に立ち上がってしまう。
「鶴丸! 貴様は年長者だというのにその落ち着かなさはなんだ!」
「やあ長谷部、これには深いワケがあってだな」
「深いわけだと」
「鶴さん、僕に何か用?」
 詰め寄ろうとした俺の前に、まるで宥めるように出てきた燭台切が鶴丸へ声をかける。勢いを殺された俺は口を閉ざすのに反して、鶴丸は食堂に入ってきた勢いそのままに燭台切へ話しかける。
「先月購入した手持ち花火の残り、光坊が保管していたろう? そいつを出してくれないか」
「良いけど……今? まだ昼間だけど花火なんて使うのかい?」
「使うのは夜なんだが、今見せてほしいんだ。今夜、来派と粟田口の連中がそれぞれ残った花火を持ち寄って花火大会しようと計画していてな。それを聞いて、俺達が余らせた花火も使ってもらおうと思ったんだ」
「それで、出してほしいと来たんだね。ちょっと待ってて、部屋にある筈だけど……」
 食堂を出る燭台切に追いかけるよう鶴丸が続く。すると茄子漬けを食べていた南泉が呼び止める。
「あの、一文字の部屋にも花火あるんだ。それも使ってくれないか、にゃ」
 南泉の後ろにいる山鳥毛と、最近顕現されたばかりの日光を思い出して、一体誰が買ったのかと先程と違う意味合いで言葉が出ない。まあ……あんな見た目だが、刀剣男士は好奇心旺盛な奴が多いから一文字の連中も案外花火をするのかもしれない。かつて黒田に在った日光も「季節の娯楽」だと南泉のために用意しそうな質だと考えると、購入理由はいくらでも出てくる気がする。
 俺がそんなことを考えている内に話は徐々に盛り上がっていき、気付く頃には本丸全体が参加する大きな花火大会へとなっていっていた。

 火花の音と共に短刀達の叫び声が庭に響く。
 夕食後、すっかり暗くなった夜空の下、予定されていた花火大会が開催された。参加者は遠征部隊を除いた全男士で、庭から縁側にかけて花火を楽しむ者で賑わっている。
「こら、花火を振り回したら危ないぞ」
 危ないと言いながらのんびりした声音で呼びかけるのは大般若で、蛸の絵型花火を手元でくるりと回している。
 短刀連中と比べて控え目だが、彼奴の動きも少し危ない気がするんだが。まあ、周囲には誰もいないし何かあっても大般若が火傷をするくらいだから俺は何も言わないでおく。
 大掛かりな花火大会になったため結局は新たに手持ち花火を買い足したそうだが、全く興味のない俺は縁側から少し離れたところで花火を楽しむ連中を眺める。自分でもやってみれば少しは楽しい気分になるのはわかるのだが、時期的に今年最後の花火になりそうだから興味がある者が優先的に楽しんだ方が良い。
 これも付き合いと参加しているが、もう少ししたら自室に戻ろうか。眺めているだけでつまらないというわけでもないけれど、俺が居なくても皆は楽しんでいるようだからな。
 いつ頃部屋に行くかと考えていると、首の後ろにひやり冷たいものが触れてくる。予告なくやってきた刺激に文字通り飛び上がる。
「……っ!」
「ははっ、流石のお前さんも驚くもんか」
 よく知った声に驚きの念が失せて微かな怒りが湧き、その声の主がいる方へ拳を振り回す。しかし拳に全く手応えがなく、思いっきり空を切った。
「折角の花火大会にどうしたんだ」
「貴様のせいだ」
「そいつは悪かったな」
 言いながらどっかりと無遠慮に俺の隣へ座ったのは日本号で、その顔は全く悪気ない様子で笑っている。近くにはこいつ以外いない辺り、俺を驚かせたのは日本号に違いない。
「花火してねえなら手が空いてるだろ。旨い爽酒があるから付き合え」
 目の前に出されたのは日本号の手中に収まりそうなくらい小さな硝子杯で、仄かに酒の匂いがする。だが、いつも日本号が飲んでいるようなものとは違う爽やかな匂いで、思わず杯に鼻を寄せる。その行動を「飲む」と判断したのか、杯を手元に押し付けられる。
「酒だけじゃ足らないというなら、つまみもあるぞ」
 そうして差し出されたのは小鉢に乗った豚肉だった。一口大に切られたそれは適度に焼き色がついており、見るからに美味しそうで凝視してしまう。
 夕餉はしっかり食べたのだが、食後に酒を片手に腹の足しにならない程度につまむ誘惑はなかなかにくる。それに、日本号からの誘いを断る理由は特にない。
「……一杯だけなら。それ以上飲みたいなら他の奴を誘え」
「あんた以外、花火に夢中でな」
 俺以外誘えそうな奴がいなかったということか。確かに花火で盛り上がっている奴と縁側から離れて周囲を眺めているだけの奴がいたら、俺でも後者に声を掛けるだろう。わかりやすい理由に納得した俺は肉をひと摘み口へ放り込む。噛みしめると少し塩辛めな味付けで自然と酒を口へ運んでしまう。きゅっと酒を飲み込むと塩気と豚脂のくどさが流れていったように、口内が酒の旨みでいっぱいになる。あまり酒は詳しくないが、これは絶え間なく飲めてしまうやつだ。
「改めて聞くが、花火はいいのか?」
「お前こそ酒につまみに手を塞いで。折角の花火、一本でもしないのか」
 少なくとも、俺よりはこういう季節のものを楽しむ性分だと思ったのだが。短刀達のように噴射する花火に歓喜することはなくとも、線香花火の散り菊を愛でる姿は容易く想像できる。
「今夜は飲む方を優先したいんだ。それに、風に乗って流れてくる火薬の匂いで一杯するだけでもなかなか良いもんだぞ」
「そんなものか」
「そんなもんさ。さあ、残り僅かな夏の夜に乾杯」
 既に杯へ口をつけて始めているのに乾杯して良いものなのか。杯を掲げるのを躊躇していると、日本号が持っていた杯が近付いてきて、それが俺の杯にかちりと合わさる。
 こういう時、構わず乾杯して良いのか。難しく考えることはなかったのだとほっと一息つく。
 では乾杯も終えたので二口目に行こうとすると、日本号が存外に近くにいることに今更気付いて杯を落としそうになってしまった。

 日本号から貰った一杯を終えてほろ酔い気味に部屋へと戻ると、文机の上に乗っているタブレット端末がちかちかと光っていた。それは通知が来た時に光るもので、この時間帯の通知とくれば大概は日本号の配信だと予想できて俺は素早く端末の画面をタップする。
 通知表示すれば予想に違わず配信を知らせるもので、早速動画プレイヤーを起動した。
『今日も始まったぜ、日本号のちょい呑み配信。今日は豚の粕漬け焼きを作る』
 日本号の声と共に、動画プレイヤーに材料らしき食材が並べられた厨が映し出される。どうやら花火をしている最中に配信があったようで、俺はほっと息を吐いて文机に向かって座り込む。前回の配信は暫く集中して観られなかっただけに、こうして一息ついたところで配信を視聴できるのは有り難い。
『今回粕床を使うが、粕床が無い奴はただの酒粕を代用してもいい』
『きっと粕床持ってる人の方が少なかよ』
『俺はあるぞ』
『最近おいしゃん「漬け」にハマってるけんねえ。今日使うのも、この間作った粕床使うん?』
『応よ。作ったからにはどんどん使わねえとな』
 漬けとは。うちの日本号は糠漬けだったか、流行か何かなのか。野菜の旨い時期、漬物にすると良いものばかり揃うだけに作る奴が多いのだろうか。
『先ず粕床ひと握り、味噌と味醂大匙いち、砂糖小匙いちをボウルに入れて混ぜ合わせる』
『おいしゃんのひと握りはどれくらいと?』
『んん……大匙四くらいかね』
 用意されていた全ての調味料がボウルに投入される。その中のひとつに見慣れない白いものがあったが、あれが粕床というものだろうか。それらが木篦で丹念に混ぜられると、日本号の手が分厚い豚肉が乗った皿を引っ張ってくる。
『今混ぜたもんに豚肉を包むように満遍なく広げると冷蔵庫で五時間程漬ける』
『ということで今日の差し替えたい!』
 博多の小さな手が画面端から平皿を差し出してくる。その上にはラップフィルムに包まれた肉らしきものが乗っている。それを日本号が受け取って一旦傍へ置くと、フライパンに火をかける。
『あとは漬けた肉を焼くだけだが、焼く前に肉に塗ったもんをしっかり拭い取れよ。このまま焼くと食えない程塩辛くなる上に焦げるからな』
 フィルムから肉を取り出すとそれを水でざぶざぶと洗い始める。大きな手が珍しく豪快に肉を洗い、あっという間にまとわりついていた調味料が洗い落とされていく。その肉は紙でしっかり水気を拭われるとフライパンへ投入される。途端にじゅうと焼ける音が聞こえて、食欲をそそられた視聴者のコメントで溢れる。
『最初蓋はせずに弱火で二、三分程焼き、表面に焦げ目がついたらひっくり返してまた二、三分焼いて蓋をして火を止めて余熱で三分置いて完成だ』
『下拵えに時間かかるけどあとは焼くだけ、今回は簡単に仕上げたんやね』
『まあ、それだけ粕床が優秀だってことだ』
 顔は見えないが、肉が焼ける音の合間微かに鼻で笑ったような音が聞こえた。もしや得意げに笑っているのだろうか。その顔は想像して笑ってしまっては、誰が見ているわけでもないのに口元を押さえる。
 誰も居ないが、誰も居ないからこそ笑っていては奇妙だからな。こほんと咳払いをひとつ、配信へ再び集中する。
『優秀なのはわかるけど……粕床だけじゃなか糠床まで作ってなんかあると?』
 なんだ、この日本号も糠床を作っているのか。糠床は手間がかかるとは昼間のやり取りでよくわかったが……ふたつも管理して大変ではないのだろうか。
 しかしつまみのために下拵えが出来るのだから、配信の日本号にとってはそう手間ではないのかもしれない。俺には到底出来ないな。食べるのは好きだが、そのために手間をかけるのはあまり気分が乗らない。
『なんかって、まあ、すぐに出せるつまみが一品くらいあれば、誰かを誘って飲む時に楽だと思ってな』
『ふうん?』
 博多がまだ何か言いたそうな声を出す。それは幾人かの視聴者も同様なのか、追及するようなコメントがちらほら見られる。
 だが日本号があっさり反応を変えるようなことはなく、話は続くこと無く焼かれた豚肉が皿へよそわれる。
『こいつには何でも合うが特に爽酒が合うな。もし手元にあるなら合わせてみてくれ』
 ああ、これはこのまま終わる流れだな。それは博多もわかっているのか追及の言葉はなく〆の挨拶を述べる。そして日本号も何もなかったかのように挨拶をすると、動画プレイヤーに薄らと自分の顔が映った。それは配信が終わって画面が暗くなったのだと気付き、文机にタブレット端末を置いた。
「漬けか」
 すぐに出せるつまみが一品くらいあれば。と日本号は言った。そして俺もそれ以上の理由が思いつかない。だが、何か引っ掛かりを覚える気がして俺は思考を巡らせる。
 しかし残念かな、漬物は専ら食べるばかりの俺には思いつくことは特にない。あったとしても昼間に食べた茄子漬けの旨さで、俺は唸りながら首を捻るしか出来なかった。

◆◆

◆◆◆

◆◆

「どうも。今夜も日本号のちょい呑み配信、付き合ってくれよ」

 本丸の厨とは違う現代風の台所に立つ俺に、鏡玉のついた機器を向けるのは博多藤四郎。奴が持っているものは撮影機器だとわかっている俺は鏡玉に向かって手を振った。
 今行っているのは動画配信であり、これを月に二、三回程の頻度で行っている。内容は俺が撮影者博多と話しながら『ちょい呑み』に添える酒の肴を作るだけのもの。これで視聴者がつくものかと思ったが、見てくれている奴がそれなりにいるようだ。

 顕現して数ヶ月。練度を上げてきて本丸での生活にも慣れてきた頃、ちょっとした悩みに直面していた。
「おいしゃん、これまで貯蓄してなかったと?」
 眉毛の端をつり上げてこちらを見上げてきた博多に、流石の俺も気まずさに頬を掻く。
「いやぁ、酒とか買っていると誉取って貰った金銭もすぐなくなってなあ」
 この本丸では定期給と共に、取った誉の数に合わせて賞与が渡される。最初こそ微々たるものだったが、練度が上がって多くの誉を取るようになってからはそれなりの額を貰っていた。だが、第一の嗜好品である酒はものによっては結構な値段になるため、なかなか貯蓄する金銭が残らなかったのだ。
 そもそも貯蓄の必要も感じなかったために節制もしていなかったからなあ……まあ、そんなことを博多には口が裂けても言えないがね。
「酒飲み仲間のじろしゃんは貯金して自分用の厨房を作ったって聞いとうよ! 厨房拵える程の大金ば貯蓄しろとは言わんけど、ひと月定期給貰わなくても困らないくらいの貯蓄はあった方が良かよ」
「おいおい、酒飲みの中でもあいつは特別だ」
 博多の口から出た次郎太刀の名に俺は思わず反論する。
 本丸内でも一部の男士しか知らないが、あいつには「動画配信」で得た副収入がある。どれだけ稼いでいるかは次郎と主しか知らないが、その副収入で貯めた金で厨を拵えたので、俺より明らかに金に余裕があるのは明白だ。それを説明すると、次郎に副収入があると知らなかった博多は考えるように首を傾げる。
「まさかじろしゃんが芸能活動をしていたなんて」
「料理しているだけだが、芸能活動なのかあれは……」
「料理も立派な芸能ばい!それこそ料理番組は紙媒体しかなか時から需要あるもん、お客がついたら良か商売なるけん」
「そんなもんかねえ、」
 そう言いつつ、俺が現役の武器として活躍している以前より、調理の指南書がこの世に出ていたのを思い出して閉口する。そういうものが出たということは、多少にも必要とした層がいるということだ。確かに博多の言う通り、需要はそれなりにあるのだろう。
「……まあ、そういうわけで次郎みたいな貯蓄は期待するなよ」
 節制はするつもりだが、出費の大半を占める酒を我慢したところで次郎には至らないだろう。まあ、貯蓄の必要は俺もわかっているのでやらないわけではない。いつかやるつもりだ。やらないわけじゃあない。
 弁解はあくまで脳内で。口にすれば博多からどんな言葉が返ってくるやら。あれこれ言うつもりはないから貯蓄をする意欲があることだけはどうか察してくれよ。
 そんな思いで博多を見下ろすと、何故か奴は目を輝かせてこちらを見つめてきた。その眼差しは話の流れを考えると違和感を覚えるもので、すぐに悪い予感へと変わる。
「じろしゃんと同じように貯蓄できるとは思わん。でも、おいしゃんも配信始めたら……収入が増えるけんね?」
 丸い目が笑みに細められる。それを収める眼鏡には困惑の表情を露わにする己の顔が薄らと映っており、悪い予感は当たっていたと実感した。
 そこからは早かった。博多は次郎太刀に動画配信についてあれこれ教えてもらい、数日の内に『日本号のちょい呑み配信』に繋がるたたき台を用意してきた。その仕事の速さに博多の本気度を再確認した俺は、一度だけならやってみても良いかも知れないと配信を始め、なんやかんやあって今に至る。

