スターフィッシュイーターvsシップフォックス ※花京院+α狐化

※こちらは過去に出した承花同人誌の再録になります。
メインキャラとなる花京院始め一部のキャラが狐であったり、その他原作とは設定がところどころ違うパラレルです。

 僕ら狐というものは産まれて一年は母親と共に生活する。そうして生後半年ほど迎えてから一人立ちに向けて、狩りについて教わる。僕も他の狐と同様、二月前の秋口から母に狩りを教わっていた。
 しかしそれから一月後、すなわち今から一月前に母は怪我を悪化させて他界してしまった。しかし僕は泣くに泣けなかった。それは母と死に別れる形で一人立ちすることになったからだ。ちなみに僕ら狐の父親は子が乳離れするまでしか子育てを手伝ってくれず、幾分か子供が大きくなった頃には離れていってしまうために父はいないのと同然だった。
 そうして強制的に一人立ちした僕は狩りの腕はまだまだ未熟で、それでもなんとか食い繋いでいるところに訪れたのは『冬』の季節だった。
 これには参った。木の実も秋の残りしかないし、雪が降れば小動物も極力巣から出てこないために僕は木の皮を剥がして食べている日が続いていた。
そんな中、僕は母が話してくれたある人間の話を思い出していた。

「冬場、食べるものに困ったら真っ白な服を着た人間『ヒトデ喰い』を探しなさい」

 今年の秋口に怪我を悪化させて亡くなった母は狩りを教えられない代わりに、これからの生活に役立つだろう話を教えてくれた。その中の一つに『ヒトデ喰い』と呼ばれる人間の話があった。そのヒトデ喰いという人間は毎年冬になるとこの近郊の海岸へヒトデを獲りに現れ、そいつに会えばたんまりと大きな魚を貰えるという。しかし漁師とは違い、海へ出る時間は定まっていない上に日に何度も船を出すこともあれば数日海岸すら近付かないこともあって出会うのが難しいらしい。
「でも、冬の魚かあ……」
 木の皮を食みながら呟けば、その味気なさに耳がへたりと下がる。食べ物が少なくなる冬の時期、脂の乗った魚を想像するだけで涎が垂れそうだ。
 だが母の話ではそのヒトデ喰いとは熊のような大きな体で、この世の生き物ではないような色の瞳を持つという。そう話を聞かされてしまうと、やはり少々恐ろしくあってなかなか探す気が起きない。
 その人間が『ヒトデ喰い』と呼ばれている理由は、魚は捨てるか逃がすかして一切口をつけず、ヒトデばかり巣に持ち帰るかららしい。ヒトデは硬いけど、そんなものを好んで食べるからには、その…狐も食べるんじゃあないだろうか、なんて思えて、尚のこと探したくないのだ。
 魚は食べたいけど、なんでも命あっての楽しみがあるものだ。無理に探すことはない。
いざとなれば山の展望台までの道のりで待機すればいい。あそこは競争率が高いけど展望台を利用する人間が食べ物をくれる場合がある。それにまだ雪深くなってないから獲物も全く獲れないわけじゃないし……。
 なんて、要は兎に角ヒトデ喰いに出会うような状況になりたくないだけだ。臆病者だって言われたって構わない、一時の欲求を満たすために危険を侵したくないからね。
 僕は木の皮を平らげると、口元をぺろりと舐める。味気無いし活力が出そうでもないけど腹だけは満たされる。
 そう、腹だけ。空腹は満たされた。
 しかし空腹以外は満たされてないに等しく、僕は再度口の回りを舐めた。鼠を食べれば脂がこびりつき、果実を食べれば酸味ある果汁で湿る口元すら味気無い。
 ……食べるなら、旨いものがいい。
 そう思えるくらいには最近の食事は味気無いもののオンパレードで、僕は港へと足を向ける。言っておくが先ほどのヒトデ喰いを探しに行くわけではない。海藻を探しに行くのだ。
時折港には高波で打ち上げられたり漁師が捨てた海藻が落ちている。正直美味しいものとはいえないけど、木の皮と違って仄かに塩気があって幾分か好ましい。
こういう時、自分が雑食であって良かったと思う。草食が海藻を食べたら塩気が強くて腹を壊すというし、肉食は内臓が海藻を上手く処理できなくてこれまた腹を壊すという。雑食であるからこそ僕は海藻である程度の欲が満たせるのだ、と前向きに考えながら鼻を動かす。うーん……海は美味しいものの宝庫だけど潮風のせいで匂いがよくわからない。それはネックなんだよなあ。
 そんなことを思っている内に港へと辿り着き、まずは朝方に漁船が停まっている辺りを確認する。運が良ければ海藻に紛れて小魚が絡まっていることもあるようだけど…それは高望みか。
 鼻を動かし潮風に紛れてるだろう海藻の匂いを探る。あれは青臭いのと違うけど、魚臭いわけでもなく、なんていうんだろうあの匂いは…。
 すんすんと匂いを探っていると微かにカモメの鳴き声が聴こえた。それは小さいながら複数のようで、僕の頭にある考えが過った。
 複数のカモメがいるなら、カモメの餌になるような魚があるんじゃあないか?
カモメがいるところには必ずと言っていいほど魚がある。亡くなった母もカモメが群がる漁船は大漁船だから、見かけたら行ってみなさいと言われたくらいだ。これは、漁船が出てるには遅い時間だけど大漁船が来てるかもしれない。
 そうなればカモメのいる場所へ急ごう。鼻に集中させていた意識を耳へ移し、音をよく拾おうと耳と上半身を立たせた。成る程、小さいと思ったけどあまり距離は離れてない、方向はここから南側か。
 目標はすぐさま定まり僕は地面を蹴りあげる。最近の侘しい食事のお陰で皮肉にも体は軽く、これならばカモメの下まですぐに着けるだろう。そう思うと足取りまで軽くなりそうだった。
「……あれは……」
 間もなく見えたカモメの大群。そして近付いていけば、その大群の下には一人の人間がいた。漁師、ではないな。僕が見てもあれは子供だとわかる小さな人間が何か容器を抱えて走っていた。
 なんでまたそんな子供にカモメが群がっているんだ、と疑問を抱きながら様子を窺うよう鼻を動かせば、潮風とは違う魚特有の匂いが子供から匂った。
人間が持ってる容器に魚が入ってるのか。そしてそれをカモメが狙っているということか。何故カモメが群がっているのかはわかったけど、人間とはいえ子供相手に多勢なんてどうかしてる。
 僕は子供を襲ってまで魚は欲しいとは思えずその場を退散しようと来た道を戻ろうとしたら、鳥とは違う悲鳴が上がった。振り返れば先ほどの子供が容器を下敷きに転んでおり、魚もその小さな体の下になっていた。
 あれ、やばいんじゃあないか? 先ほどまで走っていた対象物が止まったことでカモメの狙いは定まり、子供の下敷きになっている魚目掛けて鋭い嘴や爪を向けるだろう。一羽ならまだしもそれが一斉に襲ってきたら……と思うと僕の脚はカモメの大群へ駆けていった。
「きゃううんっ!」
 鳥はけたたましい声が苦手だって母が言っていた。だから出せる限りの大きく高い声を上げながら大群へ飛び掛かる。すると何羽かは怯んで空高く飛び立って行った。しかし驚きはしても離れないカモメが多く、僕は唸りながら毛を逆立てた。
 それでも鳥には狐の威嚇というものがいまいち通用しないのか全く引く様子はなくて、僕は近寄ってきたカモメを片っ端に引っ掻く。
 この野郎、これで仕留めたら食糧にしてやるからな!
 多勢のあまり自棄になりつつ、子供に向かっていこうとするカモメに爪を向ける。僕はまだ成熟してないが、爪も牙もしっかりしてるから当たったら痛いんだぞ。早く逃げないとその細い首を千切ってやる!
「ううううう」
 一羽の首に噛みついて骨ごと噛み砕いてやる。体の重さのためにぼたりと地に落ちた胴体に後ろにいた子供が小さく悲鳴をあげるのがわかった。そういえば人間の子供は一切狩りをしないと聞いた、怖がられたかな。
 まあいい。僕は幼い存在を多勢で攻めるのが気に入らなかっただけなんだから。
他のカモメに見せつけるように首を宙に放る。流石にこれにはカモメも危険を感じたのか、飛んだカモメの首が海へと落ちる頃には全てのカモメが去っていた。
「はあ、」
 同類が噛み殺されても向かってくるような無謀さがなくて良かった。ほっとしながら地に腰を落ち着けて、口元についていたカモメの血をぺろりと舐める。魚ばかり食べているせいか、山にいる小動物に比べると生臭くてぎとぎとしている。腹持ちは良さそうな反面、食べ続けたら腹が下りそうだな。
 とりあえず口元を綺麗にしたら先ほどの胴を持ち帰るか。経緯がいただけないが久々の肉は助かるしなにより嬉しい。
「痛っ……、?」
 前足で口回りを綺麗にしようとすると、痛みを覚えて足先が落ちる。どうしたんだと確認すれば、左の前足に大きな怪我を負っていた。見た目通りそれなりのものなのか、爪先から血が滴り落ちて小さな血溜まりができている。先ほどのカモメにやられてできたんだろうけど興奮して気付かなかった。
 怪我を意識すると急に痛みが増したようで、脚が熱を持って動かなくなる……痛くて触れたくはないが、早く止血しないと。血でより黒ずむ脚を舐めると最初に思ったよりは傷が浅いようで、新たな流血は殆どない。それに少し安心する反面、亡くなった母のことを思い出すと油断は出来ない。母が負った傷も大怪我ではなかったが、そこから徐々に膿んできて怪我を悪化させてしまったのだ。
 早く処置しないと。流血した怪我にはヨモギがいいというけど、この時期に見つけ出すのは容易ではない。
 どうしたものか。考えていると、急に辺りが暗くなった。
「……」
 雲が出て来たろうか。確かめるよう空を仰ぐと、目の前にひとりの人間が立っていて僕は驚きに毛を逆立てた。
 いつから居たんだ……全く気付かなかった。それにも驚いたが、僕を見下すその人間の大きいこと、まるで熊や大木のような人間ではない別のものにすら見える。
「娘に何をした」
 何か言われて、とりあえず同じ人間である、僕の背後にいた子供の方へ振り返ると子供は僕と同様に大きな人間を見上げていた。しかし僕とは違い、見上げるその表情はとても穏やかで二人の関係がわかってしまった。
 子供とこの大きな人間は親子か。そして子供を探しに来たところにいたのは、血を滴らせる僕という狐。人間の道理はよくわからないけど、良くない誤解をされる状況なのはわかってしまう。
 じゃり、と大きな人間が僕へと脚を向ける。いつもの僕なら近付いた瞬間に飛び退いて逃げているが、不幸にも前足を負傷している。こんな状態で逃げられる自信はない。悪いことが続く日もあるとはいうが、まさか天命を全うした日になるとは。
 人間は牙も爪も鋭くはないが、正直目の前にいる大きな人間にはそんなことは関係なく思えて、僕は運命を覚悟して目を固く瞑った。

   ◆◆◆

 日本列島の東北域で冬場のヒトデの生態調査を始めたのは何年前だったか。確か始めた最初の年には娘の徐倫がたどたどしく歩いたことで爺が盛り上がっていたので、きっと五年ほど前か。
 その五年の間に俺は博士号を取り、そして妻と離婚した。離婚の原因は海洋学の研究に没頭するあまり、家庭を省みなかったからだ。これは俺の見解ではなく妻の言い分であり、俺としては家庭を大事にしていた、つもりだった。しかし、それも俺主体の話であり、妻はそう思わなかったようだ。
 離婚調停もそこそこに、爺さんがつけてくれた異常に優秀な弁護士のせいで俺が徐倫の親権をもらうことになってしまった。
 別に、徐倫と一緒が嫌なわけではない。寧ろ喜ばしいことだが、子育ては援助があるなら女親の方が何かといいと思っていただけに、未だこれで良かったのかと頭の端に引っ掛かってる。そんなこと洩らしては爺がうるさくなるから、余程のことがない限りは言うつもりはないが。
 そんな悩みを奥底に抱きながらも今冬は六歳になる徐倫を引き連れて日本へ訪れた。これまで徐倫を連れて調査に出向いたことはなかったが、祖母から「徐倫が学校へ通うようになれば互いが共有できる時間がより少なくなってしまうわ」という助言と共に調査へ同行させるよう提案されたのだ。この調査には長期に渡る海上生活がなく、近くには頼れる親戚もいるためかもしれない。これが南半球の海を何ヵ月も航海する調査なら流石の祖母も提案しなかったはずだし、俺もいくら祖母の提案であっても反対した。
 そうして徐倫を引き連れて日本で調査を行って一月弱、辿々しくも日本語も使えるようになった彼女は日々を満喫しているようだった。共にいる時間が以前よりずっと多くなったが、そう親らしいことをしてない自覚があるだけに自身の錯覚でなければいいのだが……。
 ああ、いけない。捕獲したヒトデの分別をしている最中だというのに考え事をしていた。
「……徐倫?」
 ふと、辺りが異様に静かなのに違和感を覚えて顔を上げ、そして屈んでいた腰を上げて船上を見回した。先ほどまで傍で徐倫がバケツに入れていた小魚を観察していたはずだが、その姿がない。
「徐倫?どこだ」
 操縦席を確認して、その奥の仮眠室を覗いてみたが、小さな存在はない。ならば港に降りただろうか? 船上を再確認しながら陸へ降りて辺りを見回すが……やはり姿は見えない。
 ……もしかして海へ、落ちてしまったか?
 徐倫には海に落ちると危ないからとよくよく注意はしていたため、本人も十分注意はしていた、はずだ。それこそ、彼女には海上調査の話と共に海でのあらゆる事故について語ったので、幼いながらその恐ろしさもわかっていると俺は思っている。
 それを踏まえて海には落ちていないだろうと再び辺りを見回していると、少し離れた場所にカモメが群がるのが見えた。今の時刻は十一時を少し回ったところ、漁船が陸に魚介を上げている時間ではないはすだが。そんな疑問を抱いていると、ふと徐倫が小魚が入ったバケツを持っていたことを思い出す。
 明らかに力の弱そうな幼子一人が食糧を抱えて歩いていたら、鳥頭だろうとこれほどの獲物はないと狙ってくる可能性は高い。もしかしたらあそこに徐倫がいるかもしれない。
「やれやれ」
 海に落ちていたより良いが、危ないことには変わりはなくて俺はカモメの下へ走る。予想通りに徐倫がいることを願いつつ、万が一怪我をしていたらただではおかない。全力疾走で向かっていると悲鳴のような叫びが聞こえてきた。
 やはり徐倫か? いや、違う声だな……人間の声とはまた違う、喧嘩している猫があげるような悲鳴だった。カモメの大群へと近付くにつれてカモメが疎らに高く飛び立つのを不思議に思いながら、ついに地面に座り込んでいる徐倫を見つけ。
 彼女の傍に蹲る赤毛の塊に視線がいった。
「くうぅ……」
 赤毛はところどころ褐色に汚れていたが、ぱたりと揺れる大きな耳と尾にそれは狐だというのがわかった。そしてそんな狐の足元には首のないカモメの胴。穏やかではないそれに徐倫の様子を窺うが呆けたようにこちらを見上げているだけで恐怖している様子はない。
 そんな徐倫に安心していると耳を垂らした狐がこちらを見上げてきて、猫の目に似たそれを見開いて固まった。
「娘に何をした」
 カモメの来襲と同様、徐倫の持っていた魚を狙いに来てカモメと乱闘し、今に至るところだろう。そして口から胸元、左足にかけて赤褐色に汚れているのは血液か。
 その赤褐色は果たして徐倫のものは混ざってないか。一歩足を踏み出すと狐は小さく震えながら体を丸めた。野生種のようだが逃げることはしないのか。それとも逃げられないのか?
 動かないことをいいことにまずは徐倫を抱き上げる。
「ダディ……」
 恐い思いをしたのだろう、泣きはしてないが瞳を潤ませて俺のジャケットを握り締めてきた。彼女の頭を撫でつつ体を確認すると、どうやら外傷はないようで思わず息をついた。
「黙ってひとりで行動するんじゃあない。探したんだぞ」
「……ごめんなさい」
「次は声をかけてから行くんだぞ。今回は怪我がなくて良かったものを……カモメや狐に噛まれたりしてないか?」
「だいじょうぶ! あのねっ、あの…カモメがばーっとじょりーんのことおいかけてきたとき、そのきつねじょりーんのことたすけてくれたの」
 狐が? 俄に信じられないが狐を見つめる徐倫は恐がる様子はなく、少なくとも狐が徐倫を襲ってはいないようだ。
 狐についてはあかるくないが、カモメを捕まえにきたのか……徐倫が言うように助けてくれた、というのは家畜でない限り考えにくい。
 まあ、どうであれ徐倫が無事なら構わない。
 船に戻ろうとすると、抱えていた徐倫が腕の間をすり抜けて降りてゆく。
「徐倫、船に戻ろう」
「きつね、けがしてる」
 徐倫が触れそうなくらい傍まで寄ったが、狐は小さく唸るばかりで攻撃はしてこない。いや、これは……攻撃できないくらい弱っているみたいだ。毛を逆立てて体を大きく見せようとしている最中だというのに前足が震えている。その様に少しばかり哀れみの念を覚えていると、徐倫がジャケットの端を引っ張ってきた。
「ダディ、きつね、じょうすけのところつれてったら、だめ?」
 仗助とは俺の叔父にあたる高校生で、ここから近い杜王町に住んでいる。そいつは怪我や破損したものを治せるスタンド能力を持っている。すなわち徐倫は仗助にこの狐の傷を治してもらおうとしているのか。
 あの上っ面だけの優しさだけではない仗助ならば狐の傷を治すくらい容易に受けてくれそうだが、偶然徐倫を助けた形になった狐をわざわざ治すなんて。
 野生種と人間は極力関わってはいけない。どうにか幼い徐倫に説明しようと脳内で言葉を噛み砕いていると再びジャケットを引かれた。
「ダディ、おねがい」
 じっと見つめながら、俺の了解を得ようとしている。それはおもちゃをねだるようなものではなく、本気でこの狐の傷を治してやりたい気持ちが露見する視線で俺は短く息を吐いた。
「やれやれ」
 娘が生き物の命を大事にしたい気持ちを持ってくれたなら、生物学者である手前喜ばしい限りだ。そして偶然とはいえ、恩義を受けたと思うなら返そうとする思いは親として尊重したい。
 だから、今回は仕方ない。たまには例外というものもある。誰ともなくそう言い訳しながら、未だ威嚇するよう毛を逆立てる狐の首根っこを掴んだ。
「っ、きゃうううぅぅ!」
「ダディ! きつねいたがってるよ!」
「驚いただけだ。痛くはない」
 現に俺が掴んでいるのはふにゃりと柔らかく伸びる皮の部分だ。猫なんかもこうなっているから首を掴まれてもそう痛くないらしい。
 それにしても見た目よりも随分軽いな。
 ぎゃあぎゃあと叫びながら脚をばたつかせる狐の軽いこと、俺が着ているジャケットより軽いように思える。狐なんて野生種も家畜もあまり見たことはなかったが、こいつはまだ子供なのかもしれない。
「うるさくすると海に投げるぞ」
 子供ならば脅せば大人しくなるだろうか。がう、と犬の真似事のように狐に向けて唸ってみると耳と脚をぴん、と伸ばして固まってしまった。
 到底似ているとは思えなかったが効果覿面らしい。
「きつねいじめちゃだめダディ!」
「暴れるから少し叱っただけだ」
「けがにんなんだからやさしくしなきゃだよ」
 頬を膨らまして怒る徐倫に思わず笑いそうになる。怪我人じゃあなく怪我狐だ。それにこれからただで傷を治しに行くのだからせめて静かにしてほしいものである、怪我人だろうが怪我狐だろうが大人しくしてもらう。
 大人しくなったのを確認したので、尻を下から支えるよう抱え治すと狐は小さく鳴くだけで腕の中で丸くなった。子供のようだが物分かりが良くて助かる。
まずは船へ戻って軽く整頓してこなければ。徐倫がいないと全て中途半端に放り出してしまったからな。