 
「今日のつまみは新玉葱のバター蒸しだ」
 春の味覚のひとつである新玉葱はここの主が箱買いしたもの。それがひと箱ならば良かったのだが、何を思ったのかあいつは五箱も買ってしまったのだ。普通の玉葱と同じ感覚で買ったのか、新玉葱は水気が多いというのにせめて黴にならないと良いが。
「新玉葱は足が早うのに主人はなんであんな沢山買うてしもうたん……」
「まあ、うちは男士の数が多いからなあ。目一杯買わねえと足らなくなると思ったんだろう」
「それでも限度があると!」
 撮影しながら頬を膨らませる博多の様子に思わず笑ってしまう。まあ、腐らせる前に料理番の連中がうまいこと処理してくれるだろう。今夜は焼き鮪の胡麻和えが出たし、明日は揚げ鯖のマリネだという。魚と玉葱の組み合わせはどうしてああも酒に合うものばかりで堪らない。この配信でも作ろうか? いや、凝ったもんは料理が出来る奴に作ってもらった方が旨いので、俺は手軽なものでいこうか。
 そういや初めての配信では秋鮭と玉葱の味噌煮を作ったもんだな。あれは不慣れな厨を使った割に良い出来だった。
 思えばあれは秋鮭が旬の頃だったので、それから半年くらい経ったのか。一度だけだからと次郎のチャンネルの一枠を借りて始めたのだが、上手い具合に次郎の視聴者が流れてきた上にそこそこ良い反応をもらってしまい、うっかり今日まで続けている。やっていることは手前が摘まむものを作るだけなのだが、何かしら受けてしまったらしい。時折いい加減な調理法を咎める言葉もあるが、それが霞む程の好意的な反応が返ってきた。どこがどう良かったのか未だわからないが、視聴者の大半は人間だというので刀剣男士である俺が考えつかない理由があるのかもしれない。
 お陰様で何も我慢せず貯蓄も出来ている。何にせよこいつは有り難いことだと思いながら俺はお猪口に入っている酒を玉葱に垂らした。

  
◆◆◆
 

 目の前に広がるのは本丸の見事な藤。その下では短刀達が歓声を上げながら花を楽しんでいる。この花は本丸に搭載されている機能で作られた人工のものだが、それでも綺麗なことには変わりなく、短刀達と並んでその可憐さと香りを堪能する。
 だが、中には花より団子という者もいるようで、俺の近くで藤の花弁を集める包丁藤四郎がほっと息を吐いた。
「ねえねえ日本号、藤の花って食べられないのかなあ」
「なんだね急に」
「だってさあこんなにいっぱいあるのに勿体なくない? 針槐だって天ぷらで食べられるんだから藤も食べられそうじゃん」
 針槐の天ぷらとは今日の昼餉に先着順で出されるやつだよな。限定にすると競争になるから提供するまでは秘密にすると言っていたような……俺は遠征帰りに採ってきた山菜を料理番へ渡しに行った流れで知ったが、特に厨に用事のなさそうな包丁は何故知っているのやら。まあ、昼餉を前にして小腹が空いて何か摘まみに訪れたのかもしれない。
「針槐と同じく加熱したら藤も食えるが、藤は貴重なもんだから勿体ねえから食わないんだろうな」
 話ながら顔の傍にある藤の花弁を一枚摘むと包丁の口元へ持っていく。
「え、なに?」
「まあ、食ってみたいなら一口どうだ」
「このまま?」
「種なら兎も角、花弁の一口くらいなら問題ないだろう」
「そ、そう……? それなら……」
 包丁が歯を立てて花弁を食べると、途端に情けない悲鳴を上げて飛び退いた。そして俺を睨み付けては口元を服の袖でごじごしと強く拭う。
「なんだよこれぇ~! すっごくからいし苦いしうえええええからあああ」
「はっはっは、そんな美味いもんじゃねえだろ? 熱すると辛みも和らぐんだが、そうすると香りも結構飛んじまうし見て楽しむだけが良いと思うぜ」
 旨いもんならもっと色々ある。それこそ、帰りに摘んできた漉油とたらの芽の方が確実に旨い。藤は現代においても天ぷらや焼き菓子として食われてはいるが、季節のものを味わう珍味みたいなものだろう。
「くっそぉ……こんなからいなら食べさせるなよぉ、飴舐めてもぜんっぜんからいの消えないんだけど」
 手持ちの飴を舐めているのか、涙目で口をもごもごさせる包丁を宥めるように頭を撫でる。だがその行為は不服だったのか、小さな手が容赦なくそれを払い除ける。甘党なのもあって相当辛かったのか、実際食った方が納得すると思ったんだがこいつには良い手段ではなかったようだ。
「辛いのには甘いもんより油もんだ。昼餉食べに行こうぜ」
「うう……日本号の言うことは信用ならないぞ」
「おいおい。なんだってそうなるんだ」
「あーんなからいものを忠告なしに食べさせたんだ、もう信用なんてなくなっちゃったぞ」
 未だ口の中で飴玉を転がしながら器用に頬を膨らませる。その顔が可笑しくてつい頬を指で突いてしまうと、とうとう包丁は拳を振り回して怒り出し、俺は逃げるように食堂へ移動する。その道のりはまだ賑わいを見せていないが、近付くにつれて油の香ばしい匂いが濃くなってくる。
 山菜の天ぷらなら酒と一緒が良かったが、昼酒は何かと口煩く咎める奴がいるからなあ。俺へそんなことを言う奴は一振りしか居らず、冷ややかな視線を向けてくるへし切長谷部の姿がちらつく。
 顕現されて間もなく一緒の部隊に組まされていた時は一日一度は言われていたものだが、最近は言われないどころか顔を合わせない日もあるようになった。
『……長政さまは、良い方だった。付喪神にあの世があるならばついて行きたかった』
『本当に良い方だったのだ』
 いつかの長谷部の話を思い出す。あくまでも俺の憶測だが、あの時のやり取りがあって避けられているのだろう。
 刀剣男士の殆どはかつての持ち主の思い出を抱いて過ごしている。だが、長谷部にとって長政さまは思い出としてしまうにはあまりに大きい存在だったようだ。それは『忘れた』ではなく『忘れることにした』という微妙に意味合いが違う物言いに表れており、予想していなかった告白に当時の俺は戸惑ったものだった。
 それにしても忘れることにした、とはねえ。ついて行きたかった程の存在をどうして忘れることが出来ると思ったのか。あいつは抜けている質ではないだろうに、長政さまのこととなると思い詰めてしまうのだろうか。そう考えるとあの圧し切りも可愛いところがあるもんだ。
 思わずふふんと笑ってしまい、誤魔化しに口元を押さえながら食堂へ入ると、そこには既に料理番以外の男士が数振りいた。その中には俺と同じ遠征部隊だった平野藤四郎がいて、こちらに気がつくと手を振ってくる。
「日本号さん、もういくつか天ぷらが揚がっているので来た方から厨へ取りに来てほしいそうです」
 油の匂いで察していたが、やはりもう揚げ始めていたか。平野に言われた通りに天ぷらを受け取りにいくと、小豆長光と歌仙兼定が大鍋に向かってせっせと山菜を揚げていた。
「やあ日本号。今日は遠征に山菜採りにご苦労様。手土産にたらの芽に漉油とはなかなかに心憎いことをするね」
「それは部隊長である獅子王に言うんだな。発案はあいつだ」
「勿論、獅子王には既に礼を言ったさ。すると『こんなに採れたのは日本号のお陰だ』と返すじゃないか。たらの芽と間違いやすい漆芽との見分け方を教えてもらって順調に山菜採りが出来たと聞いたよ」
「まあ、知らずに漆を取ろうとした奴がいたからなあ」
 漆は触れるだけでかぶれる危険がある。手当部屋に入れば元通りになるにしても刀剣男士たる者、本身を振るう手が傷つくのは避けたいものだ。そのような考えで教えたものだったのだが、まさか名前を出されるとはな。
「それに、心憎いといえば針槐の天ぷらもなかなかじゃねえか」
「針槐の花は小豆の提案だよ」
「ああ。ひがしのはやしにあるはりえんじゅがまんかいでね。景光といっしょに砂糖煮をつくったりしていたのだけど、いつかてんぷらでもたべてみたいとはなしていたから、たべるにはよいきかいだとおもったんだ」
 歌仙の隣で山菜を天ぷらの衣に潜らせている小豆が何かを思い出すように目を細める。多分に今し方話した謙信景光とのやり取りでも思い返しているのかもしれない。
「さすがにみんなたべるぶんをよういするとはりえんじゅがたいへんなことになるから、せんちゃくじゅうごふりだよ」
「というわけで日本号。たらの芽と漉油、そして針槐の天ぷらをどうぞ。塩は食堂に三種出してあるけど、天汁が良ければ自分で用意してくれ」
 汁に浸して衣が柔くなったのも悪くはないが食べるにはちょいと甘いからな。歌仙から天ぷらが乗る皿を受け取って茶碗に米飯を盛りつけて食堂へ戻れば、そこには先程より多くの男士が集っていた。こりゃあ早く来て正解だったな、これから特に用事があるわけじゃないがあまり待たされるのは勘弁だ。
 厨へ向かう男士達を横目に席へつくと、手を合わせて早速天ぷらを頂く。歌仙が言っていた塩は……あったあった。これは普通の塩のほかに抹茶塩と柚塩があるのか。この中では抹茶が好きだが、先ずは混じり気ない塩でたらの芽をひとつ。
 歯を立てればまだ熱さを残す衣がさくりと音を立て、独特の香りと風味に思わず笑ってしまう。風味を確認するよう咀嚼するとこってりした味わいと塩味がまた旨くて、腰に下げた酒を呷りたくなってくる。それをぐっと堪えて今度は漉油を口へ運ぶ。たらの芽より癖の強い香りに誰かが生垣の匂いだと言っていたのを思い出す。
 漉油に限らず山菜は青臭いものが多いもんだがこれが良いんだがなあ。漉油の苦味を噛み締めてこれは甘く揚げ浸しにしても旨そうだと、ここにはない天汁を一瞬望んでしまう。それならば天汁を厨へ取りに行けば良いのだが、残念ながら厨の出入口には十振り程の男士が並んでいて、天汁を用意して席に戻る頃には天ぷらが冷め切ってしまっているのは安易に想像出来た。
 惜しいが今は天汁より塩で熱々の天ぷらを堪能する方を優先しよう。
 今度は漉油と米飯を一緒に口へ放り込む。天ぷらの香ばしさと米飯の相性は良いが、やはり酒の方がいけると思ってならない。近場で山菜はなかなか採れないが、今日の遠征先のように山菜がありそうな所に行った際には自分用に採ってこようか。天ぷらは後処理を考えると面倒だが、旨いものを頂くならちょっとした手間は仕方がない。
 果たして天ぷらを作るのはいつになるやら。すぐに手に入れることが出来たら配信で作っても良いかもしれないな。
 そんなことを考えていると向かいに誰かが座る気配がした。なんとはなしにそちらへ視線を向けるとそこには長谷部が居り、なんとも間が悪いことに目が合ってしまった。
「なんだ」
「別になんでも」
 目の前に誰かが座ったから気になっただけで長谷部に用があったわけではない。それなのにあいつときたら気まずそうにぶすっとしているのでついつい声をかけてしまう。
「お前さん、今日は出陣じゃなかったのか」
 話しかけられるとは想定してなかったのか、僅かに眉をぴくりと上げて再びこちらを見つめた。
「……非番だ。そういう貴様も、非番じゃないのか」
「今日は第四部隊で短期遠征だった。七つの頃に出てさっき帰ってきたところだ」
「そうか」
 それっきり長谷部は黙って箸と塩を手に取って食事を開始してしまう。
 少しは何かないのかと思うと共に、話題の振り方を失敗したと感じてならない。だが、この流れで話を広げられる程、俺と長谷部は関わりある仲ではない。
 最近、どうにもこいつに避けられているらしいからなあ。恐らく避ける理由は長政さまへの想いを打ち明けたことだろう。「恐らく」や「だろう」と曖昧な言葉を使うのは、俺にはどうしてそれが避ける理由になるのかよくわかっていないからだ。
 ただ、あの話をして以来避けるようになったから、わからないながらそいつが原因だとは理解しているだけだ。俺はあのやり取りをして、長谷部ともっと話したいと思えるようになったのにな。
「……なんだ」
 じっと見つめていたのが気になったのか、咀嚼を止めてこちらをじろりと睨み付けてくる。
「別に、なんでもねえよ」
 先程も似たようなやり取りをしたな。そんなに俺が気になるかね。
 どうして気になるのかもよくわからなかったが、居ないもののように無視されるよりは良いかと考え至り、俺は長谷部の眉間に皺が寄るのも気にせず暫く見つめていた。

 
「今日のちょい呑み配信、今回は番外編ということで早くの開始だ」
「そげな番外編、作るのはアカシア酒ばい!」
 撮影機器の前に出したのは針槐の花で、小豆から教えてもらったところから採ってきたものだ。落ちていたものを拾ったのだが香りは強く残っており、花片も陶器のような白さがある。香りばかりは映像で伝えられないが、見た目の良さだけはわかるだろうか。
「というわけで、今日はつまみではなく針槐を使った混成酒造りだ」
「説明しよう!アカシア酒で使うとるのはアカシアでなく偽アカシア、針槐の花たい。今回針槐なのはおいしゃんの間違いやなかばい」
 針槐の混成酒なのに「アカシア酒」と呼ばれているのはなんだったか……混成酒の指南書に詳しく書いていたんだが忘れちまったな。
「材料は針槐の花二房、ウォッカひと瓶。酒は好みのもんでもいいが、初心者は焼酎甲類がいいな。乙類だと仕上がりの味が変わっちまう」
「指南書だとホワイトリカー使うとるのはそのためやね」
「だろうな」
 蒸留酒は乙類の方が好みだが、素材の風味が強いことが特徴の乙類では針槐の香りを邪魔してしまう。そこでウォッカの選択ということだ。
「定番はホワイトリカーだが、今回はウォッカで漬けていく。煮沸消毒した瓶に、バラした花弁とウォッカひと瓶分、氷砂糖ひと握り入れる」
「おいしゃんおいしゃん、数値で説明しないと」
「うーん……ウォッカは二リットル、氷砂糖は百グラムだ」
 氷砂糖の量はよくわからないが、ひと握りくらいならば多分それくらいだろう。
 説明しながら花弁をばらして花粉を退いていき、それを笊に移してざっと水洗いすると瓶へ投入していく。そしてウォッカと氷砂糖を続けて入れると軽くかき混ぜる。
「材料を全部入れたら軽く混ぜて蓋をする。これで約半年漬けて出来上がりだ」
 混成酒としてはそこそこ長い熟成期間、飲み頃は秋半ばといったところか。待つには長いがそれもまた乙なものということでこういうのも良いだろう。
「花は漬ける時間が短うと香りが十分に移らず青臭くなるばい、時間かけてじーっくり漬けるのが良かよ」
 配信に送られたコメントに応えているのか。配信を映す端末に向かって喋る博多の背中を見ながら補足説明を加えていく。そして瓶の蓋を固く閉めると、よく映る位置にそれを置いた。
「これくらい作るとまあなかなか無くならねえ、仲間内で飲む時にどうぞ」
 半ば反射的に出た一言に、俺は本丸の男士達を思い浮かべる。
 仲間内というと俺なら二槍や次郎といった飲み仲間だろうか。花の香りのする甘い混成酒なら子供舌である短刀でもいけるだろうし、色んな奴と飲めるかもしれないな。それに針槐の香りや風味は気持ちを落ち着かせる作用があると指南書で見た。最近長曽祢虎徹を迎えて、眉間に皺を寄せることが多くなった蜂須賀あたりにも良いかもしれない。
 だが、皆が皆酒を嗜む質とも限らない。それこそ呑み取りの逸話と所有者の影響を受けて酒を好む己がいる手前、所有者の影響で酒が苦手な奴もいるかもしれない。
 その時、かつて俺を所有していた右府様の存在がちらついた。あの方は周囲には酒を飲ませたものだったが、自身が嗜む場面はあまりなかった。酒の味が好ましくなかったのか下戸だったのか、それとも他に何か理由があったのか。今となってはわからないが、織田にいた刀剣男士はその影響を受けて酒を好まないかもしれない。するとそういう奴には酒より茶に誘う方が良いのではないだろうか。
 博多が〆の言葉を撮影機器に投げ掛け、俺も反射的にそれに続いて配信終了の挨拶をする。しかし俺はすっかり別の事が気に掛かってしまい、明日は最寄りの茶葉屋へ行くことを計画していた。

◆◆◆

「帰城は入相の鐘が鳴る頃です。各部隊長には事前に不在であることは伝えているので連絡はないでしょうが、万が一のことを考えて留守番をお願いします」
 今日は会合があるということで主と、そのお供として近侍の太郎太刀が数刻程本丸を出るという。
「なんで俺が……」
「まあまあ日本号、帰りにお土産買ってくるからさ」
 宥めてくる年若い主に強く出られず、俺はちらりと太郎太刀の顔を見て、そうして明後日の方向を見ては大きな溜息をついた。
 別に留守番をすることは構わないがどうして俺に声がかかったのか。そんな疑問から渋っていただけで留守が嫌だとか見返りを要求したいわけではなかったんだがなあ。
「顕現されて間もない奴じゃあないんだ。土産なんてなくても留守番くらい受けるさ」
「ありがとう日本号! ああでもお土産はちゃんとあるから楽しみにしていてね」
 主は若い故の甘さはあるが、こういう口約束は実行する質だ。それに遠慮する理由もない俺は「期待している」と一言、改めて留守番を受けることを伝えた。

 主と太郎を見送り執務室で半刻程、俺は料理の指南書を片手に暇を持て余していた。
 今日は内番や雑務のない非番であり、粗方予定は早い時間帯に済ませてしまった。あるとしても今夜の飲み会でつまむ肉豆腐の下拵えくらいだが、それも二十分弱で終わるもので留守番が済んでからでも間に合うものだ。
 気分転換に近場へ出掛けてこようか。そうしようと腰を上げかけて……留守番の意味がないとすぐにその場に座る。太郎の話からするに外部からの連絡は滅多なことではないようだが、万が一の連絡を考えての「留守番」なのだろう。
 それでも自室に本を取りに行くくらいは良いよな? 遠征先からの急用ならば主不在の執務室ではなくこんのすけへ直接連絡が入る筈だ。流石に本丸外へ出るのは良くないが、中に居ればほんの少し席を外すくらいならば問題あるまい。
 ならばもう一冊何か持ってこようかと早速自室へ戻ると、同室者であり俺と同じく非番だった蜻蛉切が出迎えてくれた。
「日本号、お前に届け物があったぞ」
「届け物というとこの間頼んだにごり酒かね」
「否、自分が預かったのは茶葉だ」
 茶葉と聞いて思わず体が不自然に揺れてしまい、その違和感は蜻蛉切にも明らかにわかる程だったらしい。特徴的な太眉がぴくりと上がり、琥珀のような虹彩に光が差した。
「茶葉なんてらしくないと思ったが、やはり誤送か」
「いや、俺が頼んだものだ」
 俺への違和感ではなく、茶葉への反応だったのか。成る程と納得して、蜻蛉の発言の内容を理解して「おい」と一言、奴の胸元を小突く。
「らしくないってなんだ。そりゃあ普段頼むのは酒ばかりだが、たまには茶も飲むさ」
「そうだろうか」
「そうだろうかって……朝餉の時なんかは茶を飲んでいるだろう」
「あれは出されたものを頂いているだけで自ら飲もうとしたものではない」
「……まあ、そうかもしれないが、買って飲みたくなっても良いだろう」
 そんなやり取りをしながら茶葉を受け取る。外装を取って中身を確認すると目的の品名のもので、そそくさと戸棚に茶葉を仕舞うと本を数冊片手に抱える。
「それじゃあ留守番に戻る」
「いってらっしゃい。主の目がないからといっていい加減な勤めはしないように」
 留守番に真面目も不真面目もあるものかねえ。ばれなきゃ何したって良いだろうに蜻蛉の奴も真面目なものだ。
 執務室へ戻ると腰を落ち着ける前に連絡の類いの確認をする。ものの数分離れただけではそうそう新規のものはないようだが、念のため一通り見ていると誰かの声と共にノック音が聞こえた。声だけでは誰だかわからなかったが、主が不在だというのにやってくるとは不運な奴だと振り返る。すると視線の少し下に見えた褐色の頭髪に反射的に背筋を伸ばしてしまう。
「……あんたか。主も近侍の太郎太刀も不在だぜ。伝言があるなら受け付けるが、直接会って用を済ませたいなら入相の頃に来るんだな」
 俺を容易く動揺させたのは長谷部だった。男士の中でも執務室へ訪れる頻度が高い奴だ、こうして会うことも想定できただろうにどうして動揺するものか。
「遠征記録を修正するだけだ」
 こちらの動揺はまったく気付いていない長谷部は俺の横をすり抜けると、主の不在を問うことなく端末機を手にした。どうやら元より主ではなくこの端末機に用があったのか。
「おい、無断で弄っていいのか」
 制止の言葉に手を止めることなく、形の良い指先がすらすらと記録を上書きしてゆく。
「脇差部隊が帰りに釣りに行くというのに記録されていないのだ。後々大事になるより、勝手に書き加えて小言を言われる方がマシだろう」
「そんなもんかねえ……本丸に残るお前さんが釣りに行くこと知っているなら、別に問題ないんじゃねえか」
「皆が確認できる遠征記録に書き留めておいた方が俺の労力は少ないだろう」
「まあ、そりゃあそうだな」
 いちいち知らない者に聞かれて答えていくよりその方が楽なのは確かか。加筆のひと手間で済むならそうするか、と思いながら長谷部の形の良い旋毛を見つめる。旋毛に良い悪いというものはあるのかわからないが、思わず指先で触れてみたくなる形をしている。流石にそんなことは思うだけでしない。ただただじっと見つめていると、先程蜻蛉切から受け取った茶葉を思い出した。
 あれは酒を好まない奴を飲みに誘う時のために用意したものだ。飲酒を咎めることの多い長谷部でも茶ならあまり嫌な顔はしないだろうか。別に、長谷部だけに向けて用意したものではないが……これはちょいと誘ってみても良い機会ではないだろうか。
 そう考えると俺は記録の上書きを終えた長谷部の前に立った。
「なんだ」
 入室してきた時の無遠慮そのままの視線で見上げてきたので堪らず明後日の方を向く。なんだ、茶を誘うだけだろ。何を怯むことがある。
「……あんた、ちょいと茶を飲む時間でもあるか」
「茶を飲む時間? 時間があったら何なんだ」
 何なんだって言われても茶を飲むだけだが、それが気に食わないのか?あまり時間を要する誘いでもないと思うんだが……それだけ誘われたことに引っかかりを覚えたのか?
「……別に、なんでもない。聞いただけだ」
 言いたいことはあったが長谷部にも都合があるのかもしれない。そう思い直すと幾分か気持ちが冷静になった気がして、俺は足早に去る長谷部を黙って見送ってしまった。
……まあ、何かあるのかもしれないがそんなさっさと出て行くこともないだろう。そんなに俺といるのは嫌かよ。
 そんなことは一言も長谷部は言っていないというのに、俺はじわりじわりと思考の深みに嵌り、胸の片隅に陰りを抱えていった。
 その陰りは夜にはいよいよ胸中で存在を主張してきて、晩の飲み会で憂さ晴らしとばかりに飲み過ぎてしまった。酒の席は楽しいものであるべきと考えている俺としては不本意なもので、気が付けば誰かの肩に寄りかかりながら強かに酔っていた。

◆◆◆

 