   ◆◆◆

 よりによって、よりによって。
 僕は今、ある人間の腕の中に収まっている。羆や大木のように大きな体、それに見合ったように大きく角張った手、僕なんかぺちゃんこに踏み潰してしまいそうな逞しい脚を持ちながら、その瞳は深緑に星をまぶしたような色をしていた。それはとても綺麗であったけど、そんな未知の瞳を持つ大きな人間が白い衣服を着ていることに僕は感動ではなく一生涯の最期を感じた。
 こいつ……ヒトデ喰いだ。
 よりによって、一番出会いたくなかった人間に会ってしまい、あろうことか捕まえられるなんて。
 少しだけ身動ぎしてみる。しかし大きな腕はびくともしなくて、頭をぐりぐりとこねくりまわされた。なんだ、何するんだ。お前なんていつでも好きにできるんだぞ、という警告か?
 恐ろしい。恐ろしくてその手に噛みついてやりたいが、そうしたら何をされるか。このまま抱き潰されてしまうか、もしくは頭からばりむしゃと食べられてしまうか。それか、僕が想像できないくらい酷いことを……これならば大人しくしていて、静かに逃げられるチャンスを待つしかあるまい。
 震える体をどうにか落ち着けようと深呼吸していると、ヒトデ喰いの足元から先ほどの子供が覗いているのが見えた。目が合うと子供はにこり、と笑い首を傾げる。まさかこの子がヒトデ喰いの子供だったなんて。しかしようく見てみれば笑みに細めた瞳の色はヒトデ喰いと同じ色をしていて、そのあまりの綺麗さに憎らしさを覚えた。
 そんなきらきらと綺麗に輝く瞳を持ちながら、これから僕を食べてしまうに違いない。この子だって魚を抱え持っていたのは食糧のため、子供だからまだ硬いヒトデではなく魚を食べているんだきっと。
 ほんの僅かだけど情けのようなもので助けるんじゃなかった。なんでも、そう、命あってのものなのだ。カモメに立ち向かった結果が怪我をした挙げ句に食糧にされようとしてるなんてあんまりだ。
 そ、そりゃあ母親と死別してからお稲荷さまのお社を塒に使ったり、罰当たりなことはしていたかもしれないけど……これはあんまりだ神様。いや、神様はいないんだ、だってお稲荷さまも狐の形をしたただの石ころだもの。あれはみてくれだけで神様じゃないんだ。
 石ころだろう神様に恨みを覚え始めている辺り、やけくそになっているのは否めないが仕方ないじゃあないか。
 身動きはせず黙って腕の中にいると再び首の後ろを掴まれて、次の瞬間に大きな布に包まれた。
「な、何するんだっ!」
 大人しくしていたのにあんまりだ! 通じないのを覚悟で抗議すると布に包まれたままどこかに押し込まれた。少し窮屈だが、これは、埋められた? これまで埋められた経験はないし、布の中では辺りを窺えず怖くなって叫ぶ。食べられるのも嫌だが、埋められてしまうのもごめんだ。
 何度か叫んでいると不意に布越しに軽く叩かれた。
「きつね、おしずかしてないとだめ」
 ヒトデ喰いではなく、子供の方の声。それが聞こえるということは少なくとも生き埋め状態ではないようだ。その事実にほっとして叫ぶのを止めると今度は地震が来た時のように辺りが揺れ始めた。
 今度はなんだ。相変わらず周囲の様子が分からなくて再度叫ぶとまたぽんぽんと叩かれた。
「おしずかに!」
 子供が何か言ってる。話しかけてくるくらいならこの布を取り去ってくれないか。辺りがわからないのはとても恐ろしいんだ。
 そうして僕が叫んでは子供が気にかけるように話しかけるを繰り返している内に、揺れが収まった。
 それに安堵したのも束の間、布越しでもわかるヒトデ喰いの大きな手が僕を再び抱えた。これではいくら肝があっても足りないくらいだ……。
 どうにかこうにか聴覚嗅覚で周囲の様子を探っていると、突然布が捲られて解放される。しかしそれと同時に目の前に現れた人間に、僕は休みなく叫んだ。
「うわっ」
「うるさいぞ、狐」
「てっきり猫かと思ったら狐っスかあ。初めてこんな間近で見たな」
 目の前の人間はヒトデ喰いに劣らないくらい大きな人間だった。それでもヒトデ喰いとは少し異なる種なのか、陽を透かしたサンシキスミレのような赤紫色の瞳に真っ黒な服で身を包んでいる。しかし違う種なのかもしれないが、大きいところは変わらないために恐ろしいのも変わりない。それにどうやらヒトデ喰いと目の前の人間は仲間のようだし、もしかしたら僕の体を裂いて分けて食べるつもりかもしれない。
 ……こんな恐ろしい思いをし続けるくらいなら、一思いに食べてくれたらいいのに。
逃げる意思などこの大きな人間二人に囲まれてしまえば薄れてしまい、そんな思いが浮かぶ。どうせ僕は狩りも体も未熟なまま一人立ちしたのだから長く生きられなかったんだ。
そう思いながら、恐怖するその時間を耐えるよう目を瞑っていると怪我をしている左足を軽くつつかれ、そして急激に痛みがなくなったことに再び目を開けた。
「?」
 出血が酷くて麻痺し始めたのか。人間二人の視線が気になりつつ疑問に左足を覗くと、そこは汚れながらも跡形もなく傷が消えていた。
 まさかそんなことあるわけ……しかし色んな角度から確認しても、鼻先で触れてみても痛みも無ければ傷が触れることもない。
「……?」
「なんだか驚いてるっスね」
「初見ならばそうだろう。 傷を治してくれて感謝する」
「ありがとうじょうすけっ!」
「どういたしましてっス」
 人間たちが言葉を交わしているが僕には内容はさっぱりわからなくて、そして消えた傷についてもわからなくて視線が泳いでしまう。ヒトデ喰いは相変わらず恐ろしいが、一向に僕を食べることはない。それどころか戸惑いに沈黙していた僕の頭を太い指先で撫でてきた。
「わ……っ」
 驚いたけど……ちょっと気持ち良くて思わず耳が垂れる。その太い指は頭を撫でた後、耳の下から首にかけて撫でてくるものだから、ついに逆立つ毛が落ち着いてきてしまった。
「ようやく大人しくなったっスね」
「怪我をして興奮していたのかもしれない」
 何か言いながら今度は手のひらで僕の下顎を撫でてきた。顔ごと包み込めそうなくらい大きな手なのにふわふわと緩く触れてくる。先ほどの指先といいなんでこんな心地好い触れ方をするんだ。こんな風に触れられたら首を伸ばしてしまいそうになるだろ。
そう思っている最中にも首を伸ばしかけてしまい、慌てて首を横に振って誤魔化す。この手はヒトデ喰いのものだ、いつ首を捻ってくるかわかったものではない。
「きつねよかったね!」
 子供の小さな手が伸びてきて、がしがしと僕の頭を撫でてきた。親であるらしいヒトデ喰いの触れ方とは違って大分豪快だな……まあ、人間としてはとても幼いようだし、加減がわからないのかな。その証拠に子供の顔を窺えば悪意の無さそうな笑顔だったので、僕は唸ることなく撫でられていた。
 その後、黒い大きな人間と別れると再び布で包まれてしまった。これどうにかならないかな、周囲が見えないとどうしても不安を覚えてしまう。
 どういうからくりかわからないけど脚が治ったようだし、逃げようかな? これまでの様子ならヒトデ喰いは力こそ強いけど、こちらに対しての警戒心はあまりないようだ。
また布ごとどこかに詰められて、がたがたと地面が揺れ始める。黒い大きな人間のことを踏まえて、この揺れはどうやら移動している時に生じるものらしい。移動手段は徒歩のようではないし、猫車のように操縦しなければならないものなら、ヒトデ喰いの手は塞がってる筈だ。
 もしかしたら今がチャンスか。
 体を覆う布を鼻先と前肢で掻き分ける。まずはこの布をどうにかしないと。
「……結構この布、厚くて重いな」
「きつね?」
「!」
 思わず呟いた言葉に返る声があって、動きを止める。
 そうだ、ヒトデ喰いだけではなくヒトデ喰いの子供もいるんだ。ヒトデ喰いの手が塞がっていたとしても、子供の手は空いてる可能性が高い。いくらヒトデ喰いより小さいといってもヒトデ喰いの子供、油断ならない。
警戒に身を固めていると、厚くて身動き取りにくいと感じていた布があっという間に取りさられて子供がこちらを覗き込んできた。
 布がなくなったのは助かったけどすぐ目の前に子供がいるとなると容易に逃げられない。とりあえず辺りを見回すと小屋のように狭い空間、そして小屋に取り付けてある窓から見える景色はまるで走っている時に見るように流れていた。
小屋ごと移動しているのか……いやまさかこれは漁船に乗る人間も利用していた車というやつか?
「きつね、もちょっとしたらうみだからね、まってるんだよー」
 言いながら子供は布ごと僕を抱えあげる。しまった、辺りに気を向けていてすっかり油断していた。
「噛まれるぞ、箱に入れておけ」
「だいじょうぶだよダディ、こんなにおとなしいんだもん」
「警戒してるからだ。もしくは徐倫が恐いから大人しいのかもしれん」
「じょりーんこわくない!」
「そう思うなら箱に戻せ」
「……はあい」
 親子は何かしら会話を交わした後、子供が僕を元の場所へと下ろしてくれた。人の言葉はわからないけど、ヒトデ喰いが何か言ってくれたお陰か。
 そんなヒトデ喰いは前方に座っていて、こちらに背中を向けていた。ヒトデ喰いの視界には僕は写らず、子供さえいなければ楽に逃走できる状態だ。
 ちらりと隣に座っている子供を窺えば、子供は僕を見て笑うばかり。捕食しようとしている動物に向けるには些かおかしい表情に見えて、僕は今だけは逃げるのはやめておこうと思った。
「偶然かもしれないが徐倫を助けてもらった礼だ、こいつをやろう」
 まもなく車が港へ着くとヒトデ喰いは僕を車から降ろすと魚を二匹僕の前に置いた。なんで魚なんか……これは罠か?
 警戒に魚とヒトデ喰いを交互に見つめる。するとヒトデ喰いは置いた魚をこちらへ押し付けてきた。
「くれるの?」
 言葉は通じないので上目で窺えば、察したようにヒトデ喰いはひとつ頷いた。
「食糧が目当てで港へ来たのだろう、遠慮するな」
 一匹を指先で摘まむとそれを僕の鼻先へ近付けてきた。やはりこの魚はくれるらしい。揺れる魚をくわえるとヒトデ喰いは踵を返した。
 車に乗り込む背中は遠目でも大きくて、それは再び僕の方に現れることなく車は発進してしまった。
「これは……?」
 てっきり食べられるのではないか、と怯えていたのに結果は怪我を治してもらって魚を貰っただけで、僕は首を捻る。しかしヒトデ喰いと同行していた子供を思い出して、終始僕へ笑顔を向けていたことにまた首を捻る。
 狐に人間の道徳はどうしたってわからないが、これは情けをかけられたわけだろうか。しかし同じ人間ならばまだしも狐である僕がどうして?
 また首を捻って、捻って、頭を捻ってもどうしてそんなことをしてくれたのかわからなくて僕はその場に座り込んだ。
 この後僕は疑問を抱えながらも貰った魚を一匹平らげると残ったもう一匹を神社へと持ち帰った。ヒトデ喰いがくれた魚は二匹とも上等なもので僕は一匹食べただけで腹が苦しくなってしまい食べられなかったのだ。あんな魚、母親が健在だった時も食べたことない。流石ヒトデ喰い、といったところなのか、こんなものを無償でくれるとは理解できない。
 わかるのは、少なくとも僕みたいな狐を食糧にはしないということくらいだった。
硬いのが好きなんだろうか。
 ヒトデなんて食べるところなさそうだけど、行動が理解できないなら食物の好みも理解できないかもしれない。
 しかしヒトデ喰いを理解できなくとも、今回の僕はとても恵まれているのはよくわかった。そんな事実にこんな僕にも恵みをもたらす神はいるのかもしれない、と思えてきて僕はお稲荷さまの石像の前で止まった。
「お世話になります、お納めください」
 言いながら魚を石像の前に置く。
 僕には信仰心なんてない。でも今日のことを踏まえると何かに感謝の意を伝えなければならないような気になってしまったのだ。
 ヒトデ喰いから貰った、僕の残り物だが良ければ貰ってください。
 お稲荷さまの石像は動くことなく佇んでいる。それはそうだ、神様と崇めたってこれは石像でしかないんだから。そうは思いつつもお供えして満足してしまった僕は置くにある社へと入っていった。

   ◆◆◆
 
ヒトデ喰いと出会った翌日、僕は港へ足を向けた。昨日の今日で港へ来るなんて魚目当てかと言われたら正直に答えれば首を横には振れないけど、そればかりが目的ではなかった。
 くん、と鼻先を宙に仰いで匂いを探れば、潮風に紛れてふたつの匂いが微かにした。ひとつはヒトデ喰い、ふたつ目はその子供の匂い。昨日同様に揃って港へ来ているようだ。
匂いを手繰りつつ見晴らしの良さそうな小屋の屋根に登って辺りを見回す。防風林すらない港は見晴らしがよく、一隻の小型船が港の端に停まっているのを発見した。
 あれか。
 屋根から飛び降りて小型船へ駆けてゆく。船上をカモメが飛び交っているけど、今日は子供を追いかけ回すなんてことはしてないよな。多勢で子供を狙うなんて光景、二度と見たくないし、僕も何度も怪我をしたくはない。
 そう広くはない港の端へはあっという間で、僕が到着すると煩く鳴いていたカモメが一斉に飛び去って行く。どうやら鳥頭でも昨日の出来事を覚えていたらしい。
 そんなカモメを見届けていると船上からヒトデ喰いの子供が顔を出した。
「きつね!」
 声をあげた子供は船から飛び降りると、驚くほどの早さで僕の傍に駆け寄ってくる。思わず飛び退いて少し距離を置く。昨日は襲われなかったけど今日はわからないし、子供を追いかけるようにこちらへ向けられたヒトデ喰いの視線を感じてしまったのだ。あまり密な接触をしてヒトデ喰いに首根っこを絞められたら僕なんかお陀仏だ。
 耳と尾を下げて敵意はないアピールをする。昨日のことを踏まえると、こちらが危害を加えることがなければヒトデ喰いも手を出さない筈だ。
 すると子供は一気に距離を詰めて僕の耳を鷲掴みした。
「きゃん!」
「わああ、きつねのおみみふわふわあ!」
 何か言いながら子供は僕の耳を容赦なく握る。親のヒトデ喰いに比べたら大分小さなその手は力強くて、僕は痛みに耐える。もげない内に離してくれよ……。
「徐倫、離してやれ。痛がってるぞ。」
「えー? うそぉ?」
「折角来たのにそんなことをしたら逃げてしまうぞ」
「やだー!」
 ヒトデ喰いが何かを言えば子供は僕の耳を解放してくれて、僕はころりと尻餅をついて倒れた。
「うう……」
「いたい? いたかったの?」
「……なに?」
「いたいいたいのね、ダディにあげるから。いたくないよ?」
「なんで私なんだ」
 僕らの傍にヒトデ喰いが降り立つ。昨日見た通りに奴はとてつもなく大きくて、自然と体を小さくしてしまう。
「だってダディつよいからちょっといたいのくらい、だいじょうぶでしょ?」
「やれやれ」
 ふと、鼻先を魚の匂いが掠めたものだから鼻を動かしていると、ヒトデ喰いはどこからか魚を取り出して僕の頭上へぶら下げた。
「魚目当てだったろうに災難だな、こいつをやるから早く帰らないとまた徐倫に襲われるぞ」
「じょりーんそんなことしない!」
「なら、もう少し離れて声を掛けろ。狐が警戒するぞ」
「はあい」
 自由奔放にも見えるが子供にとってやはり親は絶対なのか、ヒトデ喰いの言葉と共に少し距離を置いてくれた。ヒトデ喰い、大きいけどこちらが驚きそうなことをあまりしないのは助かる。
 それを見届けるとヒトデ喰いは僕の前に魚を三匹置いた。思わず目線で窺えば、ヒトデ喰いも何か言いたげに首を傾げた。
 あちらから置いたし、もらっていいのか?
 匂いを嗅いで特に問題ないと確認すると僕は魚を食べ始める。
「おいしい?」
「食事に集中しているようだから、食べてる時は邪魔しないようにな」
「えーっ、つまんないの」
「人とは勝手が違う。野生の生き物なら尚更、余計に関与しない方が良い」
 またヒトデ喰い親子が会話をしている。彼らが会話を交えている最中なら僕に何もしてこない。昨日と今日の流れでそう判断した僕は急いで魚一匹平らげる。昨日同様にヒトデ喰いがくれた魚は上等なもので、一匹だけで満腹を覚えて顔を上げる。すると傍にいた親子はいつの間にか船上に戻っていて、子供だけがこちらを覗いていた。
 耳を掴まれたのは痛かったけど、それも一時的なもので魚をくれるだけなんて変な奴らだ。しかしもしかしたら魚が貰えるかも、なんて少しだけ期待していた僕は疑問はあっても遠慮することなく残りの魚をくわえて住まいにしている神社へ戻っていった。

   ◆◆◆

 ここ一ヶ月、港で作業していると顔を出すようになった狐がいる。
 そいつが来る時間はまちまちだが、昼前には顔を出しにやってくる。どうやら一度魚を与えたことで味をしめてしまったらしい。まだ成熟していないのか、警戒こそしてもなかなか逃げることがない様子に幼さを覚える。
 ヒトデに紛れて獲れた魚を狙いに船上を飛んでいたカモメが散り散りに飛び去ると、今まで遊んでいた徐倫が船から飛び降りた。
 カモメが飛び去るのは例の狐が来た合図。徐倫の背中を追い掛けるよう陸地を見れば、そこには朱色の狐が行儀良く座っていた。
「きつねーっ、こんにちは!」
 徐倫は狐の隣にしゃがむと、そっと狐の頭を撫でる。狐も特に威嚇や警戒する様子は見せずに大人しく頭を撫でられている。こうして徐倫が触れても驚かなくなったのはいつだったか、そんな狐は徐倫のお気に入りになっている。
 その様子を見ながら俺は傍に用意していたバケツを片手に船を降りた。
「今日は竹麦魚がかかったぞ。形は変わってるが特別うまいやつだ」
 バケツにはヒトデと一緒に獲れた竹麦魚と、もう一匹オボコを添えて狐へ渡した。全長は小型犬より少し大きめだが、冬場特有の厚い毛に覆われたその体は細い。時期的に餌がないためだろうが、気にかけたくなるほどの細さのあまり毎回魚は二、三匹渡すようにしている。
 魚を渡された狐は匂いを確認するとまずは竹麦魚へと口を寄せた。そちらから食べるとは匂いで旨味というものがわかるのか。がつがつといい喰いっぷりを見せてくれる狐を眺める。
 傍にしゃがんでいる徐倫も狐に触れることも騒ぐこともなく、じっと見つめるだけ。この狐に関しては俺の言いつけをしっかり守ってくれる。折角出会って自分のもとへ通うようになってくれた狐に嫌われたくないのだろう。
 間も無く魚を食べ終えた狐は舌と前肢で口回りを綺麗にすると、徐倫は声を掛けながら手を伸ばしてその頭を撫でる。狐は目を細めると徐倫が撫でやすいように体を屈ませた。
徐倫の笑みが深まり、その頬は赤みを増す。俺に突発的な触れ合いは良くないと釘をさされているだけに、触れ合いを促すような狐の仕草が嬉しいのだろう。そんな姿に俺はつい徐倫の頭を撫でれば、彼女は照れ臭そうに笑ってくれた。
 離婚してから暫く経ち、徐倫と過ごす時間が増えた。それでも時折徐倫は母親を恋しがる場面があり、俺がどんなに彼女を想っていても補えきれないと思ってはいた。
そんな、解決できない悩みを抱えていた俺の前に現れたのはこの朱色の狐だった。
「よしよしうれし?」
 徐倫の言葉に狐は片耳をぴくりと動かす。意味が通じての仕草ではないだろうが、言葉に対して反応が返ることに彼女は小さく声をあげて笑った。
 俺と二人きりでは滅多に聞くことのないその声は喜ばしくて、同じくらい辛くなる。俺だけでは見られない彼女の姿を、目の前の狐がいることで見られるのは複雑だった。こんな小さな存在のお陰で、俺が聞くことのできない笑い声を聞けたのだから。
「ダディ。ダディ!」
「どうした」
「きつねふわふわしてあったかいよ、ダディもなでなでしなよ」
 言われるがままに小さな頭を撫でると、狐は驚いたようにぴくりと体を震わせながらも逃げることはなかった。彼女の言うように体毛はふわりと柔らかくて外気の冷たさに反して温かだ。こうしてこの狐に触れるのはいつ振りか、出会って以来かもしれない。
 頭を撫でて耳の後ろを指先で軽く撫でてみる。小さい小さいと思っていたが触れてみるとその小ささは際立ち、顔なんて俺の手の中に収まりそうだ。指先で撫でながらそれを顎の下へ滑り込ませると狐がこちらへ視線を向けた。
 流石に少し触りすぎたか。徐倫にあれやこれや言った手前そんなことをしてしまうとは、この柔らかさに俺も触れ合いが過ぎてしまったらしい。これ以上驚かせてしまい逃げられてしまうのは避けたくて、様子を窺いながらゆっくり手を離す。
 すると狐は離した俺の手を追い掛けて鼻先を寄せて匂いを確かめると、ぺろりと指先を舐めた。
 予想外の行動と生暖かく濡れたその感触がこそばゆくて指先が跳ねてしまう。それを何か勘違いしたのか、狐も驚いたように顔を引いたかと思うと跳ね飛ぶように逃げてしまった。
「あっ」
 徐倫の声が上がり、俺も思わず逃げて行く狐へ手を伸ばす。しかしそれは狐の尾にすら触れることはできず指先が宙を掻く。あっという間に狐の姿は小さくなり、貨物船倉庫の間へ姿を消してしまった。
「きつね、おさかなわすれてっちゃったね」
「すまん」
「ダディくちばっかりできつねさんとぜんぜんあそばないんだもん、しかたないよ」
 それは暗に慣れない触れ合いをしたお陰で逃げられたのだと言っているようで、俺は返す言葉も見つからず立ち尽くしてしまった。