 蜻蛉切に寄りかかり赤ら顔で眠るのは日本号で、周囲には湿っぽい酒の臭いがする。多分アタシも似たような臭いがするのかもしれないけど、それでも気になるということは相当飲んでいるのかも。。
「次郎太刀、呑み取りの槍と言われた日本号も酔うものなのか」
 困惑顔でアタシを見つめてくる蜻蛉切に思わず笑ってしまいながら傍らに腰掛ける。
 普段から日本号は酒を飲むけど、こうして飲み潰れることは稀。彼と飲む機会が一番多いだろうアタシもそんな姿を一度しか見たことがないだけに、蜻蛉切は初めて見た姿なのかもしれない。
「呑み取りの槍であると共に呑み取られの槍だもんねぇ。うっかり油断すれば酔っちゃうもんさ……まあ、酒が過ぎた理由は彼のみぞ知るってことだけどね」
 赤い頬を指先で突いてみれば、日本号は眉間に深い皺を寄せて虚ろに眼を開いた。潤んで艷やかな光を放つ虹彩は熱っぽくて日本号の酔い加減が知れる。泥酔、とまでいかなくとも、完全に酔っ払いのそれだ。
 頬を突かれたのが不快だったのか、顔をしかめたままゆっくりと立ち上がった。足は意外にもしっかり床を踏みしめていて、酔ってはいても呑まれてはいないみたいだ。
 そんな日本号の足は室外へ向かう。
「……次郎、あんたんとこの厨借りて良いか。ちょいと腹の足しになるもんが食いたくなった」
「別にいいけど厨は逆方向だよ」
 今宵の飲みの席はアタシの部屋で、その奥に厨房がある。そこを借りてよく料理をする日本号が場所を間違えるわけがないというのに、何故か部屋を出ていこうとする日本号を引き留めた。
「場所わからなくなるほど酔った?」
「んなわけあるか。部屋に取りに行くもんがあるんだ」
 こちらを捉えた視線は足元同様に揺らぐことはない。この調子なら口で言う通り目的があって一旦退室するのだとわかり、取り敢えず「足元に気をつけて」と一言、見送った。
「同行しなくて良かっただろうか」
「足にきていないから大丈夫だって」
 気にしないでゆっくりしていなさいな。そう言う代わりに蜻蛉切の肩を叩いて落ち着かせると部屋を出た。しかし向かうのは日本号のあとではなく、粟田口の部屋。
 何か食べたくて厨を借りるということは、日本号は料理するつもりだ。何を作るかはまったく見当がつかないけど、こういう機会だから博多を誘って突発配信をやっても面白いのではないだろうか。予告なしだから視聴者は多くないかもしれないけど……時間も遅いし元から集客は望めないか。まあ、突発配信は視聴者の多さ以上に自分が面白くてなんぼだからね。
 でも残念かな。配信のお誘いのため粟田口の部屋へ訪れたが、博多は翌朝に任務が控えているからと既にお休み中で笑顔の一期に追い返されてしまった。流石に任務のため早寝したという博多を起こすのは忍びない。撮影はアタシがしようと早々に部屋に戻れば、どた、どた、と一歩ずつ体重をかけて歩くような重い足音が聞こえた。その音に振り返ると小さな袋を手にした日本号が厨へ入ってくるところだった。
「じろぉ、後で買い足しとくから冷蔵庫ん中のもん貰うぜ」
「いいけどちょおっと待ってて!」
 急いで撮影準備するからさ!そんな思いで日本号に声を掛けたが、当の槍には伝わってないのか、手は一切止まることなく冷蔵庫を漁っている。
 この調子だとこっちのことを一切無視して調理を始めてしまいそうだ。本当は三脚を設置して撮影しようと思ったが、そこまで準備が終わる頃にはどうなっていることやら。慌てて撮影機を手に日本号のところへ走り寄ると、味噌と豆腐を手にした彼が驚いたように目を丸くした。
「待ってっていたでしょ日本号ぉ。折角だから配信しようと思って準備していたのに」
「配信?」
「そうそう。日本号のちょい呑み後配信ってね」
 今日はちょい呑みというには飲み過ぎているようだけどね。そんな突っ込みが過ったが口にせずに笑顔だけ向けると、日本号は暫しの間ぼんやりと立ち尽くした後、もそもそと調理器具を準備し始めた。どうやら、配信をすることについて反対ではないらしい。
 でも、黙々と準備しているところを見ると乗り気でもないのかな……それとも反対するのも面倒なのか。それか表にそこまで出ていないだけで酔いの影響が出ているのか。まあ、配信したいこちらとしては何にしても好都合で、彼の準備が整ったのを確認すると「始まったよ」との声掛けと共に配信を開始する。
「遅くにこんばんは、日本号のちょい呑み配信だよー。撮影者はお眠な博多に代わり次郎さんです!」
「どうも、日本号だ」
 酔いのせいで動きが緩慢なのか、怠そうに手を振る日本号は一瞬視線を落とした後、何かに気付いたようにアタシが構えている撮影機に視線を向けた。どことなくぎこちないのは酔っているせいか、そう思ったのは少しの間で、普段は短刀の博多藤四郎が撮影者だから勝手が違って戸惑っているのかと気付く。
 こういうのも突発配信ならではでいいよね。
「それで、今日は何を作りますか日本号大先生」
「俺ぁ大先生じゃなく正三位だ」
「では正三位の日本号さん、今日は何を作るの?」
「今日は豆腐の味噌汁だ」
 そういえば豆腐と味噌を出していたけど味噌汁ねェ、飲んだ後にはばっちりな一品だ。
「材料は豆腐、出汁、味噌。以上だ」
「出汁と味噌はともかく豆腐だけ? わかめとか玉葱は?」
「〆にするんなら豆腐だけで十分だ」
 言いながら日本号が引き寄せたのは部屋から持ってきた小袋で、それはよく見ると茶葉販売店の名が表記されていた。これから味噌汁を作るのに茶葉の出番? 疑問を抱き密かに首を傾げていると、飲み会の最中に日本号と蜻蛉切が話していたある話題を思い出す。
「これが福岡の茶商が作ったっていう特製出汁?」
「そうそう。隠し味に八女茶が入っている」
 どういう風の吹き回しか、日本号が万屋近くの茶葉販売店で茶葉を購入したという。それにおまけとしてついてきたのは茶商が調合したという特製出汁だった。
 話を聞いた時はどうして茶葉なんて買ったのか気になったけど、同席していた蜻蛉切が特製出汁について盛り上がって聞けず終いだったんだよなあ……まあ、この特製出汁というのは結構評判のものだというし、蜻蛉切の話を聞いてアタシも配信で使おうと考えたりもしたからとても実りあるやり取りだったけど。
 なんでも、八女茶の出汁は茶の風味を残しながら昆布に似たうま味があるという。
「特製出汁なら煮付けとか、もう少し凝ったものに使えば良かったのに」
「特製出汁だから味噌汁に使いたいってもんだ」
 贅沢な使い方だけど、それを〆の一杯に選ぶのも乙なものと思えるのは作り手が日本号だからだろうか。正三位を前面に出しても嫌味にならない大槍ならではなのか、感心にも似た心境を覚えている内に日本号の手は着々と豆腐を処理するとお玉を手にした。
「豆腐を入れたら沸騰しないように注意しながら温めて出来上がり」
「いやあ、豆腐だけの味噌汁に特製出汁使っちゃうあたり正三位だよねえ」
「褒めたって何も出ねえぜ」
 褒めても煽ってもいない、ただただ素直な感想なのだが、この酔いが醒めきっていない日本号には伝わらないだろうと味噌汁を映す。味噌の匂いの合間に緑茶の香りがしたような気がして不思議な心地を覚えていると、どうして日本号は茶葉を買ったのか再び気になってきた。
 日本号のことだから自分で飲むってことはないよね。それなら料理に使うため? それにしてはわざわざ販売店で買うだろうか。いくら材料を贅沢に使う質の日本号であっても、購入に至るには理由が弱い気がする。
「あるでしょ、とっておきのネタがさ。それ出してくれないわけ?」
 催促するよう撮影機を日本号へ向けると、日本号が眉をぴくりと動かした。
「とっておきのネタ?」
「この特製出汁、万屋向かいの茶葉販売店で茶葉買わないと貰えない非売品なんだけど……どうして茶葉なんて買ったのか教えてほしいなって。アンタ、茶を自分で淹れて飲むタマじゃないでしょ?」
 アタシが言い終わるが先か日本号は驚いたように目を見開いて、お玉を回していた手を止めた。
 何、そんなあからさまに動揺すること? ちょっと面白い話聞けるかなと思ったくらいだったんだけど何かあったのかい。
 こちらも釣られて動揺しているとお玉を放り厨から離れていく。まさか調理中に火元から離れるなんて思わず、慌てて火を止めて追いかけようとしたが、機動力の黒田と言わしめる日本号の足は速く、振り返った先に彼の姿はなかった。
 酔っ払いのくせにどんな機動力しているんだか。それともとうに酔いが醒めていたかな……どちらにしても逃げたことには変わりない。
 アタシは茶葉を買った理由を知りたいだけだったのに。もしかして聞かれたくない話題だったのかもしれないけど、それでも一言もなく鍋と火を放って逃げることがあるだろうか? それこそ、聞かれたくないことだったならいつもの日本号ならもっとうまいことやるはずだ。何が日本号の足を動かしたのだろうか。
 そう思いながらも日本号の危険行為は好奇心を削ぎ、アタシは戸惑いを押し込めて配信の〆に取り掛かった。

◆◆

◆◆◆

◆◆

 障子の向こうの外は暗いというのに、鳥の囀りが聞こえてくる。夜に何故鳥が鳴くのだろう、そんな疑問に時計へ視線を向けると間もなく寅正の頃であった。
 日付が変わる頃には休もうと思っていたというのに、日を跨ぐどころか夜明け間近とは。集中すると時間が過ぎるのが早い。我ながら進みが良いと思ったが、こんな時間ならば相応の進捗か。
 文机には大量の手書き書類が乱雑に並び、それらに囲われたように電子帳簿が置かれている。これらは明後日に迫る中間決算に提出するもので、ここ数日部屋に籠もって纏めていたものだった。
 今年は主が学業で忙しく本丸を不在にすることが多かったからな。どうしても帳簿の確認が不十分になってしまっていたのだろう。それでも事務作業が得意な男士に振り分ければなんとかなりそうな量であったのが幸いだった。
 非番だった者は早々に終えていたし、俺の分も纏めた内容を他の連中に添削してもらって問題なければ無事に終わる。そうなると残りは朝になってから、自分の仕事は終えたも同然。そう思うと安堵したのか、腹の虫が鳴った。
「……」
 鳴った腹を擦っては空腹を覚える。朝も近いこの時間に腹が減ってもおかしくないか、と考えては、再び「ぐうう」と腹が主張してくる。
 何か食べたいな。
 朝餉を期待して時計を見る。つい先程見たばかりの時計は当然ながらあまり時間は進んでおらず、今度は布団が仕舞われている押し入れへ目を向ける。今の時間は夜食にするにはあまりに遅く、かと言って朝餉を待つにしては早い時間帯だ。このまま空腹を辛抱して寝てしまうのが良いと思うのだが、一度覚えた食欲は失せてくれない。
 暗がりで灰色に見える障子を眺め、そうして灯りに照らされ色濃く影を落とす書類へ視線を移し、時計へと巡り戻っていく。時計から目を離したのは両手の指を使って数えられる程の短い時間。朝日はまだまだ遠い存在だと実感する。
 厨へ何か食べ物を探しに行くか。このままこうして無駄な時間を過ごすより、慰み程度でも何か食べて寝てしまえ。
 そう思ったが早く、音を立てないよう気をつけながら部屋を出る。厨へ繋がる廊下へ足を伸ばすときしりと床が軋んだが、それに反応する者はいない。外からは相変わらず鳥の囀りが聞こえる。あれだけ鳥が鳴いていれば床の軋みなど些細なものか。そう思うと足取りは速くなり、すぐに廊下よりも暗い厨へ到着した。
 いつもは調理中の熱気で汗を垂らすほど暑いというのに、今は羽織り物を持ってくれば良かったと考える程度に寒い。日が昇ればこの厨に限らず暑いというのに、いつの間にか秋はすぐそこまで来ていたのか。
 二の腕を摩りつつ照明をつけると、たらい一杯の卵が灯りの下に現れた。正確な数はわからないが、百……いや、その倍は越える程あるだろうか。朝食に使うため昨晩の内に用意されたものか。そうなると副食には卵料理が出るのか。朝は時間がないから簡単なものが多いが、一体何が出てくるか。
 そんなことを考えつつ、目的の食料庫を開ける。中は使いやすいようきっちりと収納された乾物と調味料があるが目当てのものは一切ない。調理が殆ど不要な即席麺や缶詰があればそれをひとつ拝借しようと思ったが都合良くあるものではない。
 そうなると探す先は冷蔵庫になるが、すぐに食べられるものはあるだろうか。運が良ければ朝餉にと拵えた惣菜などあるかもしれないが、確実にあるものではないから期待してはいけない。
 果たして何が入っているかと扉を開ければ、みっちりと食材が入った棚が出迎えてくれる。隙間無く食材が入った冷蔵庫に、これなら調理不要のものもあるのではないかと少しずつ物を出しながら探っていく。
 しかし、様々な食材が出てきても、そのまま口に出来るものは一向に出てこない。
「あ、」
 冷蔵庫の奥にチャック付きのビニール袋が見える。それだけなら然程気に留めることはなかったのだが、ビニール袋の表面に『日本号』と書かれているのだ。この本丸は刀剣所有数百振りを超える大所帯、冷蔵庫に自分のものを入れる際は名前を書くのが決まりだ。つまり日本号の名前が書かれた袋は当然日本号のもので、俺は好奇心の赴くままにそれに手を伸ばす。
 袋越しでもわかる柔らかな感触。奥から引っ張り出すと、袋の中のものは黄土色をしていた。色合いからあまり食べ物のように見えないが感触と色からして味噌か? つまみ用の味噌なのだろうかと揉み込むように触っていると、柔らかなものの中に固い感触が混じる。
 更にこの中に何かが入っているのか。味噌と思っていたものに異物があることに気付き、封を開けて中を覗き込む。すると独特の匂いが一気に広がり、これは味噌ではなく糠漬けであることを知る。
 以前燭台切から日本号が糠漬けを作っていると聞いたが、まさかこれが話題に上がったやつか? 癖のある匂いを放つ糠を確認し、そして袋の表面を再度確認する。先程見た通り袋には『日本号』と書かれている。これが日本号の作った糠漬けでなければ何なのか、そんな間抜けなことを思っていると、突っ込みを入れるように腹が鳴った。
 当初の目的を忘れていたが、俺は食べ物を求めて厨へやってきたのだ。こんな明け方前、わざわざ日本号の糠漬けを探りに来たわけではない。糠漬けは仕舞って食べ物探しを再開しようと封を閉じようとしたが、糠の匂いにいつか食べた茄子漬けの味を思い出して手が止まった。
 あれを食べてからひと月経とうとしているのだが、今でもあの味を思い出せる。もっと美味しいものを料理番が作ってくれるというのに、どこか甘いあの味をまた味わいたい気持ちが込み上げてくる。
「……」
 いやいや、この糠漬けは日本号のものだ。俺が何を思おうが、これはあいつのものなのだから食べようなんて思っては駄目だ。そそくさと袋の封を閉めて元の場所へ押し込むと、他の食べ物を探し始める。
 流石は大所帯の本丸で使用される冷蔵庫、どんどんたくさんの食材が出てくる。しかしめぼしいものはなく、冷蔵庫の扉を閉めると同時に溜息が出た。せめて練り物辺りが出れば、と探してみたが、そのような加工食品は一切無かった。普段食卓には上がるのでたまたま無いだけだろうが、全く無いというのは運が悪いとしか思えない。
 これは食わずにさっさと寝ろという暗示か。そんな疑心を覚えていると、たらいに入っている卵が目に入る。
 調理は面倒で避けたかったところだが、卵を電子レンジで熱するだけなら洗い物は皿だけで済むのではないか? そうだ、凝った物は食べるつもりはなかったのだ。この卵をひとついただこう。
 もしも男士の数だけ用意していた場合を考え、ひとつ卵を貰ったこと、もし数が足りなかったら俺の分を減らして対応してほしいと書き置きする。これでひとまず大丈夫だろう。
 書類のインキがついた手を念入りに洗うと食器棚から少し深さのある皿を出して、その中に卵を割って塩を振りかける。ゆで卵でも良かったが、殻付きの卵を電子レンジで温めると爆発してしまう。それくらいは普段料理をしない俺でも知っているのだと、どこか得意な気分で皿の上にラップフィルムを張ると電子レンジへ投入した。
 時間は一分半くらいで良いだろうか。生焼けだった場合は追加で加熱すれば良い。出力と時間を設定して「スタート」と書かれている釦を押す。
 作動したのを確認し、この間に殻を片付けてしまおうと手を動かす。生ものを纏める塵紙があった筈だが、どこに……周囲を探していると、突然小さな爆発音がした。
 音がしたのはかなり至近距離、一体何だ。まさか敵襲?そう思うが先か、背後を守るように壁際へ飛び退いて厨の中を見渡す。しかし電子レンジが動いているばかりで、他に気配は感じられない。まさか時限爆弾? だが、気配どころか破壊された箇所もまったくない。
 聞き間違いかと一瞬考えたが、鳥と自分しか起きていない静かな時間帯に何と間違えるのか。ゆっくりと息を吐きながら思考を落ち着かせる。
 すると電子レンジが終了を知らせる電子音を上げたので、釣られて視線がそちらへ向かう。
「……?」
 電子レンジの中が何かおかしい気がする。緊張する体はそのまま、目を少し細めて電子レンジを注視する。
 薄らと見える電子レンジの中がやけに汚く見える。皿を入れた時も、作動させた時もあんなに汚れていなかった筈だが見れば見る程記憶する様子と違うことに違和感を覚えて、確認のために近付いていく。そしてはっきり電子レンジの中が見える距離まで来ると、先程とはまた違う緊張に体が強張った。
 卵が原型を無くし飛び散っている。もしや爆発音は卵から? 爆発するのは殻付きの卵だっただろう。
 電子レンジの扉を開け改めて中を確認する。皿に張ったラップフィルムは破れ、白と黄のものが散り散りになっている。まさに卵が爆発したとわかる惨事に、俺は安堵と落胆に座り込んでしまった。
 結局夜食は諦め、電子レンジを片付けた俺は一睡もせず朝を迎えた。お陰で空腹は限界で、普段はあまりしない料理番の手伝いをしていち早く朝食にありつこうとする始末だ。
 俺は調理を進める料理番の横、皿を用意しながら明け方の顛末を話す。
「電子レンジで卵を熱するのは殻が付いてなくても危ないですよ」
 料理番のひと振りである堀川が皿に厚切りベーコンを盛りながらそう言うと、周囲の者も同意とばかりに頷く。
「そう、なのか?」
「はい。もしも電子レンジで卵を温めるなら、溶き解した卵が安全です」
「覚えておこう」
「それにしても大丈夫だったかい長谷部君、卵が爆発して火傷した事故も過去にあったそうだよ」
 心配そうに伺ってくる料理番の燭台切に、問題ないと軽く手を広げる。
「幸いにも爆発は電子レンジ内で済んだ。俺に外傷はない」
「それなら良かった。いくら僕等は人間より丈夫だといっても痛いものは痛いからね」
 確かに、火傷は回避出来て良かった。空腹でただでさえ良い気持ちではないところに負傷など、想像するだけで惨めな気分になってくる。
 ああ、徹夜のせいか気分の落ち込みが早い気がする。今日は馬当番のみで出陣はないから、夕餉が終わったら早々に寝てしまおう。人間とは体が不調だとどうにも気持ちがそちらに引っ張られて不調になるのが困りものだ。
 主を支えるには適した姿であるのは承知ながら、こういうところは不便だと内心嘆いていると、出汁の利いた良い匂いに意識が持って行かれる。そうだ、俺がこうして手伝いをしているのは朝餉が待ちきれなかったためだ。今は嘆くより空腹を満たすのを優先しよう。
 匂いに釣られて視線を移すと、皿には赤と黄の鮮やかな色合いが並んでいた。
「赤茄子と卵の炒め物か」
「赤茄子って生で食べることが多いですけど、炒めて中華系の調味料で味付けすると美味しいんです。あとは盛るだけなので長谷部さんが食べる分持って行って良いですよ」
 お腹空いてますよね? 笑顔で食事を促す堀川に礼を述べ、遠慮無く米飯と味噌汁を用意すると副食と共にお盆へ乗せて食堂へ移動する。本丸内に多くの声が行き交うが、食堂には誰もいない。滅多に無いひと振りでの朝餉に、言い様のない新鮮味を覚えて落ちていた気分が上がるようだ。
 落ちるのも早ければ上がるのも早いものか。
 いただきます。と手を合わせ、待ちに待った食物を頬張る。いつも料理番の作るものは美味いが、今日はより美味しく感じてしまう。まさに空腹に勝る調味料は無しだ。
 出来立ての料理はそのまま食べるには熱いものもあるというのに、俺は食欲に任せて躊躇いなく口に放り込んでしまう。だが、熱いものは熱くて、はふはふと口内へ空気を送って熱を冷まそうとする。
 しまった、食べることばかりに頭が行っていたので飲み物を持ってこなかった。飲み水があればこの熱を誤魔化せるのに。
 熱さに耐えるよう口元を押さえていると、場を読んだよう目の前にどかりと水が入った洋盃が置かれた。
 こいつは助かる。一体誰が持ってきてくれたんだと、早速水を口にしながら視線を上げるとそこには三名槍が揃って立っていた。そしてあろうことかこちらを見下ろしていた日本号と目が合ってしまい、驚きに水を吹き出しそうになる。
 そんな俺の動揺を知ってか知らずか、三槍は食卓を挟んで向かい側に座る。
 まさかこんな場面で会うなんて。
「お早う御座います長谷部殿」
「……、…お早う、蜻蛉切」
「早いなあ長谷部、今朝は俺達が一番乗りかと思ったのによ」
「まあ、今朝は色々あってな」
「ほぉ、色々ねえ」
 日本号の眼差しが何か言いたげに細められる。色々とは説明する程ではないことだ。追求するなと言う代わりに、日本号から視線を外して水を一気飲みする。用意されたばかりなのか冷たい水は熱い口内をすっかり冷やしてくれて密かにほっとする。
「ところで、水をくれたのは蜻蛉切か。ありがとう」
 三槍の中で一番気が利くのは蜻蛉切だ。だから俺に水を渡してくれたのは蜻蛉切だと考えたのだが、当の蜻蛉切は否定する。
「水を渡したのは日本号だ。礼ならば彼にしてくれないか」
 よりによって日本号か。蜻蛉切に礼を述べた手前、奴に礼を言わない訳にはいかない。だが、先程の眼差しを思い出すと言い出しにくく、黙る理由作りに米飯を口一杯に頬張る。
「おいおいお前さん、さっき口に沢山入れ過ぎて焦っていたばかりだろ」
「……むぐ、」
 あんな眼差し向けながらこちらの事情を把握していたのか。水をくれたのは助かったが、見透かされているようでどうにも面白くない。
 時間を掛けてよく咀嚼して飲み込む。
「礼は言っておく」
「応よ」
 無愛想な返事に怯む様子はない。そんな可愛らしい性分ではないかと、頭の天辺でひょこひょこと揺れる黒髪ばかりが可愛らしい大槍を睨み上げる。あの髪の下は全部可愛くない。きっと水を渡した時だって憎らしいことを思っていたのだろう。
 寝不足で不安定な思考は日本号への八つ当たりを開始する。しかし、そんな思考の最中でも最低限の理性は残っているのか、言葉として出ることは無い。
 それにしてもどんなに寝不足で不機嫌でも、美味いものは美味いものだな。炒め物を食べて、脂で照ったベーコンに齧り付いて、その塩味で米飯を食べて、口直しに味噌汁を飲む。昼や夕と比べてしまうと簡素な献立だが、朝からこれだけ食べられると満足度は十分だ。日本号を睨み付けていた目は次第に食事へ集中し、不安定な思考も食事のことで占められてゆく。
 夜食は残念だったがこれで帳消しだな。そんな上機嫌なことまで思っていると、殆ど空になっていた皿の上にベーコンが乗せられた。それを乗せたのは向かいに座る日本号で、奴への八つ当たりの念が失せた俺は睨み付けるのも忘れてじっと見つめてしまう。
「……今日はよく食べると思ってな。腹が減ってそうだから、そいつ、やるよ」
 水を貰った時と違い、日本号から先に視線を逸らされる。どこかぎこちない様子もあった気がするが、今の俺にとっては目の前の食事に集中するのが第一だ。やる。というなら遠慮無く貰おう。
 日本号から貰ったベーコンを食べると、何故か日本号の隣で食べていた御手杵が声を上げる。
「なあなあ日ノ本、ベーコン食べないなら俺にも一切れくれよぉ」
「もっと欲しいんなら料理番へ頼め。残ってんのは全部俺が食う分だ」
「長谷部ばっかずるいって」
「まあまあ御手杵」
 賑やかに食事をする三槍に、俺は黙々とベーコンを咀嚼する。寝不足で食欲が満たされ始めてぼんやりした思考はただただ朝餉の美味しさを堪能するばかりで、彼等のやり取りまではよく咀嚼することが出来なかった。