 塒にしている神社へ全速力で戻った僕は、社に入ると大きく息を吐いて床に座り込んだ。
 僕は、どうかしている。
 先ほど港であった出来事を思い出しては、焦燥感と共に全身の毛が逆立つようだった。
確かに、ヒトデ喰いの親子と出会い、そして魚を貰いに船へ通うようになって幾日か経った。そのために彼らに慣れてきた節はあったし、ヒトデ喰いの子供が可愛く思えた場面も、最近はあった。あったんだけど、だからって。
 だからってヒトデ喰いの手を舐めてしまうなんて……!
 僕の舌先が触れた瞬間、あの大きな手が跳ねたのを思い出しては頭を抱えたくなる。あれは流石に軽率だった。久しぶりに触れてきたから、ついついこちらも、なんて無意識の流れだったけど、相手が悪すぎた。
 あの様子なら神経を逆撫でしてしまったに違いない。
「明日から、大丈夫かな」
 やはり睨まれるかな、それとも吠えられるかな。折角仲良くなってきたというのに……いや、僕が一方的に通っていて、親子は情けで僕を迎えてくれているだけで仲が良いとは違う。
「でもなあ、……」
 一方的な関わりだと、知っている。しかし明日からのことを考えると憂鬱で僕は天を仰ぐ。
 一人立ちしてしばらく経ち、一人きりの生活には慣れてきた。と僕は思っていた。しかしそれでも一人きりが全く苦にならないかといえば、そんなことはなかった。やはり時折親が恋しくなることがあり、寂しく過ごす夜もあった。
 そんなところに現れたのが、ヒトデ喰いの親子だった。
 見目恐ろしくも子を見つめる目には慈しみを宿すヒトデ喰いと、そんな彼の愛情を一身に受けるヒトデ喰いの子供を見てはかつての幼い自分と重ねてしまった。
 重ねて、そして今の自分を再確認して、更に寂しく思う日もあった。それでも僕がもう過ごすことのない親子のひとときを傍で眺めたい自分もいて、僕はあの親子が羨ましいのだと感じるのだ。
「?」
 ふと、前触れもなく何かの気配を感じて僕は耳を立てる。ここは人も滅多なことでは来ないような小さな小さな稲荷神社だ。それこそ僕がここに住まうようになってから人一人見たこともない。人間に限った話ではない、お供えさえないようなこの神社に僕以外の小動物が来ることもこれまでなかった。
 耳を立てたまま姿勢を低くする。幸いにも僕は狐の中でも毛色が濃い部類だ、薄暗い社の中で体を小さくすればそう目立たない。
 人間か、小動物か……熊や鹿は、今の冬の時期にこんな場所には来ない筈だ。身を隠しつつ匂いを確認して、僕は聴覚と視覚を集中させた。
 鼻先についたのは、鼠の臭い。多分に本格的な冬を迎えたためにここへ訪れたのか。食糧面ではあまり恵まれた環境ではないがここは雪風をしっかり防いでくれる上、人工物故に天敵からの来襲がほとんどない利点がある。だから僕もここを住まいに選んだのだけど、まさか鼠が来るとは…これは格好の獲物としか言い様がない。
 姿は見えない。しかし耳には鼠の尻尾が地に擦る音がしっかり聞こえてきて、その近さに僕は息を殺す。距離はそう離れていないので視界に入った時が勝負だ。
 音が聞こえる方へ神経を集中させて待っていると、社の扉の隙間から小さな影が見えた。
 あれだ。影を視界に捉えた瞬間、僕は後ろ足で床を蹴りあげて飛びかかった。爪を剥き出して前肢を踏みしめると悲痛な鳴き声と共に足の裏に歪な柔らかさを感じる。
 こいつは仕留めたな。前肢に力を込めたまま確認すると目下には白目を剥いて痙攣する鼠がいた。冬を越そうと訪れただろうに狐がいて災難だったね、しかし僕だって生き延びたいだけなんだ。恨むならここへ導いた神様でも恨んでくれ。
 首を噛み潰して止めをさすと、その鼠をくわえて僕は社を出る。社の前には二匹のお稲荷さまの石像が鎮座しており、僕はくわえた鼠をお稲荷さまの前に置く。神様といえば忘れるところだった。
「今日は魚がないので、こちらを代わりにお納めください」
 ヒトデ喰いから食べきれないくらいの魚を貰うようになってから、残った魚をお稲荷さまへお供えするようになった。それは今日一日の食糧を得られた恵みを感謝しての行為から始まったが、いつの間にか習慣になっていた。いつもヒトデ喰いがくれる魚と比べると鼠とは貧相だけど、今日はこれしかない。明日は魚を持ってきますから、と思っては港での出来事がまた浮かんで、もしかしたら明日からはないのかもしれないと思った。
「どうにか、ならないかな」
 できることならもう一度くらいあの親子に会いたい。魚はもらえなくていいから、ヒトデ喰いの子供に頭を撫でてもらって、そして子供と共に僕を見つめるヒトデ喰いの姿を記憶に焼き付けたかった。
 短い間とはいえ、あの親子のお陰で僕は心身共に生き生きと過ごせたから。記憶に焼き付けておけば、きっとこれからの孤独は軽減される、ような気がした。
 でもやはり……。
「会いに行って追い返されたら、立ち直れないかも」
「何かお悩みかい?」
 突然、降ってきた声に反射的に辺りを見回す。しかし何も居なくて、僕はとりあえず耳を立てる。僕と同じ言葉だったから、狐か……? でも姿を見つけられないし、獲物もいないような場所に来るだろうか。
「上だよ上」
 その言葉に顔を上げれば、そこには太陽を背にこちらを見下ろす狐と目が合った。
 それだけならば僕の驚きは一瞬だけだったかもしれない。しかし声を掛けてきた主だろう狐の全貌を見て、僕は文字通り飛び上がった。
「ああっ、襲ったりしないから逃げないでっ」
 慌てて呼び止める狐は乗っていた石台から降りてくる。ふわりと動作に合わせて揺れた体毛は黒々とし、それを纏う体は僕の倍くらい大きい。そしてそんな体の大きさに見合った大きな尻尾は、なんと二房に分かれていた。
「尻尾が、二つ?」
「ああこれは生まれつきだから気にしないで」
 大きな黒狐はその風貌に似合わず、柔和な笑顔と声音でそう言いながら首を傾げた。尻尾は生まれつき、にしても他の狐と明らかに違うそれを気にするなというのは少々難しい。
「おいジョジョ、まず自己紹介済ませたらどうだ。正体がわからず困惑しているぞ」
 背後からまた違う声が聞こえて体が強張る。前方にいる黒狐に気を取られてはいたけど全く気配を感じなかったぞ。
 まさか背後に隙を作ってしまうなんて。未だ体が強張りつつ後ろを窺おうとすると、頭上を何かが飛び越えていった。
 次から次へとなんなんだ。
 思わず強張る体を無理やり屈ませていると黒狐の隣に何かがいるのに気付いて、視線だけ上げる。
「ディオだって彼を困らせているじゃあないか」
「まさか。おい子狐、顔を上げろ」
 そう言ったのは金色に輝く体毛を持ったこれまた大きな狐だった。あまりの輝きにたじろぎそうになるが、声からして先ほど背後から声を掛けてきたのはこの金狐だと知れる。
 黒狐に金狐、今まで見たことない毛色の二匹に警戒しつつ、とりあえず言われた通りに顔を上げる。
「我が名はディオ。そして隣の礼儀知らずはジョナサン」
「自己紹介するタイミングを見失っただけだよ……初めましてではあるんだけど、僕らはお世話になってます、にもなるのかな。」
「……どこかで、会いましたか?」
「うん、毎日会ってるかな。いつもお魚を分けてくれてありがとう」
 こんな二匹に会えば忘れることはまずないのに僕は全く覚えていない。しかも毎日だって? 彼は何を言ってるんだ。
「自己紹介をしっかり済ませてからにしろと言ったんだが全く……俺とこのジョジョはここ、稲荷神社を守る稲荷狐だ」
「稲荷狐、ですか?」
「ああ。証拠に通常の狐にはあり得ない、尾がふたつあるだろう」
 言いながら金狐……ディオは脇から大きな尻尾をふわりと二本見せてきた。ジョナサンと呼ばれた黒狐も尻尾が二本あった。尻尾が二本ある、すなわち稲荷狐だと決定づけていいのやら。しかしいつもお稲荷さまの石像が乗っている石台を見れば、そこにあるはずのお稲荷さまがいなくて僕は目の前の二匹をまじまじと見た。意識すると確かにどこか神々しい気がしてくる。
 なるほど、この神社のお稲荷さまなら僕は毎日会っているし、魚もわけている。
 でもたとえお稲荷さまだとして、何故いきなり僕の前に現れたんだ?
「あの……僕が何かしましたか?」
 罰当たりなことはしてないはずだけど。いや、今まで僕はここの社を許可なく使っていた。御神体や賽銭だけは弄ってはいけないと過去に母から教えてもらっていたからそれは守っていたんだけど、それでも駄目だったか。
 注意や警告だけならばいいけど、神様のお供であるお稲荷さまは容赦ある者だろうか。
「いや特には。でも、今日はとても悩ましげに見えてね。これはいい機会だと話しかけてみたんだ」
「いい機会?」
「ああ、言葉足らずな上にちょっと不適切だったかな。この一月ほど、君は僕ら稲荷狐にお供えを続けてくれた。僕たちはそのお礼をしたく機会をうかがっていたんだ」
「あの……僕はお供えだけですから、そう大層なことはしていませんよ」
「それがね、大層なことなんだよ。僕ら稲荷狐に限らず神様や神獣は信仰心によって存在できるんだ」
「はあ、」
 神様の話はよくわからない。神というものは何に対しても存在する、なんて言うので神様とは身近にいるのかもしれないけど彼らの事情に狐は無縁である。
 お供えが大層な信仰心になって、お稲荷さまが存在できるねえ……
「結論を言えば、君のお供えが僕らを生かし、元気付けてくれたんだよ」
「お供えしただけで、ですか」
「ここ二十年、地主さんが数ヶ月に一度様子を窺いにくる程度で人っこ一人来なかったからね。そんなところに君のお供えは神の恵みのようだった」
 貴方がたは限りなく神様だろうに、なんて言葉が浮かんだが隣のディオが呆れた様子でジョナサンを見ていたのでその言葉は飲み込む。しかし二十年か、そう思うと大層にもなるのか。
「だから僕は君にお礼がしたくて。悩み事があるなら僕らの力で解決してあげるよ」
「ちから、ですか?」
「うん。僕とディオは稲荷狐、神様ほど有能じゃあないけど能力を活かせば君のお役に立てることもあるかもしれない」
「このディオはあまり乗り気じゃあないがね」
「ディオ!」
「だが子狐に借りを作るのも癪だ、今回だけは力を貸そう。これでイーブンだ……貴様は何に悩み、それに対して何を望む?」
 悩みと望み。ディオの言葉と視線にヒトデ喰いの親子の姿を思い出して、僕は口を開きかける。
 もう一度彼らに会うためには僕はどうすればいいのか。このまま僕が会いに行けば追い返される可能性があるから、僕は悩んでいるのだ。僕が姿を現したら、きっと……だから僕ではない僕が会いに行けば、また彼らと対面できるんじゃあないか?
「僕を、人間にしてくれませんか」
「人間?」
「はい。人間になって、会いたい人がいるんです」
 ヒトデ喰いと同じ人間なら、まず僕だと知られることもない上に警戒されにくく話も通じる。咄嗟に思いついたけど、なかなかいい案だと思う。
 だがしかし、いくらお稲荷さまとはいえそんな容易く他の生き物にできるのだろうか。
「人間か、それなら大丈夫だよ」
 僕が抱いた心配を余所にジョナサンはあっさりそう返してきたのでほっと小さく息を吐く。すごいんだなお稲荷さまって、こんな子狐を人間にできるんだから。
「その願いはジョジョ、君だけで叶えてやるんだな」
「ええっ!? なんだって僕だけなんだい?」
「人間なんて低俗な生き物にしてやるなんて俺は願い下げなのでね」
「そんな……困ったな」
「困ったって、大丈夫だったのでは?」
 先ほどあんなにあっさりと大丈夫だと言っていたのに、ディオが協力しないと言った途端にジョナサンは難色を示した。
「その、僕だけでは君を人間にする力はないんだ」
「そんな……あのディオ、人間になるのはどうしても駄目ですか?」
「駄目だね。それに、手段さえ選ばなければ、俺の手を借りなくともできるんじゃあないかねジョジョ?」
「それは、そうだけど、」
「それはなんですかジョナサン」
 人間に、別の生き物になるのだ。手段を選べないのは仕方ないと思うし、その結果何かしら代償があっても僕は文句はない。皮肉にも僕に何かあっても心配するような身内はいない。
 顔を近付けてジョナサンに詰め寄ると彼は耳を垂らしながら視線を逸らした。
「ジョナサン?」
「人間になる方法は、確かにある。でもそれには条件があるんだ」
「条件?」
「それは僕の血を受けて、稲荷狐にならなければいけない」
「僕が稲荷狐に?」
「そう。僕だけの力では生き物を他の生き物に化かすことは無理なんだ。でも君が稲荷狐になれば変化の術が使える。もちろん、人間にも化けられる」
 お稲荷さまとは人間に化けられるんだ。なるほど、そういうことか。しかしジョナサンが渋い顔をしているところを見ると、稲荷狐になるのは難しいようだ。
「稲荷狐になるにはどうすれば?」
「それは僕の血を君が一滴でも舐めればなれるよ」
「そんなに簡単なんですか」
「これでも一応神獣だから血液一滴でも効果絶大なんだ。しかし稲荷狐になってからが問題なんだ」
 むう、と小さく唸るジョナサンを無視するようにディオが石台へ戻って行く。彼は先ほどの発言の通りに僕を人間にするという願いだけは聞かないようだ。
「僕ら稲荷狐は信仰心だけではなく主がいないと存在できないんだ。ちなみに僕とディオが仕える主はここの神社の神様。主がいることで僕らは主を守る役目ができ、存在する理由ができる」
「それは、つまりどういう?」
「稲荷狐になったら早く仕える主を見つけなけないと徐々に力が衰えて、最終的に消滅してしまうんだ」
 有能なお稲荷さまになるのはとても簡単で、変化の術も使えるのに何故渋い顔をしていたと思ったらやはりそれなりの代償があるのか。
「稲荷狐に限った話ではないけど、神様というのは誰かに認知されてその存在を維持でき、力も発揮できる。だから君のお供えは僕らにとって大事になった。逆にいえば誰からも必要とされず認知もされなければ消滅となる、ということ。力が衰えるのはゆっくりだし、仕える主を見つけるのはすぐじゃなくてもいい。でもいずれ見つけ出さないと消滅してしまうリスクがある。それでもいいなら、君は人間になれる」
 どうする? 窺うジョナサンの瞳は若草色をしていて、似た色を持つヒトデ喰いを彷彿させる。ああ、でもヒトデ喰いは同じ緑でも何か違ったような……もっと水のような深さがあった気がする。あの眼差しは最初こそただただ恐ろしかったけど、何度か会う内にその深さには慈愛の念があると知った。
 それは控えめながら僕を惹き付けて、不思議な高揚を覚えたものだ。あの高揚は一体何なのかわからない。でも決して悪いものではなく、僕はその時の心情を思い出しては小さく息をついた。
「僕は、人間になりたいです」
「手段はひとつだけ、だよ?」
「承知してます」
「稲荷狐になるんだね」
「……はい」
 僕がどうなっても悲しむ者はいないし、僕もいつ何がある身かわからない。命あってのなんとやとよく思ったが、ただどうなるか分からない未来に向けて生き長らえるのもどうかと思えた。
 それならば望むままに生きてみてもいいんじゃあないか?
「君は幼いけれど、考えあって行動できる子だと思ってる。だからどのような結末になろうとも受け入れる覚悟もあると思っている」
 ジョナサンは言いながら突然自身の前肢に噛みついた。途端に噛みついたところから血が滲んでくる。
「ジョナサンっ」
「一滴でいい、僕の血を舐めるんだ」
 そうか、血を受けることで僕は稲荷狐になれるのか。
 慌てて血の滲む脚を舐めると、当たり前ながらその味が口内に広がって……
「……っ、…?」
 急に脚が震え、力が入らずに地に伏す。力が出ないことに疑問を抱く間もなく喉が焼けるように熱くなり、火花が散ったように目がちかちかする。そんな僕に傍にいたジョナサンが何か言っていたけど、荒くなってきた自身の息遣いで聞き取れない。
 一滴で効果があると言っていたけど、これは大丈夫なのか? そんな不安を覚える体の異常に歯を食いしばって耐えた。
「……落ち着いてきたかい?」
 暫くして苦痛が軽減してきた頃、ようやくジョナサンの声を聞き取ることができた。
「はい」
「時間が経てば体の辛さもなくなる、もう少し辛抱してね」
 ジョナサンの大きな尻尾が僕の背中を撫でてくれて、幾分か気分が楽になったような気がする。その動きに合わせて深呼吸を繰り返していると彼の言った通りに体の熱が引いて震えも収まってきた。
 体を起こせば苦しかったことなどなかったかのように身が軽くて、思わずジョナサンを見上げると彼はにこりと笑って僕の尻尾に触れた。自然と触れられた尻尾に視線が移り、そこにあったものに声をあげてしまった。
「尻尾が、ひとつ増えてる」
「これが稲荷狐の証。君は無事に稲荷狐になれたよ」
 尻尾を意識してみれば二本あるそれはふわりと揺れる。それでも俄に信じられなくて鼻先で触れてみると、尻尾に僕の鼻が触れる感覚があった。これ、僕の体の一部なのか。
「これで人間になれるんですか?」
「うん。なりたいものを頭の中に意識して、自分はこれになるんだと強く念じていれば変化できるよ」
 変化するとはそんな簡単なのか。とりあえず僕は言われた通りに人間の輪郭を想像しつつ、願掛けするように目を瞑って念じる。すると急に肌寒くなり、寒さと違和感に僕は目を開けると僕を見上げるジョナサンと目が合った。
「ジョナサン、小さくなってませんか?」
「君が大きくなったんだよ! ちゃんと人間に変化できてる、初めてなのにすごいじゃあないか!」
「人間に?」
 前肢を確認しようとすると人間の手が視界に飛び込んでくる。意識してみるとその手は思うままに動いて、僕はついに自身の頬に触れた。
 触れている触れられている感触があるのに、いつも体に纏っている体毛の感触はない。顔に毛がない。いや、顔だけではない。自分の体を確認すれば頭部と陰部を除いた全身に毛がなかった。
「人間になれたんですね!」
「ああ。人間になった感想はどうだい?」
「かなり、寒いです」
 寒さのあまり剥き出しの肌が鳥肌立つ。なるほど、人間は体毛が極端に少ないから衣服を着るんだな。しかし寒い。どうしたものか。
 寒いのを誤魔化すよう自身の体を抱き締めるようにして腕を擦っていると、どこからともなく大きな布が投げられた。
「これは……」
「人間に化けるならば洋服込みではないと変人扱いされるぞ」
 先ほど離れていったディオが再びジョナサンの隣に現れる。
「そいつは松の葉でこさえた『学生服』というやつだ。人間にするのは御免だが、全く借りを返さないままも気分が悪いのでね。そいつをやろう」
「やっぱりディオは優しいね」
「優しいんじゃあない。俺は律儀なのだよジョジョ」
 ジョナサンに唸るディオと相変わらずにこにこと笑っているジョナサンを傍目に、濃い松の葉色をした学生服という衣服に袖を通す。厚手の生地は冷たい空気を遮断し、これならば冷えかけた体もすぐに暖かくなりそうだ。
 二匹に聞きながら学生服を着込めば、人間の僕にあつらえたように大きさがぴったりだった。
「ありがとうございます。ジョナサン、ディオ」
「ふん。そういえば子狐、お前には名前はないのか」
「そうそう名前!名前がないと不便だし、それは人間になるならなおさら必要を覚えるよ」
「名前は、ありません」
 基本、単独で生活する僕ら狐には名前の必要性がない。僕には兄弟はなく、母しかいなかったから尚更だけど、僕に限らず個を区別する名前を持つ狐はいなかったように思う。
「困ったな」
「そんなに重要なんですか?」
「うん。人間は産まれて間もなく名前を授かる。だから名乗る名前がないと人間に怪しまれてしまうよ」
「そんな……でも名前なんてすぐに思いつかないし……」
 名前の必要性を感じなかっただけに思いつく名前が全くない。だが名前というものは個を表すもの、あまり変なものでは良くないはず。
 でも、いい名前、とは?
「カキョーイン・テンメイ」
「か?」
「カキョーイン・テンメイという名前はどうだ子狐」
 どうにか捻り出そうと考えていたところ、ディオがある名前を口にした。カキョーイン、テンメイ? なんだか長くて大層な名前に思うけど、ディオの趣味なんだろうか。
「花京院典明って先々代の地主さんの名前じゃあないか」
「ああ。俺が敬意を払う数少ない人間でもある。奴の名前ならば験担ぎにもなるだろう」
「彼はこの神社を修復してくれたりといい人間だったからねえ……僕もいい名前だと思うんだけど、どうかな?」
 二匹に薦められて、そして人間の名前の良し悪しがわからない僕がその「カキョーイン・テンメイ」という名前を拒否する理由はない。それにいい人間だったと言われる人物の名前をいただけるのだ。
「僕もいい名前だと思います」
 どう良いのかと言われたら名前に込められた意味はわからないけど、僕がそう返せば二匹の顔に好気の色を感じた。
 そうして名前が決定した後、学生服を着ているなら鞄や革靴があればいいとディオが松の皮で学生鞄、先ほどお供えした鼠の皮で靴を作ってくれた。器用だなディオって。僕も練習したら作れるようになるのだろうか。
「僕からも……はい、これ」
「ほう。ジョジョにしては考えたな」
 ジョナサンは肉厚な椿の葉で作った小さな紙をくれた。それは紙にしては容易に折れ曲がりにくい固さがあって、紙面には文字と人間の顔が描かれていた
「この人間は誰ですか?」
「ああ、鏡がないからまだ見てないのか……これは人間の君だよ花京院」
「これ、僕なんですか」
 紙面の人間をまじまじと見つめる。その人間は元の僕と同じ朱色の頭髪を持ち、つり目気味の瞳は雀の体毛のような柔らかな茶をしていた。口は大きめで、我ながらなかなかの男前に化けたものだ。
「この厚紙は『身分証明書』というものでね。人間に正体を怪しまれたらこれを見せれば、花京院の身分を保証してくれる」
「そんなものがあるんですね。この文字はなんて書いてるんですか?」
「『ぶどうヶ丘高校普通科 花京院典明』と書いているよ。ぶどうヶ丘高校とはこの神社の最寄りの学校。君が化けた姿が高校生っぽいから勝手につくってしまったけど……どうだい?」
 どうだい?と問われたけどコーコーセーもよくわからない僕としては、この紙面には書かれているものが僕らしいとジョナサンが思うのならそれがいいと思う。人間についての知識が乏しい僕が人間としての設定を考えろ、と言われたって名前同様にぱっと思いつかないだけに助かるくらいだ。
 それで……ええと……?
「僕は、その、どこの誰、でしたっけ」
「やれやれ……子狐、貴様はこれからぶどうヶ丘高校に通っているカキョーイン・テンメイという人間になるのだ。しっかり覚えてないと墓穴を掘るぞ」
「は、はい」
 上手く答えられなくてヒトデ喰いに警戒されるのは嫌だから、それは気を付けないと。ぶどうヶ丘高校のカキョーイン・テンメイ…僕の名前は花京院、典明……。