 内番を終えると風呂と夕餉を早々に済ませた俺は自室に布団を敷いて寝転がる。昼間に少しカフェイン飲料を摂取したが、夜にもなれば抗えない眠りが襲ってくる。布団は自身の体温でどんどん温くなり、その心地良さに溺れそうになる。
 明け方近くまで纏めていた書類は昼間添削してもらい、今日の内に提出された。先方から特に連絡がないのでこのまま寝てしまっても大丈夫だと、意識がどんどん眠りの淵へと沈んでゆく。
 体が眠りの体勢になっていたのか、浮遊感のようなものを覚えていると、聞き慣れた通知音が聞こえたような気がした。
「……はいしん…?」
 今は夜で、そんな時間帯に通知が来るものとなると大概は日本号の配信だ。普段配信を見るのに使っているタブレット端末は遠い位置にあるので、枕近くに置いてあった通信端末から配信アプリを起動する。
 眠気でぼんやりする視界にいつもの動画プレイヤーが確認できる。そして視界同様ぼんやりする耳に、日本号と博多の声が聞こえてきた。予想した通り、日本号の配信だったようだ。
 今日はもうやることがないのだし、のんびり配信を楽しむか。そう思うのに眠気が瞼を重くする。
『――……うは、玉子ふわふわを作る』
『ふわふわ玉子じゃなかとー?』
『ふわふわが先じゃねえ。玉子ふわふわだ』
 ふわふわが先か玉子が先か。そんな重要なことなのか。日本号と博多が『ふわふわ』と連呼するのが、ふわふわし始めた頭ではどうにも面白くて、思わず「ふふ」と笑ってしまう。普段なら笑ってしまった時は口を押さえてしまうところだが、今はそんな余裕も無く、口がにやにやしてしまう。
『変な名前だがちゃんとしたりょう……、……浦島から教えてもらったんだ』
 浦島とは、まさか浦島太郎ってことはないだろうし浦島虎徹か。
 ふわふわした頭で必死で考えながら、閉じそうになる瞼をこじ開ける……が、呆気なく閉じてしまう。耳には辛うじて日本号と博多の声が届いているが、二振りのやり取りの穏やかなこと、眠気を誘う効力を覚える。
『この玉子ふわふわだが……』
 またふわふわ言っている。博多なら未だしも日本号はふわふわと縁遠そうなのにな。一体このふわふわ玉子とはどんな料理なのだろう。
 興味はある。だが、それ以上に眠気がある俺はふわふわした日本号の声を聞きながら眠りに落ちてしまった。

◆◆◆

 
 ここひと月、厨が空いている時は調理練習をするようになった。きっかけは電子レンジで卵を爆発させてしまったことだ。あれから料理番と話した結果、どうやら俺には料理に対する基本的な知識が足りないということを知ったのだ。
 日本号の料理配信を見つけたのも、元はといえば主のために酒の肴を作れるようになりたいと色んな料理配信を見ていった末である。どうして本来の目的を忘れてしまったのか、いつの間にか視聴者として配信を楽しんでしまっていた。
 これはいけない。いきなり主に料理を振る舞う場面を迎えたらどうする。出来ませんと引き下がるつもりはないし、かといって下手なものを出して主に不快な思いをさせるつもりもない。いつかのために、俺は料理の腕を磨かなければ。そんな意気込みで練習をしているのだが……最近思わぬ悩み事に躓きを覚えていた。

 朝餉を終えて暫く経った厨。片付けを終えた料理番は解散し、食堂の方を確認してものんびり食事を続けている男士の姿も居ない。厨が空いていれば食堂に誰が居ても構わないのだが、なんとなく気になっただけだ。決して調理している様子を誰かにも見られたくないとか、そのような小さな理由ではない。
 さて、今日は何を作るか。夕に出す海老と小松菜以外は好きに使って良いと料理番から確認している。一体何があるか、相変わらず食料が沢山詰まった冷蔵庫を覗き込む。
 手前には下拵えされた海老が大量にあり、それをうまいこと寄せながら中を探っていく。お、油揚げと豆腐が出てきた。これは使えそうだ。あとは朝に出た小松菜の煮浸しの残りに、少量ながら加工肉や練り物もある。下の方に魚が数匹あるのが見えたが、魚の捌き方はよくわからないから触れないでおこう。
 その後一通り食料庫を確認し、使えそうな葉物や根菜、卵を多く見つけたところで自然と口から唸り声が出た。
 調理練習を始めて暫く、作るものを決めてから自分で食材を購入していた。しかし俺が自由に使える金銭は有限だ。実費で食材を用意して練習を継続していくのは無理があったため、最近は料理番に確認した上で厨の食材を使うようになった。そうなると金銭の心配は解消されたのだが、食材を見てから作る料理を考えなければいけなくなったのだ。
 油揚げと豆腐を見つけた時点で味噌汁を作ろうかと考えたのだが、味噌汁は既に何度も作ってきたのでできるだけ違うものを作りたいところだ。これが食事のための料理なら味噌汁で十分なのだが、練習を踏まえるとなると難しいものだ。
 頭を捻っても「これ」と思う料理が浮かばず食料庫の前で悩んでいると、誰かが厨へ入ってくる気配がして、そちらへ反射的に振り向く。
「厨に長谷部とは珍しい顔だな」
 投げかけられた一言に思わず口が歪むのを覚えながら、振り向いた先にいる男士に気付かれないよう咳払いをする。
「それはこちらの台詞だ。ここに何の用だ日本号」
 開放されている厨に誰が来ようとも構わない。だが、無数にいる男士の中で日本号が来るのはどうなのか。運命の悪戯と洒落たことも一瞬考えたが、悪戯で片付けるには居心地の悪い予感を覚える。
 そんな俺の様子に気付かないのか、日本号はこちらへ近付いてくる。
「何って昼餉の準備だ。お前さんもそれでここにいるんじゃないのか」
 時間としては少し早い昼餉にしても良い頃、午後から出陣を予定している場合などはこの時間帯に軽く食べるのが丁度良いくらいだ。昼餉作りに厨を利用しても何らおかしくない状況に暫し考える。
「いや、飲み物を取りにきただけだ」
「そうか」
 昼餉を作りにきたという日本号。そこで俺も料理をしにきたと素直に答えれば、一緒に作る流れになる可能性がある。作り手が多い方が作業分担できるし、実際に厨に居合わせた者達で食事を拵えることは多い。
 素っ気ない返答の日本号を尻目に、棚から薬缶を出して湯を沸かし始める。
 早いところ口実通り飲み物を用意して退散しよう。黙々と湯呑や珈琲粉を取り出していると、視線の端に冷蔵庫から油揚げと豆腐を取り出している日本号が見える。
「……ちなみに、何を作るつもりだ」
 そんな疑問を思うと同時に声に出てしまい、半ば無意識に動いた口を押さえる。だが、日本号にはしっかりと聞こえたようで、食料庫から青菜を取り出してそれを見せつけてきた。
「今日は豆腐と高菜があるからまんばのけんちゃんを作る」
「まんばと、けんちゃん……?」
 まんばといえば、他本丸の審神者が山姥切を「まんばちゃん」という愛称で呼ぶことは知っているが、多分に日本号が言う「まんば」はそれではないだろう。だが、まんばに続く「けんちゃん」とは……人間の愛称として聞いたことがあるが、まんばと同様にそのような意味ではない筈だ。そもそも日本号はどんなものを作るか答えたのだから、料理名を言ったに違いない。かといって、名前からはどのような料理か想像出来ず、俺は名前を呟いたきり閉口してしまう。そんな様子を見た日本号は、察したように俺からも見やすいように食材を並べて説明し始める。
「まんばとは高菜の一種、けんちゃんとはけんちんが訛ったもんだ」
「けんちんとは、けんちん汁のけんちんか?」
 けんちんと聞いて真っ先に思いついた料理を述べると、今度は曖昧にするよう首を傾げる。
「断言はできねえが多分そうだろう。野菜の油炒めに豆腐を加えて煮込んだり、更に炒めたものをけんちんと呼ぶしな」
 なるほど、そのような料理があるのか。すらすらと説明してくれる様子に、そんなものよく知っているなと素直に感心してしまっては何だか面白くない気持ちが湧き上がってくる。別に自分より少しばかり日本号の方が料理に詳しくても、何があるでもないというのに。
 我ながらこんな些細なことを気にするなんて大人げないなと微かに自戒の念を覚えていると、不意に薬缶が沸騰するのを知らせるようかたかたと蓋を揺らす。
「おっとぉ」
 俺が手を伸ばすより先に、日本号が薬缶の火を止める。しゅん、と穏やかに注ぎ口から湯気を出す薬缶にほっと息を吐く。そんな俺を気に留めることなく、手を洗った日本号は豆腐をキッチンペーパーに包んだりと下準備をしていく。
 こちらへ関心の薄い反応に安堵しては、薬缶の湯を湯呑に注ぎながら日本号の様子を盗み見る。早いところ厨から退散するべきと思いつつ、調理練習を目的としていた俺としては日本号がどんな風に料理をするのか気になったのだ。
 料理をする日本号といえば配信で見る日本号なのだが、うちの日本号はどうなのか。多少にも料理を嗜むことは知っているが、これまで直接その腕前を見たことがなかった。要は日本号が料理をすることに興味を持ってしまったのだ。
 しかし、こちらが興味を持っているのは悟られたくなかったので、あくまでもさり気なく湯呑の珈琲に一口、二口とちびちび飲みながら日本号の手元を覗き見る。
 いつの間にか水がたっぷり入った大きめの鍋が火にかけられており、それを確認している間にも日本号はボウルに大量の冷水を入れていく。そして粉末の和風出汁を水に溶いたり調味料と煮干しが小皿へ用意される様子に、俺が見ても料理初心者ではないとわかった。俺もそこそこ調理に慣れてきたと思っていたが、今の日本号のように空き時間でこのように次の準備ができるだろうか。
 そんな事を考えている内にふつふつと鍋の水が沸騰しており、日本号の手がさっと高菜を投入する。
 日本号の話し振りだと高菜は炒める筈だが茹でてしまうのか。高菜の調理法はよく知らないが、茹でるということは灰汁抜きが必要な食材なのかもしれない。後で調べてみるか。
 ふむふむと興味深く眺めていると、不意に何かが脇を小突いてきた。一体なんだと確認すると、それは日本号の肘だと知って後退る。
「なあに見てんだ」
 言いながらにやりと笑う日本号に仕返しとばかりに脇に肘を入れたが、湯呑の珈琲を溢さないように注意しながら動いたせいか肘は日本号を少し掠める程度となってしまう。
「近くに熱湯があるのに危ねえじゃねえか」
「俺だって熱い飲み物を持っているんだが」
 手元の珈琲はまだ湯気が立っている。火傷する程ではないにしても熱いだろう。決して嘘ではないことを返せば、にやりと上向いていた日本号の口角は一気に下がってしまった。
「……まあ、これから高菜を湯から上げるから手ぇ出すなよ」
 少しは己の不注意を反省したのか。そう思える奴の変化にひっそりと笑う。そんな俺に気付いていない日本号は湯がいた高菜を冷水へ移し、鍋の熱湯を流しに捨てると流水とスポンジでそれを濯ぐ。そして鍋底の水気を布巾で拭うと、再びそれを火にかけた。
「もう少ししっかり洗ってはどうだ」
「すぐに灰汁を流すなら濯ぐくらいで大丈夫だ」
 言いながら日本号は冷水に浸していた高菜を取り出すと、力強く握りしめて水気を切る。そうしてしんなりした高菜をまな板に並べると、とんとんと軽快な音を立てて細切りにしていった。
 高菜に添えられた奴の指先はいかついながらも無骨さはなく器用に動いてゆく。それは美しささえあり、浮かんでいた笑みが引っ込んだ。
 少し距離を取りつつ日本号を眺める。瞬く間に高菜は全て細切りされたかと思うと、油揚げも同様に処理されてゆく。食材を同じ大きさで切るのが良いと料理の指南書で書いていたが、こうして日本号が実際にやっているのを見ると不思議な心地だ。
 食材が切り分けられる内に鍋が十分に熱されたのか、中に油が敷かれると煮干しが投入される。
「煮干しを炒めるのか?」
 再び疑問が口から出てしまいはっとしたものの、今度は誤魔化すことはせずに日本号の隣へ移動する。料理を始めるまではこの場を去ることを考えていたというのに、今では調理の様子が気になって仕方がない。
 煮干しを炒めるのだって、料理の指南書でも見なかったものだ。興味が惹かれるというものである。
「この煮干しは良い出汁が出るが、具材としても良くてな。炒めることで香ばしさが出る」
「ほう」
「煮干しが十分に炒められたら高菜を入れる」
「油揚げは入れないのか?」
「一緒に入れちまうと鍋に敷いた油を油揚げが吸っちまう。先に高菜を油でしっかり炒めてから油揚げを入れるのがいい」
「なるほど」
 料理には変えると良くない手順があるというが、この料理の場合はここなのだろう。なるほどと言いつつ、どう仕上がりが変わってくるのかわからない俺は次はどうなるのか静観する。
 僅かに色合いが変わった高菜に油揚げが投入されると、菜箸で鍋をかき回していた日本号が俺を呼ぶ。
「なんだ。もう何も言っていないし、何もしていないだろう」
 料理している様を眺めてはいるが、眺めるのさえ文句があるのかこいつは。そんな思いに眉間に皺が寄るのがわかる。
「何言ってんだお前さん……近くにいるから頼みたいんだが、水切りしていた豆腐を千切って鍋に入れてくれないか」
 まさかの頼み事に目を丸くすると、日本号は急かすように再度俺を呼ぶ。
 豆腐を千切って入れるくらい、これまでの手際の良さを見ると容易いと思うのだが、借りられそうなものは片っ端から借りようということなのか。何故俺がこいつを手伝わなければならないのか。そんな不満もあったが、断って狭量な奴だと思われるのも癪だ。湯呑を置いて手を洗うとキッチンペーパーから豆腐を取り出す。
「助かるぜ」
「豆腐の大きさはどれくらいだ」
「適当で良い。炒っている間に食べやすい大きさになる」
「適当は困る」
「そんなものかね」
 今の日本号の指示もそうだが、料理における「適当」「適量」という表現が一番困る。これが料理の指南書に出てきた時には、適量がわからないから指南書を見ているんだと不満を持ったものだった。料理とはこのようにいい加減なものなのか? そんなことを考えながら、ちょい呑み配信の日本号も時折目分量で調味料を投入することがあったと思い出す。配信も、隣にいる奴も日本号であるが、果たしてこのいい加減さは日本号特有のものなのか、それとも料理がそういうものなのか。どちらにしても今の俺にとってはもう少しわかりやすいようにしてほしいと思いながら、ぶちぶちと一口大に豆腐を千切っては鍋へ放り込む。
「文句言いながら上手いことやるじゃねえか」
 こんなことで褒められてもな。まだまだ練習中だが、料理の心得くらい少しは知っているのだ。
 料理の指示が適当ならば褒めるのも適当か。調子の良いものだと思っている内にまんばのけんちゃんが完成する。
 鍋から大皿に移される瞬間、湯気と共に油揚げと出汁の美味そうな匂いが立ち上がる。日本号に思うことはあれど食べ物には罪はないといったところか、食欲をそそる匂いに溜め息が出る。まんばのけんちゃんは知らなかったが、この匂いは確実に美味しいものだ。
 これは良い料理を知った。調理の様子を見るに真似できない程の高度な手法は使われていない。後で指南書を探そうと計画していると、日本号が目の前に小鉢が差し出してきた。それは普段の食卓でもよく出されるもので、見慣れた食器のひとつである。その筈なのだが、奴の大きな手に収まってしまうとお猪口のような別の器に見えてくる。
 俺よりも刃長のある本身を振るう肉体となれば、これくらいの大きな手が必要なのか。並べて比べなくともわかる日本号の手の大きさに内心動揺にも似た心地を覚えていると、小鉢の中にまんばのけんちゃんが盛られていることに気付く。
 手の大きさに気を取られていたが、どうやらこれを俺に見せるのが目的のようだ。
「なんだ」
「味見してくれ。他の奴の反応も確認したい」
「味見とは……別に俺じゃなくても良いだろう」
「ああ。味見してくれるならあんたじゃなくても良いがちょっとくらい良いだろう?」
 日本号からすれば遠くにいる誰かより、すぐ近くにいる俺へ味見を依頼する方が楽だ。それくらいは容易く考えられて、大した理由もなく断るのも大人げないと小鉢を受け取る。俺の掌に乗る小鉢はどこからどう見てもよくある大きさの小鉢で、先程の珍妙な光景が嘘だったのではないかと己の視覚を疑いかけては、そんなわけがあるかと内心突っ込みながら味見をする。
 少し冷めてしまった具は風味を損なうことなく、咀嚼する度にじわりと旨みを感じる。そしてもうひと口、ふた口と食べて、米飯が欲しくなったところで小鉢は空になってしまった。
 空腹ではなかったがもう少し食べたかったなんて思っていると、日本号が控えめにこちらを覗き込んでくる。釣られて視線を上げると目が合ってしまい、即座に小鉢へ視線を落とした。
 そうだ、今は味見をしているところであった。食べてそれで終いとはいかない。
 不意に視線が合ったことに少しばかり動揺しつつ、俺は感想のために言葉をまとめる。
「…………あるもので作ったにしては、悪くないのではないか」
 暫しの沈黙の後、言えたのはそれだけだった。こういう感想を述べることに不慣れであるが、ただ『美味しかった』と言えば良かったと、後悔が顔を覗かせる。
 そう。感想としては美味しかったのだ。味見なのだから難しいことは言わずに美味い不味いで答えれば良いのに、何となく素直に言いにくくて『悪くない』と捻って答えてしまった。
 流石にこの返答は日本号も苦笑ものだろう。もしくはいつか見た「への字」口をして不快を顔に出しているか……まあ、そんなことは今に始まったものではない。これまでだって似たような場面があっただろう。何を気にすることがある。
 半ば投げやりな気分になってくる。こいつは荒れない内に厨を出ようと顔を上げると、再び日本号と視線が合う。
 その瞬間、首の後ろから背中にかけて何かが触れたようにざわりとした。
「悪くないってか……へへ、そいつは良かった」
 視線が合った日本号は笑っていた。それも苦笑ではなく、はにかむような、どことなく恥ずかしげな気持ちを滲ませた柔らかな笑みだった。
 少なくとも悪い印象を持った笑みではないのは投げやりな心情の俺でもわかり、耳の裏が晒されたように冷えてくる。
 良かったってなんだ、普通は美味いと言われて喜ぶだろう。そう。普通は、普通はそうなのに、何故あのような捻くれた感想でそんな笑顔を見せるんだ。
 疑問と共に汗が噴き出るような奇妙な心地がして、居たたまれなくなった俺は小鉢を日本号に押しつけると、文字通り厨を飛び出した。厨を出る時に日本号がまた何か言ってきた気がするが、そんなものに構う程の余裕はない。
 兎に角ここから離れて気持ちを落ち着かせたい。その一心で自室までの道のりを走り抜ける。普段は廊下を走るなと他の男士に注意する俺だが、今は走ることを許してほしい。
 そんな願いがどこかに届いたのか、誰とも擦れ違うことなく自室へ到着した。
「……はあ、」
 戦闘に特化した刀剣男士のひと振り、厨から自室まで全力で走っても息が切れない程度の体力はある。それなのに胸がどくどくと高鳴って止まなく、胸を押さえながら床へ座り込んでしまった。

 厨での出来事から数時間、俺は未だ調子が出ずに夕餉もそこそこに自室へ引っ込んでしまった。夕餉には滅多に食べられないいちご汁が出ていたというのに、十分に味わうことができなかった。それのこれも日本号がおかしな場面で笑ったせいだ。全く何が良かったんだ、あいつにとって何も良いことなんてなかったじゃないか。わけがわからなくて調子が狂う。
 だから俺が動揺してしまったのだと憤慨していると、タブレット端末が日本号の配信を知らせる。
「……」
 いつもなら間髪入れず配信を観始めるのだが、今日ばかりはタブレットに手が伸びない。
 流石に今の心境で日本号の姿を見るのは控えたかった。他本丸の日本号であっても日本号は日本号だ、見たら確実に厨でのことを思い出してしまう。
 なんで、俺を見ながら笑ったんだあいつ。
 味見の感想に対しての一言だけでなく、あの笑顔が記憶にこびり付いて離れない。合戦場で豪快に本身を振るう時も、他の男士と一緒に話している時も、あんな笑顔を見たことがない。日本号の「良かった」という言葉をそのまま表出したものなのだろうが、それ以外にも何か理由が潜んでいる気がして落ち着かない。
 視界の端、タブレットがちかちかと光って通知が来ていることを主張している。全く、今日のことがなければ普段通りに配信を観て、日本号と博多のやり取りを楽しめたというのに。
 そう思うとそわそわした気持ちに苛立ちが混じり、俺は記憶の中ではにかむ日本号に恨めしい気持ちを募らせていくのだった。