「今回は本当にありがとうございました。このご恩はどう返せば良いか……」
「いいよいいよっ お供えのお礼として僕らからしたことなんだから」
「だが、どうしても恩を返したいと言うなら、これからも変わらず魚を献上しても良いのだぞ花京院」
「全くディオは…そういうのは気持ちだけで十分だから気にしないでね」
 それはすなわち、魚をお供えすれば喜ばれるに違いない。これからも変わらずお供えしておこう。
 そうなるとこれからは頑張って狩りを行わないと……今までの魚はヒトデ喰いからもらっていたけど、これから会えたとしても魚は貰えない。しかし魚は僕だけでは厳しいから鳥でもいいかな。神社の下にある公園でならば鳩がいるし、こちらの技量さえあれば捕まえられる。
「最後に花京院、片手を出せ」
「手、ですか」
 脈絡なくなんだろうと思いながら言われた通りに手を出すとディオが尻尾から何かを取り出した。あれは、先の尖った石だろうか?いや、石というより、刃物にも似ているような……?
 何なのか窺っているとディオはその尖った先を僕に向けて突っ込んできた。反射的に手を前に出して顔を防御すると、手のひらに痛みが走る。
「痛っ!いきなり何をするんですかっ」
「衣服だけでは物足りないと思ってな。どうか導きがあるように、花京院」
 そう言い残すとディオはひらりとひとっ飛びして石台へ乗ると、元のお稲荷さまの石像になってしまった。
 傷つけられることで導きがある? お稲荷さまのおまじないだろうか。
「大丈夫かい花京院」
「大して痛くないし、かすった程度のようなんで大丈夫で……、」
 言いながら手を差し出してみると、負傷したと思っていた手には傷ひとつなくて反対の手も見てみる。しかし両手ともつるりとした毛も怪我もなくて僕は疑問に首を傾げた。
 僕と同様に一連の流れを見ていたジョナサンは僕の両手を確認した後、口を開いた。
「……もしかしたら近い日に、見知らぬ存在が君の傍に現れる」
「僕の、傍にですか?」
「驚くだろうけどそれは悪い存在じゃあない。でももし、それが現れて困ったことがあったらもう一度、僕かディオに声を掛けるんだよ」
 いいね?
 ジョナサンの言う存在が少し恐ろしくあったけど、僕を見上げる彼の瞳は優しくて。僕は不安を口にはできずにひとつ頷いた。

   ◆◆◆

「きょう、きつねくるかな」
 調査用のヒトデと一緒にかかった魚を見つめながら、ぽつりと徐倫が呟いた。その言葉は昨日に俺が触りすぎて狐が逃げてしまったことからくるとわかるだけに、徐倫の呟きに返す言葉がない。野生種ならもう来ない可能性が高いができることなら今日も変わらず来てほしくもあり、俺は横目で陸を眺めた。
 しかし、そこには小さな朱色の毛玉はいない。
 今日はいい魚が紛れてるんだ。来なければ損するぞ、早く来なければ海へ放るかカモメにやるぞ。
 ヒトデと魚を分別しながら、白く丸い腹を持つ一匹の魚をバケツに放る。あの腹ならば脂がのってうまそうだ。もし狐が来たならばこいつをやろう。
 不意に、船上に集まっていたカモメが一斉に空高く飛んで行く。この光景はあの狐が来ると必ず見る。やれやれ、どうやら俺の杞憂であったか。
 俺が視線を上げると同時に徐倫が船の端まで走ってゆき、そこでぴたりと止まってしまった。
「徐倫?」
 いつもならば躊躇なく船から飛び降りる彼女に不思議に思いながらその小さな背中に向かって行くと、その向こうに見えた者に俺の歩みも止まってしまった。
 てっきりいつもの朱色の狐かと思っていたが、陸にいたのは一人の青年だった。明るい朱色に近い赤毛の髪は前髪が一房だけ長い少々変わった髪形をしており、毛色に対比するような濃い緑色の学生服を纏っていた。見た感想としてはどこかの高校生のようだが今は平日の午前中、何の用でこんなこんな場所に来たのだろうか。
 それとも不審者か?
「こんにちは、魚を獲ってるんですか?」
 そんな俺の警戒の念に気付いてないのか、学生は微笑を浮かべながらそう声をかけてきた。
「そうだが、何か用かな。見知らぬ顔だ」
「あ、その、特に用はないんですが、珍しいと思って」
 学生の言葉に、そういえば確かにそうかもしれないと思う。漁をするにはあまりに明るい時間で、船に乗っているのは俺と徐倫の二人しかいない。父子だからクルージング、と解釈するにもこの港は観光要素は一切ない静かな場所だけに学生の目を惹いてしまったのかもしれない。
「私はここで海洋生物の調査をしている」
「かいよう……魚のことですか?」
「ああ。そして厳密に言うと私は魚ではなくヒトデを捕獲し、研究材料としている」
「はあ、」
 学生はいまいち話がわからないという顔をしつつ、それでも自分は理解していると示すように首を傾げた。今時の高校生には海洋生物調査と説明してもよくわからないのだろうか。俺も高校時は海洋学など知りもしなかったから、もしかしたらそうなのかもしれない。
「あの、あの、ちょうさ、頑張ってください!」
 わからないなら少し説明してやった方がいいのか。なんて考えていると学生はそう言いながら手を大きく振って踵を返す。そしてこちらに振り返ることなく、あっという間に貨物船倉庫の方へ走り去ってしまった。
「あのおにいちゃん、ダディのしってるひと?」
「いや、知らないが……」
 気になったから声を掛けてきて、調査をしているとわかったから激励の言葉を述べて去っていった。別にそうおかしい流れではない。あの学生は見覚えもなく初対面だから、尚更であるだろう。
 しかし走る足取りに合わせて靡いたあの長い前髪はどこかで見たようなデジャヴを覚えて、俺は言葉尻を濁して黙ってしまった。
「あれ、」
 俺と同様に黙っていた徐倫が陸を見下ろして、そして船から降りて行く。
「どうしたんだ」
「なんかおちてる」
 彼女が降りた場所のすぐ近くに、日を反射してきらりと輝くものが見えた。それはカードのようだが、こちらからではそれに何が書いてるのかよくわからない。徐倫はそれを拾い上げて、こちらに掲げて見せてくれた。
「さっきのおにいちゃんのおとしものみたい」
 カードには先ほどここにいた学生の顔写真が貼られており、船から降りて近くで確認すればそれはぶどうヶ丘高校の学生証だと知れた。
 ぶどうヶ丘高校普通科二年、花京院典明……仗助と同じ高校の生徒か。
「なんてかいてるの?」
「ぶどうがおかこうこうにねん、かきょういん、のりあき。だな」
「ぶどうのこうこうってじょうすけとおんなじだ! もしかしてじょうすけのおともだちだからここにきたのかな?」
 そいつは考えにくい。第一に仗助と先程の花京院という奴は学年が違う上に、普段仗助は他学年の話を滅多にしない。するとしたらスタンド使い関連くらいだ。ならば逆も然りで、他学年の者には俺の話をした可能性はかなり低いだろう。それに加え、あの学生、花京院の様子だ。もし仗助経由で俺たちの事を知ったなら、仗助の名前を出せばこちらへ話しかけやすいだろうにそれをしなかった。
 何があったわけではないがなんとなく引っかかる学生だな。
「ねえダディ、これなくしたらこまるかな」
「多少は、困るだろうな」
 免許証や保健証ではないだけそこまで悪用されないだろうが、学生は学生なりに身分を証明しなければならない時はあるはずだ。だが幸いにもぶどうヶ丘高校ならば仗助という知り合いがいる。こいつを仗助に託せばすぐに花京院という学生の手に戻るだろう。
 ならば、昼の調査が終わったら東方家に寄るか。そう計画を立てていると、学生証を持っていた徐倫が貨物船倉庫に向けて走り出した。
「じょりーん、そのカキョーインっておにいちゃんにこれ、とどけてくる!」
「待つんだ、それは俺が後で、」
 仗助のところへ持っていくから。と言ってる間にも徐倫の足は止まらず、小さな体は倉庫の間へするりと入ってゆくので俺は慌ててその背中を追う事にした。