◆◆◆

 早朝の遠征を終えて朝餉もそこそこに、一息ついた俺は自室の文机に向かう。机上にはタブレット端末が置かれており、画面には動画プレイヤーが表示されている。再生されているのは日本号の料理配信で、昨晩のアーカイブ動画であった。
『どうも。今夜も日本号のちょい呑み配信、付き合ってくれよ』
 落ち着いた低い声はいつも配信で聞くもの。それなのに、配信とは違う「日本号」がちらつくようになったのはいつからだろうか。そんな自問をしていると日本号と博多のやり取りが始まってほっと息を吐く。
 いつからなんてわかっている。ちらつくのは厨で見た日本号の笑顔なのだから。あの笑顔にどんな意図があったのか。件のことから間もなくひと月を迎えようとしているのだが未だに思い当たることがない。そこまで引き摺っているなら日本号へ聞けば良いだろうと考えもしたが、率直に「なんであの時笑ったんだ」と聞くわけにもいかない。俺が勝手に気にしているだけで、別にあの場面で日本号が笑っても何ら悪いことはないのだから。
 俺が意図があると思っているだけで、きっとあの笑顔に深い意味はない。
 そう言い聞かせながら、俺は配信へ集中することにする。映像では既に食材が並べられており、里芋と胡桃がごろりと転がっている。
『今夜はこれらの食材を使った里芋の共和えを作る』
『俺からまず質問ばい。ともあえは魚介で作るもんじゃなかと?』
『よく出回ってる共和えは魚介だが、別にそれに限定したもんじゃあない。共和えとは和えるものと和え衣に同じ食材を使ったものを指す。魚介類の共和えも同じ食材から作られるだろう?』
『やけん「共」和え呼ぶんやね』
『今日使う里芋の数は二十個、五、六個は和え衣として使用する』
 共和えといえば昨年の冬に食べた鮟鱇の共和えを思い出す。季節の珍味だから欲張らずに少しずつ食べるようにと、歌仙が何度も皆に注意したが、あっという間になくなってしまったものだった。米飯のおかずに数口食べた程度だったが、あれは油断すると際限なく食べられる一品だった。
『まずはよく洗った里芋を半分に切り、二十分程蒸し器で蒸す。蒸し器がないなら電子レンジで十五分熱してから、三、四分程蒸すと良い。目安は竹串や箸などで刺して突き通せるくらいだな』
『今日の差し替えはここばい! 里芋蒸すんは時間かかるけんねぇ』
 並べられていた里芋が隅へ寄せられ、入れ替わりに耐熱皿に入った里芋が映される。日本号はそれらを手にすると、硬そうな皮を手早く向いてゆく。相変わらず器用なものだと感心していると手元が狂ったのか、皮と一緒に中身を潰してしまう。
 これは珍しい。日本号も失敗をするのか。
『おっと、加減を間違えた。潰れたこいつは和え衣にするか……里芋の皮を全て剥いたら和え衣を作る。ここで胡桃の出番、こいつをフライパンで二、三分炒る』
 既に硬い殻を剥かれていた胡桃がフライパンに投入される。
『この和え衣には五個の胡桃を使っているが、胡桃好きな奴はもう少し多くても良いかもな』
『胡桃といえばみんなに聞いてほしかことやけど、おいしゃんが胡桃一キロも買うたばい! 一キロって百二十個くらいあるっちゃけど、無計画やと思わん?』
 博多の声がどことなく不機嫌な響きを含む。画面では確認できないが、話の内容からして拗ねているのだろうか。
 想像しては微笑ましくなりつつ、拗ねている博多の目の前に百を越える胡桃が並んでいると思うと、口元が真一文字になる。それほど多い数の胡桃を見たことはないが、日本号だけで消費は困難であることくらい容易にわかる。そうなると浪費に目敏い博多からすれば、文句も言いたくなるのだろう。
『そうは言うがね、一キロで八百円だったんだぞ。それに、これくらいは本丸の連中に配ればあっという間に無くなる。良い買い物だと思うぜ』
『本丸の連中って、そげんいい加減な……』
『近い内に長船の奴等と一緒に赤すぐりと胡桃のケーキを作るんだが、粟田口の分も作ったらそれだけでも結構使うと思わないか?』
 画面が少し揺れ、僅かに上の方を映す。すると日本号の顔が見え、こちらをじっと見下ろしてきかたと思えばにやりと笑った。
 この笑顔は撮影者である博多に向けている。そうはわかっているが、細められた眼差しが真っ直ぐに向けられていることに背筋がざわざわと落ち着かなくなってくる。
 そんな自身の反応に固まっていると、動画横に高速で流れる視聴者のコメントが目に付いた。その多くは笑顔に反応するもので、一瞬にして体の強張りが解ける。
 なんだ。俺だけが異様に反応しているわけではないようだ。別に、ここで動揺してしまうのはおかしいことではなく普通のことだ。別に。別に、俺だけがおかしかったわけではない。
『……ひと振り、最低二個は欲しか』
『了解。さて、胡桃を炒ったら次はこいつをすり鉢で粗めに潰していく』
 すり鉢でごりごりと音を立ててt胡桃が潰されていく。そうしてある程度胡桃が砕かれたところへ味噌などの調味料が投入されて里芋が続く。
『俺はこのまますりこぎ棒で混ぜるが、胡桃を粗めに残したいなら匙で里芋を潰しながら混ぜるといい』
 手早く、そして満遍なく擦り潰された和え衣に残りの里芋が加えられる。里芋の和え物は食べたことがないが、香ばしく歯応えのある胡桃と味噌の組み合わせだけで美味いのは保証されている。
 小鉢に盛られると、画面真ん中に見栄え良く置かれる。
『里芋は今が良く出回る上に美味い時期だ。良ければお試しあれ』
 挨拶もそこそこに動画が終了し、仄かに覚えた充実感に弛んだ頬を撫でる。動画視聴中に自身の挙動が怪しいところもあったが、そんなことは大変不本意ながらこれまでもあったことだ。
 なんだ。思っていたほど大丈夫ではないか。何をあんなに気にしていたんだ。そんな、安堵のような気持ちを抱きながらタブレットを仕舞っていると、部屋の外から俺の名前を呼ぶ声が聴こえた。
 その声に、全身に緊張が走る。
 返事をひとつ戸を開けるとこちらをじっと見下ろす眼差しとぶつかる。その目は自分と同じ色をしており、先程まで弛んでいた頬が限界まで引き締まるようだった。
「俺についてこい」
「……来て早々最低限の要望だけ言うのはどうなんだ日光」
 俺の一言にまったく表情を動かさないのは日光一文字という、夏真っ盛りの時期に顕現されたばかりの太刀だ。南泉と山鳥毛に続いて顕現された福岡一文字のひと振り、そして北条から黒田へ贈られた宝刀として有名な奴である。
 そんな日光は黒田家宝刀としての性質をしっかりと持っており、俺を「弟分」と称しては今のようにちょっかいをかけてくることがあった。
「それもそうだな。これからお頭が本丸の者達に菓子を振る舞うので、できるだけ多くの働き手が欲しいのだ」
「それで、俺へ声をかけたと」
「ああ。手伝ってくれたならお頭から褒美もある。決して悪い話ではなかろう」
 無数の刀剣男士がいる中で、どうして俺が働き手に選ばれたのか。それは日光にとってへし切長谷部とは「弟分」だからに違いない。それはこちらが一切黒田の話を口にせずとも揺るぎが無いもので、厨の日本号と共に俺を悩ませるものだった。
 ここは断るのが得策と思いつつ、そんなことでは日光との関わりが半減しない事実と、奴の隣に並ぶ山鳥毛の姿が過る。日光とは極力関わりたくないが、奴を動かすのはあの山鳥毛だ。一派の長と疑う余地を周囲に与えない程の優れた刀剣の存在を考えると自分の中の良心が疼いてしまう。決して山鳥毛に良い顔をしたいわけではない、それに俺が断るくらいで然程支障が出るとも思えない。だが、日光と関わりたくないというだけで断るのも何か違うような気がしてくる。
「山鳥毛が人手を要しているというなら手伝おう」
 黒田のひと振りではなく、あくまでも本丸に住まう仲間として手伝うのだ。それ以外の理由はない。
「どこに行けば良い。菓子というなら厨か?」
「厨は厨でも、太郎太刀次郎太刀の部屋に併設されている厨だ。そこを借りて餅を拵えている」
「……大太刀の部屋に厨があるのか」
「ああ」
 そいつは初耳だが、主に交渉して自室を改築するのは禁止されていることではない。俺が知る限りでも大部屋の壁を取り壊して更に規模を拡げた大部屋を作った粟田口や、天井を高くしてロフトを拵えた三池もいるのだ。たまたま俺が知らなかったことなのだろう。
 太郎次郎の部屋の場所は覚えている。ここから少し離れたところにある、槍や薙刀といった大柄な男士向けの部屋が並ぶ内の一室だ。
 日光の横をすり抜けて早速部屋へ向かう。日光に誘われたからではなく、あくまでも自分の意志で山鳥毛のところへ向かっているのだ。
 時折すれ違う男士達へ挨拶をしながら歩く内、自室より高い位置に鴨居がある部屋が目立ってくる。この辺りの部屋は長身に合わせた作りになっているのかと感心していると、どこからか機械音が聞こえてきた。
 これは……なんだ? ただの機械音ではない、違う音が入り交じっているようだが……。
 思わず立ち止まると、後ろを歩いていた日光に追い抜かれてしまう。
「大太刀の厨はこちらだ。ついてこい」
 迷ったわけではないと反論する間もなく日光がとある一室へ入ってしまう。そこは目的地である太郎次郎の部屋で、結局日光に続く形となってしまった。
 大太刀が二振りいても余裕がある室内に、割烹着姿の山鳥毛と南泉が出迎えてくれる。傍らには掌大の餅が無数に並べられており、具体的な数は一見するだけではわからないが、この本丸に住まう刀剣男士全てに配れる程はありそうだ。
 これは働き手が欲しいのも納得だ。作るのも大変だが、配るのも一苦労だろう。
「お頭、へし切長谷部を連れて参りました。どうかご指示を」
「急な呼び出しに応じてもらい感謝するへし切長谷部、早速で悪いが奥の厨で胡桃を炒っている日本号達の手伝いをしてくれないか」
 出された名前に、驚きを越えて表情筋が固まる。
 俺が呼ばれるくらいだ、日光が他の黒田縁の刀剣男士を呼ぶくらいは予想できることだ。むしろ他の連中を差し置いて俺だけに声がかかった事態の方が恐ろしい話ではあるが、日本号か……他にも黒田縁の者はいるというのによりによって……いや、日本号「達」というから他にもいるに違いない。そうでなければどこぞにいるかもわからない神すら呪いそうになる。
 一体自分がどんな表情をしているかわからない程に顔を強張らせながら、日光に案内されるがままに奥へ移動する。部屋の主である太郎や次郎の姿がないが、日本号と一緒に厨にいるのだろうか。それならば俺としては有り難いところだ。
 だが、そんな都合良いことは起きないらしい。
「…………」
 通された厨は近代風のものだった。機能性重視と言わんばかりに電化製品が「コ」の字に並ぶ中、日本号だけが立っていた。
 太郎も次郎も居なかった。それどころか他の黒田の刀も居ない。それだけでも頭を抱えそうだというのに、眺める光景にとある既視感を覚えてしまう。
 その既視感の正体が頭の端にちらつくが、それは有り得ないと何かが警告してくる。
「よぉ長谷部、お前さんも日光に呼ばれたか」
 そんな俺の動揺を余所に、日本号はへらりと笑いながら火にかけたフライパンを掻き回して胡桃を炒めている。
「俺はお頭の手伝いをしてくる。胡桃餅ができたら声を掛けてくれ」
「応よ。手伝いが居りゃああっという間だ、いつでもこっちに移動できるようにしておけ」
 日光が厨から出て行き、日本号は炒めていた胡桃を近くに置いてあったすり鉢へ投入していく。その様子は一度見たもので、その一度は何処で見たかと思い出すと目眩がしそうだった。
 それをぐっと堪えて、極力平然を装う。
「手伝いとは、何をすれば良い」
「そうだな。後ろにボウルに入った餅があるんだが、そいつに黒糖を混ぜてくれないか」
 日本号の背後には餅と黒糖があり、これを混ぜろと言っているのが一目でわかった。
 ざわざわと落ち着かない心地のまま、言われた通りに餅と黒糖を混ぜてゆく。その後ろでは日本号がすり鉢で炒り胡桃を砕いており、手元が覚束なくなりそうな錯覚を起こす。
 それを誤魔化すよう、必死で話題を探す。
「な、何故、山鳥毛はいきなり菓子を配ろうと提案したんだ。貴様は聞いて、いるか?」
「ああ。なんでも、山鳥毛が商店街の福引で餅つき器を当てたから使いたかったんだと」
「そうか」
 いかん。こんなに話題が広げられそうな内容だというのにうまい返答が浮かばない。
 途切れた会話、胡桃を砕く音と餅が練られる音ばかりが響く。無音ではないだけましと捉えるか、沈黙が際立つと捉えるか。今の俺にはそれすら考えていられない。
 悶々黙々と黒糖色に染まってきた餅を混ぜていると、肩越しに日本号が覗き込んできた。
 間近に感じる日本号の気配に飛び退きたい気持ちに駆られる。しかしそんなことをすれば日本号とぶつかるのが落ちで、視線ばかりが右往左往してしまう。
「その中に胡桃を入れる。そのまま混ぜていてくれ」
「お、おう」
 とりあえず手だけは動かし、食べやすい大きさに砕かれた胡桃が投入されていく様を眺める。手を動かすとあっという間に餅に馴染んでゆく胡桃に、とふと思い当たることがあった。
「この胡桃は、一文字が用意したのか」
「いや、こいつは俺が買った特売鬼胡桃だ」
「特売というからには、その、安かったのか」
「応よ。一キロもあって八百円、良い買い物だろう?」
「八百円……や、安いとはいえ、一キロも消費できるのか? 些か無計画だと、思うが」
「博多だけじゃなくあんたもそう言うかね……まあまあ多かったが、今日は胡桃餅、明日はケーキで使って全部消費する予定だ」
 俺は買い物上手なんだ。どこか誇らしげに話す日本号の声が、近いというのに遠くに聞こえる。それは何故なのか。なんて自問しては、これは現実逃避の前兆だと、冷静に判断する自分がいては、とある確信に震えそうになる。
「おいしゃんおまたせ!」 
 そんな俺の心情を無視するような元気な声が響き、下から博多が覗き込んでくる。青い眼は真っ直ぐ俺を見つめるとにっこり笑う。
「長谷部も呼ばれたんやねぇ」
「あ、ああ。日光に呼ばれ、仕方なく……」
 言葉尻を濁す俺に対し、博多はにこにこと笑っている。その顔は愛らしいの一言だが、その愛らしさは俺を動揺させる。
「餅と胡桃が混ざったな。じゃあ、残り作業は場所を変えてやるとして、厨へ山鳥毛を呼ぶか。長谷部、あんたはそのまま餅を持っていって山鳥毛と場所交代しろ。俺と博多は打ち粉と皿を持っていく」
 言われた通り交代して厨へ向かう一文字一派を見送っていると、入れ替わりに日本号と博多がやってくる。その二振りの並びをこの本丸内でも見たことがあるのに、別の光景が浮かんで胸の高鳴りを覚えた。
「山鳥毛しゃんはみたらし餅ば作るんやね」
「みたらしも良いよなぁ。香ばしく焼いた餅と甘じょっぱい味には酒がよく合う」
 そんなやり取りが夢心地のようにぼんやり聞こえたが、手に持った胡桃餅の生々しい感触にこいつは夢ではないと気付かされる。
 