   ◆◆◆

 ああ、どうしよう! 変に思われてるかもしれない。
 貨物船倉庫の奥に走り込んだ僕は膝を抱えるようにしゃがみこむ。そしてつい先ほど会ったヒトデ喰いの親子の様子を思い出しては大きな溜息が出てしまった。
 狐ではない僕なら彼らに会える。それだけが先行してきっかけなど考えずに船の近くまで行ってしまったけど、いくら同じ人間だからといって初対面で脈絡なく声をかけたら警戒される可能性がある。狐同士だって、初対面でいきなり近付いてきたら驚くんだ、流石に人間だって同じだろう。そしてあの親子は船から降りようともしなかった。ちょっと変な奴認識くらいだったらいいけど、要注意人物と判断されていたらどうしよう。それだと次は猫にでも化けないといけないのかな。折角ディオには衣服を、ジョナサンには身分証明書を作ってもらったというのに早々にお役がなくなってしまったのか。
 再び大きな溜息が出て、僕は膝に顔を埋めた。こんなことなら一日計画を練ってから彼らに会うべきだった。僕はヒトデ喰いを知ってるけど、彼らは人間の僕を知らないのだ。知らないからこそ再び対面できるのだが、知らないからこそ関わるきっかけが必要になるっていうのに。
「はああ……」
 溜息が絶えない。後悔先立たず、それは昨日のヒトデ喰いとの触れ合いで痛感したはずなのに全く学習してなかった自身を恨みたくなる。明日こそはちゃんとしないと。それには今から計画を立てないと。一応今日は不審気味ながらも挨拶はできたから、そこから話を繋げるか。いや、それとも全く別の話をしてみようかな。そういえばヒトデ喰いの言う『ちょうさ』とは何だろう? それを問うのもいいかもしれないな。
「……ん?」
 小さな音が聞こえたような気がして、顔を上げて耳を澄ませる。人間の耳は立てられない分、狐の耳に比べると音の収集が良くないが、それでも微かに聞こえる音はどうやら何かの足音らしい。倉庫だし……住み着いてる鼠や猫か? それにしては小動物にしては少し重い足音のようだし、なんだか地面を蹴る足音の少なさに違和感を覚える。これは何か、違うな。でも何の足音だ?
 全く正体の見当がつかない足音は少しずつこちらへ近付いてくる。足音の様子だと小動物より重いけど、かといって鹿ほどの大きさでもなさそうだな。
用心して立ち上がると、僕は出入り口の傍に素早く移動して外を確認する。人間は体は大きくて力もあるけど、二足歩行なため瞬発力が良くないのがネックだ。足音の主の匂いがわかれば動きやすいんだけど、倉庫の中は色んな匂いが混じっていてよくわからない。
 いっそのこと一時的に狐に戻って、さっさと退散してしまおうか。未だ不慣れな人間の姿で悪戦苦闘する羽目になるよりずっといい。
 そうとなれば早速戻ろう。変化を解こうと意識しようとして、視界の端に見えたものに意識が引き寄せられる。その見えたものをようく見れば、それはなんとヒトデ喰いの子供だった。
 なんでまたこんな場所に来たんだ? 不思議に思っていると、その小さな手には僕が持っていたはずの身分証明書があった。あれは確か、ズボンのポケットに入れたはずなのに。しかし探ってみてもポケットからは身分証明書は出てこなかった。もしかして先ほど港で落としてしまったのか? 初日にしてそんな失態までやってしまったのか、これは計画性以前の問題だな。
 反省の連続に項垂れていると、ヒトデ喰いの子供の足音が止まった。隠れているつもりはなかったからこちらに気付いたかな。
 しかし顔を上げて子供を窺えば、僕の方とは全く別の方向を向いており、疑問に僕も子供が見つめる先へ視線を向けた。
「あっ」
 その先にいた存在に、つい声を上げてしまう。それは僕の声に小さな耳を動かしながらも子供をじっと見つめた。
 あれは、狸にとても似ているけど違うな。狸にしては明るい毛色をしているし、薄暗い倉庫の中でもわかるほどの鋭い爪を持つ奴は狸なんかじゃあない。あれは狸によく似ている『あらいぐま』という外からきた動物だ。僕は実物を見るのは初めてだけど、母親からは何度か話を聞いた。あらいぐまは高い順応性により、数年でその数を一気に増やした種族だという。そして狸に見目似ているが、狸とは比べられないくらい気性が荒く、あらいぐまに出会ってしまったら関わることなく逃げるようにと言われたくらいだ。
 そんなあらいぐまがヒトデ喰いの子供の傍へ寄っていく。子供は子供であらいぐまの危険性を知らないのか、近付いてくるのをじっと見つめるばかりで逃げようとしない。熊のような歩き方をする脚先には変わらず剥き出しの爪が見えて、きっとあんな爪に引っ掻かれたら人間であろうともひとたまりもないと知れた。きっと、あの子供の柔らかそうな皮膚なんて、簡単に裂けてしまう。
 その光景を想像してしまう前に、僕の足は子供とあらいぐまへと歩んでしまった。向けられる二対の瞳に、思わず唾を飲み込む。ここで僕に注視してる間に子供が逃げればいい。
 すると途端にあらいぐまの移動速度が速くなり、僕などいないが如く子供に飛び掛かっていった。
「危ない!」
 咄嗟に僕も子供に向かって飛び掛かる。体が大きい分踏み込みも大きくて、手を伸ばせばすぐに子供は僕の腕の中に収まった。飛び掛かった勢いで子供を抱えながら床へ転がる。
「おにいちゃん?」
「君、あらいぐまは危ないんだぞ!」
「あれたぬきさんじゃあないの?」
「違うよ!」
「えーっ」
 緊張感がない声に思わず溜め息をついた。
 人間の子供は警戒心がなさすぎるし、知識も乏しすぎる。狸だって、あらいぐまに比べたら穏やかだし子供に対しても優しい傾向があるけど、全く手出ししてこないわけじゃあないのに。
 あらいぐまの方を見れば、一匹しかいないと思っていた奴が奥からまた何匹も出てきた。鼻が利かないだけに数がわからない……しかも、こちらを襲う気満々だ。僕と子供だけなら勝てると判断したのか? 相手の数が六匹か、あの数なら勝率の方が高いかもしれない。
 全く舐められたものだけど……逃げ切れるか自信はない。人間は狐に比べて体がでかいだけに小回りが利かない。今いる倉庫では不利な要素ばかりだ。
 でもなんで敢えて狙うんだ? あらいぐまは雑食だけど流石に人間は食べないだろうに。考えている間にもあらいぐまは距離を詰めてくる。小回りが利かないのもあるが、子供を抱えている状況はなおのこと不利にさせる。様子を窺いながら後退りし、倉庫の出入り口へと向かう。襲ってこないよう、出来るだけ刺激しないようにしないと。
狭い倉庫の出入り口はそう距離もなく、すぐに近くまで行くことができた。あと数歩下がって、片足が出ればどうにか逃げられるはずだ。
「何してるんだ」
「っ!」
 あらいぐまに集中していたところに背後から声をかけられて驚きに歩みが止まる。それはこれまでこちらににじり寄ってきたあらいぐまも同様だったのか、あっという間に奥へ引っ込んで行った。
「ダディ!」
「だでぃ?」
 腕の中の子供が背後へ手を伸ばしたので釣られて振り返れば、そこにはあのヒトデ喰いが僕を見下ろしていた。更なる驚きに固まっていると子供がするりと地へ降りて行き、ヒトデ喰いの元へ駆け寄って行った。
「ダディくるのおそいよ」
「すまない。いくつも倉庫があるんだ、特定するのに時間がかかったんだ」
「じょりーんはばっちりみっけたよ?」
 そして子供が僕を指差し、ヒトデ喰いも僕を見つめてくるので自然と背筋が伸びてしまった。
「……どうも」
「先ほど振りだな。徐倫、彼に学生証を渡したか」
「まだだった! おにいちゃん、わすれものあったんだよ」
 再び僕の傍へ来ると子供は手に持っていた僕の身分証明書を渡してきた。
「もしかして、届けに来てくれたのかい?」
「だってこれってだいじなんでしょ? ないとこまっちゃうじゃん!」
 一向に受け取らない僕の手を取って、子供は身分証明書を押し付ける。撫でられている時も思ったことがあったけど、毛もないのに柔らかい手だな。あらいぐまなんかに引っ掻かれたらどうなっていたことやら。
「ありがとう……その、」
「じょりーんはね、くーじょじょりーんっていうの!」
「じょりーん…ありがとう、徐倫。僕は花京院、」
 ……あれ…花京院、なんだったかな。覚えるようにと言われたけどジョナサンやディオは専ら僕を『花京院』と呼んでいたから。ええと、なんだっけ。
「かきょーいんのりあきでしょ? ダディにおしえてもらったよ」
「そうそう。僕は花京院典明というんだ」
 良かった。僕とは違い、ヒトデ喰いはちゃんとした人間だから身分証明書に書かれている僕の情報が読めるのか。僕の名前はかきょーいん、のりあき。今度こそ覚えておかないと。
「用は済んだ、戻るぞ」
「はあい。かきょーいんのおにいちゃん、こんどおとしてもじょりーんみつけられないかもだからおとさないようしないとダメだよ!」
「ああ、気をつけるよ」
 出入り口に立つヒトデ喰いの隣に子供……徐倫が並べば、彼女の小ささが際立つ。きっとその小ささに見合った力しかないだろうに、先ほどの場面で一人きりだったらどうなっただろう。
「……あの、戻る前にいいですか」
「なんだ」
「先ほど、アライグマが徐倫に近付いてました。アライグマは小動物を襲う危険な奴なのに、襲われたらどうするつもりだったんですか」
 思い出せば今回に限らずカモメの一件だってそうだ。あれだってヒトデ喰いほど大きな人間が傍にいれば小さな徐倫を襲うこともなかったはずだ。ちょうさ、というものをしているようだが小さな我が子を守るのが親の役目。そしていつも徐倫を慈しみ込めて見つめるくらいだから、もしも彼女が傷付けばヒトデ喰いも嫌だろうに。
「その……身分証明書を届けてもらって助かりましたが、ひとりで行動させない方がいいですよ」
 ひとりで行動させた結果として徐倫に何かあったなら親として無責任だ。そんな気持ちを込めて睨み付ければ、ヒトデ喰いの眉毛が小さく跳ねた。怒ったかな。でも徐倫を想うような眼差しを向ける彼に好気を覚える僕は許せなかった。
「肝に銘じておこう」
「僕が言いたいのはそれだけです」
 許せないとはいえ、大それたことをしてしまった。言った直後に後悔の念が押し寄せてきて、居たたまれなくなった僕は出入り口へ向かう。
帰ったら今度は猫に化ける練習をしよう。こんな口を利いた手前、もう人間としても会えない。
 ならば早く去ろう。と歩みを早めヒトデ喰いの横をすり抜けようとすると、腕を掴まれてしまった。それはがっしりしたヒトデ喰いの手で、少し引いたところでびくともしなかった。
「なんですか」
 そこまで怒らせたか? でも親として怒られたって仕方ない、と思ってくれ。
「先ほど徐倫を抱えていたが、君が徐倫をアライグマから守ってくれたのだろうか」
「まあ。僕はあの、近くにいましたから」
「そうか」
 目の前で襲われそうになっているのを見てるだけなんて気分悪いだけだし成り行きだ。まさかそれすらも気に食わなかっただろうか。
「それが何か?」
「ありがとう、私に代わって娘を守ってくれて」
 そう一言。腕を解放した大きな手は僕の頭を撫でた。くしゃっと乱れる髪など全く気になれなくてヒトデ喰いの顔を見上げれば、彼は目を細めてこちらを見下ろしていた。それはほんの少しだけ徐倫を見つめているあの視線に似ているように思えてしまい、僕は毛が逆立つような錯覚を覚えた。
「どう、いたしまして……」
 それでも、そんな感覚は嫌悪からくるものには思えなくて僕は大人しく頭を撫でられるしかなかった。
 それから僕はぎこちないながらヒトデ喰いの父娘と会話を交えて別れた。その会話で僕は狐ではまず知り得なかったことをいくつか教えてもらった。
 たとえば、ヒトデ喰いはヒトデを食するためにヒトデを獲っているのではなく、ヒトデを調べるために捕獲していたとか。この地域には調査するために訪れているだけで、本当の住まいはずっと遠くにあるだとか。小さい徐倫は実は僕よりずっと年上の六歳だったとか。ヒトデ喰いの名前は『空条承太郎』だということ。
 これまでヒトデ喰いと呼んでいたのはあくまでも僕や母が使っていた通称であり、人間だから本来の名前もあるのは当たり前だけど不思議な感覚だなあ。くうじょう、じょうたろう。承太郎か。
「花京院は、」
「?」
「花京院は何か用で港に訪れたのか?」
 承太郎の船に戻る途中、ヒトデ喰いもとい承太郎がそう訊ねてきた。ぎくり、と気まずさに一瞬だけ歩みが止まったのを承太郎や徐倫に気づかれてはいないでほしい。
 まさか二人に会いに来ました、なんて言えるわけないじゃあないか。
「普段からあまり人を見かけなくて、珍しく思ってな」
「そうなんですか……」
 確かに僕もほとんど見かけたことなかったし、ごもっともな質問なのかもしれない。しかしそんな質問なんてされるとは考えてなかった僕は勿論答えなんて考えてなかった。だからといって素直にあなたたちに会いに来ましたなんて言えるわけないし、どうするか…ここに来た、理由とは。
「……その…魚を探しに来たんです。」
「魚?」
「はい。あの…僕の恩人が魚を贈るとひどく喜んでくれて、その、また贈りたくて」
 港に来れば魚が貰えて、それをジョナサンとディオにお供えすればお礼をされるほど喜ばれた。だから変わらずお供えを続けようと思っていた。本来の理由ではなかったがそれは嘘ではない。
「魚は魚屋に行った方がいいものがあると思うんだが」
「さかなや?」
「まあいい。魚は希望の種類はあるか?」
「特には。ただ、立派なものならなんでも喜びます」
「それなら……ちょっと待ってろ」
 承太郎は船へ小走りに掛けてゆく。そして船上からバケツを取り出し、こちらへすぐに戻ってきた。あれは、狐の僕が訪れた時に必ず持っているバケツだ。そしていつもそこから魚を取り出して、それを僕にくれるのだ。
 もし記憶した通り、あのバケツがいつものバケツなら魚が入ってるはずだ。
「魚が要るならこいつをやろう。二匹で十分か?」
 言いながら承太郎がバケツの中を見せてくれ、そこには大きめの魚が二匹。しかも何の種類かわからないが、結構上等な魚だと知れた。
「これは?」
「ヒトデに紛れていたやつだ。良ければやろう」
「いいんですか?」
「どうせ逃がすか廃棄だ。何か魚を入れるものはあるか」
「この鞄なら」
「学生鞄に魚をそのまま入れるつもりか?」
「……?」
 俄かに驚きの表情を見せた承太郎に思わず首を傾げる。鞄って物を収納して持ち運ぶものなんだろうに、それともこの薄い鞄では入りきらないかな。
「まあいい、別に袋をやるからそれに入れて持っていけ」
「ありがとうございます」
「徐倫、操縦席の下に何枚かビニール袋がある。その中で大きめのものを持ってきてくれないか」
「でも、ダディそれって……」
「あいつの分はこれから収集する分から寄せる」
「じゃあだいじょぶだね、わかった!」
 ぴょんと身軽に船へ乗り込む背中を見送りながら、やりとりに引っかかる点があるのに気付く。
「あの『あいつ』とは? 先約があるならそちらを優先してください」
「先約も何も私が勝手に用意しているものだ。約束があって寄せているものではないし、君さえそれでいいなら構いはしないんだが」
「良いも悪いも、貰えるだけで十分です」
 こうして二人に会えるのはジョナサンとディオのお陰だから、これからのお供えはどうしようか考えていただけに助かる。人間だから魚は貰えないと覚悟をしていたけど、これはこれでいただけるなら遠慮はしない。
「はい、ふくろもってきたよダディ!」
「ありがとう徐倫。寄せてからそう時間は経ってないが、生ものだからできるだけ早く渡すように。」
「はい、ありがとうございます」
 これが人間の僕とヒトデ喰いの親子改め承太郎、徐倫親子の初対面となった。

 昼を迎え、船上での昼食を終えた頃になると彼は現れる。
 操縦席下にあるバケツとビニール袋を確認した後、甲板にいる徐倫を窺う。彼女は陸を眺めては、貨物船倉庫の方へ視線を移すを繰り返している。そろそろいつもの時間だけに落ち着かないのだろう。かく言う俺も奥で作業をしながら時折外を確認する辺り、どこか浮ついてるのかもしれない。
「かきょーいん!」
「やあ、徐倫」
 奥の作業部屋へ戻ろうとして、聞こえてきた声に再び視線を甲板へ戻した。
 海沿い特有の強風に靡くのは日本人にしては明るい色合いの赤毛と、それに反して地味な深緑ながら目を惹く長い学生服。操縦席から外に出ればこちらに気付いたのか、ひらりと手を振ってきた。
「こんにちは承太郎。仕事は捗ってますか?」
「ぼちぼちな」
 先日魚を探しに来たのがきっかけで出会った花京院典明という高校生は最近ではここの常連となりつつある。そんな花京院は甲板へ乗り込むと徐倫へ木の枝を渡す。
「かきょーいん、これなに?」
「アカシアという木の枝だよ。蕾がついていたからお土産に持ってきたんだ、ちゃんと水と栄養をあげると葉や根が出て綺麗な花も咲くよ」
「ほんと!? ダディダディ! もいっこかびんあったよね? それに入れてあげないと!」
「そう急かすな、今出してくる」
 花京院は昼過ぎに港へ現れては魚を探しにくる少々奇妙な学生で、時折こうして手土産に徐倫が興味を惹かれそうな木の実や花の蕾を持ってくる。この間はコブシの花の蕾がついた枝を持ってきたな。あのふわふわとした蕾は徐倫のお気に入りで、寝泊りに使っているホテルに戻ると彼女は毎日世話を焼くほどだ。
「花瓶を持ってきたぞ。この間のと違って底が深くないから、ホテルに戻ったら移し変えてやらないといけないな」
「ホテルにかびんってある?」
「貸し出してはくれるだろうが、持ち帰るつもりなら後々買う必要がある」
「じゃじゃあっよるにかびんかってねダディ」
「ああ」
 徐倫に花瓶を渡すと早速それにペットボトルの淡水を注ぎ、アカシアの枝を挿した。蕾はまだ固そうだがなかなか様になる。
「うまくいけばとてもいい香りの花が咲くよ」
「そうなんだ! ありがとうかきょーいんっ」
「いえいえ、どういたしまして」
 そんなやり取りを尻目に俺は操縦席下の袋を持ってくると、花京院の顔が僅かに赤らむ。彼がここに来る目的はこの中にあるのだ。
「今日の魚だ。あまり良いものがかかってなかったのでもう一匹おまけしてる」
「すみません、僕こそ貰いっぱなしなのにそんな気遣いしなくても……」
「一匹多くなったところでこちらにデメリットがあるわけじゃあない。遠慮するな」
「どうも、ありがとうございます。」
 そうしてはにかむように笑うので、こちらもつい被っていた帽子のつばを少し下げてしまう。整った容姿と丁寧な口調に仗助などと違って突っかかりにくいタイプかと思えば、年相応に笑うとは。
「ねえねえかきょーいん、きょうもどうぶつさんのことおしえてよ」
 アカシアを奥へ置いてきた徐倫が花京院の学生服の裾を引っ張る。その手には落書き帳と動物図鑑があった。花京院がよく来るようになって、そろそろ恒例になりつつある光景だ。
「この界隈の生き物しかわからないけど、それでもいいかい?」
「いーの! だってダディなんてみたことないおさかなとかヒトデのことしかおしえてくれないんだもん。それよりかきょーいんのはなしのほうがわかりやすいからいーの!」
「それならいいけど、今日は何を教えようかな……」
 二人は甲板に座って図鑑を囲む。花京院はこの地域の動植物に詳しく、アライグマの生態について詳しく話して以来徐倫は気になった動物がいれば彼に話を聞くようになった。
「ねえかきょーいん、かもしかってわかる?」
「かもしかか……僕は見たことないけど、話は知ってるよ。かもしかというのはね……」
 話が始まるとこれがなかなかに長く、正味三十分前後かけて行われる。耳を傾ければ詳しく話すほかに徐倫からの質問へもしっかり答えているので余計に時間がかかるのかもしれない。
 そんな様子を見つつ、俺は操縦席の奥へと移動する。あの二人は話が始まると屋内は暗いだとか言いながら中へと入らないから、何か温かいものでも用意するとしよう。徐倫は最近好んで飲んでいるアップルミルクティーに蜂蜜を入れたもので良いとして、花京院はどうするか。高校生となると好みがわかりにくい。身近な高校生である仗助とその同級生にしてもまだ子供らしく甘いのが好きな者もいれば、それこそ仗助なんかはブラックコーヒーを好んで飲んでいたりする。本人に聞くのが一番早いし確実なのだが、何かと遠慮がちな花京院のことを考えれば俺は閉口して他のフレーバーを確認する。
 無難にアップルティーのストレートでもいいか。甘くもなく苦くもなく、手持ちのフルーツフレーバーの中でも酸味が少ない。船内のガスコンロは一台しかないので、まずは徐倫のアップルミルクティーから用意するとしよう。
 牛乳を小鍋に注ぎ、中火で緩く混ぜながら耳を澄ます。すると微かに徐倫と花京院が話す声か聞こえてきた。それは穏やかでありつつどこか賑やかで、もしも兄弟がいたならこのような感じなのかと想像する。
「兄弟か」
 自身が一人っ子のため兄弟なんてものは無縁だったが、徐倫に兄弟や兄弟のように仲の良い親友がいたなら彼女にとって良いのかもしれない。
 こぽり、といつの間にか沸騰しかけていた牛乳に慌てて火を消し、用意していた茶葉をこす。
 徐倫のために親の俺が何をしてやれるのか。そうして俺はどうだったか考えて、鬱陶しいと思っていた時期もある母親と、滅多に帰ることのなかった父親を思い出す。彼らはお互いを信頼し愛し、俺を育ててくれた。特に父親がいない分も補うほどの愛情を注いでくれた母親は、子供を持った今では偉大な存在だった。母親のようには俺は決してなれないが、せめて徐倫の父親として……、
「ダディ!」
 突如至近距離で聞こえた徐倫の声に思考を深めていたことに気付く。手元に落としていた視線を少し上げれば徐倫が同じように俺の手元を覗いていた。
「やっぱりアップルミルクティーだ!かきょーいんがあまくていーにおいするっていうからダディアップルミルクティーつくってるとおもったんだー」
「外まで匂ったか」
「じょりーんはわかんなかったけどかきょーいんがおいしそうってそわそわしてたの! おはながいーんだって」
「おいしそうと言っていたのか?」
「うん、なにかわかんないけどあまくていーにおい、おいしそうだからきになるなあって」
「そうか」
 ……それなら徐倫と同じアップルミルクティーを出してみた方がいいだろうか。用意した量を確認すれば、かろうじて二人分ある程度だった。
 俺は端に置いていたカップをひとつ近くへ引き寄せると、そのカップと徐倫用の小さいカップにアップルミルクティーを注いだ。
「花京院の分は私が持って行く。徐倫は自分の分を持って行ってくれないか」
「はあい」
「熱いから気を付けるんだぞ」
「わかってるって!」
 カップを受け取ると小走りで甲板へ行く辺り、本当にわかっているのやら。思わずやれやれと呟きながら彼女のあとに続く。どうか急いだあまりカップの中身を溢して火傷なんてことはしないでくれよ。
「あっ!」
 しかし起こってほしくない物事ほど起こるというもので、徐倫が躓いて転びそうになる。
「スタープラチナ、ザ・ワールド!」
 ふわりと背後に現れた影、スタープラチナの出現と共に徐倫を含めた周囲の動きがぴたりと止まる。不自然に宙に浮いている徐倫をしっかり立たせ、今にも中身が零れそうに傾いているカップを直す。
「もういいぞスタープラチナ」
 了解したとばかりにスタープラチナが消えると微かな波音が聞こえてきた。
「……、…っ?」
「次は気を付けるんだぞ」
 不思議そうにしている徐倫にそう言ってやれば、彼女は現状を理解したらしく「大丈夫!」と声高らかにゆっくり歩き始めた。
 徐倫にはスタープラチナをはじめとしたスタンドは見えないがその存在と能力をよく理解してくれており、今も自分が何故しっかりと直立しているのもすぐわかったようだ。そんな柔軟ある感性は子供故だろうがスタンドを持つ身としては助かる。
 そっと歩いている徐倫が甲板側まで来ると、待っていた花京院が窺うように目を瞬かせた。
「徐倫、どうしたんだい?」
「アップルミルクティーもってきたのっ」
「あっぷる?」
「花京院、甘いものは好きか」
「? はい、好きですけど。」
「なら、こいつをやる。徐倫の言うアップルミルクティーだ」
「はあ、」
 普段こういうものを飲まないのか、カップを受け取った花京院はまるで犬のように鼻を近付けて匂いを確認している。そしてすぐに先ほど自身が「おいしそう」と言っていたものだと気付いたようで、ゆっくりと口をつけた。
 途端に花京院は驚いたように目を見開き、また一口飲んではぺろりと唇を舐めた。端正な容姿とはアンバランスなどこか子供じみた仕草につい俺は目を惹かれてしまう。
「これ……あっぷるみるく、てぃーでしたか……おいしい」
 また一口。まるで一気に飲み干すのが勿体ないとばかりにちびちび飲んでいる。そんな彼の頬は紅色し、口許を緩めて笑うものだからなんだか気恥ずかしくなってきた。そんな顔して飲むものじゃあないと思うんだが……。
「だってダディがつくったんだもん、おいしいにきまってるよ!」
「承太郎すごいんだね」
 そして笑みを深めるものだから俺は堪らず操縦席へと引っ込んでしまった。やはり時折見せる笑顔は年相応に子供らしくて愛らしい……いや、愛らしいは男子高校生には不適切か。
 しかし、奥に籠って作業を再開しては、微かに聴こえる花京院の声に先ほどの笑顔を思い出しては手が止まりそうになって、我ながらこいつはおかしいと首を傾げてしまった。

   ◆◆◆

 心が満たされると、日々を過ごすのがこんなに楽しいんだな。最近つくづくそう思う。
 楽しいと住まいにしている神社から港までの道のりさえ違って見えて、僕はゆっくり歩きながら道沿いを眺める。
 今日はアカシアの蕾をお土産に持って行ったけど、あれが蕾をつけるなら春先に咲く花も青くなり始めてるかもしれない。
「今日は遠回りして帰ろうかな」
 アカシアが蕾をつけるなら、あの花……椿が咲いてもいい時期である。椿なら住まう神社にもあるんだけど、あそこはそれなりに標高があって寒いせいかまだ蕾も小さい。
 神社へと続く道が目前にあるが、そこは通り過ぎて住宅街が建ち並ぶ道へと向かう。しかしそう都合よく見つからないんだよなあ。
 住宅街には様々な木々が見えるが、その中に目当ての椿はない。もう少し杜王町の近くに行けばあるかな。それこそ杜王町の真ん中にある大きな神社には椿の並木があって、時期が時期なら椿の花の絨毯ができて綺麗だと母から聞いたことがある。そこに行けば確実にあるけど、人間の姿であっても町中には極力行きたくない。
 町中はとにかく車が多く、僕ら狐を捕獲する人間もいるから危ないと聞いたから……でも目的なく探すより一度行ってみる方が早いかもしれない。うん、神社に行くだけなら大丈夫かな。多分だけど、変化はばっちりだから捕獲される危険もない。
「大丈夫、だよね」
 用事さえ終わればさっさと帰ればいいんだし、極力人間に関わらなければ大丈夫。でも神社はどこだ? 町中に神社があるのは知っているけど、それは話の中でのことで実際に行ったことはない。ううん……こんなことなら詳しく話を聞いておけば良かった。取り敢えず町中に出れば分かるかな。この界隈で一番大きな神社らしいし、近くに行けばわかるかもしれない。
「ええと、杜王町は……この先を曲がった先を……」
 記憶を頼りに向かっていると、背後から車のクラクションを鳴らされた。そのあまりの大きさに飛び上がっていると微かに聞き慣れた声が耳に届いた。この声、徐倫によく似ているような気がする。でも徐倫や承太郎はまだ港にいるはずだから違う筈だ。そう思いながら振り返れば駆け足と共にこちらに走り寄る人物に僕は声をあげた。
「徐倫じゃあないか。どうしたんだいこんなところで」
「さっきぶりかきょーいん! ダディがおしごとはかどらないってゆうからちょっとはやくかえるの」
 なんだ、そういうことか。徐倫の背後に停まる車を見れば、薄暗い車内には承太郎が乗っていた。先ほどのクラクションは承太郎が鳴らしたのか、驚いたけど知らない人間に鳴らされたのではなくて良かった。
「かきょーいんもかえるとちゅう?」
「いや。僕はちょっと用があってこれから町の方に出るんだ」
「まちって、もりおうちょう?」
「うん、そこの一番大きな神社に行こうと思ってね」
「そっか!」
 すると徐倫は承太郎の方へ振り返ると合図するように両手を挙げた。
「ダディっ、かきょーいんももりおうちょういくんだってー」
 花京院も? 彼女の言葉に何か含みあることに引っ掛かっていると、承太郎の方へ声を掛けていた徐倫が僕の手を引いてきた。
「あの、どうしたんだい?」
「さっきくるまのなかでね、ダディがいきさきおんなじならかきょーいんものせていこっかってはなしてたの! だからいっしょいこ!」
「一緒って……僕も車に乗るのかい?」
「うん。じょりーんとダディ、これからもりおうちょうのホテルいくからいっしょいこ?」
 手を引く徐倫に承太郎は何も言うことなく車から出て、後ろのドアを開けた。それは、承太郎も僕を送る気でいるということか?
 これは一緒に行ってもいいのかな。もしかしたら承太郎なら神社について知ってるかもしれないし。まあ、徐倫に渡そうとしてる椿を探そうとしている手前、教えてもらうのは本末転倒な気もするけど。
「かきょーいん、いこ?」
 その場から動こうとしない僕を徐倫が見上げ、無言で承太郎が見つめる。そんな状況で断そうともなんだかできなくて、僕はゆっくりと車へ歩みを進めた。
「警戒心がないな、拐われないよう気を付けた方がいいぞ」
 徐倫に促されるまま車の後方にある席に乗り込むと承太郎がそんなことを言い出した。思わずぎょっとしている間にも車が発進してしまう。警戒心がない? 拐われる? それはどういうことだ?しかしそんな発言なんてなかったかのように親子は会話を始める。
「かきょーいんね、もりおうちょうにあるおっきなじんじゃにいくんだって」
「大きな神社、とは…八幡宮か?」
 ちらり、と前方にある鏡越しにこちらを窺ってきた緑の瞳に固まる。出会った当初に比べると鋭さはなくなったけど、主張の強い輝きは未だ慣れなくて少しばかり緊張を覚える。
「その、杜王町にある一番大きな神社、としか知らなくて……」
「なら、八幡宮だな。徐倫、花瓶なら神社の最寄りの雑貨屋で購入しよう」
「はあい!」
 元気よく返事した徐倫の声と同時に、車が加速する。本当に一緒に来てくれるのか? それは助かるけど、迷惑になるんじゃあないかな。
「あの、ホテルまで行く通り道までで良いんですが」
「名前も知らない神社だったろう。場所もよく知らないんじゃあないか」
「それは、」
 その通りなんだけど。図星で黙ってしまうと承太郎に笑われてしまった。行き先わからず行こうとしていたなんて、そりゃあ滑稽なんだろうけどさ。思わず頬を膨らませていると彼が「すまん」と、それでも相変わらず笑いながら言ってきた。本当にすまないと思っているのやら。
 そんな僕と承太郎のやりとりの間にも車は移動を続け、窓から見える景色が少し変わってきた。
「……」
 見たことのない店や車は好奇心と恐怖心を煽り、僕はそれらを眺めては前方に座る親子を窺う。あの二人は慣れてるんだろうけど、まさか僕はこんな場所に一人きりで向かおうとしていたなんて……これは同行してもらって助かったかもしれない。
 しかし、行きは良いとして帰りはどうしよう。僕の行き先が住まいに近いから送ってくれてるのだから、帰路は僕だけになってしまう。
 そんな事実に気付いた僕が小さく唸っていると車は石砂利が敷き詰められた広間に停まった。
「目的地はここで違いないか」
「椿の並木があれば、間違いないはずです」
「境内を見ないとわからないな」
 すると承太郎と徐倫が車から出て行くので僕も倣うように出ると、徐倫が離れた場所に見えた石階段へ駆けていってしまった。
「誰かと待ち合わせか」
「いえ。椿を見に来ようとしていただけなんで、待ち合わせなどは」
「なら、私たちが同行しても問題ないか」
「同行?」
「折角来たのでな、徐倫に神社を見せようと思う」
 そういえば徐倫はここへ来るのは初めてで、じゃぱんにあるものについては殆ど見たことがなかったんだったか。僕が住んでいるところを外では「じゃぱん」と呼んでいるのが印象深くてよく覚えている。よくわからないけれど神社もじゃぱん特有なのかな。
「ダディ! かきょーいん! はやくはやく!」
「今向かう」
 石階段を跳ねるように上って行く徐倫に促されるように僕と承太郎は後を着いていく。階段は長く、その上に見える鳥居も見たことないくらい立派なものだ。
「椿を見に来たり、花が好きなのか?」
「え?」
「よく、徐倫への手土産にも花の蕾をくれるだろう。だから花が好きかと思ったんだが」
「ああ、まあ……母が花を好きでしたから、僕も自然と好きになった節はあります」
 言われて考えてみると好きなのかもしれない。花について母親は将来役立つ役立たないに関わらず教えてくれ、夏場には花を愛でる楽しみについて実際に花を摘んでは語ってくれたものだった。
「今回も、その母親から話を聞いて神社に行こうとしていたのか」
「ええ。まあ、詳しい話を聞いてなかったので、場所まではよくわからなかったんですけどね」
「ダディ! おはなたくさんおっこちてる!」
 石階段のてっぺんから先に登っていた徐倫が姿を現す。
「摘んではいないよな、ここの花は神社のものだぞ」
「つまないもん! でも、おちてるのはとっていーよね?」
「落ちているのは、それなら構わないだろう」
「あの、徐倫。その落ちていたお花は赤いかい?」
「うん。でもピンクとかしろのもあるよ」
 散っているのではなく落ちている花、そしてその花は赤にピンク、白とくればそれが椿である可能性が高い。
 ここが母が言っていた神社のようだ。その可能性につい足早に階段を駆け上がる。その花が椿だとして、落ちているくらいだから満開である可能性も高い。
 本当はこっそり準備して渡したかったけど、ここでいいものがあればそれでもいいか。そう思うとわくわく楽しくなってきて、駆ける足がどんどん早くなる。なんで人間は二足歩行なんだろう、四つ足の方がずっと速く走れるのに。
「っ!」
 なかなか加速しないことにもどかしく思っていると、足がもつれて上体がぐらついて石階段へと傾く。このままだと石階段にぶつかる。反射的に手をつこうとし、次にくる衝撃に目を瞑った……が、それは訪れずに手が空振るよう宙を掻いた。
「?」
 どうしたんだ。恐る恐る目を開けるとすぐ近くに石階段があった。
「気を付けろ」
 疑問に思っていると声が降ってきて、腰を強く引かれた。そして未だ体制が直せていない僕は今度は後ろへと倒れてしまい、柔らかくも硬い何かが体を受け止めてくれた。
「あれ?」
「やれやれ、徐倫並みに危なっかしいな」
 見上げるとすぐ上から承太郎が覗き込んできた。なんで承太郎がこんな近くから?
「聞いてるか?」
「ええ、はい……?」
「なら、立てるか?」
「……、…? ……ああ、はい大丈夫です!」
 自分のおかれている状況を認識すれば僕は承太郎に背中から抱き込まれる体制で、慌ててそこから飛び退いた。もしかしなくても倒れそうになったところを助けてくれたのか、こいつは恥ずかしい。
「……、」
 距離を置いた承太郎の方へ顔を上げると、いつの間にか彼の隣に見知らぬ人間が立っていた。僕らの前後に歩いている人物はいなかった筈だが、どこから来たのか。しかもすぐ近くにいる承太郎は気にしないとばかりにこちらを見つめるばかりで、あまりの気味の悪さに言葉が出せないでいると承太郎の手が伸びてきてがしがしと髪の毛を掻き乱された。
乱された髪を整えて再度顔を上げると、先ほどの気味の悪い人間は姿を消していた。視線を外していたのなんて一瞬だぞ、現れた時といい一体誰なんだ。
「早く行こう、なかなか上に来ないと徐倫がうるさくなる」
「……はい」
 相変わらず承太郎は何も気に留める様子がないから僕の気のせいなのかな。そんな後味悪さにも似たものを覚えていると、承太郎の手が目の前に差し出された。
 ……僕も人間としては大きいようだが、そんな僕よりずっと大きな手は流石通称ヒトデ喰いと呼ばれた人間というものか。出された手を受け取るとそれは僕の手をすっぽりと包んでしまった。
「手、大きいですね」
「よく言われる」
 大きさに見合った力強さで手を引かれ、僕と承太郎は上まで登る。そして鳥居を潜れば大きな社が出迎えてくれた。それは住まいにしている稲荷神社の社よりずっと大きい。こんなところがあったのか。
「やっときた! みてみて、おはなきれーでしょ!」
 社の裏から徐倫が両手に何かを抱えて出てくる。手中には赤と白のまばら模様が見えて、目を凝らすとそれは僕が目当てとしていた椿だった。
「どうやらここが目的地だったようだな」
「はい、ありがとうございます」
「こちらも徐倫に良い体験をさせることができた、こちらが礼を言いたいくらいだ」
 言いながら徐倫を見つめる承太郎は目を細めて、柔和に口許を緩めた。ああ、やっぱり、
「やっぱり好きだな」
「何の話だ」
「…え……その、口に出してましたか」
「ああ。やっぱり好き、だと。椿が好きなのか?」
「ええ、まあ……」
 まさか口にしていたなんてとんだ失態だ。しかし承太郎が都合良く僕の言葉を解釈してくれたようで、小さく息を吐いた。子供を見つめる優しい眼差しが好きだなんて、おかしく思われるだろうから助かった。
「あーっ!」
 突然徐倫が叫ぶとこちらに走ってきて、何故か僕の手に飛び付いてきた。驚く僕を尻目に、何故か徐倫は唇を尖らせながら承太郎を見上げる。
「ダディとかきょーいんなかよししてずるい!」
「なかよし?」
「てつないでなかよししてるじゃん!」
 そういえば僕は承太郎に手を引かれていたんだった。親の承太郎が僕と手を繋いでいるのは子供である徐倫としては面白くないのか、慌てて手を解くが彼女は僕から離れようとしない。
「じょりーんもなかよしする! じょりーんもかきょーいんすきなのにダディばっかずるい!」
「……僕?」
「だってじょりーんかきょーいんすきだもん!」
「ええ?」
 まさかの僕? 思わぬことに戸惑う半面気恥ずかしくなりつつ徐倫の手を握ると拗ねた様子の彼女の顔が笑顔に変わった。そんな様子に恥ずかしさは募るが嬉しくなってしまう。
 するとそれを見ていた承太郎が何故か再度僕の手を握った。
「承太郎?」
「なかよしなら、俺も仲良くしてもいいだろう」
「は、はあ」
「なかよしするのだめっていってないもん。ダディばっかかきょーいんとなかよしするのずるいってゆうだけだもん」
 なんだろうこの状況は。どうやら二人は僕となかよし、という手繋ぎをしたいようなんだけど、どうして僕なのやら。
「あの……お気持ちは嬉しいんですが、これだと僕は両手を使えないんですけど」
「……」
「……ダディ、じょりーんのてつないでいいよ?」
「ん」
 徐倫が空いている手を振れば少しの間の後、承太郎が僕の手を解いて徐倫の手を繋いだ。なんだろう、このやりとりは。人間とは家族以外と仲良くしたいのだろうか? この親子を通して人間について大部詳しくなった気がしたけど、まだまだわからないことが多い。
 それでも仲良くしたい気持ちはやっぱり嬉しくて、僕は二人を引き連れる形で社の裏へ向かう。
「……わあ、すごいな」
 裏へ行くとそこには人間の僕の背丈よりもずっと高い椿の木々が並んでいた。それだけでもすごいのに木々は揃って満開を向かえ、その下の地に疎らに落ちた花も合わせて思わず感嘆の溜め息が洩れてしまった。これは数日もすれば母が言っていた通りの花の絨毯ができそうだな。
「なかなかの光景だな」
「ええ、想像以上です」
 近くに落ちていたまばら模様の椿をひとつ拾う。強風に吹かれて落ちたのか、未だ綺麗に咲く椿を徐倫の髪へと挿してやる。人間の女の子は花飾りを好むらしいからやってみたけど、とてもよく似合っていて自画自賛したくなるくらいだ。そして花飾りを好むのは徐倫も例外ではなかったのか、歓声をあげながら喜んでくれた。
「本当は今度の手土産を椿にしたくてここに来たかったんだけど、ちょっと早くなってしまったね」
「そうなの? はじめてみたけど、すっごくかわいいおはなね!」
「だろう? 徐倫にもよく似合ってるよ」
「そう?おしえてくれてありがとーかきょーいん!」
 頬を赤らめて笑う姿に流石に僕も照れてしまってつい視線を右往左往させてしまう。慣れたいけど、好意的な姿勢を向けられると恥ずかしい。
 ふと、定まらなかった視線の先に白椿があって、自然と手がそちらへ伸びる。少し花弁が草臥れているが、それでも真っ白で汚れないそれは控えめにも輝いているようだった。摘まんでみれば草臥れた花弁がひらりと揺れて、その動きに誰かを思い出した。
「承太郎、これ」
 その誰かはいつも潮風に白くて長い衣をはためかせて僕を出迎える彼しかいなくて、こちらへ顔を向けた承太郎の帽子に白椿を挿してみる。帽子と同じ白は同化してしまい見えにくいけど、それでもその白椿は彼らしいと思えてしまう。
「承太郎にそっくり」
「徐倫はともかく、私のような大男に花のようだはないだろう」
「徐倫は可愛くて似合うんです。承太郎は可愛くはないけど綺麗だから椿に似てる、だから大男だろうと関係ないんです」
 承太郎が恐ろしく見えたのは体が大きいばかりではないと最近になって気付いた。それは彼から滲み出る高貴な雰囲気が気迫のように見えていたからで、それは恐いものではないと知ってしまうと一気に恐ろしさは削げてしまったのだ。
「やれやれ……とんだすけこましだな」
「すけ?」
「それを言うなら花京院、お前は赤い椿にそっくりだろう」
 言いながら承太郎は椿を拾うとそれを学生服の胸ポケットに挿した。真っ赤な椿は緑色の学生服に映えて、より色鮮やかに見える。
 これが僕だって? 確かに僕の毛色は限りなく赤に近いけど、この椿のような可憐さはない。
「まさか」
「俺と白い椿がそっくりよりはわかりやすいと思うんだが」
「そうですかね」
 どこをどう見るとそう見えるのやら。もしかして承太郎は人間のくせに人を見る目がないのか。人は人でもヒトデばかり見てるからなあ、僕も花みたいに見えるのかも。
「ねえねえじょりーんは? じょりーんはどんなおはなにそっくり?」
「ええと、徐倫はもっときらきら可愛い花みたいだからチューリップやダリアかな?」
「チューリップ!? じょりーんかわいい?」
「やれやれ」
 はしゃぐ徐倫にどこか呆れる承太郎に不思議に思いながら、僕はまた徐倫の髪に椿を挿してやった。

 一通り椿を堪能し、そろそろ日が沈みそうな空に気付いた僕たちは長い階段を降りていた。徐倫は髪の毛を飾った椿を気に入ってくれたらしく、時折椿に触れながらにっこりと笑った。そんな彼女を見ながら承太郎も笑うので僕も口の端がむずむずしてくる。
 そんなに喜んでくれるとは、やっぱりどうしても気恥ずかしさが先立ってくる。喜んでほしくてやったことではあるけど……うん、嬉しい分、恥ずかしさ倍増なんだ。
 そんな僕など気に留めず、ご機嫌な徐倫は階段の上で器用にターンする。
「あまりはしゃぐな、危ないぞ」
「ちょっとだもん、だーいじょぶ!」
 いや、大丈夫と思っていても承太郎の言う通りに危ない。ここを登った時に急いだあまりに転びかけた僕がいるんだから油断ならない。いくら僕に比べて徐倫が小さいからといってもバランス悪い場所であることは変わりない。
 そんな心配をよそに徐倫はとんとんと軽快に降りて行く。楽しそうだけど、どうか足を踏み外したりなんてしないでくれよ。
「あ、」
 なんて思っていたところ、徐倫の体が不自然に前へ飛び出す。まさか勢い余って? どんな経緯からかわからないけど、あのままいけば最悪徐倫が顔から落ちそうに見えて僕は目一杯手を伸ばして彼女を助けようと動いた。