 もしかすると、いつも見ていた配信の日本号は、この本丸にいる日本号かもしれない。

 そんな可能性に口から腸が出そうになり、そこからの記憶はとても曖昧だった。ただただ震えそうになる体を誤魔化すのでいっぱいいっぱいになってしまった。

◆◆

◆◆◆

◆◆

「最近おいしゃん……長谷部に餌付けしようと目論んどるん?」
 いつかの配信中、博多がそう尋ねてきた。まさかそんなことを突然言われるなんて思っていなかった俺は動揺に噎せては餌付けについて否定した。しかし後々になって思い返してみると、確かに餌付けに近い意図を持って食べ物を用意していた場面があることに気付いた。
 長谷部はどういうわけか食べ物は比較的素直に受け取ってくれる。あいつのことだから食物に罪はないだとか生真面目な理由で拒否しないのかもしれないが、どんな理由だったとしても俺にとって好機だと無意識に思ったのだろう。

 いつの間にか吹く風が強くなっており、揺れる葉は赤や黄と変化して秋一色になっていた。この時期になると朝の空気も冷たくて、寝起きでぼんやりする頭を程良く覚ましてくれる。
 朝一に出る遠征のため普段より早く三槍揃って食堂へ行くと、そこには長谷部が食事を摂っていた。あいつは遠征部隊には組まれていないというのに、やけに早く起きてきたもんだ。
 食堂には長谷部以外の刀剣男士は在らず、ぽつんとひと振りで食べている姿はやけに目立つ。食事を受け取りながら伺っていると、急に口元をもごもごと動かしながら卓上を見渡し始めた。それはまるで何かを探している様子で、飲み物が一切ないことに気付く。
 一応水でも持って行こうか。要らなかったら俺が飲めば良いだけだ。
 水を用意して長谷部の前に置いてやると、すかさずそれを手に取り飲み始めた。飲み物を探していたのは正解だったが、そんなに間髪入れず飲む程か?まさか喉を詰まらせていたわけじゃないよな。
 そんな心配を余所に、長谷部が驚いたように俺や御手杵達を見上げる。
「お早う御座います長谷部殿」
「……、…お早う、蜻蛉切」
「早いなあ長谷部、今朝は俺達が一番乗りかと思ったのによ」
「まあ、今朝は色々あってな」
「ほぉ、色々ねえ」
 遠征もないのに早起きするものなのか?とはいえ、たまたま早い時間帯に目が覚めた可能性もあるし……いやいや、色々あったと本刃が言っていたから何かあったのは確実だ。詳細は話すつもりはないようだが、早朝に何をやっていたんだか。
「ところで、水をくれたのは蜻蛉切か。ありがとう」
「いえ。水を渡したのは日本号だ。礼ならば彼にしてくれないか」
 蜻蛉切の言葉に長谷部が露骨に顔を歪めると、米飯を口一杯に頬張った。
「おいおいお前さん、さっき口に沢山入れ過ぎて焦っていたばかりだろ」
「……むぐ、」
 小さく唸るともぐもぐと口を動かしながらじろりと睨み付けてきた。
「礼は言っておく」
「応よ」
 流石に言い返せなかったようだが、礼を言う場面で睨み付けてくるのはどうなんだ。愛想なんて求めていないが、相手が相手なら喧嘩ふっかけてると勘違いされるかもしれないぞ。せめてそういうのは俺だけにしておけ、なんてことを思いながら長谷部の向かいに座って食事を始める。
 相変わらず長谷部は不機嫌そうにこちらを睨みながら食事をしている。先程喉を詰まらせそうになっていたんだから食事に集中したらどうだ、お前さんだって俺達の前であたふたするのは嫌だろ。
 そんな俺の思いが通じたのか、睨み付けていた視線は徐々に手元の食事へと移っていく。
 それにしても朝だというのに良い食いっぷりだな。俺達より先に食べ始めていたとはいえ、間もなく完食しそうである。早朝に色々あったというからには相当空腹を覚えるようなことでもあったのかもしれない。
 あまりの良い食いっぷりに自分の皿に乗っていたベーコンを渡すと、先程とは一転して呆けたようにこちらを見つめてきた。
「……今日はよく食べると思ってな。腹が減ってそうだから、そいつ、やるよ」
 予想外のことに睨むのを忘れたのか、それとも機嫌は直ったのか。ぱちぱちと瞬きを繰り返す長谷部は新鮮で、何故か見ているのが恥ずかしくなってきた俺は視線を外す。
 いやいや恥ずかしいってなんだ。てっきりまた睨まれるかと思ったら全く違う反応が返ってきたからか?仮にそうだったとして恥ずかしがるより喜ぶもんな気がするが、我ながらおかしなものである。
「なあなあ日ノ本、ベーコン食べないなら俺にも一切れくれよぉ」
「もっと欲しいんなら料理番へ頼め。残ってんのは全部俺が食う分だ」
「長谷部ばっかずるいって」
「まあまあ御手杵」
 やり取りをしながらさり気なく長谷部を伺えば、渡したベーコンに齧り付いているところであった。やはり食べ物は素直に受け取るんだな。普段からあんなにつんけんしているのに、食べ物となるとそいつが緩くなるのも面白いものだ。
 もしかして、単純に食べるのが好きなのだろうか。細身だから食に関心が薄い方だと勝手に判断していたが、刀剣男士の外観ほど信用ならないものもない。俺だって背丈や目方と比較してあまり食べない方だ。
 食べ物をたくさん口に入れてしまったのか、長谷部が頬を膨らませている。この後すぐに遠征を控えていて時間がないわけでもないのに、そんなに口に入れることもないだろうに。
 咀嚼に合わせてふくふくと動く頬を突きたい欲求を覚えながら、先程の羞恥心とは違う胸のざわつきに笑いそうになってしまった。
 

◆◆◆

 朝餉が終わってから暫し時間の経った厨。普段なら時折料理番が数振りいる位だというのにそこには長谷部がいた。
「厨に長谷部とは珍しいな」
 俺の言い方が気に食わなかったのか、振り向いた長谷部は眉間に皺を寄せていた。
「それはこちらの台詞だ。ここに何の用だ日本号」
「何って昼餉の準備だ。お前さんもそれでここにいるんじゃないのか」
 俺は正午間もなくの出陣のため、少し早めに昼餉にしようと訪れた。主は昼餉の時間を配慮して計画してくれていたが、食後間もなく体を動かすと本調子が出せない男士もいるためこの時間ということだ。主の采配通りで問題ない者もいるにはいるが、今日は腹が少し落ち着いてから出陣したい奴が多かった。それだけである。
「いや、飲み物を取りにきただけだ」
「そうか」
 自分が昼餉を作りにきたからてっきり長谷部も動揺の用事と思ったが違ったようだ。棚から薬缶を出して湯を沸かし始めるのを尻目に冷蔵庫から材料を取り出していく。今日は高菜や豆腐類を使っても良いと料理番から確認を取っているので、そちらを使う料理にしよう。
「昼餉には、何を作るつもりだ」
 突然長谷部から話しかけられて一瞬驚いたものの、湯が沸くまでの世間話かと手に持っていた高菜を見せる。
「今日は豆腐と高菜があるからまんばのけんちゃんを作る」
「まんばと、けんちゃん……?」
「まんばとは高菜の一種、けんちゃんとはけんちんが訛ったもんだ」
「けんちんとは、けんちん汁のけんちんか?」
「断言はできないが多分そうだろうな。野菜の油炒めに豆腐を加えて煮込んだり、更に炒めたものをけんちんと呼ばれる」
 これはまんばのけんちゃんを教えてくれたにっかりの受け売りだ。けんちん汁というと関東の料理なので名前が似たまったく違う料理と思っていたのだが、由来になった言葉が同じらしい。こういうのは教えてもららないとなかなかわからないもので、誰かから指南を受けるのはこういうのもあるから良い。まんばのけんちゃんの作り方も疑問点を確認しながら教えてもらえたし、指南書だけを頼りに料理するとこうはいかない。
 指南してもらった当時のことを思い出していると、火にかけられていた薬缶がかたかたと鳴っていることに気付く。
「おっと」
 湯を沸かしていたのは長谷部だったが、沸騰すると思った途端手が動いて火を消してしまった。これは何か言われそうだなと密かに身構えたが、長谷部は特に物言いする様子がない。それならば気にせず調理を開始だ。出陣を控えているのであまりのんびりしていられない。
 鍋で湯を沸かしながら下拵えをしていると仄かに珈琲の香りが漂ってくる。横にいる長谷部を確認すると、存外近くから鍋を覗いていることに気付く。その熱心なこと、俺も同じように見ていることに気付かない程で、思わず脇腹を小突いてちょっかいかける。
「なあに見てんだ」
 驚いたように少し距離を置いた長谷部が面白くてにやにやと笑っていると、仕返しとばかりこちらへ突っ込んできた。
「近くに熱湯あるのに危ねえじゃねえか」
「俺だって熱い飲み物を持っているんだが」
 それはそうだ。真っ当な正論な上に、最初に仕掛けたのは俺の方だ。言い合いになったら俺が確実に分が悪い。
「……まあ、これから高菜を湯から上げるから手ぇ出すなよ」
 灰汁抜きしていた高菜を用意していた冷水に移して残った熱湯を捨てる。洗い物は極力少なくいきたいので、使っていた鍋を軽く濯いで再度焜炉へ乗せる。
「もう少ししっかり洗ってはどうだ」
「すぐに灰汁を流すなら擦るだけで十分だ」
 高菜やその他の具材を切り分けているのを、少し離れた距離から長谷部が伺っている。誰かに見られながら調理をするのは配信で慣れているとはいえ、見ているのが長谷部だというだけで少しばかり緊張してしまう。
「煮干しを炒めるのか?」
「この煮干しは良い出汁が出るが、具材としても良くてな。炒めることで香ばしさが出る」
「ほう」
「煮干しが十分に炒められたら高菜を入れる」
「油揚げは入れないのか?」
「一緒に入れちまうと鍋に敷いた油を油揚げが吸っちまう。先に高菜を油でしっかり炒めてから油揚げを入れるのがいい」
「なるほど」
 ふむふむ、と言わんばかりに頷く様子が少し微笑ましい。食べる事が好きな様子は以前から感じられたが、作る方にも興味があるのだろうか。食べるのは好きでも調理は別という男士は多いというのに珍しいもんだな。
 全ての材料を鍋に投入してかき回している内に、珈琲の香りを遮るように油の香ばしい匂いが漂ってきた。
「長谷部、ちょっとといいか」
「なんだ。もう何も言っていないし、何もしていないだろう」
「何言ってんだお前さん……近くにいるから頼みたいんだが、水切りしていた豆腐を千切って鍋に入れてくれないか」
 まさかのことだったのか、長谷部がこれでもかと目を丸くする。調理に興味があるようだから頼んでみたんだが、豆腐くらいは良いではないか。再度長谷部の名前を呼んで催促すると、渋々ながら豆腐を手にしてくれた。
「助かるぜ」
「豆腐の大きさはどれくらいだ」
「適当で良い。炒っている間に食べやすい大きさになる」
「そのような説明は困る」
「そんなものかね」
 配信で博多に分量が、とか、計量が、とか言われるが、長谷部もそこのところを気にする質なのか。具材なんて口に入りやすい大きさであれば問題ないんだがねえ。なんてことを思っている傍ら、長谷部は不満そうに口を尖らせながら一口大に豆腐を千切って鍋へ放り込んでいく。
「文句言いながら上手いことやるじゃねえか」
 慣れていない奴なら食べる時の配慮どころか大きさもバラバラだぞ。素直な賞賛の言葉だったが長谷部はまだ不満なのか、出来上がる頃まで口先を尖らせていた。
 十分に材料が炒められたことを確認すると大皿に盛っていく。ほわりと立ち籠める湯気と匂いは食欲をそそるもので、改めて良い一品を教えてもらったとにっかりに感謝する。肉を使わず食べ応えのあるのに加えてあまり手間がかからないのも良い。高菜に近い青菜であれば代用も利くので今度も作ってみよう。
 さて、味はいかほどか。と味見用の小鉢を手に取って料理を盛る。いつもなら自分で味見をするものだが、すぐ傍にいる長谷部が気にかかり、そちらへ差し出した。
「なんだ」
「味見してくれ。他の奴の反応も確認したい」
「味見とは……別に俺じゃなくても良いだろう」
「ああ。味見してくれるならあんたじゃなくても良いが、ちょっとくらい良いだろう?」
 別に、味見なんて俺がしても良いんだ。味覚には自信があるし、その方が手っ取り早いのもわかる。だが、折角長谷部がいるなら味見してほしいと思ってしまったのだから仕方ない。それにこういうのは断らない筈だ。
 筈、と思いながら限りなく確信に近いことだけどな。その考えは的中し、長谷部は気難しそうな表情を一切崩すことなく小鉢を受け取って食べ始めた。 もぐもぐと咀嚼している最中、長谷部の視線が手元の小鉢や天井を見つめたりと落ち着かない。そうしている内に眉間の皺が心なしか浅くなっており、少なくとも不味くはない様子だ。不機嫌な時もそうだが、こいつは結構顔に出やすいよな。こちらとしては何かと助かる場面があるので良いが、果たして長谷部自身は気付いているのやら。
 あっという間に食べ終えた長谷部はどんな感想を口にするのか。少しばかりの期待に見つめていると、長谷部は一瞬だけこちらを見上げてはさっと小鉢へ視線を落とした。そして考えるように暫し沈黙する。
「…………あるもので作ったにしては、悪くないのではないか」
 小さい声だったが、長谷部は確かにそう言った。悪くないって言ったか。そうか。そうかそうか。悪くないのか。そう感想を持ったということは少なくとも気に入らない味ではないということだ。そうか。
「悪くないってか……へへ、そいつは良かった」
 これまで料理を褒められたことは何度かあった。初めての経験ではないというのにじんわりと胸を動かすものを感じてしまう。まるで戦場で誉を取った時のような高揚感に堪らず笑い声が出てしまう。どうしてだ、こんなに嬉しくなるものなのか。口角がむずむずして、胸もむずむずして。落ち着かないというのに決して悪い心地ではない。
 どうにか口元だけでも落ち着かないだろうか、そんな心配までしていると、胸元に小鉢を押しつけられた。その僅かな衝動に呆気に取られている内に、いつの間にか長谷部がいなくなっていた。
 厨が一気に静まり返り、代わりのようにとくとくと自身の心音が聞こえてくる。
「そんなに嬉しいのか俺は」
 受け取った小鉢を抱えながら深呼吸を繰り返す。それでも心音は落ち着く様子がなく、むしろ大きくなったような気すらしてくる。
 まさかこんなに自身が喜ぶとは。厨に誰もいないことを良いことに、俺は暫く高揚感に浸ることにした。