   ◆◆◆

 昼間、境内に繋がる階段を駆けていって転びそうになった花京院を思い出し、そしてはしゃぐ徐倫にそんな彼の姿を重ねて注意を促した。だが、すっかり舞い上がってしまっている徐倫にはそれも十分に聞き入れることができず、そして案の定バランスを崩したところで俺はスタープラチナを呼んだ。
「スタープラチナ! ザ・ワールド!」
 実に本日二度目の時止めである。ちなみに一度目は徐倫と姿を重ねた日中の花京院の時である。二人ともまだまだ子供といったところなのか注意力散漫である。
「一度きつく叱るべき…、…ん?」
 時を止めている間に宙に投げ出されている徐倫を抱き留めようとすると彼女の手に何か巻き付いているのが見えた。
 巻き付く紐状のものはまるで緑の蛍光塗料を塗ったようにきらきらと輝いているが、これは一体? その紐の先を見るとそこには徐倫へ手を伸ばす花京院と、その背後に見たことない人型の何かが立っていた。それだけでも驚きだったが、紐の先が謎の人型と繋がっていた。
 あれは、まさか…? 確めたいがそろそろ時間だ。俺は徐倫を抱き込むと、スタープラチナを出現させたまま時が動き出すのを待った。
 ざわ、と風にざわつく葉の音が再開し、上段にいた花京院も転びそうになりながらその場に座り込んだ。そんな彼の背後にいる人型は徐倫の手に巻き付いたまま、動こうとはしない。
「え?」
 花京院が戸惑いを隠せない声をあげて、俺の方へ……否、俺の後方にいるスタープラチナを見つめた。そんな様子に先ほど感じた可能性が確信に変わる。
「花京院……お前スタンド使いだったのか」
「す、スタンド?」
「後ろにいる緑のやつ、お前のスタンドじゃあないのか」
「後ろ?」
 花京院は俺に言われた通りに振り向いて緑のスタンドを見ると途端に飛び上がるように距離を置いた。そんな様子に違和感を覚える。
 俺から距離を取るならまだしも自身のスタンドから距離を取るというのはなんだ?
「花京院?」
「あの、あの、緑のはなんですか……承太郎の知ってる人では?」
「……あいつを知らないのか?」
「? ええ、初めて会いますけど、」
 これはどういうことだ。花京院にはスタープラチナが見えてるから、てっきりあの緑のは花京院のスタンドかと思ったのだが、もしかして別のスタンド使いがいるのか?
 しかしそれは違うように思え、では何故花京院はあのスタンドを知らないのかと考えを巡らせる。
「ダディ? もしかしてじょりーんのて、スタンドがつかんでるの?」
「ああ、痛くはないか?」
「ううん。ちょっとへんなかんじだけどいたくないよ」
 ならばあくまでも緑のスタンドは転び落ちそうになっていた徐倫を助けるだけだったようだが……
「……花京院、あの緑のスタンドに徐倫の手を解放するよう念じてくれないか」
「念じるだけでいいんですか」
「ああ」
 すると花京院が緑のスタンドへ視線を向けた瞬間にはもう徐倫の手は解放され、スタンドはそのまま花京院の方へ寄り添った。
「あああ、あの、なんですか……」
「やはり、こいつは花京院のスタンドのようだな」
 花京院は初対面だと言っていた通りに戸惑っているが、緑のスタンドの様子から花京院のスタンドであるのは確実だ。そして自分とスタープラチナの出会いを思い出して、そういえばスタンド発生も何かきっかけがあって後天的に発生する場合もあるのだと思い出した。
 すなわち、花京院のスタンドがたった今誕生したのならば初対面であってもなんら不思議なことはないのだ。
「あの、スタンドとは?」
「説明すれば長くなるが……敵ではない、安心しろ」
「はあ」
 敵ではない、ということに安心したようだが、それでも不安を払拭できない表情でスタンドを見上げるのでとりあえずは車に乗ってから説明しようか。

「帰りまで送ってもらっていいんですか?」
「スタンドについて説明するついでだ」
「その、何から何まですみません」
 しゅんとする花京院に心なしか緑のスタンドは気にかけるように窺っている気がするのは、きっと気のせいではない。何かと気遣いする彼の分身ならば、半身を心配するくらいするだろう。
 スタンド発生理由は結局俺もよくわからなかったので、それは省きつつどうにかこうにか理解できるよう内容を噛み砕いて順に説明してみた。すると理解力は高いらしい花京院は時折難色を示しつつも、一通り話終える頃にはスタンドと触れ合えるほどになっていた。それはスタンドもスタンドで、花京院がまだ慣れてないのを感じ取ってる故なのか……表情の乏しいためによくわからないが、穏やかそうなスタンドで幸いだ。
だが、花京院のスタンドだからな…いざとなればどうなるか? まあ、それはこれからわかることだろう。
「あの、ここで降ろしてもらっていいですか?」
「ここか?」
 説明を終えて暫く静かに車を走らせていると、不意に花京院が後部座席から顔を出してきた。言われるがままに路肩に停車したが、日が沈んだせいでただでさえ暗くなったというのに、そこは街灯もない山の入口だった。
「大丈夫なのか」
「ここを少し登った先に住まいがあるんで大丈夫です」
 山の中に住んでいるとは集落にでも住んでいるのか? 仗助の同級生にも集落住まいの者はいるらしいし、そう珍しくもないのかもしれないがこの暗い中を歩いて帰るのが俄に信じられなかった。
「それに、今日からは彼がいますから」
 言いながら花京院はスタンドの手を握って微笑んだ。この暗がりを歩くことを危うく感じているのを察してしまった故の発言だろうか、やれやれ。
「かきょーいんばいばーい!」
「またね徐倫」
「まっくらだけどみえる?」
「ああ。今日はキラキラ光るもう一人の僕もいるから結構明るいよ」
「かきょーいんもダディもスタンドみえてずるいなーっ、じょりーんもきらきらみたいのに!」
「はは、きっといつか見られるさ」
 暗がりの中に立つ花京院に緑色に輝くスタンドが寄り添う。その輝きは花京院を淡く照らし、日の下では鳶色に輝く瞳を緑へと変色させた。
「今日はありがとうございました」
 言いながら笑う顔も淡く照されているせいかやけに白く、スタンドがいるというのに不安に似た何かを彷彿とさせた。
 これはなんだろう。疑問に視線を落とせばかさりと微かに草が擦れる音が聞こえて、少し視線を戻せばそこにはもう花京院の姿はなかった。
「……ダディ、かきょーいんもかえったからじょりーんたちもかえろ?」
「ああ」
 車に乗り込み、再発進した車内は静かだ。いつもそれなりにお喋りな徐倫を横目で窺えば、彼女は座席の背もたれに寄り掛かりながら寝息をたてていた。花京院と別れて寂しいのかと思えば寝ているだけとは。ほっとしつつ時計を確認すれば普段彼女が夕飯を済ませているような時間帯だった。
「やれやれ」
 まだ夕飯前かと思って行動していたが結構な時間だったとは、俺も無意識の内に浮かれていたようだ。
「花京院か」
 彼はつくづく不思議な青年だ。会う度に彼について分かってゆくのに、核心は未だ掴めないでいる。神経質そうでいて年相応のあどけなさもあって、かと思えば何か違うようにも思えて。
 端的に言ってしまえば彼はアンバランスなのだ。大人も怖じけそうな見目整った容姿を持つのに、中身は子供のように思える場面がある。
「……いや、」
 あれは子供のよう、ではなく浮世離れしているという方が妥当な気がする。花京院は常識に欠けるとまでいかなくとも、常人とは勝手が違う何かがあった。何かは俺もよくわからず、それでもそれがなかなか核心を掴めない要因であるような気がした。
 ふとギアに添えていた手の甲に何か触れたので見てみれば、それは徐倫の髪から落ちた椿だった。
 細くも男らしく筋張った指が椿を摘み、徐倫の髪を飾る様を思い出す。あの時も変わったことを言っていたな、俺を花に似ているだとか……まずこんな大男に対して言うものではない。
 だが、そんな花京院の言葉に対して俺も彼を同じように称したことを思い出した。そんな矛盾を感じては、数年前にやめた煙草を無性に吸いたくなって俺は小さく舌打ちをした。

 きらりと光った指先から勢いよく放たれたのは宝石のようなエネルギーの塊、それが瞬く間に空を飛んでいた鳥を捕らえて僕は駆け始める。地に落ちた鳥は急所を小さく抉られており、痙攣するばかりで再び鳴くことはないだろう。
「君すごいじゃあないか!」
 見上げるそこには全身緑色に輝く人型、僕のスタンドはどこか照れ臭そうに肩を丸めた。彼と出会って数日、同じくスタンドを持つ承太郎から教えてもらったためかこの一日二日で彼と共に狩りができるほどになっていた。スタンドとは本体の精神を現した存在らしいけど、僕には勿体ないくらい頼もしい。
 そんな頼もしい彼が仕留めた鳥をくわえて神社へ戻るとジョナサンが出迎えてくれた。
「絶好調みたいだね」
「はい。それでもまだまだ未知数ですから、これからもっと練習すれば新たな技もできるかもしれないです」
 今のところは先ほどのエネルギーの塊を放射するのと体を紐状に解くことができる能力のみだ。しかし承太郎の話では後になって開花する能力もあれば、応用次第で新たな技も開発できるかもしれないという。そこは僕ら狐の狩りの練習と勝手が同じなんだな。狩りだって場数を践むことで自分の能力を開花させてゆき、その能力をどう活かすのか考えながら上達してゆく。
「それはこれから楽しみだなあ……鷺とかも捕まえられそうじゃあないか」
「ええ、しかし練習だけでなくそろそろ名前もつけてあげないといけませんね」
 僕が花京院典明という名前を所有して初めて名前の必要性を知った。名前は長い付き合いになる間柄ならなおのこと必要であり、一生の付き合いになるスタンドなら絶対だろう。
「ねえ、花京院。狩りや名前もいいけど、僕から話があるんだけどいいかな?」
「はい、なんですか」
 改まってなんだろう。疑問に思いつつくわえていた鳥を傍らに置いて座る。
「君が稲荷狐になってそろそろ二月経つけど、主は見つけたかい?」
「それは……」
 稲荷狐になるにあたって説明された「主」の話を思い出して、僕は言葉を濁す。稲荷狐にとっての主は必需で、早く見つけなければ最悪消滅してしまうというのは忘れてはいなかった。だから主を探さないといけないのは分かってる。
 しかし母親を亡くし、兄弟もない僕の周囲に主となってくれそうな宛は全くなかった。
「あの。今更なんですけど、主としての条件はあるんですか?」
「その主となってくれる者が意思をもって君を必要としてくれるのが必須かな」
「では、主が物、では駄目なんですか?」
「それは場合によるかな。例えば誰かが花京院に『それ』を守ってほしいとお願いしてきたら、その場合は『それ』が花京院の主となり、がある限り存在できる」
「ええと、」
「分かるかな?」
 わかるような、わからないような……
「要はどのような形であれ、僕が必要とされたら問題ないということですか?」
「極論ではあるけど、そういうことだね」
 だが、そう必要としてくれる者はいるのか? こんなまだ成熟してないような狐を求めるなんて余程の物好きでもないといないのではないだろうか。
「それこそさ、最近よく話題にあがる空条親子はどうなんだい?」
「承太郎と徐倫ですか?」
「君の話を聞いてると、とても仲が良さそうじゃあないか」
「でも僕はその、彼らに正体を偽ってますから」
 狐としての僕では会えないと思ったから僕は稲荷狐となり、人間に化けて会っているのだ。そんな僕が実はあの時の狐で、主となってくれる者を探していると言ったらどうだろう。その事実を聞いたら絶対にいい気分じゃあない。
「そっか……まあ、主とは一生涯連れ添う場合が殆どだから、決断しかねるのは悪いことではないよ。ただ、時間は限られているから気をつけて」
「……はい」
 だが、ジョナサンに言われて承太郎や徐倫が主になってくれて一生を添い遂げられたなら、それも悪くないように思えた。それでも……いくら彼らと仲良くなってきたといっても本来の僕を受け入れてくれる可能性はとても低い。だからといって彼ら以外に誰か思い当たる者も思い浮かばず、僕の口はつい溜め息をついてしまう。
 それはどういう意味が込められた溜め息なのか。つい自問自答したくなる。主が見つからないことに悩んでいるのか、あの親子と会える日が限られてきた予感からくるものなのか。
「大事な話だけどあまり気を病まないようにね。ほら、そろそろ港に行く時間じゃあないかい?」
「ああ、そうでした」
 天辺にある陽が少し傾いたら承太郎のヒトデ調査が一段落する。調査の詳しい内容はよくわからないけれど、承太郎の邪魔はしたくないからこの時間帯に伺うのが習慣となっていた。
 徐倫の元気な姿でも見たらこの憂鬱な気持ちも晴れてくれるかな。彼女はいつも元気一杯で、親でない僕でさえ愛しくなる存在だ。彼女の笑顔を見て、そんな笑顔を見つめる承太郎の眼差しをこっそり眺めてしまえば悩みなど飛んでしまうような気がして僕は足早に社へと入ってゆく。
 殺風景な社の端には学生服と学生鞄に革靴、そして身分証明書。人間なんて承太郎と徐倫の二人しか会わないから身分証明書はもう必要ないかもしれないけど、これを落とさなければ今のように話してないと思うと手放せなかった。いわゆるお守りみたいなもので、僕は身分証明書の自身の顔を確認しては人間の姿に化ける。
 全身を目視し、ちゃんとつるりとした人間の体になっているのを確認すると学生服に袖を通す。ディオに用意してもらった当初は皺知らずだった学生服も今では関節部分の皺が目立つようになった。それくらいには、彼らと出会ってから月日が経ったのか。短いとは思わないけれど、あまり長いとも感じてはいなかった。それでも彼らに明らかな愛着を覚えるくらいの時を過ごしてしまったのだ。
 学生服を着用し、社から出てジョナサンの前でポーズを取る。これは最終の身嗜みチェックだ。
「今日もバッチリ化けられてる、気をつけていってらっしゃい」
「いってきます」
 片手を振りながら港に続く道へ降りようとして、不意に脚に力が入らずにその場に座り込んでしまった。
「花京院?」
「…あ……いや、ちょっと不注意でした」
 体制を直して立てば、先ほどのような危うさはなくしっかり直立できた。浮かれて踏み外しただけだったかな。主の話をしていただけに一瞬ひやりとしたけど、そいつは杞憂のようだった。

「はいかきょーいん!」
 目新しい手土産が見付からず、いつもより遅い時間帯に港へ到着すると出迎えてくれた徐倫が紙を渡してきた。
「これは?」
 それには大きさが定まらない文字と、その下には椿の絵が描かれていた。
「このあいだのじんじゃのやつ!」
「そう、なんだ……」
 椿は絵だからわかる。赤にピンク、白と椿が並んでとても綺麗な絵だ。しかし、その上にある文字はまったく判らない。文字なのは流石に分かるんだけど、それが文字であるということしか分からない。
「ええと、」
 なんて読むんだろう? きっと椿か神社についてのことが書かれているのかもしれない。でも、それは本当に合っているか。憶測で話して外れでもしたら話が噛み合わないし、いい加減な返答はなによりも徐倫に対して失礼だ。どうやったって、首を傾げたって、どこをどう見たって読めないし……これは恥を忍んで徐倫本人になんて書いているのか聞いた方がいいのかも、しれない……。
 でもこんな大きな僕が文字が読めないなんて、徐倫はともかく承太郎に知れたら変に思われるだろうからこっそりと、こっそりと。
 僕は貰った紙を胸元に抱え込むと彼女の視線に合わせてしゃがみ込む。そして合図するように手を振れば徐倫は僕に顔を寄せてきたので、耳元に口を寄せて小声で彼女の名前を呼んだ。
「かきょーいん?」
「……あの、この紙にはなんて書いてるんだい?」
「……ええ?」
「承太郎には、内緒、ね。その、僕文字がよくわからなくて」
「えー! そーなの?」
「しっ 声が大きいよっ」
 そっと承太郎がよくいる操縦席奥を見るが、彼の姿はなかったので小さく息を吐いた。承太郎は口数が少ない割に話がうまいから、きっと少し追求されただけでぼろが出てしまう可能性が高い。ああ、気付かれなくて良かった。
 そんな様子に何かを察したらしい徐倫は僕と同じように小声で話し出す。
「なんでダディにないしょなの?」
「だって、僕が文字がわからないなんておかしいじゃあないか。徐倫だって僕が字が読めると思ってこれを渡したんだろう?」
「うん。でもじょりーんだってまだぜんぶはできないから、かきょーいんだってできなくてもおかしくないんじゃあない?」
「それは……」
 どうなんだろう。人間はどのように文字を覚えてゆくのか、人間の僕の年齢ではどれくらいの文字を読めるのかわからないからなんとも言えない。僕が文字を読めないのは、そうおかしくはないのかな。だが、それは確証がないだけに返答できない。
「それに、できないならできるようにれんしゅーしたらいいじゃん」
「練習?」
「そーだよ。じょりーんもね、こっちきてからひらがなれんしゅーしたけど、ちょっとできるようになったんだ」
 それで、ここに書いてるのはひらがなっていう文字の種類だよ。言いながら徐倫は僕が抱え持っていた紙の文字を指差す。これってひらがなっていうのか、なるほど。
「ここにね『かきょーいん、ありがと』ってかいてたんだ。いっしょにいけてたのしかったから」
「そうだったのか。その、こちらこそありがとう徐倫」
「どーいたしまして!」
 そんなことが……感謝の言葉が書かれているとは、それは本当にいい加減に返さなくて良かった。
「ねえ。僕も練習すれば読んだり、それこそ徐倫みたいに書いたりもできるかな?」
「できるよ! じょりーんもできたんだもん、じょりーんよりおっきなかきょーいんならちょちょいってできちゃうよ」
「それは、どうかな。難しそうだし」
「じょりーんおしえてあげるからだいじょぶだよ!」
 それはかなり助かる。なにせ文字という文字を知らないから独学も厳しいものになるはずだ。
「なら、お願い、できるかい?」
「何をお願いするんだ」
 急に声を掛けられて固まっていると、近付く足音と共に視界が薄暗くなる。承太郎の姿が見えないからと普段と変わりない音量で話していただけに、背後の存在はとても恐ろしいものに感じてしまう。背後の存在なんて一人しかいないだろうし、それは絶対に承太郎だ。
 話、聞かれてないよな?
「ないしょのおはなしおねがいしたの!」
 固まっている僕に代わって徐倫が承太郎へ返答する。しかし、その内緒のお話なんて話せない話題をしてましたとバラしてるみたいなものじゃあないか。これは大丈夫なのか、できるなら僕が文字を全く読めないのは変わらず彼には内緒にしていただきたい。
「内緒のお話、とは」
「ないしょー! ないしょはないしょだからないしょなんだもん」
「花京院、これはどういうことだ」
「その、僕も内緒、としか」
 どうやら徐倫は内緒にしてくれるようだが、内緒事があることは内緒にしないようで矛先が僕に向けられる。まさかそのまま僕にくると思わなかったので、上手い返しが思いつかず濁し濁し視線を落とした。
「……あまり変なことはするなよ」
「わかってるよダディ」
 追求を恐れたが、意外にも承太郎は注意を促すだけで奥へ入ってしまった。大した話はしてないと踏んだのかな、どう思ったにしても助かった。
 安堵にほっと一息ついてると何故か徐倫も奥へ行ってしまった。もしかしてやっぱり承太郎に話してしまうつもりか?
 追いかけるべきか、腰を上げると徐倫は何かを抱えてすぐに戻ってきた。その後ろには承太郎の姿は続かず、彼に用があって奥へ引っ込んだようではないようだ。
 彼女は抱えていたものを僕の目の前に広げ、それは薄い冊子と細く短い木の棒であった。
「これは?」
「れんしゅーちょうとえんぴつだよ。じょりーんのあまってたからかきょーいんはこれつかってれんしゅーすればいいじゃん」
「いいのかい?」
「これつかえばいまかられんしゅーできるよ?」
 それは確かに。しかしいきなりだというのにこんなに貰うのが申し訳ない気持ちも湧いてくる。でも、練習に必要なものが何なのかもよくわからない僕としては受け取るしか選択肢がなくて素直に受け取った。ええと、れんしゅうちょうと、えんぴつ、だったかな。これはどう使うんだ?
 まず僕はそこから始めないといけなくて、これから教えを乞うことになる徐倫に対する申し訳なさを募らせた。

   ◆◆◆

 最近、以前以上に花京院と徐倫が二人して話していることが多くなった。
 当初はまた花京院が徐倫に何かを教えてくれているのかと思ったら、こっそりと窺えば何か違うように見えた。
「かきょーいんっ、じょってゆうのはこー、こーかいて、こーなんだよ」
「こう、かな」
 そんなやりとりをしながら二人して落書き帳に向かって鉛筆を走らせる。何かを書いているのだろうが、これまでと違って徐倫が花京院に教えているような気がするのだ。
 しかし幼い徐倫が高校生である花京院に教えられることなんてあるのだろうか。アメリカの文化や英語にしたって限られてくるだろうし、まずそういうことなら俺に秘密にしなくても良いはずだ。秘密というのはどういう訳か二人とも何をしているのか教えてくれないのだ。そのため一体何をしているのかよくわからないのだが、あれだけ賑やかに話していれば隠し事も隠しきれてないと思うのだが。
「熱心なようだが、そろそろ休憩にしないか」
「あーダディ! ちかくきちゃだめ!」
「声を掛けるのもいけないのか」
「こえかえるのもそーじゅうせきのまえから! ちょっとまってて!」
 容赦なく放たれた駄目、の一言に少々胸につかえながらも言われた通りに操縦席前まで下がる。すると徐倫と花京院が慌てて落書き帳を片付け始めた。徐倫はともかく花京院も特に何も言うことなく片付けているとは何があるんだ。
 そんな疑問を覚えていると、片付けている花京院と目が合う。
「すみません、僕のせいで」
 謝罪は待たせていることか、徐倫の『駄目』発言のどちらかだろうが……僕のせいで、とは? まさか本当に徐倫が花京院に何か教えているとでもいうのか。いや、それは流石に考えすぎか。僕のせい、も言葉のあやのようなものだろう。
「どーぞ!」
「アップルミルクティーを用意したんだが二人とも飲むか」
「のむ!」
「僕もいただきます。ありがとうございます、承太郎」
 用意していたアップルミルクティーと昨日購入したクッキーを出せば、すかさず徐倫がカップとクッキー数枚を抱えて食べ始めた。
「そうがっつくな。花京院が食べる分がなくなってしまうぞ」
「ちゃんとなんこあるかみてるからだいじょぶだもん」
 心外だとばかりに頬を膨らましつつ徐倫はクッキーを頬張る。全く、それは大丈夫なのか。まあ、クッキーも余るほどあるから多少食べ過ぎたところでなんら問題ないだろう。そんな徐倫を眺めながら花京院もカップを手に取ると俺の隣に座った。
「毎日、徐倫に何を教えてもらってるんだ」
「え、」
「何か教えてもらってるんじゃあないのか」
 気になったことについて、推測は推測でしかない。当人に聞くのが一番だと判断した俺は単刀直入に切り出した。すると花京院は明らかに動揺を隠せない表情を見せ固まってしまった。内緒だとか秘密だとか言いはしていたが、そんなに動揺することとは思ってなかっただけに、こちらも驚きに戸惑いを覚える。
 この反応からするに俺の推測は正しいようだが、俺に知られて困るようなことを徐倫が知っているとはどうにも思えなくて疑問は解消されるどころか深まった気がする。
 そんな疑問を吟味する前に、未だ動揺が続く様子の花京院が口を開く。
「その……徐倫の家があるという、アメリカについて教えてもらってました……」
「それは、どうして俺には内緒なんだ」
「それは、なんとなく」
 嘘だな。もしこれが本当ならば彼ならば恥ずかしがってもしっかりと説明する奴だ。こうして理由すら明かさないあたり、事実は別のところにあるのだろう。だが、嘘をついてまで知られなくないことを徐倫に教えてもらっている、とは。ますます疑問は深まるばかりだ。
「あの、僕も教えてもらいたいことがあるんですが、いいですか」
「私が教えられることであれば」
「承太郎の名前はどう書くんですか?」
「私の名前?」
 改まって何かと思えば俺の名前をどう書くか、とは。大した質問でないだけに拍子抜けしつつ説明する。
「承る、太郎、と書いて承太郎だ」
「う、承る……とは、どう書けば、」
「……ちょっと待ってろ」
 漢字が出てこないのなら仕方ない、それならば実際に書いてやればわかりやすいだろう。そう思ってジャケットのポケットに入っていたメモ帳の一ページに俺の名前を書くと、それを破いて彼に差し出した。
「これで、承太郎、と書く」
「わざわざありがとうございます」
 花京院はメモの切れ端を受け取ると、それをまじまじと見つめた。そう珍しい名前でも字面でもないと思うんだが、そんなに興味を惹くものなのか。そう珍しがられたこともなかったので花京院の様子こそ珍しく思えて眺めていると、その顔の違和感に俺はつい手を伸ばして彼の頬に触れてしまった。いきなりのことに花京院も小さく肩を揺らしてこちらを見上げた。
「承太郎?」
「顔色が優れないような気がして。頬も冷たいが大丈夫なのか」
 そういえば、と思えば、甘いものが好きだという彼が今日に限ってクッキーを受け取らなかった。そしてよく見れば見るほどに白い顔色が体調不良のそれに見えてしまった。
そんな心配を余所に花京院は俺の手に自身の手を重ねると苦笑した。
「少し体がだるいだけです、大丈夫」
「だるいのなら、風邪のひき始めかもしれないぞ」
「用心します。だから心配しないで。」
 まるでこちらを宥めるように手の甲を擦りながら花京院は目を細めた。こいつのことだから余計に無理はしないだろうが、今日は早く帰宅を促すか。ここ最近春めいてきたとはいえ、潮風吹く港はまだ肌寒い。
「徐倫と話するのもいいが、今日は大事にしろよ。体調不良になればあいつも心配する」
 そこに俺もいるのだが、そこまで言ってしまうと彼のことだから余計に気にしてしまうので言わないでおこう。
「ええ、きりのいいところで帰りますんで、」
 言いかけて、急に驚いたように花京院は目を見開いた。体調不良を心配した流れでの反応だったので何事かとよく窺おうとすると彼は勢いよく起立した。
「あの、帰ります」
「具合、悪いのか」
「ええ、まあ……だから悪化しない内に帰宅します」
「それなら送ろう。先日降ろした場所なら覚えている。」
 体調不良を覚える者をそのまま帰すほど鬼ではない。途中で動けなくなっても問題なので自宅まで送っていこうと提案するが、俺の申し出に花京院は首を横に振った。
「いえ、結構です」
 明らかな断りは珍しい。というより初めてで一瞬呆気にとられていると俺の手に添えられていた彼の手が離れていってしまう。このまま離れて、きっと一人で帰るつもりだ。それはさせたくなくて俺は離れようとする手を掴んだ。
「遠慮をするな。酷くならないよう車で帰ろう」
「あの、遠慮とかではなく、僕はひとりで、」
 再び不自然に途切れる言葉と共に、俺の手中に違和感を覚えた。確か俺は花京院の手を掴んでいたはずでは……ごわりとした手触りに彼の手を確認すると、それはまるで獣の手のように毛むくじゃらになっていた。
 これは一体? 思わず花京院を見上げると白かった顔色を真っ青にさせ、次の瞬間に彼の耳が犬猫のような尖った形状に変わってしまった。
「花京院?」
「あ、……や、やだ、見ないでっ!」
 彼の変化に驚いている間に手が振り払われ、花京院が身を翻す。再び彼を掴もうと立ち上がり手を伸ばしたが、まるで小動物のような身のこなしで船から飛び降りてあっという間に姿を消してしまった。
 あまりの展開に俺は立ち尽くし、甲板近くにいた徐倫も状況が掴めていないようで、呆然と陸地を眺めていた。
「あの、ダディ……なにがあったの?」
「私にも何がなんだか」
 毛むくじゃらになった手、犬猫のように尖った耳、まるで満月を見て狼に変身する狼男を彷彿とさせた。推測だが、あのまま変化が続けば花京院は獣に姿を変えてしまうのではないだろうか。
 獣……スタンド使いの攻撃か? だが、どこかに本体がいる気配もないし、第一に何故花京院を狙ったんだ。彼は先日スタンドを発生させたばかりで、彼がスタンド使いであると知っている者も限られているだろう。それにスタンド使いである以前にごく普通の高校生である花京院のみを狙うだろうか、すぐそばに俺もいたのだから俺も狙ってもいいはずだ。それに……
「見ないで、といったか」
 ここを去る際、花京院は俺にそう言った。もしスタンド攻撃を受けて獣になってしまう状況ならまずは『助けて』などという言葉が先立つのではないか? それが『見ないで』と言った、それはどういうことか。
「ねえ。かきょーいんだいじょぶかな」
 徐倫から見ても尋常ではなかった花京院の様子であった以外、事実は未だわからないがスタンド能力によって獣のようになったのとも違うように思える。
「徐倫、私は少し離れるが船で待ってろ」
「かきょーいんさがすならじょりーんもさがす!」
「もし花京院が戻ってきて、ここに誰もいなければ困ってしまうかもしれない。だから徐倫はここで待ち、花京院が戻ってきた時には助けてやるんだぞ」
「そっか! じゃあおふねはじょりーんばっちりいるからね!」
「どうか頼む」
 花京院の様子からここに戻ってくる可能性は低いと踏んでいる。だから徐倫を下手に同行させるより勝手知ったる船で待機してもらった方が安全だと判断した。うそも方便である、どうか許しておくれよ。
 船から降りた俺は車に乗り込んである場所へと向かう。花京院が行くあてはひとつくらいしか知らないが、彼の体に異変が出始めた頃に帰宅すると言っていた。獣になってしまうなんて自宅に帰って解決できることではないが、一目見ても人間ではないとわかる容姿でいける場所は限られている。自宅をあたってみる価値はあると思う。
 港からそう離れてない場所に花京院が住まうという山の入り口があり、間もなく到着すると俺は奥へ続く獣道を駆け上がる。先日は暗がりだから道がわからなかったがこれは人が通る道なのか。そう思うほどに悪路が続き、見上げる先にも建物は一切見えてこない。花京院の住まいは結構奥の方なのか、駆け上がる脚が少し疲れを覚えていると小さな屋根が見えてきた。
 住宅か? いや、それにしてもあまりに小さい。
 とりあえずその屋根を目指して移動するとこれまでの道とは違う、少し拓けたスペースに出た。そしてその先に小さな社が見え、手前に緑色の布の塊を発見した。あれは花京院の学生服によく似ているが本人はいないようだ。
 それでも何か彼への手掛かりがあるかもしれないと思い、布を引き上げると中から赤毛の塊がころりと転がり落ちてきた。

   ◆◆◆

 どういう訳かいきなり僕の意思と関係なく変化の術が解けてしまった。そのため、慌てて承太郎と徐倫から逃げてきたというのに。
「……きゃう…」
「お前……」
 なんで承太郎が住まいにしている神社まで来てるんだ。驚きに転がり落ちた体制のまま窺っていると承太郎は大きな体を目一杯屈ませて僕の顔を覗き込んできた。確か完全に変化が解ける前に船から降りたから狐の僕を見てもわからないはずだ。
 ただ、承太郎は変に勘が良いから何か気付いてしまうかもしれない。
「前に魚を貰いに通っていた狐だな」
「!」
 どうやら僕が花京院というのはバレてないけど、いつか来ていた狐である事は覚えていたらしい。人間になって会うようになって話題になかったからてっきり忘れているかと思ったが、見ただけでわかってしまうとは。
 とりあえず、何故か人間に化けられないから承太郎が去るまでどこかでやり過ごそうとすると彼の大きな手が僕の尻尾を掴んだ。
「きゃん!」
「尾が枝分かれしたよう、二本ある……前はこんな尾はなかっただろう」
 そいつもよくご存知で……その手を離してくれないだろうか。これでは変化できなくなった理由をジョナサンに確認しにいけないじゃあないか。
 そんなやきもきした気持ちでいると不意に承太郎以外の気配を感じた。ここは人間だけでなく他の生き物も滅多に寄り付かない場所で、尚且つ今は承太郎のような人間がいるから余計に来ないはずだ。
 一体何が、と思っているところに金色の何かがこちらに飛び込んできた。思わず飛び退く僕と、大柄ながらひらりと軽い動きで飛来物を避けた承太郎の前には久々に見る存在が座っていた。
「人間が何の用だ」
「狐が……喋った?」
 そこにいたのは最近では静かに石像として過ごす姿ばかりだったディオだった。どうやら感じていた気配は彼のようだが、ただでさえ現れるのが珍しいのに一体どうしたのか。そう思っているとディオは爪を剥きだしにして承太郎に飛び掛っていった。
 登場も突然だが攻撃も突然で僕は唖然とするが、またしても承太郎は慣れてるとばかりに身軽な動きでディオから距離を置いた。
「穏やかじゃあないな」
「俺は人間が好かないのでね、早く立ち去らなければ八つ裂きにしてくれる」
「やれやれ、だが私も用があるのだ。それを済ませない限りここから立ち退くことはできん」
 承太郎とディオ、出会い頭に睨み合いだなんて急展開が過ぎると、どうすればいいのか判断しかねているとジョナサンがこちらへ駆けて来た。
「花京院! さっき中途半端に変化が解けた状態で帰ってきたけど……どこか具合わるいのかい?」
「花京院?」
 ジョナサンの声掛けに承太郎が横目でこちらを窺ってきた。やばい、どうにかバレずに済みそうだったのにまたこちらに関心がくるのは困る。こちらには関わらないで、という代わりにジョナサンの影に隠れると承太郎は再びディオの方に視線を戻した。
「……彼が承太郎かい? どうしてこんなところへ。君が案内したのか」
 承太郎たちには僕が稲荷狐であることを秘密にしていると知っているジョナサンは今度は小声で僕に窺い入れる。
「いえ、違うんです……先ほど、何故か急に自分の意思とは関係なく変化が解けてしまって、元の姿を見られたくなくてここに避難したら彼が追いかけて来てしまったようです」
「変化が解けたの、自分の意思じゃあないのかい?」
「はい。一体何故……」
「それは、稲荷狐としての力が衰えてるせいだ」
 何度か聞かされている話題が今まさに僕に降りかかっていることにどきりとする。ここ最近だるかったり、今日の顔色の悪さも前兆だったのだろうか、こんなにいきなり来るだなんて。
 もし主が見つからず消滅の一途になるようなら、承太郎と徐倫とはしっかり別れと感謝の言葉を述べてからと思っていたのに。これではそれもできないじゃあないか。
「人間、こんな場所に用事とは酔狂なことを言ってくれる」
「酔狂だろうと用が済んだらすぐに去る、争う気はない」
「人間がここに用があること自体俺は不愉快なんだ!」
 またディオが飛び掛り、承太郎は最小限の動きでかわすと次の瞬間には僕とジョナサンのすぐ近くに立っていた。彼のスタンド能力を使うと瞬間移動できる、なんて話を聞いていたけど予告なくそれを実践させられて驚きについ毛を逆立つ。
「驚かせてすまない。ジョナサンとやら、私は結構な地獄耳で先ほどの話を聞かせてもらった」
 先ほどの話? なら密やかながらジョナサンと会話した僕の声も聞いてしまったかもしれない。そんな悪い予感に逆立つ毛は一向に落ち着かない。すると何を思ったのか承太郎は僕の首の後ろを掴んで抱え上げた。
「ぎ、ぎゃあうっ!」
「こら、暴れるんじゃあねえぞ……こいつは何故、力が衰えてるんだ」
 ジョナサンに対して訊ねた質問に僕はまた固まる。その内容からして会話はほぼ全部聞いているのが知れてしまった。
「それは、彼に主がいないから」
「主?」
「そう。僕らは主がいないと力が衰えてしまうんだ」
「それが続くと、どうなるんだ。普通の狐にでも戻るのか?」
「いや、力が完全になくなると同時に消滅してしまう」
「ほう」
 承太郎は顎を擦りながら僕を見下ろしては頭をわしわしと撫でてきた。容赦ないその動きに僕の毛はぼさぼさに乱れてしまう。
「なら、主となる奴がいれば力は元に戻って元気になるのか」
「まあ、そうだね」
「主になる条件はあるか」
「彼を必要としている者であること。僕らは必要とされて、そして存在する事ができる」
「なるほど」
 ジョナサンがこれまで僕に説明してくれたことを承太郎に話すと、何故か僕らから離れてディオのもとへ行ってしまう。心細くなるんだが、まさかもう石像に戻るなんてことはないよな。
「彼はもう帰るから、僕らも戻るよディオ」
「だが、ジョジョ」
「争って、おんぼろ神社が壊れても僕は知らないよ」
「……チッ」
 そんなジョナサンの言葉にディオは舌打ちをひとつしては石台までひとっとびして石像に戻ってしまった。それを見届けるとジョナサンも同様に石像に戻ってゆく。二匹が沈黙することでただでさえ静かな周囲がいよいよ草が擦れる音しか聞こえなくなってしまった。そんな空間が気まずい気持ちに拍車をかける。
「おい、その姿でも人の言葉は話せるのか」
「……はい」
「お前が花京院か」
「はい。その、騙してしまい申し訳ありません」
「全く……素直に正体を明かせば良かっただろう」
「だって、」
「だって?」
 だって、嫌われるようなことをしてしまった気がしていたから、本来の僕なんて明かせないと思ってしまったんだ。そんな思いは言葉にならず、閉口してしまう。
「まあ、いい。本題に入る」
「本題?」
「お前、船守をしてみないか」
「ふなもり? それは何ですか?」
「船……特に調査船のように長期に渡って食糧や財産を乗せたものになると、鼠や強盗から狙われやすくなる。鼠なんかは小さいくせに厄介でな、食い物を漁ると同時に病原体を撒き散らしたりするんだ」
「は、はあ」
 それは大変だな。でもなんで急に船守になる提案をしてきたんだ。何度も僕は承太郎の船に乗ったけど、鼠もいなかったというのに。
 いまいち話が見えなくて気のない返事をすると何故か承太郎はがしがしと後頭部を掻いた。
「その、あれだ……お前さえ良ければ、俺を主にしてくれないか」
「え?」
「狩りの得意な狐が船守をしてくれたら、助かるんだが。どうだ、必要としているから条件は満たしていると思うんだ」
 でも先ほども思ったけど、承太郎の船は鼠なんていないけど……それでも船守が必要なのか?
「それとも、俺が主では嫌か」
「そ、そんなことない!」
 それは断じてない。むしろそうであればいいと思った事があったくらいなのに。でも僕なんかの主になってくれていいのだろうか。
「なら、どうすれば俺を主と選んでくれる?」
 言いながら頬を撫でる指先はいつ見ても大きくて、僕を必要とする理由がわからないくらい逞しい。稲荷狐になり、スタンドも使えるようにはなったけど僕はまだまだ未熟だ。
 そんな僕の主にどうして? ついに承太郎を見上げればいつもはきらきらと輝く緑に影を落として僕を見つめる瞳とぶつかった。僕はそんな寂しげな眼差しより、徐倫を見つめる時のような愛しみある瞳が好きなんだ。
「……それは、承太郎がしっかり徐倫を守れると約束してくれるなら、僕は貴方を主として選びます」
「私は徐倫を常日頃から守っているが」
「僕の記憶が確かなら、僕は二回ほど徐倫を助けました」
「……、…善処しよう」
 徐倫については僕も今の承太郎はしっかり彼女を守っていると思っている。だからこれは、僕なりの意表返しのようなものだった。だって、こんな望まれた形で僕の主が決まるだなんて全く思ってなかったから。
「では、これから改めてよろしくお願い、」
 ざわり、と体の変化を感じる。これは今ではすっかり馴染みある感覚で。徐々に大きくなる体に、毛がなく空気に曝された肌は狐では有り得ないものだ。どうやら僕は再び人間へと変化できたようだ。
「どうやら、力は復活してきたようだな」
「ええ……繰り返してしまいますけど、よろしくお願いします承太郎」
 感謝の気持ちを込めて承太郎を抱き締める。それでも僕よりずっと大きい承太郎を抱き締めるとなんだかしがみ付いているように思えて体を離すと、何故か彼は着ていたジャケットを僕に羽織らせた。
「その、目の毒だ」
「どく?」
「先ほどあった花京院の制服、どこにやったろうか」
「ああ」
 そうだ、やっと習慣づいたと思えばまた服を着忘れてしまって。それを実感すると裸であることに寒さを覚えて僕は羽織っていたジャケットを胸元に寄せた。

「船守になる前に、もう少し人間らしさを学ばないといけないかもな。犯罪を呼びそうだ」
「犯罪って、そんな物騒な」
「人間について、私と徐倫がみっちり教えてやろう。覚悟するように」
 そう言う承太郎の顔は言葉とは裏腹に穏やかな笑顔を湛えていて、僕は釣られるように破顔した。

「望むところです」